第三章 ねこねこ名探偵
1
「もうぉ、この男ったらほんとに信じられませんわ」
姫華はしっぽをぶんぶん振りながら、猫の顔に精いっぱいの怒りを浮かべていった。それもちゃんと声に出して。
「そういうなよ。あの場合仕方なかったろうが」
瓢一郎は声だけは姫華で、素の話し方で答える。
「まあ、まあ、まあ、すんでしまったことはしょうがないわよ」
葉桜がにこにこ顔で仲裁した。
けっきょく、瓢一郎は犯人を捕まえることができなかった。敵は怪我をしているくせに思った以上に手強く、不意をつかれた蹴りを腹に入れられ、倒れた隙に逃げられたのだ。
ここは花鳥院家の地下室。例の怪しげな改造手術(?)をおこなった宇宙船のような部屋の隣で、秘密の会議室といった趣の部屋だ。一般家庭のリビングルーム並みの広さで、カーペット敷き、中央には会議テーブル、椅子は革張り、壁にはホワイトボードにワイドスクリーンと打ち合わせに適しているようになっている。瓢一郎は放課後ここに戻ると、姫華と花鳥院雇われ三人組を交えて、一日の反省会と作戦会議をおこなうのが日課になった。
「仕方ないではすまされませんわ。だってこの男、こともあろうに、理恵子の前で四階の窓から飛び降りたっていうんですのよ。しかも走っている車の屋根を渡って、それから屋根の上に飛び乗って。……理恵子が口を滑らせたらどうなるんですの?」
姫華が猫らしく背中の毛を逆立てながら怒った。
「だからちゃんと口止めしたって。犯人に逃げられたあと、速攻で窓から生徒会室に戻ったから伊集院には見られてないよ。理恵子さんはなぜか目を輝かせながら『だいじょうぶですっ、ぜったい誰にも口外しませんから』っていってくれたし」
「それが信じられませんわ。あの子はあれでも学校のデータベース。好奇心の塊のような女ですのよ」
それには同感だった。どんな秘密でも探らずにいられなさそうなところを感じる。だが、知り得た情報を他人に教えることには必ずしも積極的には見えない。要は知りたいだけなのだ。そう信じたい。
「それ以上に信じがたいのは、陽子の前で戦ったことですわ。それもあんな変な技で。どうせなら空手かなにかで戦ったらどうですの? 少しはいいわけができるのに」
「しょうがないだろうが。俺はあの戦い方しか知らないんだから」
「あれじゃあ、まるで化け猫に取り憑かれたみたいですわ」
ほんとうは猫が姫華に取り憑いたわけではなく、姫華が猫に取り憑いているわけだが。
「しかしその娘が口外したらまずいのぉ」
佐久間が心配そうにいうと、葉桜はけらけらと笑う。
「だいじょうぶですよ。わたしあのあと、陽子さんに電話してみましたから。もちろん、姫華様が猫の姿で戦ったなんてひとこともいっていませんでしたよ。信じるわけがないと思ったんでしょうねぇ」
「まあ、なんにしても俺が行くまでの間、陽子を守ってくれて助かったよ。いや、感謝してるよ」
「体が勝手に動いただけですわ。ほんとはあの洗車ブラシがどうなろうと知ったことじゃありませんのに」
姫華はぷいとそっぽを向いた。
体が勝手に動いたというのはあながち嘘でないのだろう。今の姫華はフィオリーナの魂と記憶を取り込んでいる。猫の野生の本能に加え、日々、瓢一郎の拳法の組み手につき合わされたフィオリーナに染みついた動きが出たに違いない。しかしそれはいざ動き出したあとのこと。やはり姫華が陽子を助けようと思わなければ、動かなかったはずだ。フィオリーナと陽子は面識がないし、そもそも猫は本来怠け者なのだから。
「あらあら、ほんとうは心優しいお方のくせに。どうしていつもつまらない意地をお張りになるんでしょうね? だからみんなが誤解するんですよ」
葉桜が意地の悪い目つきで姫華を見つめ、ころころと笑う。
「な、なにをいってるんでしょうか、この馬鹿女は?」
姫華は前足を上げながら地団駄踏む。まるで三味線に合わせて踊る猫だ。
「ひ~っひっひっひっひ」
四谷がさんざん笑ったあと、口調を変える。
「ところで瓢一郎くん。犯人は血痕を残していかなかったのか? それがあればDNAで特定できるんだがね」
「う~ん、刺さったのはあいつの持っていたナイフで、腹に刺したまま逃げたからな。すくなくとも目に見えて血痕は飛ばなかったし、たぶん地面にも落ちていないと思う」
「まあ、今ごろ、警察が血まなこになって血痕を捜しているでしょうねぇ。でも現場に落ちていればともかく、現場から離れれば離れるほど犯人のものとは特定しづらくなるでしょうし、仮に採取できたとしても、生徒全員のDNAを調査する令状が取れるかどうか、微妙なんじゃないですか?」
葉桜がひさびさに真顔でいった。
いきなり佐久間が手をぽんと叩く。
「だが血痕がなくても、犯人は腹に怪我をしてるんだろう? あした学校を休んだ生徒を調べればいいんじゃないのか?」
「いや、犯人は刺されたあと走ったんだ。たぶんナイフは臓器に刺さっていないし、案外浅い。たぶんプロテクターでも着込んでいたんだろう。もし生徒の中に犯人がいるなら疑われたくないだろうから出てくると思うよ」
「なら、腹の傷を調べればいい」
「どうやって? 全校生徒に腹をめくれっていうのか? 男子生徒だけならともかく、女子か、あるいは教師かもしれないんだぞ」
もちろん学校の部外者が犯人の場合は問題外だ。
「しかしそんなことは姫華様がひとこといえば……」
「それはやめた方がいいと思いますよ」
佐久間の提案を、葉桜は蹴った。
「今、うちの学校はマスコミにかなり注目されてます。きょう陽子さんが襲われたから、あしたにはさらにマスコミの目が厳しくなると思いますよ。そんな中で生徒を疑って、腹をめくれなんて強要したことがばれれば、学校の評判はがた落ちになっちゃいます」
「う、うむ。それはまずいな。だがこっちがやらなくても警察がやれば……」
「警察は同じ理由でそんなことしないと思いますよ。そもそも制服を着ていたという以外、犯人が生徒だという証拠も根拠もなにひとつないんですから」
しばしの沈黙が訪れた。それを破ったのは姫華だった。
「そんなこと簡単ですわ。要はあからさまに生徒を疑っていることを示さずに、学校にいる全員の腹を見られればいいわけでしょう?」
「おまえ、そんな簡単にいうけど……」
「だから簡単なことなんですの」
姫華は自信を持って瓢一郎の言葉を遮った。
「佐久間、あしたの午後までに用意してもらいたいものがあります。ちょっと量が多いから大変でしょうけど必ず間に合わせてもらいますわ」
「なんでしょう? 姫華様」
姫華のいったものは、じつに意外なものだった。
2
「じゃあ、気をつけるのよ。帰るときは連絡入れて。迎えに来るわ」
「うん、わかったわ、お母さん」
陽子は母親の運転する車から降りると、そういった。
ほんとは車で学校まで送り迎えなどしてもらうのは仰々しくていやなのだが、やはりきのう襲われたばかりで怖い気持ちもあるし、母親が心配して仕方ないので好意に甘えることにした。家のまわりや学校のまわりにはマスコミがたむろしていたからそういう人たちの取材から逃れる意味でも都合がよかった。こうして校舎のまん前まで車を着ければ、マスコミ立ちも寄ってこれない。
手を振り、母親の車を見送っていると、後ろから肩を叩かれる。礼子だった。少し怒った顔で陽子を見つめている。
「あ、おはよう、礼子」
「おはようじゃないわよ。もう、だからいったじゃないの。危ない目に合うんだから、もう二度と探偵の真似事なんかしちゃだめよ」
きのうのことをいっているのだ。放課後、刑事の取り調べを立ち聞きしたあげく、帰り道襲われたことを非難している。礼子はきのう用事があって早く帰ったのだが、ひとりで危ないことをするなと釘を刺していったのに、無視したことに腹を立てているのだろう。
「でも、怪我はなかったんでしょう?」
「うん。ちょうど刑事さんたちが駆けつけたんで、あいつ逃げてったのよ」
姫華のことをいっていいのかどうか迷ったあげく、伏せた。礼子くらいにはいってもいい気はしたのだが、やっぱり信じてもらえないと思う。それにそんなわけのわからないことになっているんならますます関わるなといわれそうだ。
それにしてもどんな顔で姫華に会えばいいのだろう。まだ礼すらいっていないが、ストレートにいっても、「夢でも見てたんじゃないんですの」とか完全否定されそうな気がする。
それにしてもどうしてあたしを助けてくれたんだろう?
ほとんど口なんかきいたこともないし、陽子は瓢一郎を目の敵にする姫華がむしろ大嫌いだった。姫華の方は、陽子のことなど眼中になかったとしか思えない。それなのに、まるで使い魔のような猫に警護をさせ、いざとなったら自分自身が野獣のような体術を使い命がけで戦ってまで陽子を守った。どう考えてもわからない。
「とにかくもうやめるのよ。これ以上心配させないでよね」
昇降口に行くまでの間、礼子は同じようなことを繰り返した。
「あ、あのう、川奈陽子さん!」
一年生用の昇降口のところに女生徒が立っていた。生徒会書記の二年生、佐藤理恵子だった。
「ちょっといいですか?」
理恵子は年上にもかかわらず、陽子に敬語を使った。おとなしそうな顔に、みょうにわくわくした感じを漂わせながら。
「あ、あの……できればふたりだけで」
ちらりと礼子を牽制した。
「先行ってるよ」
礼子はそういうと、さっさと自分の下駄箱のところへ行く。
「あ、あの、……なんでしょう?」
陽子は不審に思った。相手は生徒会役員だから、陽子は当然知っていたが、本来なら理恵子が陽子を知っているかどうかすら疑わしい。そういえば、姫華が襲われたとき、現場で一緒になったが、あれはあくまでたまたまで、たぶん向こうは名前も知らないだろうと思っていた。それがいったいなんの用なのだろう。
「……見たんですよね?」
理恵子は好奇心にあふれた顔を近づけると、小声でささやいた。
「え? なにをですか?」
「もう、とぼけちゃって」
理恵子は意地悪はやめてという目で陽子を見る。
さっぱりわからなかった。登校途中で待ち伏せしたあげく、わけのわからないことをいう。理恵子の意図がまったく読めない。
「だから、姫華様の……あれですよ」
「あれ?」
あれってまさか? あの人間離れした動きをこの人は知っているのだろうか?
思ったことが顔に出たらしい。理恵子はぱあ~っと顔を輝かせてはしゃぐ。
「そうそう、あれ。あれですよ」
知らない人が聞いたら、まったく意味不明の会話だ。だが理恵子は陽子の知りたいことをなにか知っているらしい。
「なにを知ってるんですか?」
陽子は思わず語気が強くなった。
「うわっ、そんなに警戒しなくてもいいですよ。秘密にしますから」
なにをいってるんだ、この人は? まるであたしがすべてを知っていて、秘密を守れと迫ってるみたいじゃない。
「だから同志にしてください」
陽子が困惑していると、理恵子はきょろきょろあたりを見回したあげく、耳元でとんでもないことをささやいた。
「……だから、姫華様が宇宙人だっていうことは誰にもいいませんから」
「え?」
いや、聞き間違いだよね? そう思った。頭のおかしい人間ならともかく、進学校でもあるこの学園の生徒会役員の言葉とは思えない以上、当然だろう。
「姫華様はきのうどうやってあなたを殺人鬼の手から救ったんです? もう、すごかったですよ、きのうの姫華様は。まるで電波でも受信したように、突然血相を変えて、生徒会室の窓から飛び出していったんですからっ」
電波でも受信したように? まるであたしの危機を察知したかのようないい方だ。それに生徒会室から飛び出した? あそこはたしか四階。
姫華の人間離れした動きや、猫を自在に使う様子を見ていなければとても信じられないことだが、今の陽子にはそうともいい切れない。
いったいあの人は何者なの? それにこの人は?
「そんな驚いた顔しないでくださいよ。じつはきのう見たことをデータ化してパソコンで計算してみました。校舎の高さや、跳んだところまでの距離、それに姫華様の体重とかをインプットしてシミュレーションしたんです。出た結果は、とてもふつうの女子高生の運動能力じゃありません。ほとんど忍者並みです」
理恵子は得意げにいう。
「だからあたし思うんです。姫華様はあの事件以来入れ替わったって」
「ま、まさか?」
「だって、復帰してきたとき、足のサイズが大きくなってましたし、みょうに立派なこというようになったし、猫が大嫌いだったのに、猫を引き連れて学校に来ましたからね。ありえませんよ。それにあたしの見たところ、姫華様は脚の美しさに自信過剰で意識して見せびらかせてたのに、わざわざストッキングで脚を隠すのは変すぎます」
「だ、だけど、見た目は……」
「だから宇宙人なんですよ。本物そっくりに化けた宇宙人。っていうか、宇宙からやってきた悪党を追ってきた宇宙刑事にちがいありません。……でしょ?」
「は?」
「だから、あの黒覆面の男こそが宇宙から来た犯罪者で、今の姫華様は彼を追ってきた宇宙刑事なんです。宇宙人の犯罪者が姫華様を殺しちゃったんで、なりかわってふたたび襲ってくるのを待ってるんですよ。きっとそうです……よね?」
陽子は理恵子の顔をまじまじと見つめた。しかし、冗談をいっているようには見えない。むしろ、あたしの推理ってすごいでしょ? どうだまいったかといわんばかり、鼻息を荒げている。
「い、いくらなんでも、……それは」
「また、とぼけちゃって。陽子さんもその協力者だっていうのはわかってるんですから。どうすればあたしも協力者になれるんでしょう? 試験でもあるんですか?」
「あ、あの、失礼します」
なんにしてもこれ以上関わりたくない。陽子は逃げるように校舎の中に入ろうとする。
「あ、待って」
理恵子はポケットから取り出したものを無理矢理陽子の手に押し込んだ。
プラスティックのカードだった。名前の他、ケータイ番号やパソコンのメールアドレスが書いてある。名刺らしい。
「気が変わったら、連絡ください」
陽子はそれを無造作にポケットの財布に放り込むと、駈け去った。
「あたし、諦めませんからっ」
後ろから理恵子の声が響いた。
なんだったんだろう?
陽子は混乱しつつも教室の前まで来た。入ろうとしたとき、中から出てきた姫華と鉢合わせする。
「あ、あ、……あのぅ、おはようございます」
「あら、おはよう」
姫華は表情を変えずに、冷たい口調で挨拶すると、そのまますたすたと陽子を素通りしていった。例のシャム猫がとことこと後ろを付いていく。
「あの、……きのうは、ありがとうございました」
姫華の足がぴたりと止まる。
「あら? なんのことかしら?」
姫華は振り返ると、いかにも不思議そうな表情を浮かべた。
予想はしていた。姫華はきのうのことを秘密にしたがっている。しかし、命を助けられた以上、礼のひとこともいわないわけにはいかない。
それに知りたかった。いったいなぜ姫華がこんなに親身になって自分を助けてくれたのか?
「偶然じゃなかったんですよね?」
ふたたび歩き出した姫華の足が、もう一度止まる。
「なんですって?」
無表情を装ってはいるが、振り返った姫華の顔に驚きと困惑が浮かんでいる。
「あたしを守るために、その猫を警護に付けたんでしょう? そして、危なくなったから飛んできた。違いますか?」
「お~っほほほほほ。面白いわ。まるでマンガの主人公気取りね。夢見る乙女もたいがいにしないと馬鹿にされますわよ」
「あの……宇宙人っていうのはほんとうですか?」
「は?」
姫華は心底驚いた顔をした。とても演技とは思えない。
「お~ほっほほほ。なんの冗談かしら?」
それ以上振り向くことはなく、長い髪をさっそうとたなびかせながら、姫華は歩き去っていった。
やっぱり宇宙人のはずないよね。もう、まったく馬鹿なこといっちゃった。はずかしい。
顔が熱くなっている。きっと真っ赤になっているだろう。
「いったいなんだったのよ、今のは?」
礼子が教室から足を踏み出していた。今の騒動をじっくり観察していたらしい。まわりをよく見ると、通りすがりの生徒たちも、じろじろと陽子を眺めていた。
「な、なんでもないよ」
陽子はそそくさと教室に潜り込む。
「で、なんなの?」
席に着くなり、礼子が追求してきた。
なんと説明したらいいのだろう? とても上手く説明する自信はない。
「え、ええっと、あの、その、……うう~ぅ」
「うう~ぅ、じゃないわよ。なんであんたが姫華さんと廊下で喧嘩するわけ? あの書記の人はなんの用があったの? 最後の宇宙人っていうのはなに?」
べつに喧嘩していたわけじゃない。むしろお礼をいいたかっただけなのに。それに理恵子さんになんの用があったのかは、こっちが聞きたいくらいだ。
人に聞かれないように、礼子の耳元でささやいた。
「あのさ、姫華さんが宇宙人っていったら信じる?」
「はああぁ~あ?」
信じるわけないよね。
だけどきのう起こったことは、それと同じくらい馬鹿馬鹿しく信じがたいことなのだ。
「もういいよ」
礼子はそっぽを向いた。宇宙人まで持ち出したので腹を立てたらしい。
「怒んないでよ、もう」
そのとき、教室のスピーカーからアナウンスが流れた。
『生徒会長の花鳥院姫華です。突然ですが、きょう放課後全校を上げてのイベントをおこないます。これは全員参加、いっさいの例外は認めません。したがってきょうの部活動はそれが終わるまでは全面禁止。不満のある方もいるでしょうが、これは決定事項です。なおこれは生徒だけでなく教師の方々も参加してもらいます』
教室がざわめいた。今までも姫華が突然思いついたように、はた迷惑なことをはじめることはあったが、全校を巻き込んで、しかも生徒会長と理事長の娘の権限を最大限に使って、ここまで強引なことをするのは初めてだった。
『イベントはミスおよびミスター学園コンテスト。女子は全員、水着着用。それもビキニを着てもらいます』
「おおおおおおおお?」
「ええええええええ?」
教室の生徒の大半が絶叫した。しかも男子と女子では明らかに意味合いが違う。
『さらに男子は全員、赤フン一丁。全員、校庭で踊ってもらいます。審査員はわたくし、花鳥院姫華がつとめさせてもらいます』
「ぐおおおおおおお?」
「きゃああああああ?」
もう一度絶叫。こんどもそれぞれ思惑が違う叫びだ。
「馬鹿じゃないの?」
礼子が隣で忌々しそうに唇を噛む。陽子としてもそんな馬鹿げたイベントははっきりいって参加したくない。
『繰り返します。全員強制参加、例外は許しません。用事がある人は今の内にキャンセルするように。それと水着とふんどしはこちらで用意しますので、心配いりませんわ。もちろん優勝者には賞金を差し上げます。男女とも優勝者、百万円でいかが? お~ほっほっほほほ』
教室は修羅場と化した。
3
放課後になった。外は青空。風も吹いていない。まだ春とはいえ、あたたかいのがさいわいだった。
瓢一郎は校庭にある朝礼台の上にさらに椅子を置いて座っていた。それもまるでどこかの王族が座るかのような豪華な椅子に。
さらに頭には王冠、体には制服の上からマントを羽織っている。もっとも今校庭に出いる者の内、衣服を身にまとっているのは瓢一郎ただひとりだった。もちろん、瓢一郎にはビキニの水着にはなれない理由がある。いくら最新の特殊メイクを使おうと、さすがに男の体を女の体に見せるのは、ビキニでは無理だ。だから審査委員になったともいえる。
肩にはフィオリーナの姿をした姫華がちょこんと乗っている。このイベントの発案者だが、どうも犯人探し以上にイベント自体を楽しんでいる節がある。
瓢一郎の隣には赤フン姿の伊集院が木刀を持ったまま仁王のように立っている。もちろん本人にいわせれば護衛のつもりだ。女のように長い髪と、細身ながら筋肉質な体、それに赤フンの組み合わせは異様な色気を醸し出していた。
反対側には理恵子がビキニ姿でパイプ椅子に座り、その前に置かれた机の上にはノートパソコンが開かれている。こっちは大会のデータ集計係。伊集院とは対照的に、ビキニの女子高生であるにもかかわらず色気はほとんど感じさせない。適度に痩せているのはいいが、貧乳と寸胴体型が原因か?
瓢一郎の目の前には、全校生徒がずらりと並んでいた。男は赤フン、女はビキニ姿で。いや、生徒のみならず教師たちも同じ格好で各クラスの先頭に並んでいた。一応教師も全員参加という建前だが、校長、教頭、その他年配の教師たちは免除した。体型などからいって明らかに犯人ではないし、若い教師と違って、免除しても不自然ではないと思ったからだ。
ビキニと赤フンは昼休みに配った。体のサイズのデータは、全校生徒分、理恵子のパソコンの中に入っているし、それを佐久間に流し、花鳥院家の財力と権力を使って強引に間に合わせた。
それにしても……。
瓢一郎はずらりと並んだ生徒や教師たちを見て、不覚にも吹き出しそうになった。
なにも格好のせいじゃない。むしろ顔つきだった。
顔や体に自信のある生徒はぎらぎらしている。なにしろ優勝賞金百万円だ。必死にもなるだろう。逆に端からあきらめている者は、目が死んでいる。早いところこの馬鹿馬鹿しいお祭りから逃げ出したいといったところか? もちろん中には真っ赤になって男子から体を隠そうとする純情な女生徒もいる。逆に男に体の魅力をアピールしようと必死にフェロモンを醸し出そうとする者も少なくない。男だってたいして変わらなかった。筋肉隆々の体を見せつけようとしている男や、逆に肥満や痩身を恥じている男。まさに十人十色といえる。
「それではルールを説明しますわ」
瓢一郎はおもむろに立ち上がり、生徒たちに向かって声を張り上げる。
「第一回予選。クラス代表選考!」
真剣な顔で聞き耳を立てている者、しらけた顔で聞いている者、さまざまだが、ある種の緊張が漂った。
「まず一年A組から順に前に出て音楽に合わせて踊ってもらいます。持ち時間は一クラス三分。そのクラスが踊っている間、他のクラスには採点をしてもらいます。つまり、顔、体、踊りなどを総合的に判断して、明らかにだめだと思われる人の番号を叫んでもらいます」
全員の胸には出席番号をワッペンにして胸に貼り付けている。それが目印だ。
「わたくしがその声を拾って、適正と判断すれば採用します。わたくしが呼んだ番号の人は失格です。ただしそのあとも審査員として残ってもらいますわ」
そういったあと、意識的に鋭い目つきにし、声を荒げた。
「ただしこのルールでは、ライバルを蹴落とそうとレベルが高い候補者の番号をわざという不届き者も出るでしょう。その場合、その番号を無効とするだけでなく、番号を口にした人を、正常な審査妨害と見なし失格といたしますわ」
一瞬、静寂が訪れる。瓢一郎はすうっと息を吸い込み、叫んだ。
「皆さん、おわかり? 質問は?」
質問する者は誰もいなかった。
「では一年A組、前に出て」
瓢一郎の一声で、A組はぞろぞろと前に出てきた。朝礼台の前には、佐久間が強引に工務店を引っ張ってきて角材とベニアで作らせた、教室くらいの広さで高さ三十センチほどの簡易ステージがある。みな困惑しつつ、そのステージの上に乗る。その中には当然ビキニ姿の陽子も混じっている。紅潮した顔をし、両手で大きな胸を隠しつつもじもじしていた。葉桜も担任としてその中にいた。こっちは相変わらずのほほんとしている。もちろんその肉感的な体を小さな布きれ一枚で隠しながら。
「理恵子、怪しいやつの番号は?」
隣の理恵子に小声でささやく。理恵子はパソコンのモニターを見ながら、男子女子のそれぞれの番号をいった。
もちろんこの馬鹿げたイベントの目的は腹に傷がある者を探すこと。一クラスずつ出席番号を胸にはらせて踊らせるのも、それを能率よくしかもわからないようにチェックするため。だから体型的に怪しいやつは、あらかじめリストアップさせている。
「伊集院、音楽を!」
その一声で、伊集院は「はっ」と叫び、てきぱきと機材を調整すると、ビートのきいたダンスミュージックが大音量で校庭に鳴り響く。
「ほら、なにしてますの? 始まりましたわよ。突っ立てるだけの人は片っ端から失格になるわよ」
そう叫ぶと、みな踊り出した。派手に踊るもの、しぶしぶ踊るものと反応は人それぞれ。
瓢一郎はリストアップされた番号を探す。その作業はあっという間に終わった。この中に腹に傷を持つ者はいない。念のため、他の生徒の腹もチェックしたが、やはり問題なかった。
内心ほっとした。いくら嫌いなやつが多いとはいえ、やはり自分のクラスに殺し屋がいるとは信じたくなかったからだ。
この時点で次のクラスに交代してもよいのだが、それではイベントとして成り立たない。
「ほうら。みなさん、なにをしていらっしゃるの? 失格者を叫ぶ声が聞こえませんことよ。このままじゃ、全員合格になってしまいますけど、よろしいの?」
マイクを使ってみんなを煽った。
しばらくの間、惚けてこの馬鹿げたダンスを見守っていた生徒たちも、全員合格になっていいわけがない。優勝を狙う者はライバルが少しでも少ない方がいいだろうし、嫌々参加している者にすれば、とっとと終わらせて帰りたいはず。
少しでも候補者を減らせ。少なければ少ないほどいい。
そういう思いが爆発したのか、みな一声に叫びだした。
「男子一番」、「女子二十番」、「女子三番」、「男子九番」……。
瓢一郎はその番号を正確に聞き分ける。その番号の中には郷山が混じっていた。五番だ。
「はい。男子五番のデブ、失格うぅ~っ!」
瓢一郎はまっさきに郷山を指さした。
じっさい郷山は筋肉質だが腹が出ていたし、顔にも余分な肉が付いて二枚目とはいい難い。ふんどしをしていると柔道家というよりも、ほとんど相撲取りだ。慣れない踊りに汗びっしょりになっている様は見苦しいことこの上ない。真っ先に敬愛する姫華(その正体は瓢一郎だが)に指さされ、いつものにこやかな顔が、絶望にゆがんでいる。
ざまあみやがれ。
公式の場で、大手を振って郷山にだめ出しできたのが快感だった。
さらに会場の声を拾い、片っ端からだめ出しする。不思議なことに、たいがい瓢一郎に率先して嫌がらせをしたやつらだった。だからびしっと指さし、容赦なく失格宣言をいい渡す。それはちょっとした快感だった。
「ほほほほ、この段階で落ちるのは恥ずかしくってよ」
落ちたやつに罵声を浴びせるのを忘れない。
『ちょっと調子に乗りすぎですわ、瓢一郎。まるでわたくしが傲慢で嫌味な権力者にしか見えませんわ』
姫華がテレパシーで文句をいってきたが、取り合わない。
まるでわたくしが傲慢で嫌味な権力者にしか見えませんわ、だって? 違うとでもいうのか。それは自分を知らなすぎだぜ。
鬼塚を落とす声が聞こえないのが気に入らないが、しょうがない。ボクサーらしく筋肉質でしなやかな体、それにダンサー顔負けに踊っている以上、顔のごついのはカバーされるらしい。瓢一郎の独断で落とすのもまずい。
てめえ、さっさとなんか致命的なミスでも犯しやがれ。妙な色気を振りまきやがって目障りだ。ホモの男でも誘ってやがるのか?
心の中で目一杯毒づいてやった。
陽子はどうか?
精神が荒んできたので、癒しのために陽子を探した。
陽子はあまりダンスが得意ではないらしく、動きはぎこちなかった。頬はこころもちピンクに染まり、「むふ~っ」と小鼻を広げながら必死にステップを踏み、ぎくしゃくと手を振っていた。
それにともなって、例の洗車ブラシのような髪が、頭の後ろでチアリーダーのボンボンのようにふぁさふぁさと弾む。そしてなにより、ビキニからはみ出しそうな丸っこい巨乳が、ゆっさゆさぷるぷる、ゆっさゆさぷ~るぷると揺れる様がいいではないか。
なごむなぁ。
男なら誰しもそう思うだろう。ついさっきまでの殺気めいた心が、ほんわかしてくる。
隣では陽子の友達の礼子が、外人のような青い瞳にしらけた色を浮かべ、いかにも「とっとと終わんないかしら?」といった顔で、クールに踊っている。こっちはあまり胸がない上、必要最低限にしか体を揺すっていないので揺れない。だが妙にかっこうよかった。
さあ~ってと、葉桜はどうかな?
学校ではすっとろそうなふりをしているが、そのじつ中国拳法の達人だ。優雅な踊りは得意そうだが、リズムに乗った踊りはどうか?
葉桜の姿を探すと、演技なのか陽子以上にぎこちなく踊っていやがった。
顔はいつものにっこり笑顔。たしかにあの顔でダンサー顔負けに踊るのは似合わないだろう。ある意味、適度に下手な踊りは妙に可愛らしさを引き出している。
爆乳という点では、陽子も負けていないが、陽子のまんまるおっぱいに対し、葉桜のはミサイルおっぱい。陽子のぷるんぷるんに対抗して、葉桜のはぼよ~ん、ぼよよ~んだ。揺れのサイクルが大きい。しかも布地の面積が少ないのはどう見ても明らかな上、薄い布きれの下では、なにやら尖ったものがしきりに存在を自己主張している。おまけにあの腰のくびれと脚線美はさすがに大人の女の色気。野郎どもの目線はまさに釘付けだ。
もっとも優勝賞金に百万円も掛けてしまった以上、葉桜に優勝してもらわないことには姫華に怒られる。それ以外のやつが勝てば持ち出しになってしまうからだ。ちなみに男子は伊集院が勝つ出来レース。最終決定権は瓢一郎にある以上、どうにでもなる。もちろん伊集院には賞金は返せといってある。
「三分終了。それまで」
伊集院の声が鳴り響いた。場に残っていたのは、女は陽子、葉桜、礼子他ぜんぶで五名。男は鬼塚を含め、三名だった。
陽子はぜいぜい息切れしつつ、全身をほんのり赤く染め、玉のような汗を浮かべているのが妙に色っぽく、そのくせ可愛い。葉桜は汗ひとつかかずににこにこしている。はっきりいって余裕だ。
「では次、一年B組」
A組は引っ込み、代わりにB組がぞろぞろと前に出てくる。そして音楽に合わせ、踊り出した。
4
「それでは女子の決勝をおこないますわ」
姫華の声が高らかと響き渡った。
いったいあたしはなんでこんなところにいるんだろう?
陽子はそう思いつつ、ステージの上に立っている。
胸が大きいのがポイントになっているのかどうかは知らないが、陽子は背も大きくないし、モデルのように痩せているわけでもない。そしてなによりダンスが下手だった。
場違いのような気がした。一緒にステージに残っている女たちは、葉桜をはじめ、みなプロポーションがいいし、洗練されたルックスを持っている。はっきりいって、自分のルックスはミスコンで勝てるようなものではないと思う。なにしろ太い眉にどんぐり眼、小さい鼻、それにウエーブのかかったもじゃもじゃヘア。
ついさっき決まった男子の優勝者である伊集院のような、誰しも認める美形にして華麗な肉体美といったものからは、自分はかけ離れている。
「決勝では男子のとき同様自己アピールをしていただきます。そしてそのさいの観客の皆さんの反応の大きさをわたくしの独断と偏見で判断し、優勝を決めたいと思いますわ」
そう、男子の部でも候補者たちは特技やら夢やらを熱く語っていた。
とくに伊集院は理路整然と自分の理想とする正義を説き、優勝したらその賞金は学園の正義維持のために使うと公言。サクラとも思える親衛隊の応援もあり、大いに盛り上がった。
だが陽子にはそんなものはない。伊集院のように暑苦しいのがいいのか悪いのかはともかく、熱く語るべく夢も理想もなければ、百万円なんてもらってもその使い道が思いつかなかった。
姫華の指名で、三年の後ろの組から候補者たちが語り出す。
医大に進みたいが、金がないから百万円はその足しにしたいとか切実なことをいう者がいると思えば、世界平和が夢ですとか、いかにもうさんくさいことを平気でいう者、あるいは演説などどうでもいいとばかりに、色気を振りまく者など十人十色だ。
だがいうことはともかく、さすがに決勝に残っただけあっていずれも陽子から見ても魅力的な女ばかり。見ている男たちはどんどん盛り上がっていく。
「それでは葉桜先生。ただひとり教師でここに残っていますが、なにか生徒たちとは違うひとことを期待しますわ」
姫華がすこし嫌味っぽい口調でいう。
「やほ~っ、葉桜で~す。みんな盛り上がってる~ぅ?」
葉桜は笑顔で両手を振り、叫んだ。その拍子に少ない布地に覆われた胸がぽよよ~んと揺れた。いっちゃなんだが、教師らしさなんて欠片もない。
「うおおおおおおおおおおおお」
男たちの粗野な声が響き渡る。
「自己ピーアールをしろってことなので、しますねぇ~っ。まず、わたしの特技。ええ~っと、なにかなぁ? まあ、職業柄英語かなっ? まあ、英語はぺらぺらで~っす」
そういうと、なにやら英語で話し始めた。たしかに英語教師だけあって、ネイティブ顔負けの発音である。
会場がさらに沸いた。
「それと夢はね。もちろんわたしの生徒たちが幸せになること。三年生は志望校に受かること。一、二年生は勉強に部活に恋に大活躍してね。それを応援するのがわたしの夢。だからわたしの夢が叶うかどうかはみんなのがんばり次第ね。だからみんながんばるのよぉ~っ」
とびっきりの笑顔で投げキッスをする。ただでさえ一番成熟した体を晒し、美人で明るく、癒し系の笑顔を絶やさない年上の女性がそんなことをするのだから、性欲をもてあまし気味の高校生の男子が冷静でいられるわけがない。会場は野太い声で沸騰する。女子からも「先生がんばってぇ」という声援が飛ぶ始末。
「優勝したら賞金はいったいなにに使いますの?」
姫華が暴走気味の葉桜を自己ピーアールに戻そうとする。
「そうね。きれいごとをいうつもりはないです。わたし自身を磨くために使わせてもらいます。もっちろん見た目だけじゃなくて内面もよ。みんなの憧れの先生になれるようにね」
少し前に、賞金をもらったら思い切りおしゃれに使います、といった三年生はブーイングされたが、葉桜もいっていることにたいして違いはないのに絶賛された。満面の笑顔で両手を挙げ、その賞賛に答えている。
やっぱり先生はすごい。
陽子は素直にそう思った。いい加減なようで、ちゃんと自分の考えを持っているし、お金の大切さだってわかっている。夢が、生徒たちが幸せになることっていうのも、嘘くささを感じさせない。人柄のせいなんだろう。自分にはとても真似ができない。
もうすぐ自分の番だと思うと、それだけで心臓が張り裂けそうだ。
あたしには胸を張っていえる主張なんてない。
きっとみんなに呆れられ、ブーイングの嵐になるに決まっている。
「それでは葉桜先生はこれくらいにして、最後に一年A組、川奈陽子さんに自己ピーアールをしてもらいますわ」
姫華はそういって、陽子を見る。そのまなざしにはなぜか優しさが感じられた。
なんで?
陽子は困惑したが、なぜか落ち着いた。嫌っていたはずの姫華に見守られていると、不思議と勇気が出る。
「あ、あの……、川奈陽子です」
マイクの前に立つと、しどろもどろだが、とりあえず声が出た。少なくともこのまま固まってしまう心配は消えた。
会場からはとりあえずブーイングも聞こえないかわり、歓声も上がらない。静まりかえっている。
「え~っと、こ、こんにちは」
唖然とする観客たち。中にはぷっと吹き出した者もいる。
笑われても、さほど気にならなかった。むしろ黙りこくられた方が緊張する。
「あたしは、他の人たちみたいに、語るべく夢も、目標もないし、取り立てて人よりすごいことなんて、なんにもありません」
また少し笑いが出た。
「人よりすごい胸があるぞぉ~っ!」
野次とともに、会場に爆笑が起こる。陽子は思わず胸を両手で隠すが、頭の中は真っ白。足はがたがた、体中汗びっしょりだ。
「あ、あの、……ええっと、うううぅう~っ、なんで今ここにいるのかもわかりませんよぉ。はううぅ」
「だったら辞退しろ。百万円が欲しいのか~っ? それで彼氏でも探すのかよぉ」
誰かが野次を飛ばした。
しかしその言葉は陽子をはっとさせる。そうか、その使い道があったんだ。
語るべき言葉が見つかって、ようやくパニックが解けた。
「……はい、欲しいです。他の候補者の人の話を聞いている間、あたしはそんなものもらっても、使い道に困ると思ってました。だけど、今は欲しいです。あたし、力が欲しいんです。そのためにはお金だっているんです」
生徒たちがざわめきだした。いったいこいつはなにをいい出すんだといわんばかりに。
「瓢一郎くんを探したいんです」
自然と語気が強くなった。そこまでいうと、勇気が湧いてくる。
「百万円を使ってなにができるかはまだわかりません。だけど、それだけあれば、きっとなにかできると思うんです。たとえば探偵さんを雇うとか。それとも、ガードマンみたいな人を雇うとか。だって、相手は人を殺すことも平気な悪いやつらなんです」
会場はふたたび静まりかえった。瓢一郎が失踪したことも、陽子が謎の男に襲われたことも、とうぜん学園中に知れ渡っている。
「いえ、でももしみんなが協力してくれれば、百万円はいらないと思います。どう使ったらいいかわからないお金よりも、これだけの数の人が協力すれば、なにか進展すると思うんです。きっと犯人は身近にいるはずなんです。だからみんなに協力をお願いします」
凍り付いたようだった会場に変化が起きた。拍手が、歓声が、少しずつわき起こり、波紋のように広がっていく。やがて葉桜のとき以上の騒乱に変わった。
「ありがとう。みんな、ありがとう」
涙が浮かんできた。みんな本当は学園の仲間が事件に巻き込まれ、行方不明になっていたことを気に病んでいたのだ。
ついには会場から陽子コールが飛び交う。陽子はぺこぺこと大げさにお辞儀をした。
「はい、それまで。みなさん、お静かに」
高らかと響き渡った姫華の声が、興奮した全校生徒を収める。
「それでは皆さんの反応を考慮して、ミス学園はこのわたくしが独断と偏見で選ばせていただきます」
会場は静まりかえる。陽子の胸はもう高鳴らなかった。いいたいことをぜんぶいってしまったし、べつに優勝なんかしなくても、みんなが協力してくれるならそれでいい。
「優勝者は葉桜千夏先生」
姫華のコールとともに、葉桜が両手を挙げて、飛び跳ねる。
会場の反応は微妙だった。拍手は起こるが、なにか盛り上がらない。ついにはブーイングまで起こった。
「優勝は陽子だ」
そんな叫び声が聞こえた。みんながあたしを応援してくれている。あの学園の女王、姫華にさからってまで。
そう思うと、陽子は胸が熱くなる。
「お黙りなさい!」
しかし姫華は微動だにせず、会場に向かって一喝する。
「あなたたちは、一年生の女子に失踪した生徒の捜索の重圧を追わせる気なのですか?」
会場はふたたび静まりかえる。
「ただでさえ、彼女は危険にさらされているのですよ。その役目は、わたくしたち生徒会執行部が受け持ちます。もちろん、必要ならばお金だって糸目を付けません。学園理事長の娘として、皆さんに命令しますわ。今起きている事件のことで知っていることがあれば、隠さずにわたくしに打ち明けなさい。この学園を守ることは、皆さんひとりひとりの義務なのですから」
わあっと、会場は熱く沸騰する。完全に主役を奪われた形になった葉桜はちょっとだけぶーたれていた。
姫華がこっそり、陽子に耳打ちした。
「ありがとう」
そのあと知らんぷりして、葉桜の元へ行き、メダルを首に掛ける。そして彼女の手を取って万歳した。
ありがとうって、どういう意味?
この人と瓢一郎は憎み合っていると思ったけど、じつは深いつながりがあるのではないのだろうか?
陽子は姫華に複雑な感情を抱いた。嫉妬とも憎しみともいえそうだが、逆に深い友情のような気もする。もはやかつてのように、単純にいやな女とは思えない。誰かにそれは愛だといわれれば、そうかもしれないと納得してしまいそうだ。
こうして突然おこなわれたイベントは幕を閉じた。
*
校庭ではけっこうイベントのままの恰好で残って盛り上がってる連中も少なくなかった。
陽子はいつまでも水着姿でいるのは恥ずかしかったので、当然着替えたが、迎えの車がまだ来ていなかったので、校門の近くから「わいわい、きゃあきゃあ」いっている生徒たちをなにげなく見ていた。
ふと、校門から外を見てみると、ふたりの男が中の様子をうかがっていた。スーツを着たちょっとイケてる若者と、タンクトップを着たプロレスラーのような体格のいかつい男。
水着と赤フン姿でじゃれている生徒たちを見ているのかと思ったが、スーツの男と目があったとき、ぞくっと寒気がした。
酷薄な笑みを陽子に向けたのだ。
ま、まさか、この人が犯人?
そういえば、その男は背もあまり高くなく、機械のように冷たい目をしていた。あの覆面の男であってもおかしくはない。
その男たちは、陽子が動揺して一瞬目を離した隙に消えていた。
5
「でも変よねえ。犯人は学校の中にはいないってことかしら?」
葉桜が不満げな顔でいう。例によって花鳥院家の地下の会議室で変態博士や頑固じじいとともに、きょうの反省会をしているところだ。
「ほんとおかしいですわね」
猫の姿で腕組みをしながら椅子の上に立ちつつ、姫華がいう。もうフィオリーナの顔には人間の表情が様になりつつある。もちろんその表情は姫華のそれだ。
たしかにおかしい。
瓢一郎も思った。きょう、全校生徒の体をしげしげと観察したが、刺し傷らしきものがあったのはひとりもいない。
「欠席者。あるいはイベントをサボって逃げたやつは?」
佐久間が聞いた。
「サボったやつはいないらしい。伊集院の配下がチェックしたから間違いないと思う。それにきょうはじめから休んだやつは何人かいるけど、理恵子にリストをあげさせて見たところ、犯人じゃあり得ないようなやつらばかりだ」
あらかじめ体型的に怪しいやつの番号は理恵子から教えてもらっていたから、そいつのクラスが踊っている間は、しっかりチェックしているから見逃しはしないはず。
「ひ~っひっひっひっひ。つまり、手間を掛けただけで、なにもわからなかったってことだ」
「お黙り。おまえはさっさとわたくしの体を治すことだけ考えていればいいの」
笑うマッドサイエンティストに対し、猫がなんかほざいている。
「でもまあ、犯人が外部の人間だっていうことがわかっただけでもいいじゃないですか?」
葉桜がのんきに笑う。
「いや、ちっともよくないぞ。外部の人間なら探しようがない。犯人が俺を襲えば捕まえるチャンスもあるけど、ほとぼりが冷めるまで動かないかもしれないし」
「むう、たしかにそうだな。まさか姫華様を殺すために、この警戒厳重な屋敷に忍び込んで来るとも思えんし、学校は学校でやりにくくなったろう」
佐久間が眉をしかめる。姫華復活は四谷に任せるしかない以上、もうひとつの重要な仕事の犯人探しが暗礁に乗り上げ、さすがにまいっているようだ。葉桜は相変わらずへらへらしているが。
「なにか探す方法はないのか、瓢一郎?」
なぜ俺に聞く? はっきりいってこの中で一番頭の悪いのはたぶん俺だ。
瓢一郎はそう突っ込みたかったが、あえて口に出さず、かわりに考えた。ない頭を振り絞って。
「犯人はどうして陽子を襲ったのかしら?」
猫が生意気な口を叩く。どうしてだって? それはもちろん……、え? なぜだ?
「それはまあ、やっぱり陽子さんはなにかを見たんでしょうねぇ」
「見たってなにを? 陽子はそんなこと誰にもいっちゃいないぞ。っていうか、いっちゃったんなら今さら口封じしたって遅いだろ?」
そこまでいって、思い出した。教室で陽子が礼子に、なにか見たような気がするけど思い出せないとかなんとかいっていたことを。
「きっとなにか重要なこと、たとえば犯人を特定できるなにかを見たのよ。だけど、陽子さんはそれを意識していない。だから、犯人はそれを公言される前に口封じしようとしたんじゃないかしら?」
葉桜がへらへら笑いながら、めずらしくまともなことをいう。
「わたくしもそう思いますわ。でもそれじゃあ、きっとまた陽子は襲われるはず。そのときこそが勝負じゃなくって?」
「だけどさすがにもう学校じゃ襲われないだろう? それに車で送り迎えが付くようになったし……」
そこまでいって気がついた。つまり、襲われるとしたら家。それもおそらく夜。
「陽子が危ないじゃないか?」
ここでこんなことをやってる場合じゃないだろう?
「あら、伊集院に命じて、交代で誰かを付けてるんじゃなくて?」
そうだ。たしかにそういう命令を出した。しかしそれはそこまで考えていたわけじゃない。たんに気休めでいったに過ぎない。伊集院にしたところでどこまで本気で考えているかわからないし、命令されて見張っている下っ端はなおさらだ。
「俺が直接行く」
瓢一郎はそう宣言すると、鬘を投げ捨てた。
「どうして鬘を取るの?」
葉桜が不思議そうな顔をする。
「べつに俺に戻ったっていいだろう? 学校の外だ。この格好じゃ動きにくいんだよ」
「だめよ。きっと警察も陽子さんの家のまわりを張ってるわ。瓢一郎君の格好になって見つかれば面倒起こすわよ。だいいち陽子さんに見られたらなんていいわけするつもり?」
瓢一郎は葉桜に反論できなかった。
けっきょくこの格好でいくしかないのか?
まあ仕方がなかった。今はそんなことでいい争っている場合でもない。仕方なく鬘を拾って被る。
「ひ~ひっひっひひ。まあ、行くんならこれを着ていくがいい」
四谷が黒いウエットスーツのようなものを取り出す。
「相手は物騒なんだろう? こいつは刃物を通さず、衝撃もかなり吸収する。しかも軽くて動きやすい。私の自信作だ。しかも姫華様のボディサイズに合わせて作ってある」
なんにしろありがたかった。もっともそれを着るには、必然的に胸パットやらコルセットやら脚を絞めてける特性ストッキングやらを外せないことを意味したが。
「ついでにこの革ジャンは防弾仕様だ」
四谷はさらに特殊仕様らしい黒い革ジャンを差し出した。
瓢一郎はすばやく制服を脱ぐと、ウエットスーツに似た全身スーツを身につける。その上に革ジャンを羽織った。
気づくと葉桜もいつの間にやら下着姿になっている。爆乳をぷるんぷるんさせながら。
「な、なにを?」
「あら、君ひとりじゃ心許ないでしょう? あたしも行くのよ」
葉桜用のスーツもあるらしい。脚を通しながら同じ格好になっていく。
まあたしかに戦力にはなる。不意をつかれたとはいえ、ほとんど無抵抗で誘拐された身としては、腕は認めざるを得ない。
「じゃあ、佐久間、陽子の家の側まで車を出して」
姫華が瓢一郎の肩に飛び乗りつつ、佐久間に命令する。
「姫華様もご一緒に行くので?」
「当たり前ですわ。わたくしをこんな体にした張本人が現れるかもしれないんですもの」 佐久間はなにかいいたげだったが、諦めたようだ。もっとも猫の体でいる限り、危険はないはずだが。
瓢一郎たちは地下室から車庫に向かった。
6
「それにしても物騒よねぇ」
ダイニング兼用のリビングで夕食のすき焼きを囲みながら、陽子の母親が心配そうな顔をする。
「だいじょうぶですよ、おばさま。生徒会の人たちがしばらくの間、夜通しこのマンションを見張ってくれるみたいですし、わたしも犯人が捕まるまで一緒にいますから」
礼子が笑顔でいった。
「ほんと助かるわぁ。ウチは主人がいつも夜遅いし、今度みたいなことがあると、おちおち寝てもいられないもの。いったいその犯人はどうして陽子を襲うのかしら?」
母はため息をつきながら、食卓の中央に置かれた鍋からすき焼きの具をひょいひょいと取る。
なんにしても陽子にとってもありがたかった。なんだかんだ強がっても、あの機械のような冷たい目をした覆面の男につけ狙われていると思うと生きた心地がしない。交代で寝ずの番をしてくれるという姫華の配下の人には申し訳ないが、それだけでもずいぶん心強い。それに礼子がしばらく家に泊まるといってくれた。夜中でも隣に礼子がいてくれると思うと安心だ。
「まあ、その生徒会長の姫華さんって人にはお礼をいわなくっちゃね。なにしろ学校までの送り迎えまで手配してくれるっていうんですから」
自分の手間が減ったことが単純に嬉しいのか、母親はにこにこ顔になっていた。
「逆に警察の方はなにをやってんのかしら?」
さらには肉を頬張りながら国家権力にたいして怒りをを表明する。
「きっと警察も張り込んでると思いますよ」
「あら、そうなの? じゃあ、とっとと逮捕して欲しいわ」
「もう、お母さんったら。犯人はなんの証拠も残してないし、顔だって見られてないのよ。そう簡単には捕まらないわ」
母親の子供のようにストレートな表情を見ていると、ついそんなことをいってしまう。
「ごちそうさま」
せっかくのすき焼きもあまり食欲がなくてたくさん食べられない。陽子が箸を置くと、礼子も終わらせ、食器を片付けはじめた。
「あらあら、礼子ちゃん、そんなことしなくていいのよ。ほら、陽子だってどんと構えてるでしょう」
「いえ、ごちそうになったんですから、これくらい……」
「なにいってんのよ。わざわざ陽子のために一緒に泊まってくれるひとにそんな気遣いさせられませんよ」
「そ、そうよ、いいのよ、礼子」
そんなことまでされては陽子の立場がない。礼子の食器を奪うと、台所まで持って行った。これでどうせあとから「どうしてあんたは礼子ちゃんのようにしっかりしてないの?」という小言に結びつくに決まっている。
「おばさま。たぶん外の廊下のあたりに、陽子の護衛を命令された生徒がいると思います。すき焼き残ってるし、呼んであげたらどうですか?」
「あらあら、そうなの? 大変。それは呼んであげなくっちゃ」
母はぱたぱたと玄関に向かい、ドアを開けるや「護衛の方、お食事どうですか?」と叫んだ。
「いやあ、申し訳ないです。じつは腹減っちゃって」
そういいながら、やってきたのは、なんと郷山。つづいて鬼塚も無言で上がる。
はっきりいって、ことさら瓢一郎に対して攻撃的だったこのふたりは大嫌いだった。自分の身を守るために来てくれたのに申し訳ないが、一緒のテーブルを囲みたくない。
「部屋へ行こう」
礼子を引っ張って、奥にある自分の部屋に引きこもった。どうせあれ以上居間にいても、うんざりするほど話を聞かされる羽目になる。
とりあえず部屋は片付いていた。床のカーペットに服や雑誌が散乱していることもない。今はジーンズに薄手のトレーナーとラフな格好をしているが、さっきまで着ていた制服のブレザーは壁にハンガーできれいに吊されている。雑誌や本はちゃんと本棚に整理され、見られて困るような本もない。ベッドはひとつしかないが、べつに礼子なら一緒に寝ても構わない。
「ふ~ん、もっと散らかってるかと思った」
礼子は辛辣なことをいう。
そのまま部屋の奥に行き、ベランダに面したガラス戸を開けて外に出た。
「刑事が張ってるよ」
陽子が礼子にならって外を見下ろすと、例のふたり組の刑事が車で張り込んでいるのが見えた。マンションの前の通りで、入り口から少し離れた場所だ。
「やっぱり警察もあたしが狙われると思ってるのかな?」
「たぶんね。それとも案外陽子を怪しいと思ってるのかもよ」
「冗談じゃないよ」
たぶん姫華のお屋敷にも誰かが張り付いているのだろう。きっと警察も物証がないから犯人を現行犯で捕まえるしか手がないのだ。
「ベランダとはいえ、あんまり外に顔を出さない方がいいよ。犯人は壁をよじ登ってくるかもしれないんだから」
礼子はそういって、陽子を中に押し込むと、自分も中に入りサッシに鍵を掛けた。
「まさか」
陽子は笑った。この部屋は五階にある。そう簡単には登れないし、もしそんなことをすれば外から見張っている刑事に丸見えになる。
「狙撃されることだってあるんだからね」
礼子は真顔でいったが、いくらなんでもそれはないだろうと思う。犯人は今までそんな手口は使っていない。それにそんなことを心配しだせば、学校にいる間だってけっして安全じゃない。
とはいうものの、顔がこわばってくるのが自覚できた。
そうでなくてもきょう学校の外から怪しいふたりが中をのぞいているのを見たばかりなのだ。もっとも彼らが事件の関係者と決めつけるには、なんの根拠もないので、まだ誰にもいっていなかった。
「じつはきょうの帰り、怪しい男ふたり組が、学校の外にいたのを見たんだ」
礼子にだけはいっておこうと思った。
「怪しいふたり組?」
「かっこいい若い男とプロレスラーみたいな大男」
「なんですって?」
礼子の顔つきが変わった。
「そいつらなにかしたの?」
「ううん。なんにも。だから気にしすぎなのかもしれないけど」
「そうかもしれないけど、注意するにこしたことはないわ」
礼子が心配そうにいった。
あの男が犯人かどうか、正直いってよくわからないが、誰が犯人にせよ、いったいなにが目的なんだろう?
「ねえ、礼子。犯人はどうしてあたしを襲ったんだと思う?」
「自分でいってたじゃない。なにかを見たって。だけど思い出せない。犯人にしてみれば黙らせたいんじゃないの?」
「つまり、犯人はあたしがなにかを見たって知ってるってことだよね。だけど、どうして? どうして犯人はあたしがなにかを見たって知ってるわけ?」
「それは……、陽子が教室で不用意にそんなことをいうからよ」
「でも聞いていたとしても、それはクラスメイトだけでしょう。クラスメイトには犯人なんかいないよ。だって犯人はお腹に傷を負ったんだよ。きょうのミスコンでみんなお腹を出してたけど、だれも怪我してる人なんかいなかったし……」
そこまでいって、陽子ははじめて、きょうのミスコンは姫華が犯人探しのためにおこなったものだと気づいた。
「ひょっとしたら教室が盗聴されてるのかもね」
盗聴? 礼子はこともなげにいったが、それは充分に考えられた。犯人の狙いはよくわからないけど、かなり大げさなことになっているのかもしれない。
「ねえ、いったいなにを見たの、陽子? 本当に思い出せないの?」
「よくわかんないのよ、いくら考えても。ひょっとしたらそう思ってるだけで、気のせいなのかもしれないし」
「じゃあ、なにかを拾ったとか?」
「それはないよ。いくらなんでもそんなことを忘れるわけないし」
「ほんとうに? たとえばすごく小さなものとか」
大きくても小さくても、現場から持ち去ったものなどない。
「じゃあ、ひょっとして体になにかが付いたとか」
「え? どういう意味?」
「犯人がなにかを落として、それが陽子の体に付着したとすればどう? 犯人はどうしてもそれを回収しないといけないのよ」
なんとなく説得力のある仮説だった。体に付いたものならあれから一週間以上たっているし残っているはずもない。だけど制服に付いていたとしたら?
陽子は壁に吊っているブレザーを調べた。
ひょっとして血痕とかだろうか? しかしそれらしき染みはない。髪の毛とかだとさすがにもう付いていないだろう。それに犯人は頭を覆面ですっぽり覆っていたから、髪の毛が落ちることはないと思う。
「ポケットの中は?」
ポケットの中。たしかにごく小さなものなら、なにかの拍子に犯人が落としたものが入り込むことだってないとはいえない。もっとも一週間気づかなかったわけだから、あるとしても本当に小さなもののはず。
陽子はポケットの中を探る。ティッシュやらハンカチなどが入っていた。
「あれ?」
それらを取り出すと、奥の方になにか小さなものが入っていることに気づいた。
ごく小さな平べったいもの。全体の形は円で、柔らかいものだ。
「なんだろう?」
取り出してみると、それは指先でつまむのがやっとの大きさのものだった。透明だが中央にリング状の焦げ茶色の色素が入っている。
「コンタクトレンズ?」
それは紛れもなくコンタクト。それも通常の瞳の色が入ったカラーコンタクトだった。
7
「ここで止めてくれ」
瓢一郎は後部座席から、運転していた佐久間にいった。
ここは陽子のマンションの玄関口前の小さな通りで、マンションの全貌が見渡せる。ベランダはこちら側に並んでいる。各部屋の玄関は反対側にあり、ここからは見えない。八階建ての少し古いマンションで、外装のタイルもくすんだ感じに思える。もっとも夜だからそう見えただけかもしれないが。
道路を挟んだ向こう側は、民家が並んでいる。いずれも平屋、または二階建ての普通の民家でとくに変わったところもない。
エントランスホールの前まで行かなかったのは、前方に止まっている黒のセダンの中に吉田と五味両刑事の姿が見えたからだ。張り込んでいるらしい。これ以上近づくと怪しまれるのは間違いない。
きょうは目立たないようにリンカーンではなくワンボックスカーに乗っている。姫華の家には車だけでも十台近くあるらしい。
「どうするの、瓢一郎くん?」
隣の葉桜がいう。
瓢一郎はスマホを取り出すと、伊集院の番号を呼び出し、コールした。
「伊集院? 姫華です。陽子のマンションは誰が張ってますの? 連絡を取りたいのですが」
『今の時間は郷山と鬼塚がいるはずですが、なにか?』
「彼らはどの辺にいますの? 具体的にはどういう指示をしたのですか?」
『なにか問題でもありますか?』
「いえ、そういうわけではありませんが、細かい状況を知っておきたいのです。いやな予感がするものですから」
『報告ではマンションの正面には警察が張り込みをしているので、彼らは中に入って五階の共用廊下のどこかにいるはずですが』
「つまり、陽子の家の玄関ドアを外から見張れる場所っていうことですわね?」
『そうなります』
「わかりました。念のため、警戒するように彼らにいっておいてください」
『ちょっと待ってください。今のはたんに確認の電話ですよね? まさかとは思いますが、ご自身で現場に行くつもりじゃないでしょうね?』
「現場に行く? まさか。もう来てますわ」
なにかいいかけた伊集院を無視して、瓢一郎は電話を切った。
「さあて、玄関を郷山と鬼塚が見張っている。マンション入り口と外に面したベランダは外の刑事ふたり組が見てる。先生、あなたならどうやって襲う?」
「そうねぇ。進入するのはしんどいかしら? 狙撃?」
狙撃だって? 陽子はアメリカ大統領並みの扱いか?
瓢一郎はそう思いつつも、あたりの建物を見回した。近くに狙撃に適した建物があるかどうか知りたかった。
少なくとも建物の正面にはそれらしいものは見あたらない。遠くに高い建物もあるが、そこから狙うにはかなり斜めになるはず。狙撃のプロでも仕事は難しいだろう。
「狙撃は……ちょっと無理ねぇ」
葉桜も同じ考えにたどり着いたようだ。
「宅急便屋かなにかに化けるのが一番簡単かしら?」
それだと刑事たちに姿を見られるし、郷山たちの前を通らなくてはならない。第一、仕事を終えたあとの逃げ場がない。
もっともやつの腕前を考えるに、郷山と鬼塚、あるいは刑事ふたり組など簡単に叩き伏せることができそうだし、それを見込んでいるのかもしれない。それほど過剰な警備はしているはずもないと踏んでいるのだろう。
「考え過ぎじゃないのか? ほんとうにきょう来るのか?」
運転席から佐久間が懐疑的にいう。
たしかに根拠はなかった。きょう襲うとも、マンションを襲うとも限らない。
今夜、ここを襲うというのは、強いていうならば瓢一郎の野生の勘でしかない。
「でもあたしが犯人なら、学校では襲わないわねぇ。ただでさえやりにくいのに、君がきょう、生徒会全力を挙げて犯人と戦うようなことを宣言しちゃったしね」
葉桜は、瓢一郎の顔を見て笑う。
「だとすると、あたしならやっぱり、寝込みを襲うかもね。警察だってそこまで警戒していないんじゃないの? だから手薄。本気で犯人が襲ってくると思えばもっと人数を裂くはずよ」
さすが民間の派遣とはいえ、工作員のいうことはちがう。
「なんにしても、ここを離れた方がいいな。警察が怪しんでる。ゴリラのような男が車から降りて、こっちに来たぞ」
佐久間が後ろを見ずに警告した。
それはまずい。おそらくあのふたりはただでさえ、自分たちになんらかの疑いを持っている。見られたくない。
瓢一郎がそう思ったとき、かすかに上の方から悲鳴が聞こえた。五味も上を向く。
「どっから入りやがった?」
瓢一郎は車のドアにすでに手を掛けている。
「佐久間さん、あんたはここにいてくれ」
素の喋り方で叫ぶや否や、飛び出す。猫の姫華と、葉桜も続く。
マンションの入り口で吉田、五味の刑事コンビと鉢合わせになった。
「なんなんだよ、おまえたちは?」
五味が叫ぶ。
「そんなこといってる場合じゃないでしょう?」
瓢一郎も声高になった。そのまま共用廊下になだれ込み、エレベーターの階数表示を見る。上の方で止まっていた。
「先生。階段だ」
瓢一郎はそう叫ぶと、エレベーターのすぐ近くにあった階段を駆け上がる。続く葉桜と五味。下から吉田の声が響いた。
「五味、先に行け。俺はエレベーターを押さえる」
「くそっ、おまえら犯人の仲間じゃないのか?」
すこし下の方から息を切らした五味の声。瓢一郎は無視した。構っていられない。駆け登るスピードを上げる。というか、折り返しの踊り場を通らず手すりを跳びこえ、最短距離で上がっていった。葉桜は付いてきたが、五味の声は遠ざかるばかり。
あっという間に五階に到着するが、郷山、鬼塚の姿が見えない。
玄関ドアまで走るとドアノブを掴んだ。
開かない。鍵がかかっている。
「陽子。開けてくれ。なにがあった?」
中からはなにも聞こえない。誰かが動く気配すら感じられなかった。
「窓は?」
共用廊下に面している窓にはアルミの格子が嵌っている。簡単には取り外せない。
どうする? どうしたらいい?
途方に暮れる瓢一郎を尻目に、葉桜はポケットから二本の金具を取り出した。小型のピンセットのようなものと、細いドライバーのようなものだ。そのうちピンセットのようなものの先端を鍵穴に突っ込み、固定すると、もう一本の金具を突っ込み、がちゃがちゃとかき回すこと数秒、鍵は開いた。
あんた工作員っていうより、ピッキング専門の泥棒じゃねえのか?
と突っ込む時間も惜しく、瓢一郎はドアを開け、中に駆け込む。
居間には三人が倒れていた。ひとりはおそらく陽子の母親。あとのふたりは郷山と鬼塚だった。
「うわあぁ」
動揺のあまり叫ぶ瓢一郎。対照的に葉桜は次々と三人の脈を取っていった。
「だいじょうぶ、生きてるわ。たぶん睡眠薬で眠らされてるだけ」
いわれてみれば、テーブルの上には食べかけのすき焼き。犯人はこの中に薬を投入したのか?
「うわあああ。なんだこりゃぁあ」
少し遅れて入ってきた五味が叫ぶ。
「陽子は?」
瓢一郎は五味を無視し、個室を探った。
ひとつ目はおそらく夫婦の寝室。そこには誰もいない。
「おい、無造作に開けるな。いきなり撃ってきたらどうするんだ?」
五味が拳銃を構えながらいう。そして自ら隣の部屋を開け、銃口を向けつつ中を覗く。
たぶんここが陽子の部屋だ。見るから女の子らしい部屋だし、壁に制服が掛かっている。
ベランダに面したアルミサッシが開いていた。カーテンが風で揺れている。
「そこから逃げやがった」
瓢一郎はそれを見るなりいった。
「馬鹿いうな。ここは五階だぞ」
それは五味の、いや、一般人の常識。瓢一郎なら同じことができる。
「いや待て。陽子はどこだ?」
犯人は陽子を襲ったあと逃げたんじゃないのか?
「陽子をさらったのか?」
それしか考えられなかった。だがそれは陽子が生きていることを示している。陽子を殺すことが目的ならば、ここに陽子の死体が転がっていなくちゃならない。
「おい、どうなってる?」
遅れて入ってきた吉田が叫ぶ。
「犯人はエレベーターには……」
「乗ってない」
聞くだけ無駄だった。玄関から逃げたんなら玄関ドアに鍵がかかっているわけがない。
「やっぱりベランダから逃げたんだ」
瓢一郎はベランダに乗り出し、外を見る。走り去っていく間抜けな犯人の姿を見ることはできなかった。
葉桜がスマホに向かってなにか叫んでいる。
「佐久間さんに繋がらないわ」
そうだ。佐久間を表に残してきた。
瓢一郎は乗ってきたワンボックスを探す。フロントガラスが蜘蛛の巣状に割れていた。ここからじゃよく見えないが、おそらくは弾痕。
くそっ。やりやがったな。
瓢一郎は壁を叩いた。
「先生。救急車を呼んでくれ。たぶん佐久間の爺さん、撃たれてる」
ここからじゃ容態はわからない。生きていてくれることを祈るだけだ。
とにかくこのままじゃ手がかりゼロ。瓢一郎は居間に走ると、郷山と鬼塚の頭を蹴った。
「起きろ、ぼけなす。なにが起こったか話せ」
よほど強力な薬だったらしく、ふたりは寝息を立て、微動だにしない。
「犯人はどうやって中に入った?」
ベランダから逃げたのはわかったが、どうやって入ったのかはさっぱりわからない。
「俺たちはずっと表を張っていたが、怪しいやつは出入りしていないぞ。少なくとも、表口からはな。それに関係者で中に入ったのはここで寝ているふたりだけだ」
五味がいう。
『伊集院に電話して』
頭の中に声が鳴り響いた。もちろん姫華からのテレパシーだ。
『見知らぬ男が入り込むのは不可能でしょう。つまり、陽子が自ら招き入れたんですわ。それなら郷山たちは見ているはず。伊集院に報告している可能性が高いですわ』
聞き終わる前にスマホを取り出し、伊集院のケータイ番号を呼び出していた。
『言葉遣いに注意して。素に戻ってますわよ』
「伊集院? 姫華です。なにか、郷山たちから報告を受けているんじゃありません?」
『姫華様。なにかあったんですか?』
「陽子がさらわれました。郷山たちから誰か顔見知りが中に入ったかどうか、報告を受けていませんの?」
『なんですって? ……いや、報告は一切受けていません』
怠慢こきやがって。瓢一郎は心の中で郷山と鬼塚に呪詛の言葉を吐き付け、電話を切った。
『つまり、それは陽子が招き入れることが当たり前すぎて、報告の必要がないと思ったってことですわ』
姫華は陽子の部屋で顔をカーペットに擦るよう見ている。
『犯人の遺留品を見つけましたわ』
「なに? 遺留品?」
瓢一郎は姫華のいた場所に走る。そこにはなにか小さなものが落ちていた。
「な、なんだ? 待て、触るな」
瓢一郎がそれを拾おうとすると、吉田が駆け寄る。吉田が手袋をしてそれを拾った。
「カラーコンタクト?」
『しかも通常の瞳の色ですわ。これで犯人がわかったでしょう?』
『どういうことだ?』
『もう、頭がいいとは思ってませんでしたけど、そうとう馬鹿ですわね。水村礼子ですわ。礼子はこれを回収したかったけど、陽子が悲鳴を上げて床に落として、見つからなくなった。わたくしたちが駆け上がってきて探す時間がなくて逃げたんですわ』
礼子だって。そんな馬鹿な。あいつは陽子の親友で、体に傷だってなかった。それに俺は犯人の目を見ている。礼子のように青くなんかなかった。……それでか。それでカラーコンタクトがあるのか。つまり、礼子は姫華を襲ったとき変装用に通常の瞳の色のコンタクトをしていた。それが片方外れたんだ。しかもそれを陽子に拾われた?
『礼子なら陽子が受け入れても誰も怪しまないですわ。陽子は遺留品を拾ったことなんかいっていませんでしたから、おそらくポケットにでも入り込んでいて気づかなかったんでしょうね。それから、礼子の体に傷がなかったのは、たぶん思ったより傷が浅くて、きょう調べられることを予想して、映画で使うような特殊メイクでごまかしておいたんだと思いますわ』
瓢一郎は今いわれたことをそっくりそのまま刑事たちに説明した。ふたりは礼子の目の色のことまで知らなかったらしく、「ほんとか?」と葉桜に確認している。
くそ。犯人がわかったとして、どうやって陽子を探す?
礼子は陽子をどうする気なんだ? さらってどうする? なにかを聞き出すつもりか?
「とにかく捜査本部に連絡して、水村礼子の家に捜査員を送る」
吉田がスマホで連絡を入れたが、おそらく無駄だ。郷山たちが礼子を見てるなら、警察が礼子にたどり着くのは時間の問題。自分の家になどいるわけがない。っていうか、姫華を襲うためにこの学校に入学したんなら、届け出ている住所なんて偽物に決まっている。
陽子はおそらくまだ生きてはいるが、場所を特定できない。ぐずぐずしていると、本当に殺されかねない。
瓢一郎は絶望した。
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