第二章 瓢一郎の姫華、殺し屋と戦う


   1


 朝、リンカーンが校舎の昇降口前に止まり、佐久間が運転席から降りると瓢一郎の座席側のドアを開け、一礼した。瓢一郎は気品溢れる優雅な動きで地面に足を下ろすと、艶光りする黒髪を指でかき上げ、風にたなびかせる。姫華としてはじめての通学だ。

「退院おめでとうございます、姫華様」

 待っていたらしく、瓢一郎の姿を見るなり伊集院が深々と頭を下げる。手には布袋に入れた木刀。この前のことから手放さないつもりなのだろう。

「お帰りなさいませ」

 伊集院に続いて、後ろから頭を下げる者がいる。生徒会書記の佐藤理恵子。それに同じクラスの郷山に鬼塚だった。おなじみの姫華親衛隊の面々。あまり大げさな出迎えはまずいと思ったのか、親衛隊の中でも有象無象の連中は引き連れてはいない。

「出迎えご苦労様」

 瓢一郎は意識して冷たい目のまま、口元だけの笑みを浮かべていった。

「姫華様、その猫は?」

 伊集院は車から姫華の後をつけてくるシャム猫に不審を抱いたようだ。

「わたくしの猫ですわ。フィオリーナといいます。可愛がってあげてください」

「え? でも、姫華様は猫がお嫌いだったのでは……」

 難癖を付けてきたのは、意外にも一番おとなしそうな理恵子だった。

「黙れ、佐藤。そんなことは姫華様の勝手だ。そんなこともわからないのか?」

「す、すみません」

 伊集院の有無をいわせぬ叱責に、理恵子はおどおどと頭を下げた。

「姫華様、お鞄を」

 郷山が一歩前に出て手を差し出した。瓢一郎は無表情のままいう。

「そんな心配してもらわなくても鞄くらいは自分で持ちますわ。そんなことより郷山、質問があります」

「なんでしょう?」

 郷山のえびす顔にかすかな緊張が走った。

「わたくしが襲われた日、鬼塚とふたりで瓢一郎をリンチにしたというのは本当ですか?」 郷山と鬼塚の目を交互に見据える。ふたりとも顔に焦りが出た。

 あれが姫華の命令でないことは、姫華本人から聞いて知っていた。つまり、あれはこのふたりの暴走ということになる。

 口ごもる郷山に代わって、鬼塚が口を開いた。

「申し訳ありません。担任教師を味方に付けていい気になっていたようなので、少し脅しておこうと思いまして」

 もっとも反対に自分たちがやられたのだが、それを報告する気はなさそうだ。

「お黙りなさい。あなたたちが勝手にそんなことをすれば、まるでわたくしが気に入らない者を陰で暴力を使って従わせているように思われてしまいますわ。わたくし気に入らない相手には面と向かってそういいますし、自分で対決します。陰で汚いことをするつもりは一切ございませんの」

 どぼぉお!

 鈍い音を立て、伊集院の木剣が鬼塚のみぞおちに突き刺さる。次にその切っ先は郷山の顎に向かって跳ね上がった。

 苦悶の表情で地面に崩れ落ちるふたりに向かって、伊集院は怒鳴る。

「おまえたち、勝手な判断で姫華様の顔に泥を塗るつもりか?」

『いいんだろ、これで?』

 瓢一郎はテレパシーで姫華に話しかける。

『けっこうですわ。この男たちはたびたびわたくしの威光を使って、好き勝ってやっていたようですから』

「もうよろしいですわ、伊集院」

 倒れたふたりになおも執拗に剣先で攻撃を加える伊集院を制した。

「この際ですからはっきりいっておきます。わたくしの威光を笠に着て好き勝ってやることはもちろん問題外ですが、わたくしの顔色をうかがって、気を利かせようと勝手なことをする必要は一切ありません。わたくし目で人を使っておきながら、『それは彼らが勝手にやったこと』と責任逃れをするような、やくざの親分のようなやり方は大嫌いですの。なにかことを起こすときは、すべてわたくしの責任でおこないますから」

「さすが姫華様、ご立派な考えです」

 伊集院が深々と一礼する。

「伊集院、あなたの責任において、このふたりを含め、すべての親衛隊員を監視しなさい」

「は!」

「では教室に行きます」

 もういうことはいったとばかりにすたすたと下足箱に向かった。姫華がしっぽを立て、しゃなりしゃなりとした歩調で足下までくると、瓢一郎を見上げた。

『いっておきますが、わたくしのイメージを損ねるようなことは一切御法度ですわよ。わたくしはそのための監視に付いていくのですから』

『わかってるって。さっき伊集院にいったこともまずかったか? もっともあの件に関しては俺も譲るつもりはないけど』

『……いいえ。あれでけっこうですわ。わたくし自身、つねづね同じようなことを思ってましたの』

 瓢一郎たちがふたりだけの交信をしている間に、理恵子は姫華の下駄箱にぱたぱたと走ると、上履きを取り出した。

「あれ? 変です。靴が違います」

 瓢一郎の足下に靴をそろえつつも、子供のような顔に怪訝な表情を浮かべていった。

「そんなことありませんわ」

「で、でも……」

「いいのです」

 瓢一郎演ずる姫華の威厳に、理恵子はそれ以上なにもいわなかったが、納得している顔ではない。だが、強引にでも押し通すしかなかった。

 ほんとうは別の靴だ。上履きは皆同じデザインで、姫華といえどそれは変わらない。ただしサイズが微妙に違った。瓢一郎の方がすこしだけ大きかったのだ。だから葉桜がこっそり入れ替えておいたのだが、それを認めるわけにはいかない。

 瓢一郎は強引に上履きに足を入れ、この話題を終わらせようとした。

「姫華様、そのストッキングおしゃれですね」

 理恵子はさらに意表を突いてきた。

「あら、似合わないとでもおっしゃりたいの?」

「いえ、とんでもありません。とってもよくお似合いですよ」

 理恵子は謎めいた微笑を浮かべる。

「でも、あれだけきれいなおみ足なんですから、わざわざ隠すのはもったいないなって思っただけです」

「…………」

『なあ、姫華。こいつって、ひょっとしてめちゃめちゃ鋭い?』

『さ、さあ? たしかに好奇心は人並みはずれて旺盛ですけど?』

 いやな予感がした。このおとなしそうな二年生が、どこまで変に思っているかはわからないが、用心するに越したことはない。

 だが、理恵子の表情は疑っているというより、むしろ嬉しそうだ。目なんかなぜかきらきら輝いている。

「そんなことよりも姫華様、報告しておくことがあります」

 伊集院が、おまえは邪魔だとばかりに理恵子を押しのけ、前に出てきた。

「担任の葉桜のことです」

 伊集院は、気を遣ってか、他の者に聞こえないように耳元でささやいた。

「ご命令の通り、ここ一週間、葉桜を監視しました」

『え? 姫華、おまえそんなことを頼んでいたのか?』

『あ? 完璧に忘れてましたわ、そんなこと』

「姫華様の疑ったとおり、あの女、理事長のスパイでした」

「え?」

「あの女、学校では不審な動きはしておりませんでしたが、夜になると、必ず姫華様のお屋敷に出入りしていたのです。姫華様が知らない以上、あの女は理事長、つまりお父様のスパイであるのは間違いないでしょう」

 う~む。じつは彼女はスパイというより、陰から姫華を守っていた護衛なのだが。

「心配なさらなくとも、私はあなたの味方です。家の思惑など関係ありません。私が尊敬しているのは、花鳥院家ではなく、姫華様個人なのですから」

 伊集院はそういうと、一歩下がった。若干顔が赤らんでいる。

 なんかややこしいことになってきたと思った。しかし伊集院があくまでも味方に付くというならそれに越したことはない。

「あ、それから伊集院。わたくしを襲った犯人のことですけど、もし心当たりがあったら……」

「残念ながらまだ判明してはおりません。しかし、とうぜんやつを見つけるためすでに動いております。警察などにまかせてはおけませんからね」

 伊集院の目がぎらりと光った。そういえばこの男、犯人にはさんざんな目に合わされている。個人的にも恨みがつもっているはず。犯人を見つけるため、力を借りることを頼もうとする前に、すでにやる気満々だ。

「犯人はこの学園の生徒に間違いないと思っています。中には姫華様の力を疎ましく思っている不満分子もいますからね。この伊集院、必ずや見つけ出し、姫華様の前に差し出してご覧にいれます」

「わかりましたわ。その話は放課後にでも。とりあえず、そろそろご自分の教室に向かわれたらいかが?」

 そういい残すと、すたすたと教室に向かう。

「なにをやっている。姫華様のすぐ後ろについて、お守りするのがおまえらの役目だ」

 伊集院の郷山、鬼塚に対する叱責が後ろから鳴り響いた。


   2


「皆さん、おひさしぶりですわ」

 姫華がそういって、教室に入ってくるとクラスメイトたちは口々に叫ぶ。

「全快おめでとうございます」

「大変でしたね。お見舞いに行けなくてごめんなさい」

「姫華さんがいなくてずいぶん寂しかったわ」

 もちろん口から出任せに決まっている。ほんとうはいなくてせいせいしたというのが、大部分の生徒の偽らざる心境だろう。

 もちろん陽子とて、本音を口にするつもりはなかった。だがあまりにも白々しく、ご機嫌取りに向かう生徒たちがいることにちょっといらつく。

 ちなみに陽子の本音は、「死ねばよかったのに」だ。

 姫華は相変わらず高貴かつ豪華なオーラを全身から放っている。つい一週間ほど前に死にかけたことなどなんのその。髪はつやつやでさらさら。動きは優雅かつ大げさで、むしろ入院前よりさらに芝居がかっているようにすら見える。ひょっとしてあのとき脚に擦り傷でも負ったのか、白いストッキングを履いていたが、それも妙に似合っていた。だが彼女のすぐ後をシャム猫が付いてきたのには目を疑った。

「この子はわたくしのペットのフィオリーナですわ」

 いけしゃあしゃあとそんなことをいう。しかしこの学校にペットを持ち込むという暴挙に誰ひとり難色を示す者もいない。

「きゃああ、可愛い」とかいってはしゃぎ出す始末。

 事件の心当たりを聞きたかったが、とてもそんな雰囲気ではない。

 あとでこっそり聞こう。

 そう思っているとホームルームの時間になり、葉桜が教室に入ってきた。皆自分の席に着く。

「まあ、姫華さん、きょうから復帰ね。あまり無理をしないでね」

 葉桜はわざとらしいほどの笑顔を浮かべていう。

「あら、ありがとうございます、先生」

 姫華は高慢な顔で礼をいった。

 葉桜は姫華の足下に猫がいることに気づいているはずなのになにもいわない。あの事件の前、堂々と学園の陰の支配者と渡り合ったのが嘘のようだ。ひょっとしたら、なんらかの圧力があったのかもしれない。

「じつは今朝警察からある事件の犯人の似顔絵を配布されました。もし知っている人がいたなら名乗り出てくださいねぇ」

 そういって、手に持った紙を広げる。さほど大きくはないのでよくは見えないが、女の顔の似顔絵が描かれてあった。

 きっとこの人、瓢一郎君の誘拐に関係あるんだ。

 陽子は直感的にそう思った。きっと誰かが瓢一郎を連れ去った現場を目撃したのにちがいない。

 似顔絵の女はかなりの美人だった。長い髪、整った鼻筋、きりりと閉まった口元、そして美しいが鋭い目つき。

 なんとなくどこかで見たことがあるような気がしないでもない。しかしどうしても思い出せない。

 それにしてもやっぱり警察はちがうな、と思う。

 じつは陽子も瓢一郎の写真を手に、近所の人たちに誘拐を目撃していないか聞いて回ったのだが、まったく成果なしだった。だけど警察はちゃんと目撃者を見つけて、似顔絵まで作ってしまう。

「後ろの掲示板に貼っておくから、あとでじっくり見ておいてね」

「誰だよ、そいつ? 姫華さんを襲ったやつと関係あるのか?」

 鬼塚が聞いた。

「いえ、直接は関係ないそうですよ。姫華さんを襲った犯人は誰も顔を見てませんから」

「じゃあ、怪盗『ねこ』とかいうこの辺を荒らし回っている泥棒か?」

「さあ? あるいはそうかもしれないわねぇ。ちなみにその人、真っ赤なBMに乗ってたそうよ」

 鬼塚は興味をなくしたようだ。他にとくに反応した者もいない。

 陽子は車にはほとんど興味はなかったが、その車が高級車であることは知っていた。生徒にそんな高級外車に乗っている者がいるとは思えないし、学校に止めてある教師たちの車は、よくわからないけど、すくなくとも真っ赤な車はなかった。

「姫華さん、もう具合はいいんでしょう? 刑事さんたち、放課後また来て少し質問をしたいそうです。協力してあげてね」

「かまいませんわ」

 それを聞いて、なんとかその場に潜り込めないかと思ったが、いい方法を考えつかない。

「じゃあ、誰かこれを張っておいてくれる?」

 葉桜と目が合った。彼女は「じゃあ、陽子さんお願いね」と渡すと教室を出て行った。

 陽子は渡された似顔絵をもう一度しげしげと見つめた。

 間近から各パーツを凝視すればするほど、見覚えがあるように思えてくる。

「ねえ、礼子、あんたこの顔知ってる?」

 隣の席にいる礼子の顔に似顔絵を突きつける。礼子は眼鏡の奥から青い目で凝視する。

「どう?」

 熱い期待を持って聞いたが、礼子の顔はいつもの冷静沈着な表情のままだった。案の定、礼子はいう。

「知らない」

「冷たいいい方。そんなにあたしを事件に関わらせたくないの? ああ~あ、けっきょくあたしの記憶だけが頼りね」

「なにか思い出したの?」

「なんか重要なものを見ている気がしてしょうがないのよ。たとえば犯人の顔の特徴とか。でもどうしても思い出せないんだよね。あとちょっとで思い出せそうな気がするのに」

 そういっていると、本当に思い出せそうな気がしてきて、腕を組み、目をつぶった。

「ちょっと。そんなこと大声でいってどうすんのよ? もしこのクラスに犯人がいたらどうする気なの?」

 礼子が耳元でささやく。

 このクラスの中に犯人?

 そんなこと考えたこともなかった。陽子ははげしく動揺した。


   3


「じゃあ、これできょうのホームルームを終わります。掃除当番の人はちゃんと掃除やってから帰ってねぇ」

 六時間目終了後やってきた葉桜は、連絡事項を伝えると、笑顔でいった。

「あ、それから姫華さんはあたしと一緒に来てくれるかな? 刑事さんが待ってます」

 葉桜は瓢一郎に手招きした。瓢一郎はつんと鼻を上に向けつつ、芝居気たっぷりに大げさな動作で葉桜とともに教室を出る。

『なによその嫌味な歩き方? わたくしはそんな歩き方してませんことよ』

 姫華は背中の毛を逆立てながら後を付いてくる。

『誰も変な顔してなかったろ? おまえがいつもこんなふうに歩いているって証拠だ』

『ふん』

「ところで先生。あんな似顔絵が出回ってだいじょうぶなのか?」

 まわりに聞こえないように小声でささやいた。

「あら、ぜんぜん似てないでしょう? 問題ないわよ。っていうかむしろ助かったわ。誰が見たか知らないけど、けっこういい加減なものねえ」

 瓢一郎は必ずしもそうでもないと思った。たしかにあの絵はきつい表情をしているおかげで、いつもにこやかな葉桜とはイメージが一致しない。しかし部分部分を見る限り、それなりに似ているようにも見える。

 なんにしろ、警察はなんだかんだいってけっこう動いているようだ。きっと瓢一郎の写真片手に近所を聞き込みして、目撃者を捜し当てたんだろう。

「そんなことより、あなたはあくまでも姫華さまとして刑事さんの質問に答えるのよ。絶対に間違わないでね。姫華さまが見えなかったはずのものを見たといっちゃだめ。わかってるわよね?」

 もちろん充分にわかっている。そのことはテレパシーで姫華と交信しつつ、授業中にさんざんシミュレーションしたから問題ない。それにいざとなれば姫華からテレパシーで助け船をもらえばいい。

 葉桜は進路相談室の前で立ち止まった。

「ここよ。刑事さんたちが待ってるわ」

 そういうと、がらりとドアを開け、目一杯愛想笑いする。

「お待ちになりました? 花鳥院さんを連れてきました。わたし担任の葉桜といいます」

 おい。いくらあんまり似顔絵が似てないからといって、あんたを探している当の刑事の前に堂々と顔を出していいのか?

 そう突っ込みたいのを我慢し、「なによ、この刑事風情が」とでもいいたげな顔で、椅子に座っていたふたりの刑事を見下ろす。

 若い大男と小柄な爺さんのふたり組だった。

「いやいや、これはご丁寧に。私、警視庁捜査一課の吉田と申します。こっちは同じく五味です」

 ふたりは立ち上がり、吉田と名乗った禿げた老刑事が恐縮そうに挨拶した。

 まあ、吉田というよりヨーダだな。ついでにあっちは五味というよりゴリだ。

 瓢一郎は噴き出しそうになるのを堪えた。

「まあまあ、お掛けください。こちらが花鳥院姫華さんです。まだ未成年ですのでわたしが立ち会ってもよろしいですか?」

「ええ、もちろん。ええと……ところで、その猫は?」

「あ、あら、なんでもありませんのよ。ほほほ。しっし」

『おまえ廊下で待ってろ』

『ふん。なにかあっても助けてあげませんことよ』

 姫華はしっぽを立て、顔をツンとそらして廊下へ出て行った。

 刑事たち、そして葉桜が着席したのを見計らって、瓢一郎は大げさな態度で椅子に腰を下ろすと、脚を組み、挑発するような目つきを刑事たちに向ける。

「それでわたくしになにをお聞きになりたいの?」

「あ、あら、すみません。こういう子ですけど、お気になさらないで」

 葉桜が取り繕うように、ぽかんと瓢一郎を見つめる刑事たちにいう。

「あ、いや、姫華さん。まず犯人に心当たりは?」

 吉田が苦笑しつつ質問を開始した。

「そんなものあるはずがございませんわ。おそらく花鳥院家の財産に関することでしょうけど、そういうことはお父様にお聞きになった方がよくわかると思いますわ」

「犯人の特徴は?」

「覆面を被っていたので顔はわかりませんの。目は無表情で冷たい感じ。体つきは小柄でしたが優れた運動能力がありそうでしたわ。うちの学校の男子制服を着ていました」

「小柄といいましたがどれくらい? 肉付きは?」

「背はわたくしよりも小さいくらいでしたわ。体つきはどちらかといえば華奢で、身軽だったのはそのせいでしょう」

「身軽とか、運動能力に優れているといってますが、それはどうしてそう思うんです?」

「剣道の達人の伊集院が手もなくひねられましたもの。それにクラスメイトの柳瓢一郎が犯人と戦いましたけど、そのときの動きとかとても人間のものとは思えない素早さでしたわ」

 そういいつつ、口に手を当てわざとらしく「ほほほほ」と笑う。

「そうそれ。その瓢一郎くんなんですけど、何者なんですか? あなたそうとう目の敵にしていたようですけど」

「何者? ただのつまらない男ですわ。それに目の敵だなんてとんでもない。少し気に入らないだけのことです。それがまわりの取り巻きたちが勝手に過剰反応してちょっかいを出してしまうのですわ。そうなるともうわたくしにも止められませんの」

「ほう?」

 吉田の目つきが一瞬変わった。権力を持った糞生意気な小娘に反感を持ったらしい。

「で、その瓢一郎くんなんですが、犯人を追ってそのまま行方不明。それに関してはなにか知っていますか?」

「さあ? どうして彼がいきなり現れて、命がけでわたくしを助けようとしたのか、さっぱりわかりませんわ。たぶんわたくしに横恋慕なさっていたのでしょう」

『あら、そうだったんですの?』

 いきなり姫華の思考が乱入した。なぜか言葉が弾んでいる。

『そんなわけねえだろう? こうでもいわないと納得しないだろうが、この刑事』

『ふ~ん。じゃあ、本当の理由は?』

『今はそんなことでおまえと議論するつもりはない。邪魔すんな』

「どうかしましたか?」

「あら、なんでもありませんわ。……それで、彼が勇敢にも犯人を追って、行方不明になってしまったのは非常に残念ですわ。ただしその行方に関しては、わたくしが知っているはずもないでしょう?」

『じつはわたくしのことが好きだったんですのね、おほほほほほ』

『やかましい。おまえこそ俺が好きなんじゃないのか? だからちょっかい出したんだろう?』

『…………』

 なぜそこで絶句する? 俺が好きだなどと思われるのは、絶句するほど屈辱的なことなのか?

『ば、ばっかじゃないんですの? 誰が……あんたなんか……』

「なんです? まるでこっそり他の誰かに指示を仰いでいるように見えますが、まさか、無線かなんかで誰かの話を聞いているわけじゃないでしょうね?」

 よほど姫華の乱入が心を乱したらしい。吉田が不審げに聞いてくる。

「な、なにをおっしゃるんです。そんなものは身につけておりませんわ。ほら」

 瓢一郎はわざとらしく両側の耳を交互に吉田に見せる。

 もっとも吉田の顔つきはますます猜疑心に満ちていく。

「と、とにかく、犯人の心当たりも、柳くんの行動に関してもわたくしはまったくわかりませんの」

「犯人はいきなり発砲したんですか? それとも撃つ前になにか警告した?」

「いきなりでしたわ。そもそも犯人は一言も口をきいていませんもの」

「つまり、最初からあなたを殺すことが目的だったと?」

「そんなことは犯人に聞いてください。わたくしが知るわけもありませんでしょう?」

 声を荒げ、テーブルをどんと叩いた。べつに激高したわけじゃない。姫華ならやりそうだと思ったからだ。それにいい加減、この取り調べがうっとうしくなり、早く終わって欲しいということもある。

「あの……、まだ彼女退院したばかりですし、この辺でどうでしょうか?」

 葉桜がにこにこ笑いながら、刑事たちを牽制する。

「それもそうですな。聞きたいことはだいたい聞きましたし。またあとでなにか聞くこともあるかもしれませんがそのときはよろしく」

 吉田は表面上はおだやかそうだが、明らかになにかを探ろうとする瞳で瓢一郎を見つめた。

 なんだ? なにを疑ってる? まさか、目の前のお嬢様が偽物だと思ってるわけじゃあるまいし。いや、……そうなのか?

「あ、そうそう。もうひとつ質問を。いっしょに襲われた伊集院君ですが、いつからの付き合いでした?」

 え? 一瞬返答につまった。そんな質問は想定してなかったのだ。

 こいつ本気で俺が偽物かどうか疑って、確認しようとしてる?

『小学校一年生のときですわ』

 姫華の助け船を受け、それを口にする。

「ああ、そうでしたね。ではお大事に」

 瓢一郎が立ち上がりかけると、吉田は不意をついた。

「あ、最後にもうひとつだけ。どこの病院に入院してたんですか?」

「ど、どこって、もちろん花鳥院総合病院ですわ」

「あ、なるほどね。まあ、当然ですね、自分の家で経営しているんですから」

 吉田は謎の笑みを浮かべた。

 とりあえず乗り切ったが、吉田の顔つきを見る限り、疑いが晴れたようには思えない。

 病院の医師には佐久間が話を通しているから、たとえ刑事が聞き込みに行ってもうまく話を合わせてくれるはずだが……。それともなにかミスがあって、ばれたのか?

「ではわたくしはこれで失礼させてもらいますわ」

 瓢一郎はすっくと立ち上がると、長い髪をたなびかせ、すたすたと出口に向かった。これ以上この刑事の前にいたくなかった。なにか見透かされそうな気がして。

 ドアを開けると、少し先をぱたぱとと走り去っていく女生徒がいる。

 陽子だった。

『あの子、どういうつもりか立ち聞きしてましたわよ』

 足下で姫華がツンと顔をそらしつつ心に訴えた。

 どうして陽子が? なにかいやな予感がした。

『姫華、陽子を尾けてくれ』

『なにをおっしゃる気? わたくしはそんな下世話なことはいたしませんわ』

『きっと陽子はなにか知っている。いや、見ている。だから、首を突っ込むんだ。ほっとくとなにかが起きそうな予感がするんだ。頼む』

『……ひとつ貸しですわよ』

 姫華は陽子のあとを追った。


   4


「フルーツパフェお待ちどおさま」

 可愛い制服姿のウエイトレスが、オーダーしたパフェを笑顔でテーブルに置いた。

「ありがとう」

 陽子は笑顔で答え、ウエイトレスが去ったあと、スプーンで一口すくって食べる。おいしかったが、すこし憂鬱だった。

「はううぅ、あたしはやっぱり探偵には向いてない」

 ため息をつきながら、ひとり呟く。

 こっそり姫華のあとをつけて、刑事とのやりとりを立ち聞きまでしたのに、目新しい情報は得られなかった。それどころか、いきなり姫華がドアを開けるものだから、ひょっとしたら立ち聞きしていてことがばれたかもしれない。

 いや、きっとばれただろう。逃げ去ったとき、顔は見えなかったはずだが、天然パーマを後ろでふたつに結った、陽子の髪型は珍しい。『洗車ブラシ』というありがたくないあだ名を付けられるくらいだ。気づかれないはずがない。

「ああ~っ、大失敗。走り去らずに、ゆっくりとなにげなく歩いていけばよかったんだよ」

 今さらながらにそう思う。そうすれば偶然そこを通ったように思われたはずなのに。

 姫華に接触するのはやめようと思った。警察に対してさえあの調子なら、本当になにも知らないか、仮に知っていたとしても自分になど話すわけがない。

「このあとどうしたらいいんだろう?」

 ウエイトレスがこっちを振り向き、くすっと笑ったのを見て、ようやく自分が大声でひとりごとをいっていることに気づき、顔が熱くなった。

 と、とにかく、冷静にならなくっちゃ。

 陽子は自分にそういい聞かせ、考える。

 瓢一郎の行方にたどり着くには、あとは自分の記憶と、コピーした誘拐犯の似顔絵に頼るしかない。とはいえ、似顔絵をもとに近所に聞き込みというのは、もう警察の方でとっくにやり始めているだろう。

 さすがに素人探偵活動はもう限界かもしれなかった。こうして喫茶店で、ああでもない、こうでもないと考えることくらいしかできそうにない。

 それならばせめて限界まで考えてみようかと思う。

 まず姫華を襲った犯人は、この学校の生徒なのだろうか?

 ほとんど直感だが、たぶんそうなんだと思う。

 もし生徒が犯人ならかなり範囲を狭められるのではないだろうか?

 なにしろ犯人の顔こそ見ていないが、姿を見ているのだから。

 陽子は目をつぶってあのときの状況を思い出そうとする。

 服装は男子の制服。とくになんの特徴もなく普通に着こなしていた。ただ顔には頭部全体を覆う黒い覆面。目の部分だけがくりぬかれていた。

 背格好は小柄だった。陽子と大差ない。男子ならかなり小さい方になるだろう。とはいえ、それだけで特定することは不可能だ。現に陽子はここ一週間、かなりの数の生徒たちを観察したが、これだという生徒には出会っていない。それに男子の制服を着ていたから男とは限らない。体型は服の下で補正できるだろうし、女子ということもあり得るのだ。その場合、あの背格好ならそれこそいくらでもいそうだ。

 だけどなにか、なにか、犯人を特定できるものをあたしは見た。

 朝、礼子にもいったが、ふたたびその思いが頭をよぎる。だがそれがなんなのかどうしても思い出せない。

 服装や体つきで特定できないのは、今検証したとおり。

 じゃあ、声? いや、犯人はひと言も喋っていない。

 じゃ、じゃあ、いったいなに?

 このとき陽子は、犯人と間近に顔を合わせたことを思い出した。

 片目?

 一瞬そんな考えがひらめいた。

 なにか違うような気がする。片目はつぶっていなかったと思う。ただ、片方の目がなにか変わっていたような変な感覚。

 あたしはいったいなにを見たんだろう?

 両手で頭を左右からぽかぽか殴ってみる。

 もう少しで思い出せそうなのに、思い出せない。きっと恐怖のせいで頭にもやがかかっているのだろう。

 そこまで考えたとき、突然まったく別のことを思い出した。

 猫?

 そう、猫だ。あのとき猫がいた。

 白い体に黒い顔としっぽ。シャム猫だ。

 姫華の連れてきた猫こそが、そうじゃないの? どうして今まで気づかなかったんだろう?

 何気なく窓から外を見た。道路側の壁は腰から上が全面ガラス張りになっていて、向かいには学校が見える。だが道路を挟まないすぐ手前には、信じられないものがいた。

「あ……あわわ」

 シャム猫。姫華の猫がまるで自分を見張るかのように、喫茶店の外壁に身を寄せ、窓ガラスから中を覗き込んでいる。

 なに? な、なんなのこの猫?

 陽子は絶叫しそうになった。

 フルーツパフェはまだ食べかけだったが、とてもここにはこれ以上いられない。さっさと会計を済ませ、店を出る。

 小走りしながら、恐る恐る後ろを振り返ると、少し距離を置いてあの猫はあとをつけてきている。

 パニックになった。猫。姫華。覆面の男。BMの女。これらはいったい瓢一郎にどう関わってくるのか? そしてなぜ自分に……。

 陽子は知らず知らず、大きな通りから小さな路地へ入っていった。一度も入ったことのない知らない道。どんどんまわりから人がいなくなり、不幸なことに行き止まり。完全な袋小路だった。

 三方は高いブロック塀に覆われ、助けを求めるべき民家もない。

 怖くてとても後ろを振り返ることができない。

 なにか自分に害をなそうとするような邪悪な気を感じる。侍や武道家でなくても、そういうものを感じることを、陽子は初めて知った。

 勇気を振り絞って、ゆっくりと後ろを見る。

 シャム猫がいた。それは想定内。想定外だったのは、そのすぐ後ろに男が立っていたことだった。

 男子の制服を着た、黒い覆面の男。そう、姫華を拳銃で撃った男だ。他には誰もいない。

 男は上着の内ポケットに黒い手袋をした手を突っ込むと、拳銃を取り出した。姫華を撃ったサイレンサーが付いたやつだ。

 銃口を静かに陽子に向ける。

 そいつの目は、片眼でもなければ、左右になんの違いもなかった。ただ冷たく、機械のような目。もちろん知っている人間にそんな目をしているものはいない。

 そうだ。こんな目だった。どうしてあたしは変な勘違いをしたんだろう?

 そんなことを考えてしまった。恐怖はさほど感じない。自分がこれから撃たれるということが想像できないのかもしれない。

 だが、男は引き金を引いた。


   5


「十一人、ヒットしました」

 生徒会室でパソコンの前に座っていた理恵子がいった。

「十一人? 案外少ないな。それならアリバイ調べも楽勝ですよ、姫華様」

 伊集院がまかせてくださいとばかりにいう。

 瓢一郎はあのとき自分が見た記憶を頼りに、犯人の身長、体重を概算で出し、それに該当する生徒を探させようとした。伊集院の力を借りれば二、三日でできると思ったのだ。

 だが二、三日どころか、ものの五分で理恵子がはじき出してしまった。なぜか生徒会室のパソコンには全生徒のデータが詰め込まれているらしい。

 それが姫華の命令なのか、伊集院のたくらみなのか、あるいは理恵子の趣味なのかは知らないが、とりあえずそれを詮索するつもりはない。あとで姫華に聞けばいいことだ。

 瓢一郎はパソコンのモニターを見た。

 生徒の顔写真、住所氏名、ケータイ番号、身長、体重ほか体の数値、クラス、入っている部、趣味、家族構成、さらに科目別成績まで、個人情報がてんこ盛りになっている。

「うわっ、こんなのどうやって?」

 どうやって? には触れないつもりだったが、あまりのことについ素でいってしまった。

「住所氏名は生徒名簿を調べれば書いてますし、ケータイ番号は簡単に調べられます。成績や身体情報は、姫華様のお名前を出せば、先生がこっそり教えてくれました。あとはそれをまとめるだけですから簡単です」

 理恵子はまるでCIAのスパイを気取っているかのように胸をはる。

 う~む。侮れない女だ。と思ったが、もちろん顔には出さない。

「そうだったわね。それでどうなのかしら? 一番怪しいやつは?」

 自分を詮索されては堪らないので、理恵子と伊集院の意識をモニターの中の生徒に移す必要があった。

「さあ、それはこれから一緒にデータを見ていただきたいのですが」

 とりあえず最初に表示されているのは見たこともない生徒だった。一年生で歴史研究会所属。成績は文系は得意だが、数学が苦手。体育も同程度の成績で、そもそも目つきがあのとき見た男とはぜんぜん違う。

「次は?」

 そう指示すると、理恵子はマウスを操って次の候補を出す。その調子で、片っ端から十一人のデータを見たが、これというのはひとつもない。

 だいたいどれもかなり背が低いだけあって、運動が苦手のタイプが多いし、見た感じがぜんぜん違う。マスクをしていたので目つきと顔の輪郭しかわからないが、どれもこれもあのときの男とは思えない。実物に会わないと断定はできないが、写真でもある程度はわかる。

「佐藤、とりあえず全員のデータをプリントアウトしろ。剣道部員に手分けしてアリバイを調べさせる」

 伊集院が指示すると、理恵子はすぐにパソコンを操作した。たちまちプリントアウトされる。

 だがその分は無駄に終わるような気がした。今の中にはいそうにない。

「これって卒業生の分もあるのかしら?」

 ダメ元でいってみた。

「ええと、去年の分ならばあります。それ以前はあたしまだ入学してませんでしたから」

 去年の分はあるんかい? と突っ込みたい気もしたが、あるならそれに越したことはない。

「じゃあ、去年の卒業生も調べられるわね。それと必ずしも男子とは限らないですわ。さらしを巻いたり、逆に着込んだりして体型を補正しているかもしれない。女子と職員も同様に調べてくださる?」

「わかりました」

 理恵子はじつに嬉しそうにパソコンのキーを叩きだした。

 外部の人間の犯行ならどうしようもないが、校内の人間が犯人ならこいつの方が警察よりも役に立つかもしれない。

「では姫華様、部員を呼び出して、このデータの男たちのアリバイを調べるように指示しておきましょう」

 伊集院はプリンターから出たデータを取ると、そういった。

『瓢一郎、大変ですわ』

 突然、姫華のテレパシーが頭に響いた。

『覆面の男が現れましたわ。陽子のあとを追ってるんですの』

『なんだって? どこだ?』

 姫華から場所のイメージが送られる。

「伊集院、なにをやっているの? 呼び出すなんて悠長なこといっていないで、おまえ自身が行って、部員に指示してきなさい。グズ。」

 瓢一郎はドアを指さし、叫んだ。伊集院は罵倒されたにもかかわらず、嬉しそうな顔で「はっ」と短く返事をした。

「廊下には護衛を置いておきますのでご安心ください」

 そういい残し、廊下に走った。

 続いて自分も駆け出したかったが、廊下には護衛を置いているといっていた。抜け出せば付いてくるに違いない。校外に出ようとすれば邪魔されるかもしれない。

 窓から出るしかない。理恵子が邪魔だが、そんなことをいっている場合じゃなかった。

「理恵子。これはあなたとわたくしだけの秘密よ」

「はいっ、姫華様」

 理恵子は眼をきらきらさせながら答えた。

 なにを期待しているか知らないが、今は構ってる場合じゃない。窓を開け、足をかけた。

「姫華様、ここは四階……きゃあああ」

 聞いちゃいなかった。窓から飛び出すと、下の植え込みの木の枝につかまり、それをクッションにして勢いを殺し、塀の上にふわりと飛び降りた。さらに道路に向かって跳ぶ。走っている車の屋根から屋根に飛び移り、道路向かいの民家の屋根に飛び乗った。

 理恵子がどう思おうと、もう知ったことじゃない。

 瓢一郎は屋根から屋根へと最短距離を走る。

 間に合え。

 あと少しで着く、というとき、瓢一郎の耳にかすかにくぐもった銃声が聞こえた。


   6


 銃弾は、陽子の頬のすぐ脇を飛んでいった。

 この瞬間、陽子はこの男が自分を殺そうとしていることをはじめて実感した。同時に目の前では信じられないことが起きている。

 あの猫が覆面の男の腕に体当たりしたのだった。狙いがそれたのはそのせいだ。

 拳銃は地面に落ちる。猫はそれを咥えると、すばやく塀の上に飛び乗った。

 男は明らかに動揺した。しかしそれは陽子も変わらない。

 なぜあの猫があたしを助けるの?

 信じられないが、あの猫は明確な意志を持って自分を助けた。

 たまたま結果としてそうなったとかいうレベルのことではない。それどころかこの猫は自分を守るために付いてきたのではないのか?

 まさか? 犬じゃあるまいし。

 犬だったら、それも自分の愛犬だったならそんなことだってあるかもしれない。

 しかし猫が飼い主を守ったなんて話は聞いたことがないし、あの猫にとって自分は飼い主でもなんでもない。

 覆面の男は冷静さを取り戻したらしく、もう猫には目もくれなかった。上着の内側からナイフを取り出す。ぱちんと音を立て、大振りの刃が飛び出した。

「うわっ、わ、わ、わあああああ」

 はじめて悲鳴が口から飛び出した。逃げるにも後ろは行き止まり。かといってナイフを持った男の脇をすり抜けて逃げるなんていう芸当が陽子にできるはずもない。

 男がナイフを振りかざし、襲いかかってきても、陽子は動くことすらままならない。

 もう一度奇跡が起きた。

 塀の上に乗っていた猫が、ふたたび男に飛びかかった。

 なんで?

 男にも理由はわからないだろうが、予期はしていたらしい。ナイフを翻し、飛びかかってきた猫に斬りつけた。

 人間離れしたすさまじいナイフ裁き。しかし、猫は体を空中で素早く捻り、器用にナイフの切っ先をかわすと爪を男の手に突きたてる。だが今度は男もナイフを手放しはしなかった。

 猫が地に足をつけるのとほぼ同時に男はナイフの切っ先で払う。

 猫はそれをさけ、高々とジャンプすると、空中で回転し、ふわりと塀の上に降り立った。

「ちっ」

 男ははじめて口から音を発した。よほど忌々しかったのだろう。もっとも、たんなる舌打ちだったため、声の質はよくわからない。

 男はもう猫に対して油断はしていなかった。猫と陽子に意識を二分しつつ、じりじりと距離を縮めてくる。隙を見せないために、猫も今度は飛びかかってこれないようだ。

 なぜこの男が自分を殺そうとするのか? あるいはなぜ猫が自分を助けようとするのか? さっぱりわからないまま、陽子は立ちつくす。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。……あたし死ぬのぉおおおおおおおお?

 男がふたたびナイフを振りかざし、陽子が死を覚悟したとき、三度目の奇跡が起こった。

 人間が空から降ってきた。

 いや、人間の服、しかも陽子と同じものを着ていたが、それは人間というより野獣に近かった。

 体の動きはしなやかな豹を思わせ、長い髪はライオンのたてがみを連想させる。

 それは落ちながら宙で一回転し、前足で男の手を打ち、ナイフを跳ね上げた。

 そのまま四つ足のまま、ふわりと着地する。回転で舞い上がっていたスカートと流れるような黒髪もふぁさりと元に戻る。

 陽子はそのときはじめて、その舞い降りた美獣が姫華であることに気づいた。

「な、な、な、な、……なんなのよ、いったいぃいいいいい?」

 男も陽子に負けず劣らず動揺したらしく、体全体からとまどいのオーラを出しまくっている。

 野獣と化した姫華はそんな隙を逃さない。獲物を襲う肉食獣そっくりの動きとスピードで、男に飛びかかった。

 男の方も我に返ったらしく、やはり人間離れした跳躍力で真上に跳んでかわす。

 姫華は両手を前足のように地面につくと、逆立ちの要領で体を跳ね上げた。

 スカートはぶわっと花のように開き、そこからロケット弾のような蹴りが飛び出す。

 男は宙に浮いたまま、姫華の蹴りを膝でブロック、着地ざまに逆に姫華の両手を刈り払う。

 しかし姫華は床体操の選手のように、前方に回転しつつ足から降り立つと、そのまま天高く飛び上がった。

 ひゅん。

 するどい風切り音が響く。

 まるでフィギュアスケートの選手のように空中でスピン。

 スカートと髪が舞い広がる。

 長い髪がまるで目つぶしのように男の顔面に被さり、翻弄したとき、縮込めていた腕を広げた。掌を鷹の爪のように開いて。

 男の制服が破け去った。ほんとうの猛獣に襲われたように。

 姫華の指先には、まるで虎の爪のような威力があるらしい。

 男は地面に落ちている自分のナイフに飛びつく。

 拾ってその切っ先を姫華に向けようとしたがすでに姫華はそこにいない。

 風。その動きはまさにつむじ風のようだった。

 姫華は流れるように敵に近づき、手首を蹴った。回し蹴りだった。

 そのせいでナイフはこともあろうか、男の脇腹に突き刺さった。

「ぐ」

 男はほんの一瞬だけ、苦痛の声を漏らしたが、それ以上はひと言も喋らない。形勢不利と判断したか、ナイフを抜かず、腹に刺さったままで逃走する。

「逃がすもんですか」

 姫華は一瞬振り返り、猫に命令した。

「フィオリーナ、陽子を守って」

 さらに陽子にいう。

「今のは夢だと思いなさい。いいですわね?」

 姫華は男を追って陽子の視界から消えた。そのすぐあとに、大小でこぼこコンビの刑事が駆けつける。銃声を聞きつけた住民から通報でもあったのだろう。年配の小さい方の刑事が叫んだ。

「嬢ちゃん、なにがあった?」

 なにがあった? それを説明するのは難しい。というか、とても信じてはもらえないに違いない。

 そもそも陽子自身、今起きたことは夢のできごとのような気がした。

 いきなり犯人に襲われた。ここまでは月並みだ。しかしその先は冗談としか思えない展開になる。

「あ、あの、……ええっと、その、つまりですね」

 陽子は姫華が現れたことをいうことができなかった。

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