第四章 ねこねこ軍団対殺し屋軍団
1
ここは?
どうやら意識を失っていたらしい。目を開けると、陽子は見知らぬ部屋で仰向けに寝ていた。
学校の教室の半分くらいの広さだろうか? さほど広くもない空間には家具もなにも置かれていないせいで、実際よりもかなり広く感じる。内装は天井も壁もコンクリートの打ちっ放しの上、表面がくすんでいるため、味も素っ気もない。壁には一部に入り口と思われるエレベータードアのようなものついている以外、分電盤やモニターらしきものがあるだけで、他はなにもない。窓すらなかった。天井になんの飾り気もない蛍光灯がカバーもつけない状態で設置されているのが見えた。なんとなくじめじめしている上、むき出しのコンクリートの匂いがかすかに鼻につく。
起きあがろうとしたが動けない。そのときはじめて自分が粗末なベッドのようなものの上で、両手足を大の字に広げたまま拘束されていることに気づいた。手首足首にがっしりとロープが絡みついている。
「気がついた?」
頭の上から覗き込むようにする礼子の顔が見えた。今まで見えなかったのは、真後ろにいたかららしい。礼子はそのまま位置を変え、陽子の真横に立つ。陽子のマンションを訪ねてきたときに着ていた制服の代わりに、スリムのジーンズに黒の革ジャンといった活動的な格好をしていた。
「ど、どうして?」
最大の疑問をストレートに口にする。
「どうして? あたしが姫華を殺そうとしたか? それともなぜ陽子を殺そうとしたあげくに、今は殺さないでさらったか? これからいったいなにをしたいのか? なにを聞きたいの?」
「ぜんぶよ、ぜんぶ。そもそも礼子はなんでこんなことをしているのよ?」
「世の中にはあんたなんかが知らないことがたくさんあるのよ。たとえば、孤児を自分たちの都合のいい工作員、あるいは殺人機械とでもいうべき人間兵器に作り替えて、企業や政治家たちにレンタルする組織とか」
「な、なにをいっているの?」
「そういう組織は、上層部が判断してすべてを決める。金のためだったり、政治のためだったりいろいろだけど、そんなことさらわれて歯車になった者には知るよしもないわ」
礼子は自分がその歯車だといっているのだ。
「信じられないよ、そんなこと」
「だからいったでしょう。世の中には、あんたなんかの知らないことがたくさんあるって」
「じゃ、じゃあ姫華さんを撃ったのは命令なのね。花鳥院家のお金とか仕事に絡むことなんでしょう? だけど、あたしを襲ったのは?」
「あのときあんたはあたしの目を見た。あとで気づいたことだけど、あたしは変装用のカラーコンタクトを落としていた。必死に探したけどどうしても見つからない。おそらく逃げる途中で落としたんだと思ったけど、あんたは『なにか重大なことを見たような気がする』とかいい出す。青い目を見られたかもしれないと思った。そして落としたコンタクトをあんたが拾ったんじゃないかとも」
「だから思い出す前に……殺そうと……した?」
否定して欲しかった。心から。しかし礼子はあっさりと肯定する。
「そうよ」
「う、嘘……」
「残念だけど、あたしにはそれしか選択肢がないの。似たような組織は日本にもいくつかあるけど、あたしたちの組織は特別非情。命令無視はぜったいに許されない。だからあたしは陽子、あんたを殺すしかなかった」
そういった礼子の顔はすこし悲しそうに見えた。
「ところが邪魔が入った。死んだはずの姫華が復活してあんたを守った。そうでなくても姫華を殺そうとしたときも、瓢一郎が屋上から飛んできた。このことを上層部に報告すると、上層部はこう判断した。『姫華サイドの裏には別の組織がある』ってね」
「別の組織ですって?」
「そう。いくつかある同業他社のひとつが花鳥院家に付いた。そうとわかればこっちもそれなりの対応が迫られる。相手のことを知らずに戦うのは致命傷になり得てしまう」
「あたしはそんなことを知らない」
「いいえ、知っているわ。上層部はあんたもその敵対する組織の一員だと思っている。あたしはそこまでは思っていないけど、なにかを知っているはず」
「なにを知ってるっていうのよ?」
「たとえば今の姫華の正体」
「今の……姫華?」
「そう。彼女は死んだ。心臓に弾を撃ち込んだあたしが一番知っている。つまりは別人がなりかわっている。そいつはあの瓢一郎と同じような体術を使う。そしてなぜか陽子、あんたを助けた。そればかりか今度は表の権力を露骨に使ってあんたを守ろうとしている。あんたがぜんぜん無関係のわけがない」
礼子はいったいなにをいっているんだ?
陽子は本気で困惑した。
今の姫華の正体は別の殺し屋組織の一員で、礼子の所属する謎の組織から陽子を守るために入れ替わった?
あまりに荒唐無稽だ。マンガの世界だ。宇宙人説の方がまだ信じられそうな気がした。
礼子はひょっとして精神を病んで、誇大妄想に取り憑かれているのではないのか?
「たとえ本当に知らなくても、なにか心当たりはあるはず。たとえば、あんたを命がけで守ろうとする人間とかね」
「そんなひといないよ。いるわけがない」
「いいえ、いるわ。誰かが偽の姫華にあんたを守るように命じた。そう考えないとつじつまが合わないもの。組織を使えるほどの権力と財力を持った人間があんたの後ろにいる。つまり花鳥院家よ。やつらが雇ったのがどんな組織で、目的はなにか? それを吐いてもらう」
礼子の目は真剣だった。青い瞳は、陽子の知る限りもっと暖かいぬくもりを持っていたが、今はまるで氷のようだ。
これがほんとうの礼子? あたしの前で振る舞っていた礼子の姿はすべてが演技なの?
そう思うと、全身に鳥肌が立つ。
「無駄よ。すぐに警察が来るし。お母さんや、郷山君たちが礼子の姿を見てる。あたしと一緒に礼子がいなくなれば犯人は丸わかりよ」
「正体をばらしたのは、これ以上学園に潜伏するメリットがなくなったからよ。標的はすでに死んでいる。姫華になりかわったやつの正体を暴くには、あんたを突っついた方が早い。それと心配してもらわなくても、もちろんここは水村礼子とは無関係の場所。警察が水村礼子からここをたどるのは不可能だから」
礼子は自分の名前をフルネームで呼んだ。人ごとのように。おそらく偽名なのだろう。
そして礼子のいうことが本当だとすると、少なくともすぐには警察が駆けつけることはない。誰かが尾行でもしない限り。
「あんたのお姫様があとをつけてきたのを期待してるのなら無駄よ。尾行がないのは確認した。あんたを担いでいる姿を見た姫華の運転手には、心臓に弾丸をぶち込んでおいたし。ついでにいうなら、万が一警察なり、敵対組織なりがここを見つけても簡単には入れない。ここは地下で入り口の扉は偽装されていてわからないようになっているから」
まさに絶体絶命ってやつだ。
「今のうちにはきなさい。拷問であんたが壊れていくのを見たくはないわ」
「……知らない。ほんとうに知らない」
礼子はため息をついた。
「そう。しょうがないわね」
礼子の体から発する気が変わった。まるでまわりのすべてを凍てつかせるような冷気のように感じる。
「まあ、待ちな、レイ。気が乗らねえのに無理にやる気を奮い起こすこともないさ」
「ふへへへ、ほんとほんと」
いきなり男の声が乱入した。
顔を起こしてみると、向こう側の壁に両開きのドアからふたりの男が入ってきていた。そのふたりはすぐ側までくると陽子を見下ろす。
ひとりはグレイのスーツを着た小柄で細身の男。お坊ちゃん風のさらさらした髪型に童顔と若く見えそうだが、おそらく二十歳は超えている。
もうひとりは長身で逆三角形の体型をしており、胸板が異様に厚く、プロレスラー並みの太い腕と脚を持つ筋肉質な男で、ジャージにタンクトップという格好。濃い体毛がいやでも目立つ。ヒゲもじゃでごつい顔だが、とくにいやらしい目つきと潰れたでかい鼻が醜悪だ。年はたぶん二十代後半。
このふたりこそ、あのミスコンの日、外から学校の様子をうかがっていたやつらだ。
「これはわたしが受けた仕事。あなたたちにとやかくいわれる覚えはありません」
礼子はふたりを睨む。
「それがそうはいかなくなった。おまえはこの仕事でミスを重ねている。上層部はもうおまえに任せておけないと判断したんだ。そこで俺とライを向かわせたってわけだ」
童顔の小男がいう。
「ふへへへへ。カイのいう通りさ。おまえはもう俺たちに任せればいいんだ」
ライと呼ばれた筋肉質な男は、大きな口からだらしなくよだれを垂れ流しつつ笑った。
「嘘だと思ったら上層部に確認してみるがいいさ。この件のリーダーは俺だ。おまえは俺の命令に従えばいい」
カイと呼ばれた童顔男が礼子にいう。礼子はなにもいい返さなかった。その組織とやらの中ではこの男の方が立場が上らしい。
「レイ。おまえだってその方が気が楽だろう? おまえはそもそもこういうことには向かない。とくに短い間とはいえ、友達ごっこをした相手ならなおさらだろう?」
カイは礼子を黙らせたあと、陽子に目を向けた。
「そういうわけで選手交代だよ、お嬢さん。俺たちはレイと違って拷問が大好きなんだ。とくに若い女の拷問がね」
カイは生真面目そうな顔に薄ら笑いを浮かべる。
「ぐへへへへへへ」
ライは下腹部をいきり立たせながら笑い狂う。
「ほうら、ライのやつも張り切ってるだろう? こいつは女を犯すのがなにより好きなやつでね。ほっときゃ、何度でもやるよ。逆に俺はそっちにはあんまり興味がなくってさ」
無邪気そうな小さな口が、きゅう~っと広がりつり上がった。
「女を壊すのが大好きなんだ。まず、体を。たとえば一部をもぎ取ったり、顔をめちゃくちゃにしたり。そして少しずつ心を壊していくのがなにより好きなんだ」
心臓に氷を直接押し当てられたような気がした。叫ぼうにも恐ろしくて喉が麻痺し、叫び声すら出ない。
「ひゃほっ、ほっ、ほっ」
力を顕示したいのか、ライが不気味な叫び声を上げながら壁を無造作に殴りつける。コンクリートの壁に無数のひびが入った。
「ライ、建物を壊す気?」
たしなめる礼子の声が入らないのか、ライは破壊を続けた。
「さあて、知っていることを話すのは焦んなくてもいいからね。楽しみが減るでしょう?」
カイは人差し指で陽子のトレーナーをのど元から臍の方にすう~っと優しくなでた。
にも関わらず、まるでカミソリで切ったかのように、トレーナーと下に着ていたTシャツはすっぱりと切れ、左右に分かれる。大振りの乳房がぷるんとむき出しになった。
いやっ、やめて。お願い。
恐怖のあまり、声にならない。もう体を揺することすらできなかった。
「さあて、まずどうしようか? とりあえずライにやってもらおう。あんまりはじめに壊すとライの楽しみが減るからね」
その台詞で、奇声を発しながら壁を殴り続けていたライの動きが、ぴたりと止まった。
2
「ところで、おまえたちなんでここにいる?」
一通りの電話の手配を追えたらしい吉田が、瓢一郎を問いつめる。
「なんでって……、今はそんなことをいってる場合じゃなくってよ」
「いや、言葉を変えよう。なんで陽子が襲われることがわかった?」
吉田はヨーダそっくりの目で、見透かすように瓢一郎の目を覗き込んだ。
「わかったわけじゃありませんわ。なんとなく、いやな予感がしただけ」
「ほう? それを信じろっていうのか? そもそもおまえたちは何者なんだ? さっきの動きはほとんど忍者だったぜ。ただの女教師と、ほんの一週間前に胸を撃たれたばかりの小娘にできる動きじゃないな」
面倒なことになったと思った。一刻も早く陽子を探さないといけないのに、下手をすると動けなくなる。
もっとも今の状況では陽子がどこにいるのかまったく見当が付かないので、動きようがないのもたしかなのだが。
「ねえ、刑事さん、わたしたちに構わず、礼子さんを追った方がいいんじゃないかしら」
葉桜が割って入るが、吉田は耳を貸さない。
「もちろん追っている。水村礼子の家はまもなく捜査員が踏み込むはずだ。もし他にアジトのようなものがあるのなら、教えろ」
「そんなところ知っていたら、とっくに動いてますわ」
それは本心だ。礼子の隠れ家など知っているはずもないし、知っていたらいつまでもここにはいない。
「まあ、いずれにしろ、あんたたちをこのまま帰すわけにはいかんな。参考人として事情聴取をするから一緒に来てもらえるかい? とくに姫華さん、あんたには興味がある。あんた偽物だろう? 本物はどうした?」
逃げられるのを警戒したのか、五味が静かに玄関口を固めた。
ベランダ側の道路からはパトカーと救急車の音が響く。応援部隊が来たらしい。このままじゃ窓から飛び降りてもパトカーから逃げるのは緩くない。
そのとき、やはり外からバイクのエンジン音と叫び声が聞こえた。
「姫華様、いったいなにがあったんですか?」
伊集院だ。心配になって駆けつけたらしい。都合のいいことにバイクで来た。
「逃げよう」
隣の葉桜に小声でいった。同時にベランダをちらりと見る。葉桜は頷いた。
瓢一郎はアルミサッシを開け、ベランダに出た。葉桜が続く。
「お、おい。なにを?」
動揺する吉田の顔が見えた。下を見ると、担架で救急車に運ばれる佐久間。それにバイクに乗ったまま警官ともめている伊集院の姿が見える。
瓢一郎はベランダの手すりを掴むと跳んだ。掴んだ手を支点に振り子のように揺れるとその反動を利用し、雨樋に飛びつく。そのまま滑り降りていく。
葉桜も同様にして続いた。思った通り、それくらいのことはこなす。姫華はフィオリーナの体が覚えた体術を駆使し、あっという間に追いつくと瓢一郎の肩に乗った。
「ま、待て。貴様ら何者だ? おい、外の警官。そいつらを捕まえろ」
上から吉田が叫ぶ。
瓢一郎は二階の高さまですべり降りると、外の塀に向かってジャンプした。さらに塀のてっぺんから伊集院のもとに跳ぶと、近くにいた警官数名を一瞬で蹴り倒す。
「伊集院。バイク貸して」
唖然とする伊集院に向かっていった。
「い、いやしかし、今のは……?」
「いいから貸せ」
瓢一郎は躊躇する伊集院を蹴り倒す。バイクは免許こそ持っていないが、動かし方は知っていたし、自在に操る自信もあった。
主のいなくなった380㏄のバイクにまたがり、アクセルをふかす。そのころには葉桜が追いつき、後ろ座席の上に落っこちた。
「絶対逃がすな」
上から絶叫する吉田。制服警官たちは瓢一郎たちを挟んで道路を囲む。
「観念しろ。逃げ場はどこにもな……」
瓢一郎はバイクを走らせると同時に前輪を上に跳ねさせた。そのままパトカーを踏み台にし、空高く跳ぶ。
隣の民家のブロック塀の上に飛び乗ったかと思うと、そのまま綱渡りさながらバランスを取って走らせ、包囲網を突破する。
パトカーがサイレンを鳴らし、必死で追いかけてきた。
「しゃらくせい」
瓢一郎はそう叫ぶと、今度は民家の屋根に飛んだ。そしてそこからムササビのように民家から民家へと飛び移る。
「あなたってサーカス芸人でしたの?」
姫華が呆れたようにいった。
「ねぇ、瓢一郎くん。必死で逃げ回るのはいいけど、どうやって陽子さんを探す気?」
後ろで葉桜が聞いた。
それをいわれるときつい。少なくとも瓢一郎には目星がつかない。
「とりあえず礼子の家に行ってみるか? 姫華、おまえ場所知ってるか?」
「知ってるわけないでしょう? 第一、警察が踏み込むってあのヨーダがいったばかりじゃないですの。わざわざそんなところへ行ってどうする気ですの?」
それもそうだった。もし礼子が間抜けにも自分の家に連れ込んだのだとすると、警察が陽子を救出してくれるだろう。そもそもあいつは学校に届けた住所に住んでいるのか? いないとすればどこに住んでいる?
「こんなときに役に立ちそうなやつは……」
そこまでいって、思いついたことを口に出した。しかもその声は姫華とハモった。
「理恵子!」
いや、なぜ理恵子なら陽子の居場所を特定できるかと聞かれると、答えに詰まる。しかしなんとなく彼女なら手がかりを知ってそうな気がした。少なくとも名簿に載っている住所はわかるはず。
「手がふさがってる。先生、スマホ取り出して理恵子を呼び出してくれ」
さすがに屋根の上を飛び回りながらの片手運転は危険きわまりない。
「オッケー」
葉桜は脳天気に答え、ポケットからスマホを奪う。後ろから操作音が聞こえる。
「はい」
耳に後ろからスマホを押し当てられた。
『はい、理恵子です』
「姫華です。あなた、生徒のことを詳しいですわね。水村礼子がどこかに隠れるとしたらいったいどこへ行くと思います?」
『え? 水村礼子ですか? ええっと、さすがにわかりません』
そりゃそうだ。少しでも期待を繋いだのが馬鹿だった。
「くそっ、陽子はどこだ?」
理恵子の電話に繋がっていることも忘れ、素の言葉で嘆いた。
『あ、あの~っ、姫華様なら陽子さんの居場所、わかるんじゃないんですか? テレパシーで』
「な、なにいってんの、あんた?」
馬鹿かこいつは? それともなにか大いなる誤解をしているのだろうか?
『あ、すいません。それって秘密だったんですね。部外者に漏らすわけにはいきませんよね?』
なにか寂しそうな口調でいう。まったくなにを考えているんだか。
とにかく知らないのなら用はない。後ろの葉桜にスマホを切るようにいおうとすると、理恵子がとんでもないことをいった。
『もっともあたしだって陽子さんの居場所ならわかりますけどね』
「え?」
『えへっ、じつは発信器の付いた名刺をわたしてあるんです』
なぜそんなものを? 非常に疑問に思ったが、いまはそんなことはどうでもいい。
『だってあたしも仲間になりたかったんです。だから陽子さんのことをいろいろ調べようと思って、手始めに行動範囲を……』
「陽子はどこだ?」
瓢一郎はスマホに向かって叫んだ。
『ほんとに探してるんですね。じつはあたし近くにいるんです。合流していいですか?』
3
「ぐへへへへへ」
ライがのっしのっしと陽子の縛り付けられた台の方に歩いてくる。壁をぶん殴ったのがウォーミングアップになったのか、体中に汗を浮かべ、湯気を出している。同時に激しい獣臭が二、三メートル先から臭ってきた。
こ、こ、こ、こないでぇええええええええ!
叫ぼうにも声帯が凍り付き、口からは一切の声が漏れることがなかった。
この獣のような男が、これから自分の体を自由にするかと思うと、それだけで気を失ってしまいそうだ。
はぁはぁという獣臭い吐息が顔にかかる位置までライは近づいた。
ライは切られたトレーナーの両端をむんずと掴むと、思い切り左右に引っ張った。トレーナーがまるで紙のように引き裂かれる。
その下品な口から長い舌が蛇のようにぬるぬると這い出てくると、完全に露出された陽子の胸をなぶろうとする。
「きゃああああああああああああ」
金縛りが解けたかのように、ついに陽子の口から悲鳴が発せられた。
「おっとライ、少し待て」
カイがライを止めた。
「最後のチャンスだ。やつらについて知っていることを吐け。ことわるならこいつをけしかける。その先は僕が飽きるまで楽しむ。そんな目に合うのはいやだろう?」
「だ、だって……ほんとうに、なにも知らないんだもん」
「馬鹿な女だ」
カイはライの肩をぽんと叩いた。
「やれ」
ライが陽子のジーンズを引きちぎろうとする。
「ひいいいいいいい」
「ライ、ちょっと待って」
礼子が大声で叫ぶ。ライの手は陽子のジーンズを掴んだ時点で止まった。
「姫華たちがここに来ている」
「なんだって?」
カイが叫ぶと壁を反射的に見た。ライもそれに習う。
壁には小型テレビほどの大きさのモニターがいくつか並んでいた。礼子はそれを見て外の様子をうかがっていたのだ。
モニターにはどこかの店舗ビルのホールらしきところが映っていて、エレベーターが見える。その前に三人の女と猫がいた。
黒っぽい格好をした姫華、葉桜、それにフィオリーナ。そしてなぜか制服姿でデイパックを背負い、ノートパソコンを手に持った理恵子までいる。
「レイ、貴様またどじったな?」
カイが怒鳴りつける。
「そんな。尾行はされてなかったはずよ。どうやってここが?」
「音を拾え」
カイの命令で、礼子がなにやら壁のパネルを操作した。外の音をマイクで拾って、流す気らしい。
『電波はちょうどこの辺でとぎれました。発信器が壊れたんじゃなければ電波の届かない場所に潜ったんです。きっと地下ですよ』
理恵子の声だ。
「貴様、発信器を持ってやがったのか?」
カイが陽子に向かって叫ぶ。
発信器? もちろん陽子には心当たりはない。
『でもこの建物に地下はないわ。ここが最下部よ』と葉桜の声。
『どこか下に降りる入り口があるはずだ』
姫華の声だが、口調がまるで違った。まるで男の子のような喋り方だ。
「どうする、カイ? やり過ごすか? それとも引っ張り込むか?」
ライが陽子から離れ、画面を見ながらカイに話しかけた。
「状況がわからん。外にはもっと仲間がいるのかもしれないしな。とりあえず、様子を見よう」
カイは戦闘が始まるのを予期してか、上着、ネクタイ、ワイシャツとつぎつぎに脱ぎ捨てていく。細身ながら、体脂肪がほとんどないせいで鍛え抜かれて筋肉がよくわかる上半身が晒された。
「あのお嬢様、いろいろ噂は聞いている。レイと互角にやり合ったそうじゃないか?」
カイは最後に着ていたワイシャツを空中に放ると、オーケストラの指揮者のように左右の人差し指を振った。
ワイシャツはずたずたになり、まるで紙吹雪のように散る。しかもカイは薄気味の悪い笑みを浮かべ、体を覆うようにひらひらと舞い落ちる無数の切れ端を、舞いながらことごとくかわした。
「案外ここまで来てもらった方が楽しいかもな。拷問相手が増える。ライ、おまえも準備した方がいいぞ。そこの女はあとだ。そいつは逃げない」
4
「くそ、入り口はどこだ?」
瓢一郎は焦る。さっきから床を調べているが、秘密のドアのようなものがどうしても見つからない。
『あのエレベーターじゃないんですの?』
姫華が猫の手でエレベーターを指さす。
『だけど、下に行く表示がないぞ』
『きっとなにか特殊な仕掛けがあるんですわ』
姫華がテレパシーでいったことはたしかに一理ある。みなにも伝えるべきだ。
「ひょっとして、あのエレベーターに、さらに下に行く仕掛けがあるんじゃないのか?」
「そうかもね。だけど仕掛けってどんな?」
葉桜に聞かれるが答えようがない。わかるはずもない。
「いろいろ試してみましょう」
理恵子はそういうと、嬉々とした顔で率先してエレベーターに乗り込んだ。瓢一郎たちも続く。
「う~ん。パネルのこの部分には普通、工事点検用にエレベーターを止めるスイッチとかがあるんですよね。鍵がかかってますけど」
理恵子は階数ボタンの下あたりにある金属のパネルについた取っ手を、かちゃかちゃいじっていた。
ポケットから葉桜がマンションのドアを開けたのに使ったのと同じ金具を取り出すと、鍵穴に突っ込むとあっという間に開ける。葉桜よりも早い。
「わあ~っ、すごい!」
葉桜がそれを見て素直に感嘆し、拍手する。
おまえ、教師のくせに、自分の生徒がどうしてそんなことができるのか不思議がれ。だいいち、理恵子、なんでおまえはそんなエレベーターの構造なんかに詳しいんだ? そうつっこみたかったが、やめた。
なんでかは知らんが、こいつらはなんでもありだ。つっこんでなんかやるもんか。
小さなパネルの中にはいくつかのスイッチが付いていた。理恵子はそのうちのひとつを押す。
「これでとりあえずエレベーターは止まりました。この中に下へ行くスイッチがあるかと思ったんですけどないですね。となると、どうやって下に行くかですけど……」
「ひょっとしてこの階数表示のボタンを暗証番号のように押すんじゃないのかしら?」
「きっとそうです」
葉桜の意見を理恵子はすんなり受け入れた。
「この建物は十階までありますからね。10を0とするとATMと変わりませんよ。間違って子供が適当に悪戯で押した場合作動したら困るから、押す順番はランダムに設定してあるはずです。間違っても、1、2、3、4なんて順番はあり得ません」
「どうやって探す? 適当に押すのか?」
「何桁の暗証番号かわかりませんが、四桁でも10の4乗、つまり一万通り、五桁なら十万、六桁なら百万通りあります。適当にやってたらぜったいに無理です」
「じゃあ、どうする?」
「任せてくださいっ」
理恵子は瓢一郎の問に元気よく答えると、背負っていたデイパックから刷毛のようなものを取り出し、それに瓶に入った粉を付けはじめた。
「なんだそりゃ?」
「お仕事の七つ道具……じゃなくて、……とにかく、指紋を採ります」
いうが早いか、それで粉を階数ボタンに塗りたくる。つっこみどころ満載だが、誰もなぜそんなものを持っているかとか、お仕事ってなんだとか、つっこまない。せめて目的くらいは聞くべきだろう。
「だけど指紋たって、ぜんぶの階に付いているだろう? 相手の正体がわからないから指紋だってどんなものが付いてるかもわからないし」
「いろんな階にある同じ指紋、それもはっきりした新しいやつがそれです」
それは理にかなっていた。ひとりでいろんな階に用のある人はたしかにほとんどいない。しかしいくつも重なった指紋からそんなのを見分けることができるのか?
理恵子は取りだしたデジカメでボタン全体の写真を撮ると、それを手に持っていたノートパソコンに取り込んだ。
「肉眼ではわからなくても、パソコンを使えば、重なっている指紋を選別できますよ」
理恵子は微笑みながら、パソコンをすごいスピードで操作した。
「ビンゴ!」
嬉しそうに指を鳴らす。
「番号は1、3、9です。たぶんどれかが重複してます」
「それをどうやって組み合わせる?」
「3は指紋が重なっています。どっちもはっきりした新しい指紋。だから3は続けて押したんじゃなく、一度指を離してからもう一度押してるってこと、つまり3の間には別の数字を挟んでいます。あとは押された指の位置とかすれの方向から推測するに……」
理恵子は三秒ほど考えた末に結論を出した。
「3、9、1、3」
いうが早いか、理恵子はエレベーターを止めるスイッチを解除し、かわりに今いった番号を順番に押した。
がくんとエレベーターはさらに下に向かった。
「ほうら」
理恵子は思いきり得意がる。
いったいこいつは何者だ?
その疑問は激しく深まるが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
瓢一郎は気を引き締めた。
エレベーターは止まり、ドアが開いた。
5
「いったいこいつは何者だ?」
カイはモニターに映ったエレベーターの中の様子を見てうなった。
「生徒会書記、佐藤理恵子」
礼子が無表情でいう。
「その生徒会書記になんでこんなことができる?」
礼子は黙った。答えようがないのだろう。
陽子にしたところで意外だった。あの人はいったいなんなんだろう? 姫華のことを宇宙人だといいだし、勝手にひとをその仲間と決めつけたあげく仲間に入りたいといったり、かと思うとスパイ顔負けのことをやる。
『3、9、1、3』
「うわっ、マジだよ、こいつ」
カイのあきれかえった叫び声が飛ぶ。
「カイ、動力を切る?」
礼子がモニターの下にある壁の分電盤パネルを開いて、叫んだ。
「いや、このまま迎え撃つ。ドアが開いてから動力を切れ。ライ、入り口のドアの両サイドで待ち伏せるぞ。こっちへこい。レイ、その女を気絶させろ。よけいな警告を入れられたくない」
カイはそう指示すると、入り口のドアに走った。ライもそれに続く。
このままじゃ、姫華は入ったとたんに両サイドから不意打ちを食らう。
「姫……」
口を塞がれた。礼子だった。感情のない目で上から陽子を見下ろしている。
礼子、お願い。離して。
それは声にならなかった。くぐもった音がかすかに鼻から漏れるばかり。礼子は残った方の指を軽く陽子の頸動脈に当てる。ほんの数秒で意識が遠のいていく。
気を失う寸前、エレベーターのドアが開くのがわかった。
6
エレベーターは直接部屋に繋がっていた。
そこらの家のリビングよりは広い程度の部屋の奥の方には、手術台のようなものが置いてあり、その上には陽子が大の字に横たわっていた。ただし両手両脚を縛られたあげく、上半身を露わにされた格好で。しかもその脇には礼子がいた。
「野郎」
瓢一郎は怒りに駆られ、エレベーターを飛び出す。
『危ない。横!』
頭の中に姫華の甲高い声が鳴り響く。
同時に左右から気を感じた。
右からは飛んでくる燃えたぎった岩のような気。
左からは氷で作った絶対零度の剃刀のような気。
反射的に上に跳んだ。
すぐ下ではうなりを上げて飛ぶ鉄拳と、空間を切り裂くような手刀が交差する。
瓢一郎はそのまま空転し天井を蹴ると、その勢いを利用し、右からパンチを浴びせた筋肉の塊のような男の顔面を蹴り下ろす。
それこそ岩を蹴ったような手応え。しかし男はかすかによろめいただけで倒れすらしなかった。
着地した瞬間、全身に冷水を浴びたような感覚がした。もうひとりの男の手刀が後ろから襲う。
瓢一郎は体をねじってかろうじてかわした。
着ていた防弾仕様の革ジャンが脇腹から背中にかけて一直線に切れ、はらりと落ちる。
「おまえの指は日本刀か?」
「ふっふっふ。レイは未熟だから拳銃なんて無粋なものを使ったようだけど、俺はあんなもの大嫌いだ。とくに女を相手にするときは自分の手で切り刻むに限る」
その男は子供のような顔にサディスティックな笑みを浮かべる。体格的には瓢一郎と大差ないが、おそらく異様なまでに体を鍛えているのだろう。脂肪のほとんど付いていない裸の上半身はまるで筋肉模型のように、鋼のような筋肉の形状がわかった。
瓢一郎としてはさっさと陽子を救出したいが、間にこの男がいる以上、近づくこともできない。
「先生。陽子を頼む。理恵子は上に逃げろ」
「それがそうもいかないのよねぇ」
ちらっと声の方を見ると、葉桜は筋肉男のパンチの嵐を必死に裁いていた。ただ力任せにブロックするのではなく、螺旋状に捻りながら打撃をはじき飛ばすかのような受けだ。
「エレベーター、動きませんっ」
理恵子はエレベーターのボタンを必死で押しているがだめらしい。
「残念ながらそれ、こっちの部屋で動力が切れるんだよ」
童顔の小男がそれをちらっと眺め、笑った。
「理恵子、スマホで警察呼べ」
「圏外ですぅ」
『ちきしょう、姫華、頼む、動力のブレーカーを上げてくれ。理恵子を上にやって警察を呼ばせる』
テレパシーで叫んだ。
『気軽にいうけど、けっこう命がけですのよ』
姫華はぶーたれつつも礼子が操作したパネルに向かって走った。
ひゅん。
よそ見をした一瞬、風切り音とともにジャンパーが紙吹雪のように切り刻まれた。防弾仕様になっていても、刃物には弱いらしい。
男は薄ら笑いを浮かべながら、両手を顔の前で蛇のようにするすると不規則に動かしている。瓢一郎は前傾し、左手を床に付くと、右手だけを招き猫のように上げた。猫柳流拳法の基本姿勢。
奥では分電盤の前で礼子と猫の姿の姫華の格闘が始まった。人が入り乱れているせいか、礼子も拳銃を使わずナイフで応戦している。
「死ねぇえええええ!」
痩せた小男の左右の貫手が斜め上からマシンガンのように降り注ぐ。瓢一郎はそれを招き猫の手でことごとくたたき落とした。
「ふん、低すぎてその位置には攻撃しづらいな。これはどうだ?」
男の前蹴りが顔面を狙う。瓢一郎はそれをサイドステップでかわすと軸足を左の指先で狙う。男はステップバックしてかわした。
「格好だけでなく、スピードも獣並みか? やっかいだな」
そういいつつも、男は明らかに楽しそうだ。
ばちん。パネルの方から、ブレーカーを上げる音がした。姫華が成功したらしい。
エレベーターのドアが閉まる。
「理恵子。上に行ったら警察に電話して、ここの位置と入り方を教えろ」
「了解です」
理恵子の声は少し上の方から聞こえた。エレベーターは順調に上がっている。
「にゃぎゃああ」
悲鳴とともに姫華がすっ飛んだ。礼子に蹴られるかどうかしたらしい。
礼子はふたたびブレーカーを落とした。
瓢一郎は思わず舌打ちする。エレベーターはおそらく上までいっていない。中途半端なところでとまっているはず。
「ライ、追え」
痩せた童顔男は視線を瓢一郎に向けたまま、もうひとりに命令する。
「きゃっ」
可愛らしい悲鳴とともに、葉桜が転がった。ライとかいう男に跳ね飛ばされたらしい。
だが追えといわれてあの男は中途で止まっているエレベーターをどうやって追う気なんだ?
だがそれはよけいなお世話だったらしい。
「OK、カイ、すぐ済むぜ」
ライは閉じたエレベーターの扉に両手を突っ込むと力ずくで開けた。さらに壁の突起に掴まりつつ上に登っていく。
瓢一郎はブレーカーを入れようと、壁のパネルに走ろうとした。しかしカイと呼ばれた童顔男が素早く前を遮る。
「やらせない。あの女はエレベーターの中で挽肉にされる」
「まかせて」
葉桜がライを追った。
7
葉桜がエレベーターシャフトの内部に入ったとき、ライはすでに籠のすぐ下まで登っていた。シャフト内の壁に沿って、垂直のレールが上に伸びていて、それを掴んでいる。籠の底は高さにしてここから五メートルほど。普通ならそれだけ上がれば一階に着いているはずだが、着いていないところを見ると、この階は一階のすぐ下にあるわけではなく、そこからかなり深いところにあるらしい。間違っても見つかっては困る秘密の部屋ならではの配慮なのかもしれない。
ライに習ってレールを掴み、するすると登っていく。突然エレベーターが下がってこないことを祈るばかりだ。
ライはエレベーターの籠にたどり着いたが、その先いったいどうする気なのかと思っていると、拳で籠の底をがんがんとたたき出した。中から「ひえええええ」という理恵子の声が鳴り響く。
呆気にとられている内に、籠の底に穴が開いていく。
開けた大穴にライが手を掛けたとき、葉桜は下からライの足を掴んだ。
「ふん」
ライは面倒くさそうに残った足で葉桜を蹴り落とそうと、大砲のような蹴りを連続的に浴びせてくる。
「わっ、わっ、わっ」
それを体を揺すってなんとかかわしていると、ライは面倒と思ったのか、掴まれた足をぶんと前方に振った。葉桜の体はエレベーターの底にたたき付けられる。
「げふぅ」
手を離せばエレベーターシャフトの底に真っ逆さまだ。葉桜ならば怪我をする高さでもないが、這い上がっていく間に、ライに先に乗り込まれてしまう。
必死で掴まっているが、ライはまるで足になにも付いていないかのように、軽々と振り回す。その度に葉桜の体のあちこちは、コンクリートの壁だの鉄のレールだのそこら中にぶつかった。
なんなのよ、この化け物はぁあ?
体中の痛みに、思わず泣き言が入りそうになる。
こんな状況では中国拳法の技など使えるはずもなく、まさに単純怪力馬鹿の独壇場。発勁を使うには地に足が付いていないと不可能だ。さっきまで少し押し気味に戦っていた地上戦とはずいぶん勝手が違う。地の利がない。
「先生、がんばってくださいぃい」
上から弱々しい声援が聞こえる。
「うがあああああああ!」
いい加減うんざりしたのか、ライはいままでとは違う気合いで足を真上に振り上げた。今度こそエレベーターの底で葉桜を叩き潰すつもりらしい。
体を丸め、振り付けられた勢いを利用し、エレベーターに掴まっているライの手を蹴り飛ばした。
「ぐわっ?」
予期せぬ攻撃だったらしく、ライは掴まっていた手を離す。その結果、ふたりとも落下した。まず、ライ。それから少し遅れて葉桜。
ライは落ちながら体を整え、壁のレールを掴んだ。そのまま両足を壁に付け持ちこたえる。葉桜はちょうどその上に落ちる格好になった。
「チャーンス」
そう叫びつつ、落下の勢いを利用し、上からライの顔面に掌打をぶち込む。
結果的に中国拳法、形意拳のひとつ龍形拳になった。頭部への掌打は、脳に衝撃波を与えどんなタフなやつでも倒す。そしてこの技こそ、落下の勢いを利用し掌打を最高の威力にする技だ。充分な手応えを感じ、そのままライの体をよじ登る。
「んじゃあ~ねぇ」
今度は踵をライの顔をぶち込み、その勢いで飛び上がると、レールに掴まった。そのままレールを伝い、ライの開けた大穴から籠の中に潜り込む。
「さあ、もうだいじょうぶよ、理恵子ちゃん」
「あ、あのう、あまりだいじょうぶでもないですよ」
「え?」
「登ってきます、あの人」
反射的に下を見る。たしかに必殺の龍形拳をものともせず、のっしのっしと登って来るではないか。
「ぐへへへへへ、やるじゃないか女。だがその程度で不死身のライ様は倒せねえ」
そっちこそやるじゃない。さすがうちの『組織』の対立『組織』。なかなかすごいやつがいるってことね。
「理恵子ちゃん、照明パネルを外して天井から上へ」
「は、はいぃ」
葉桜は肩を貸し、理恵子を上に送る。
がっと穴の縁にライの手がかかった。
葉桜は容赦なく指を踵で蹴り潰す。今度はこっちに地の利がある。足場が安定している自分に対してぶら下がるしかできない敵。
そのはずだった。
しかしライは体重を掛けた葉桜の蹴りなどなにごとでもないかのように穴から這い登ってくる。
「今どき、あきらめの悪い男はストーカー扱いされて足蹴にされるのよん」
両手を這い登るために使い、ブロックできないことをいいことに、ライの顔面につま先でマシンガンのような蹴りを連続で入れる。だがこの怪物は薄気味悪く笑うだけだった。
そしてついに足を床に付き、立ち上がった。
まずい。この狭い箱の中じゃ勝ち目がない。
葉桜がそう思うのは当然だった。なにせただでさえ狭いのに、床に大穴が空き、足場になる部分の面積は限られている。広い場所での打撃戦ならばともかく、狭い場所での組み討ちとなればこの怪力男にかなうわけがない。
ライはいきなり動いた。なんの小細工をするまもなく、葉桜は体当たりを喰らった。
「げふぅ」
あまりにも硬く、重い一撃は一瞬なにが起こったのか理解できないほどだった。
気づくと体が壁にめり込んでいる。口から血が溢れ、息ができない。
衝撃を和らげる特殊スーツもこの男にはなんの役にも立たないらしい。
「ふん、あっけなかったな」
ライは葉桜がまだ生きているなど微塵も疑っていないのか、もう目もくれずに、天井から上に向かった。
理恵子の叫び声が耳に付く。しかし葉桜の体は動かなかった。
8
「おまえは何者だ? そしてなにをたくらんでいる?」
カイは両手を刀のように振り回しつつ、瓢一郎に質問した。
「なんのことだ?」
瓢一郎は四つんばいのまま豹のようなスピードでそれをことごとくかわす。
「おまえが花鳥院姫華でないことはわかっている。レイは間違いなく姫華を殺したはずだ。つまりおまえは別人ってことになる。もっとも、そんなことがなくても、俺の攻撃をかわすお嬢様がいるとは思えないしな」
それに関しては間違いない。たしかにその通りだ。
「つまりおまえは俺たち『血だまりの赤犬』の敵対組織の人間だってことだ。姫華が死んだら困る花鳥院の人間に雇われた組織の工作員。おまえも、あの女教師も、わけのわからんパソコン使いの女も、全員そうだ」
「ぜんぜん違う」
「いまさら、とぼけてどうする気だ? こっちはぶっちゃけ、組織名まで明かしたんだぞ」
カイはあきれ顔でいう。
いや、たしかに葉桜はそうだ。たしか『闇の黒猫』とかいう工作員派遣業社の工作員と自分でいっていた。だが俺はそんなものに所属していないし、理恵子だってたぶん違うと思う。もしそうならもっと葉桜と連携が取れているはずだ。
そう反論したかったが、無意味だ。それに理恵子が何者なのかは、瓢一郎自身教えて欲しいくらいだ。
だがこいつらの立場になれば、三人は同じ組織の仲間にしか見えないだろう。
「そういうおまえらは風月院とやらに雇われたのか?」
瓢一郎は地に付いた腕を支点にして、低い蹴りで足を刈り払おうとしつつ聞いた。
「今さら違うといってもしょうがないな。そうだ」
カイはバク転で蹴りをかわしつつ答えた。
「姫華を殺せば、花鳥院家の財産は姉の皇華が相続するしかない。つまり、風月院家に入る」
「しゃべり過ぎよ。カイ」
カイの後方にあるパネルの側で、姫華がエレベーターの動力を入れようとするのを妨害しつつ、礼子がたしなめた。
「なあに、どうせこのまま帰す気はない。同じことさ」
「遊びすぎ。手伝うわ」
「おっと、よけいなことはするなよ。せっかく楽しんでいるんだ。おまえはエレベーターの電源を入れられないように猫と遊んでいればそれでいい」
「なにいってるの? こいつらが来たってことは警察にだってここはばれてると思わなきゃ」
「そうしたら逃げればいい。警察に掴まるほどどんくさくないだろう、俺たち」
カイはへらへらと笑い、礼子の苦言を聞き流すと、瓢一郎に目を向けた。
「で、最大の疑問はだ、偽物姫華くん。この陽子だ。こいつはいったいなんなんだ? 組織の人間にも見えないし、どうしておまえが必死になって守ろうとする。さっぱりわからないんだが、教えてくれないかな」
カイは台の上で気絶している陽子を指さす。
「ただの友達だ」
「ふははははははは。冗談ならもっと気の利いたことをいってほしいね。友達? どこの組織に所属しているかは知らんが、おまえは俺たちと同じ穴の狢、工作員だろう? それが友達のためになにかをするだって?」
カイは大笑いした。瓢一郎のいったことなど、ひとことも信じていないといった顔で。
「そうか。君はレズビアンだったのか。彼女は恋人? う~ん、それでも納得いかないな。任務よりも愛を優先するなんて俺たちの行動原理にはない。しょせん愛だの恋だのは現地調達のつまみ食い。もっとはっきりいえば性欲処理の道具に過ぎない。けっして縛られたり執着したりしないのが、ルールだ」
カイは真剣に悩んでいるらしい。一見あどけない顔に不可解な疑問の表情が浮かんでいる。
なんか本気でむかついてきた。いったいこいつこそなんなんだ?
その『血だまりの赤犬』とやらの工作員として育てられたあげく、人間としての感情を捨て去った機械なのか?
そんなやつらと一緒にするな。
「ふ~ん、怒ったようだね。だが、個人の感情よりも組織の任務を優先することは、古今東西問わず、スパイや工作員といわれる人間の鉄則だ。つまり、おまえは欠陥品ってわけだな。なんだつまらん、俺の見立て違いか?」
カイが童顔に軽蔑の色を浮かべ、瓢一郎を見下す。
「悪いが欠陥品に負けるわけにはいかないな。そのうち警察も来るんだろうし、ここにおまえの生首をおいておくことにしよう。そうすればさすがに姫華が死んだ事実は覆せない。もう替え玉を使うことは不可能ってわけだ」
発する気が見る見る変わっていくのがわかる。今までのはしょせんお遊びモードだったわけだ。冷酷な殺人機械の本性が現れていく。
殺られる。……こいつのほうが一枚上手だ。
瓢一郎の本能と、長年の修行で得た勘がそう告げている。
一瞬の沈黙。しかしそれは甲高い叫び声に砕かれた。
「もう我慢できませんわ。さっきから黙って聞いていればなんですの?」
「猫が……しゃべった?」
カイの氷のような殺気がとたんに萎える。
「あなたほんとうに人間ですの? 個人の感情よりも組織の任務を優先することが鉄則だの、人のことを欠陥品だの、よくもそんな馬鹿げたことを恥ずかしげもなく口にできますわね。人間には感情があって当たり前。とくに恋愛感情は人間にとって高貴なものですわ。それを性欲処理の道具に過ぎないだなんて、獣だってそんなことは思いませんわ」
「……トリックか? 俺がそんなものに惑わされ……」
カイは瓢一郎が隙を作るためになにか仕掛けたと判断したようだ。
だが姫華は止まらない。人間のように二本足でぴょんぴょん飛び跳ねつつ、両手を振り回して憤慨する。
「だいたい瓢一郎、あなたもいったいなんですの、だらしがない。ただの友達? 陽子のことが好きなんでしょう? はっきりいってやりなさい。『好きな女を守ってなにが悪い。守るべきものがある方が強いんだ』って」
「いったいなんなんだ? 腹話術か、無線かなんか知らんが、おまえは猫にしゃべらせてなにをしようとしている?」
カイはそうとういらいらしだしたようだ。かなり感情的に叫ぶ。しかし姫華の暴走は止まらない。
「まだおわかりにならないの、この三流スパイが。おまえの方こそ欠陥品ですわ。お姉様もとんだ愚か者を雇ったものね。わたくしと後継者争いをしたいなら正々堂々と仕掛けてきなさい。わたくし逃げも隠れもいたしませんわ。家出したとか、風月院とくっついたとか、そんなことはどうでもいいことですわ。より能力のある方が後を継げばいいことです。お父様だってきっとそう考えているはずですわ」
「お、……おまえが姫華か?」
カイはようやくその事実に気づいたらしい。
「そう。たとえ今は猫の身でも、いつかかならず復活いたしますわ。そのときどちらがあとを継いだ方が花鳥院家のためになるか、はっきりお父様に判断してもらいましょう。皇華お姉様にそう伝えなさい、欠陥人間」
「そ、そうか、心臓を撃たれて、生きるために脳を猫に移植したんだな?」
いや、おまえの読みは鋭いようでいつもどっかずれてる。
「だったらそこの瓢一郎とかいうやつともにおまえも殺すまで。そうすれば蘇ることはあり得ない」
「待って、カイ。そういうことなら上に指示を仰いだ方が……」
「おまえは引っ込んでろ、レイ」
カイは鋼のような手刀で礼子を振り払った。
礼子の首筋から鮮血が噴水のように吹き上がる。
「おまえも非情になりきれない欠陥品だ」
カイは礼子の顔に唾を吐きかけた。
「ほんとうはクラスのお友達とやらを殺したくないんだろう? だから失敗したんだ。かわりに俺が殺してやるよ、瓢一郎も、姫華も、おまえの大好きな陽子もな。先に逝ってるがいい」
「貴様」
瓢一郎はどす黒い怒りに身を焼かれる。
この男を許してはいけない。俺はきっとこいつを倒すために、子供のころから猫柳流拳法を親父にたたき込まれたんだ。
「なんだ、怖い顔をして? そうすればおまえごときに俺をどうにかできるのか? 欠陥品め」
カイは狂ったように笑った。
9
「ひゃああああああ!」
理恵子は思わず叫んだ。エレベーターの天井パネルの隙間から怪物が顔を出したからだ。
「せ、先生は?」
「ぐふふふふ。死んだよ。壁にめり込んでぺちゃんこになってな」
半分髭に覆われた厳つい顔が、サディスティックにゆがむ。
ライは両手を天井の上にかけ、大きな体を引きずり上げる。ただでさえ不安定な籠の上がゆさゆさと揺れた。
「さあて、下は下で片が付いただろうし、こっちもけりを付けるかな」
ライはエレベーターの籠の上に立つと、その大きな手をゆっくりと理恵子の方に向ける。
「あわわわわわ。やめて、殺さないでくださいぃいいい」
理恵子は絶望しつつ、命乞いした。
だがライは真っ白い歯を見せながら、そのグローブのような両手を理恵子の首にかける。
その瞬間、堅いものがぶつかり合う音が鳴り響いた。
一瞬遅れて、怪物の叫び声。理恵子はなにが起こったのか理解するのに数秒を要した。
「伊集院さん」
「待たせたな。もう心配するな」
目の前には木刀を持った伊集院の姿がある。木刀には血痕が付き、ライの額は真っ赤に染まっていた。
「な、なんで、……ここが?」
力なく聞いたライのみぞおちに、伊集院は木刀の切っ先をたたき込む。
「必死で追ってきたんだよ。姫華様たちをな。見失ってこのあたりを探し回っているとスマホに連絡が入った」
「ここに出たら電波がつながるようになったんですよ」
そう、地下にいるときは通じなかった電話が、エレベーターの上に出ることで通じるようになった。理恵子は速攻で伊集院と警察に連絡を入れた。下では戦いに夢中で理恵子がスマホを使ったのがわからなかったらしい。
上を見ると一階のエレベータードアが開いている。伊集院はそこをこじ開け、ちょうど窮地に陥っている理恵子を見て、飛び込んできたってわけだ。
「そうかい?」
ライは腹に突き込まれた木刀を両手で掴むとぞうきんのように絞った。めきめきと音を立て木刀が砕けていく。
「ば、化け物め」
伊集院に驚愕の表情が浮かぶ。
木刀で頭を割られ、みぞおちを突かれたのに倒れることもなく、反撃してくる不死身ぶり。まさに怪物にふさわしい男だ。
「うひゃああああ」
ライは木刀をばらばらにすると、顔面から真っ赤な血を滴らせながら両手を振り上げる。
「動くな、そこまでだ」
斜め上から声が聞こえた。一階の開口部から若い大男と小さな年寄りの刑事ふたり組が拳銃をライに向けている。
「うおおおおおおおおおおおおおお」
ライは獣のような咆哮を上げると、刑事が拳銃を構えている一階のホールめがけて跳んだ。着地するや否や、ふたりの刑事を突き飛ばし逃走する。
「逃げれると思うなよ。完全に包囲されてるぞ」
上の方で刑事の叫び声が聞こえる。
とりあえずこれで殺される危険は去った。
「そ、そうだ。先生は?」
理恵子は天井の穴から下を覗く。たしかに葉桜は壁にめり込んでいた。
「はぁ~い。なんか終わったみたいね」
葉桜はかろうじて笑みを浮かべつつ、手を振った。
あまり元気そうではないが、とりあえず死ぬ心配はなさそうだ。
「姫華様はこの下か?」
伊集院が怒鳴る。
「はい、でも電源が切られて動きません」
「ふん、ならばそこに開いた穴から入るか」
伊集院はエレベーターの屋根から床に降り立った。理恵子もそれに習う。
もっとも床に開けられた大穴から下を覗く限り、ここから降りるのは無理っぽい。伊集院はなんとか降りられないかどうか思案しているようだが、彼とてべつに忍者でもクライマーでもない。なぜそんなことができるのかはわからないが、ここから登ってきた葉桜とは違うのだ。
「理恵子、なんとかしろ。姫華様を助けるんだ」
10
しゃおおおおお!
空気を切りさく音がつんざく。
カイのつま先が瓢一郎の顔面に向かって飛んでくる。
その速さ、そして連続性はまさに連射される弾丸に近かった。
カイは攻撃を完全に蹴り主体に変えてきた。手を床に付き、低い状態に頭を保つ瓢一郎には、手刀よりもそっちの方がよほど合理的であることに気づいたらしい。
瓢一郎はその攻撃を頭を高速で上下左右にふることでかろうじてかわし続けた。
猛獣の爪のごとく、敵の肉を切り裂く指先で、引き際の足の筋を断ち切ろうとしてもことごとくうまくいかなかった。カイのスピードははっきりいって尋常じゃない。
このままじゃ、やられる。
瓢一郎はカイを中心に、左右に回り始めた。右と思えば、引き返し左へ。そんな動きを小刻みにし相手を幻惑する。そのつもりだった。
「やはり獣は頭が悪いね。そっちが疲れるだけだぜ。こっちはちょっと体の向きを変えてやれば済むが、そっちはそうはいかない」
カイはせせら笑った。
それはある意味正しかった。たいていの相手なら瓢一郎の動きに惑わされ、隙を作るところだが、この男に限ってそんなことはない。攻撃を当てにくくする利点はあるが、体力を削られればそれで終わる。
ならばこうだ。
瓢一郎は真上に跳ぶと、反転し天井を蹴った。その勢いで急降下しつつ、鉄の爪をカイめがけて振りぬいた。
だがカイはすでにそこにはいない。
ずん!
腹に強い衝撃が走った。
一瞬なにが起こったか理解できなかったが、カイの手刀を腹に受けたらしい。
息が止まった。
同時にはげしい吐き気がこみ上げ、胃液をそこらにまき散らした。
そのまま臓器をぜんぶぶちまけるのではないかと錯覚する。
く、くそ……。
床にはいつくばったまま動けない。
まさに日本刀のような切れ味がする打撃。特殊スーツを着ていなければ、腹が裂けただろう。
もう逃げることも反撃することもできそうにない。あとは露出した頭部か首にとどめの一撃を食らえばそれで終わる。
「さあって、偽物さん。ええっと、瓢一郎くんだっけ? なかなか健闘したけどそろそろ限界かな? 俺に素手で勝てる人間なんてこの世にほとんどいないからね」
指先をこきこき鳴らしてみせる。
「女装までしてがんばったのに残念だねぇ」
ま、まだだ。まだ終われない。
瓢一郎は最後の気迫をふりしぼって、カイをにらみつける。
「ふん。その目つき、気に入らないな。じつに気に入らない。そうだ、先に陽子君を血祭りにすることにしよう。君の目の前でね」
カイはちらりと視線を陽子の方に向けた。
やらせるか!
その瞬間、動かなかった瓢一郎の体が反射的に動いた。風のように。
「まだ、そんな力が残っ……」
瓢一郎は充分素早かった。しかしカイには見切れない動きではないようだ。とまどったのはほんの一瞬、すぐにその視線は瓢一郎の動きに追いついている。
その手刀がギロチンのように瓢一郎の首を断ち切ろうと迫る。
かわせない!
「馬鹿め、こっちだ。死ね」
反対方向から声がした。
カイはとっさに腕を止め、声の方向に振り返る。
めきゃっ。
カイが初めて見せた隙。瓢一郎の体は反射的に動いていた。
気づくと瓢一郎の指先は、無防備なカイの背中にめり込んでいる。機械のような冷血人間にも体温と血はあったらしい。指先が熱い。
「瓢一郎? 馬鹿な。……ならば俺を呼んだのはいったい誰だ?」
先ほどカイを呼んだ声の方向にはシャム猫が勝ち誇ったような顔で座っている。
「姫華か? そういえば……同じ声だったな」
瓢一郎が貫手を抜くと、カイの背中から血が噴き出した。カイの膝ががくんとくずれそうになる。
「れ、連携プレーってやつか? くそっ、なんの打ち合わせもなしでそんなことができるなんて、……そうか……それが、愛し合うもの同士の……以心伝心ってやつか?」
カイは瓢一郎に一撃を浴びせようと最後の力をふりしぼったのだろう。振り向きざまに、日本刀のような威力を持つ手刀を瓢一郎の首めがけて打ち込んできた。
瓢一郎の猛獣の爪が下から跳ね上がる。それはカイの首筋をかすめた。
熱い血が流れ出すと同時にカイは床に崩れ落ちる。そのまま動かなくなった。
「なにが愛し合うもの同士の以心伝心だ。おまえのいうことは、一見核心を突いているようでいてぜんぶ大はずれだ」
もう意識がないだろうカイに、瓢一郎はいわずにいられない。
『ほんとなにが以心伝心ですの? 愛し合うもの同士ですって? 勘違いにもほどがあるってものですわ。瓢一郎がやられそうだったから、とっさに注意を引いただけですわ』
瓢一郎の頭の中で姫華がヒステリックに叫んだ。
瓢一郎はよろめく足取りで陽子が縛られた台まだたどりつく。
「陽子」
閉じたままの瞳から、涙があふれていた。
瓢一郎は両手両足の拘束を解く。
『ふん、まったくモテたことのない男はどうしていいかわからないんでしょうね。こういうとき王子様なら王女様に優しくキスをして目覚めさせるものですわ』
姫華のアドバイスに心から同意するのは、これが最初で最後かもしれない。
瓢一郎は言葉通り、眠っている陽子のサクランボのような唇に自分の唇を重ねた。
柔らかく、そして暖かかった。
その慣れない唇の感触が瓢一郎の心を熱くする。
『ほ、ほんとうにやる馬鹿がどこにいるんですの。あなたは冗談ってことを知らないんですの? だめよ。やめなさい。き~っ、やめろっていってんだよ、こんちくしょう』
姫華がなにか必死で伝えてくるが無視した。
「ああああああああ。姫華様と陽子さんがキスしてるぅううううう!」
だがこの叫び声には驚いて、声の方をちらりと見た。
なぜかエレベーターの扉が開いており、その中には理恵子、葉桜、伊集院、それに吉田と五味が乗っている。もちろん今の叫び声は理恵子のだ。
ばち~ん!
頬に熱い衝撃が走る。
「な、なにやってるんですか、姫華さん!」
陽子が真っ赤になって叫んだ。
ほんとうに眠れる王女様はキスで目覚めるものらしい。
「かあ~ぁ、まったく近ごろの若い女はなに考えてんだか。五味、理解できるか、おめえ」
「いや、吉田さん、俺にだってわからんですよ」
五味が厳つい顔を赤くして背ける。
「あっはっは、ついにやったのね、瓢……」
葉桜はぼろぼろになりつつも、笑顔で拍手した。どさくさに紛れて「瓢一郎くん」といおうとしたことには誰も気づかなかったらしい。
伊集院は無言のまま、少し怒った顔で瓢一郎を見つめている。そして悔しそうにいう。
「ま、負けるものか。俺が正常な世界に引き戻してみせる」
瓢一郎は陽子にどんと両手で突き飛ばされる。陽子はそのまま顔中から汗を噴きだして、あわあわと意味もなく走り回った。
「な、なんでみんなここにいる?」
そうはいったが、見当は付いた。カイと戦っている間に姫華がエレベーターのスイッチを入れたのだろう。警察はおそらく屋根を飛び移るバイクを追ってきたに違いない。
『まったくあんたのせいで、わたくしはとんだ変態女になってしまいましたわぁあ』
キスをしろっていったのはおまえだろうが。その直後、なぜか必死で止めはしたが。
お嬢様の考えていることっていうのは、庶民にはさっぱりわからない。
「ライとかいうやつは?」
瓢一郎は葉桜に聞いたつもりだったが、かわりに吉田が答えた。
「包囲していた警官が捕まえた。ところで、そのふたりは生きてるのか?」
礼子とカイのことだろう。
「まだ死んでないと思う。すぐに運んだ方がいいよ」
正当防衛とはいえ、殺人はごめんだ。礼子にも生きていて欲しい。
陽子はようやく礼子の様子に気づいたらしく、やぶれた自分のTシャツで傷口を縛った。すごく悲しそうな表情で。
「とにかく犯人を上に運ぼう。それにおまえには聞きたいことが山ほどある」
吉田はうんざりした口調でいった。
11
瓢一郎たちはこってり警察に絞られたが、けっきょく陽子をさらったのは礼子で、カイやライと名乗った男たちがその一味であることが明白であり、瓢一郎たちがカイを傷つけたのも正当防衛だったと判断されたため、帰された。もっとも吉田の疑惑は完全には晴れていないようだが、とりあえず、すぐにどうこうする気はないらしい。
今は例によって花鳥院家の地下会議室で反省会というか、集まってあれこれ文句のいい合いをしているところだ。
「今回は殺されるかと思ったわ。特殊スーツも防弾ジャンパーもあんまり役に立たなかったしね」
葉桜が不満げな顔でいう。さほど重症ではなかったらしい。
「なにをいうか。役に立ったやつもいるじゃないか?」
四谷が怒り出す。
「まあ、たしかに役に立ったよ」
照れくさそうに答えたのは佐久間だった。佐久間はちゃっかり自分の分として防弾仕様の燕尾服を作らせ、それを着ていたらしい。だから礼子の放った銃弾を受けても死なずに、たんに気を失っていただけですんだのだ。病院からすぐに帰された。
「ひ~っひっひっひっひ。ほうら、見ろ。私の力を侮ってもらっちゃ困る」
「だったら早いところ、わたくしの体を治して欲しいものですわ。いったいいつまでわたくし猫をやってればよろしいの? この男にわたくしの身代わりを演じさせておけば、とんでもない誤解が浸透してしまいますわ。化け物のように強く、豹のように身が軽い。しかもレズ。それもあの理恵子に知られてしまったんですのよ。学園のデータベースに」
「まあまあ、姫華様。姫華様がほんとうは猫で、姫華様を演じているのが瓢一郎くんなんていうほどスキャンダラスでもないですよ」
葉桜がけらけら笑う。
「っていうか、俺はいつまでこの格好をしてなきゃないんだ? もう陽子が襲われる心配もたぶんないだろう? 礼子の正体はばれたわけだし。そもそも姫華は失踪したことにでもして、逆に俺は家出から帰ってきたことにすれば、それでやつらは目的を果たしたことになるじゃないか」
「まあまあ、乗りかかった船ってことですし」
「そうだ、男なら一度引き受けたことは最後までやるものだ。だいいち姫華様が行方不明になったら、連中はまた陽子嬢をさらって行方を聞こうとするに違いないぞ」
「ひ~っひっひっひっひ。私が手術しなければ人工声帯はそのままだよ。顔だって微妙に違うし、戻して欲しくないのかな?」
「わたくしのせいで助かったくせに、わたくしを見捨てようというのかしら、この男」
みな口々に瓢一郎をなじる。
「わかった、わかった。もうしばらくだけ演じてやるよ、わがままお嬢様を。だけど一回家に電話させてくれ、俺の声で。さすがに心配してるだろうが」
「あら、『修行の旅に出る』っていうワープロで作った書き置きを部屋においたんだけど、だめかしら?」
だめに決まってるだろう、そんなこと。
葉桜のとぼけた顔面に思い切りつっこみを入れてやりたかった。
「たしかに電話くらい入れないとまずいだろうな。おい四谷博士。それってできるのか?」
「ひ~っひっひっひっひ、簡単だよそんなこと。リモコンスイッチで人工声帯をオフにできる。そうすれば自分の声が戻るよ」
四谷はそういうと、ポケットから取り出した装置をなにやら操作した。
「電話したけりゃすればいい。もう自分の声だ」
「ほんとか?」
その声はたしかに瓢一郎自身の声だった。瓢一郎はスマホを取り出すと家に掛ける。
『はい、柳ですが』
「瓢一郎だけど……」
『瓢一郎か? おまえいったいどこでなにをやってる? 警察が来て誘拐されたんじゃないかって大騒ぎになったんだぞ』
父親が怒鳴りつける。
「書き置きしたろう? 修行だよ修行。フィオリーナといっしょにな。ついでに全国の猛者を倒してから帰るよ。そんときは親父を倒してみせる」
『むう、そこまでいうなら好きにするがいい』
それで納得するのかよ、この親父は。と思ったら、電話を奪われる音がした。
『馬鹿いってないでさっさと帰ってきなさい、瓢一郎』
「母さん。……だめだ、帰れないよ」
『どうして? やっぱり悪いやつらに誘拐されたんじゃないの?』
「そうじゃない。俺の助けを必要としている人がいるんだ。わがままなお嬢様だけどね。しかもそいつに借りができた。返さなきゃならない。だからもう少しだけ待ってくれよ」 ため息が聞こえた。なにをいってるんだ、この馬鹿息子は、とでも思っているんだろう。
『わかったわ。困っている人がいるんじゃ助けてあげないとね。なるべく早く帰ってくるんですよ』
おいおい、母さんまでそれで納得するのかよ。ひょっとして俺って大事にされてないのか?
いや、まあ、信頼されてるってことだろう。強引にそう思うことにした。
「わかったよ。無事に帰るって約束するから。じゃあ、母さんたちも体に気をつけて」
そういって、切った。
「理解のありそうな家族でいいわねぇ」
葉桜がのほほん笑顔でのんびりという。佐久間がうんうんとうなずき、四谷が不気味な笑い声を上げた。
「ついでにもう一件」
瓢一郎は陽子のスマホに掛けた。
「陽子? 瓢一郎だけど」
『ひょ、瓢一郎くん? どこにいるの? みんな心配してるんだよ』
「ごめん。だけど俺は無事だよ。誘拐なんかされてない。だから俺を捜そうと危ないことはしないでくれ」
『だ、だけど……』
「もうちょっとだけ待ってくれ。理由はなにも聞かずに。近いうちにかならず帰るから」
『……ん、わかった。待ってる。でも約束だよ。必ず無事帰ってくるって』
「ああ、約束するよ。それともう陽子を危ない目には合わせたりしないから。俺が必ず守るから」
『……うん。信じてるよ。あ、待って、切らないで。最後にひと言だけ』
瓢一郎が切ろうとしたのをとっさに察知したらしい。
『好きだよ、瓢一郎君』
「……俺もだ」
瓢一郎は電話を切った。
「ちょ、ちょっとなんですの、その意味深な会話は? なにが俺もなんですの?」
なぜか姫華が突っかかってきた。
「あははは。姫華様、妬かない、妬かない」
「な? なにをいいだすんですの、このへぼ教師は?」
姫華は二本足で前足を振り上げながら踊り出した。いや、どうやら怒っているらしい。
「ひ~っひっひひひ」
「か~っ、ばっかばかしいわい」
「いっておくが、ほんとうにあとちょっとだけだからな。さっさと姫華の体を治すんだぞ」
連中に怒鳴りつけた。
まあ、これでしばらく怪しい組織の連中に狙われることになるかもしれないが仕方がない。こっちにも怪しい味方がいることだしなんとかなるだろう。
警察がいうには礼子とカイはなんとか命を取り留めそうだ。だがなんにしろ拘束されるのは間違いない。次に襲って来るとすれば別のやつだろうが、構うものか。
瓢一郎はそう思った。
今度の事件を通して、謎はほとんど解明されたと思うが、ただひとつわからないことがある。
佐藤理恵子とはいったい何者だ?
*
警視庁捜査三課に封書が届けられていた。宛名は「怪盗『ねこ』捜査班の皆さんへ」。
怪盗「ねこ」は宇宙人を呼び出す石だの、宇宙語を刻まれた金属版など怪しいものばかり狙う窃盗犯、あるいは窃盗団だが誰もその姿を見たものはいなかった。しかし担当の沢渡警部はつい先日、犯人の特徴を掴んだばかりだ。
犯人の目撃者が現れたのだ。
証言によると、後ろ姿だったが、どう見ても子供のように小さな女。しかも逃げる様子はけっこう鈍くさく、映画に出てくる華麗なる怪盗という感じではないらしい。その目撃者はその姿を見たとき、どうして警察はこんな鈍そうなやつを捕まえられないんだろうと、本気で思ったそうだ。
「いったいなんだっていうんだ?」
沢渡は興奮しつつ、封書を開ける。中に入っていた便箋にはこんなことが書かれてあった。
『お騒がせしてすいません。だけどほんものの宇宙人(猫系統で、レズ傾向あり)に出会ったので、宇宙人アイテムはもういいです。引退します。探さないでください』
「ふざけんじゃねえ。ぜったい捕まえてやるからな」
沢渡は腹の底から叫んだ。
了
ねこねこお嬢様 南野海 @minaminoumi
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