ねこねこお嬢様
南野海
第一章 猫になったお嬢様、お嬢様になった瓢一郎
1
びょおおおおお。
このままだと完全に遅刻だ。
瓢一郎は自転車を必死こいてこぎながら焦る。自転車といってもスピードの出るスポーツタイプのものではなく、俗にいうママチャリ。
普段は人並みに電車を使っているが、ママチャリを飛ばしているのは、それじゃ間に合わないからだ。つまりこっちの方が早い。
なにせ線路と違って、近道ができる。
もっとも一般的にいう近道ではなかった。瓢一郎の視界に入るのは、民家。ただし壁ではなく瓦屋根だった。真下に屋根が見えたかと思うと、タイヤを通じて心地よいバウンドを感じ、ハンドルを引き起こしつつペダルをたたき付けるかのように踏むと、ふわっとした感覚とともに青空が見える。次の瞬間には別の家のトタン屋根が少し先に見えた。
早い話が、民家の屋根の上をムササビのごとく飛び回っている。こうすれば家と学校を直線距離で結ぶことができる。信号に捕まる心配もない。
子供のころから猫柳流拳法をたたき込まれたおかげだ。
当時は人生においてなんの役にも立たないことをやらされたと親父を呪った。その最たるもののひとつが、走って屋根の上を飛び移ること。この修行も段階が上がると、自転車で同じことを要求される。身軽さと同時に、脚力と、バランス感覚などを総合的に養う特訓だそうだ。それが本当にそういう意味で役に立つかどうか、今でもわからないが、少なくとも遅刻回数の減少には一役買っている。
『あははは。必死ねえ、瓢一郎。もうあきらめたら?』
瓢一郎の頭にちょっと色っぽい女の声がひびく。
「うるせい。話しかけるな、フィオリーナ」
瓢一郎は後ろに向かって怒鳴る。背中にはシャム猫が張りついていた。
メスのシャム猫のフィオリーナは柳家の家族の一員で、こうしてときどき、瓢一郎の背に乗って、学校周辺に遊びにいく。
どうして猫と話ができるかというと、本人にもよくわからない。できるものは、できるのだからしょうがない。瓢一郎はなぜか物心ついたころから、テレパシーで猫と通じ合えた。もっともそれは猫限定で、人間や、他の動物の心は読めないし、思ったことを伝えることもできない。
『ほらほら、急いで急いで』
フィオリーナは、ころころと笑いながら、からかった。
それでもやはり自転車では限界があった。目の前に校舎が見えたときは、腕時計の針はホームルーム開始の時刻、一分前。さすがにもう間に合わない。
まあ、仕方がない。
瓢一郎はあきらめ、隣家の屋根、学校の塀、自転車置き場の屋根と順番にバウンドしながら着地した。
「きょわあああ」
自転車置き場でうろちょろしていた女生徒が叫んだ。
「ひょ、瓢一郎くん?」
女生徒はただでさえ大きな目をぱっちりと開け、あたふたしつつ驚きの声を上げた。
「陽子?」
それは同じクラスの
陽子の髪はすこしカールのかかった天然パーマのせいでふんわりしている。それを後ろでふたつに束ねているが、口の悪い女の子にいわせると、洗車ブラシだそうだ。眉は太く、目はいつもびっくりしたように見開いているが、その瞳はいつもきらきらと輝いている印象がある。さらにツンと尖った小さな鼻、さくらんぼのような唇と、ある意味個性的ながら非常に愛らしい顔立ちだ。
制服もよく似合っている。瓢一郎の学校、
そんな彼女が、驚きとはにかみのミックスした表情を浮かべつつ、頬を少しだけ赤らめて見つめるものだから、瓢一郎はどぎまぎしてしまった。
「え、え、あれ? 瓢一郎くん、……ど、どこから、来たの?」
陽子は、まるで照れ隠しでもするかのように、きょろきょろとあたりを見回した。
「え? どこからって……」
自転車置き場の奥は行き止まり。瓢一郎は、陽子と奥の塀の間から突然現れた。まさか空から振ってきたとは思うはずもないし、疑問に思うのはもっともだった。
瓢一郎が口ごもっていると、陽子はにっこり笑っていった。
「ううん。なんでもない。そんなことより、早くいこう。遅刻しちゃうよ」
いや、すでに遅刻だ。
そう思ったが、陽子はなにが嬉しいのか、スキップしながら洗車ブラシのような髪をぱたぱたと揺らしながら、校舎に向かう。
「ねぇ、ほんとに遅刻するよぉ」
呆然とその姿を見送る瓢一郎に、陽子は振り返って輝くような笑顔を見せた。
「あ、……ああ」
彼女はどうも時計を見ていないか、あるいは単純に時計が遅れている。
「もう、時間過ぎてるけど……」
瓢一郎は陽子に並ぶと、ぼそっといった。
「え? ああぁ、ほんとだ! だから校庭に誰もいなかったんだ」
陽子は腕時計を見ると叫んだ。単純に時計を見ていなかったらしい。
「えへへ、まっ、いいか」
そういって、ぺろっと舌を出す。よほどのんきな性格なんだろな、と思った。
まだ瓢一郎たちがこの学校に入学してから何日もたっていないが、そういえば陽子は遅刻が多い。
「あきらめるなよ。俺が正面から入って注目を集めるから、その隙に後ろからこそっと入ればいいさ」
「え? だ、だめだよ、そんなこと。悪いよ」
陽子は手を顔の前でぶんぶんふった。
「かまわないさ。どうせ、俺はみんなから目の敵にされてんだし」
それはほんとのことだった。原因は同じクラスの
姫華はこの学園のオーナーの娘で、同級生はおろか、上級生や教師ですら逆らえない。オーナーがバックに付いている上、親衛隊のようなものが守っているからほとんど無敵の存在だ。だから一年にして入学早々生徒会長になった。選挙もやっていないのに。
そんなわけで、彼女に睨まれれば、この学園内で未来がないといわれるのだが、瓢一郎はなぜか睨まれてしまった。
「き、気のせいだよ。誰も、瓢一郎くんを目の敵になんかしてないって」
陽子は少し顔を曇らせていった。
だがそんなことはない。クラスの誰もが、姫華に遠慮して瓢一郎には冷たかった。例外はこの陽子くらいだった。
瓢一郎たちは昇降口で上履きに履き替えると、教室に向かう。
「とにかく俺は前から入るから。陽子はうまくやれよ」
「で、でもさ、悪いよ、やっぱり」
「気にするな。貸しにしといてくれ」
「……うん、わかった。ありがとう」
陽子はちょっと潤んだ、熱っぽい目で見つめる。
こんなことをいいだしたのも、姫華の圧力に負けないで普通に接してくれる陽子に対するせめてもの感謝の気持ちだった。いや、それでは正直とはいえない。はっきりいって陽子の気を引こうという下心はありありだった。瓢一郎は、自分に対して悪意を示さない無邪気ながら正義感の強い陽子に、惹かれていることを否定できない。
だからそんな目で見つめられると、胸が高鳴るのだった。
自分たちのクラスである一年A組にたどり着くと、廊下から中の様子をうかがう。
担任の
瓢一郎は手で陽子に合図し、後ろに行くよう指示した。陽子はそれを見て、ぱたぱたと小走りしながら後ろのドアのところへ行く。
瓢一郎は思いきり前のドアを開けると、叫んだ。
「すいません、葉桜先生。遅れちゃいました」
さらに一歩前に出ると派手に転んで見せた。
「あらあら。困った子ねぇ」
葉桜が呆れたような顔でいう。同時に教室から派手な笑いがわき起こった。
「まっ、いいわ。さっさと席に着きなさい」
葉桜は大きな目をにっこりへの字にし、優しそうな唇に笑みを浮かべていった。
もともとこの先生は穏やかで優しいことで有名だ。さらにまだ若い美女で、柔らかいロングヘアが似合うプロポーション抜群の先生だから男子生徒たちには絶大な人気がある。
「ほら、立つのよ」
葉桜は倒れている瓢一郎に手をさしのべる。とたんに男たちのブーイングが始まった。
まあ、それも無理はないだろう。現に今も目の前にある、白いブラウスを中からぼんと押し上げるバストは凶器のように尖っているし、タイトミニからはみ出すパンストを履いたおみ足のカーブのエロさはたとえるものがない。思春期の男どもがその光景を見て、俺も遅刻すりゃ良かった、と思うのは当然なのだ。
瓢一郎は手を引かれて立ち上がりつつ、ちらっと席の後ろの方を見た。陽子がこっそり自分の席に着いたが、誰も気にしているようには見えない。
安心して自分の席に戻ろうとすると、いきなり立ち上がったやつがいた。
「先生、それは甘いんではなくて? もっと徹底的に責任を追及すべきですわ」
そんな高慢ちきな意見をいうやつは、もちろんこの学園の陰の支配者、花鳥院姫華だ。
ひとり立ち上がった姫華のプロポーションは、葉桜に引けを取らない。互いに腰まで届く髪は、葉桜のがふんわり柔らか系の栗色の髪であるのに対し、姫華のは艶光りする黒髪で、春の小川のようなさらさら系。憎らしいが、風でも吹いた日には、きれいに波打って流れ、間違いなく男を虜にし、女を嫉妬させるだろう。
さらに切れ長の瞳に、高く通った鼻筋、きりりとした唇はまさに王女様のようだ。
もっとも、じつはその顔立ちは瓢一郎に似ている。姫華を恐れてか、あるいは普段の表情が違うため気づかないのか、クラスの誰も指摘しないが、はっきりいってそっくりだと瓢一郎は思っている。背が低いのが難点だが、顔だけでいうなら瓢一郎は男としては超絶美形なのだ。
姫華もそのことを意識しているに違いない。だからこそ自分に対して攻撃的なのだと、瓢一郎は思っている。
そんな姫華が、高貴な顔を傲慢な色に染め、さらにいい放つ。
「こんな学園の秩序を乱すダニは、さっさと退学にすべきですわ」
「そうだ、そうだ」と同調するのは、姫華の親衛隊(別名、腰巾着)の
「まあまあ、そ~んなこといってもだめですよっ。遅刻で退学なら、生徒がいなくなっちゃうじゃないですかぁ」
葉桜はさらに顔いっぱいの笑顔を浮かべる。これが噂の必殺技『癒し光線』。これを浴びると、どんなに怒っているやつでも、ぽわわんという気分になってしまう。
郷山と鬼塚にはよく効いた。赤面しつつ黙り込んでしまう。
姫華はそんなふたりをきっと睨み付けると、葉桜に向かってまくし立てる。
「わたくしはべつにきょうの遅刻のことだけをいっているのではありませんわ。入学してまだ日も浅いのに、彼のまわりには喧嘩が絶えないのです。そんな人間は、わが花鳥院学園高校にはふさわしくありません」
喧嘩が絶えない。正確にいうと、姫華のご機嫌取りのために、郷山、鬼塚をはじめとする腕自慢のやつらが瓢一郎にちょっかいを掛けてくる。
しかもさらに正確にいうと、喧嘩ですらない。瓢一郎は決して手出しをしないからだ。手を出さないのは弱いからではない。猫柳流拳法は一見馬鹿馬鹿しいが、じつは強い。その気になれば郷山や鬼塚など相手ではない。
「まぁ~たまた。あなたが瓢一郎くんを特別あつかいするから、取り巻きの人たちが嫉妬してちょっかい出すんじゃないですか? ちゃんとそういう人たちの手綱を取らないと、あとで困るのはあなたですよ」
葉桜は笑顔のまま、きつい表現を使う。ある意味、ほとんど恫喝だった。
しかし「特別あつかい」だの、「取り巻きが嫉妬して」だの、まるで知らない人が聞いたら姫華が瓢一郎に気があるようだ。
「そ、そこまでおっしゃるのなら、今回だけは、先生の顔を立てておきますわ」
姫華は顔を真っ赤にして着席する。そのまま忌々しそうに親指の爪を噛んだ。
瓢一郎が席に着く途中、姫華と目があったが、姫華はツンとそっぽを向く。
クラス中がざわめく中、陽子だけがちらっと恥ずかしそうな笑顔を向け、Vサインを遠慮がちに出した。
姫華のいいがかりにうんざりしていた心が、ちょっとなごんだ。
2
まったくなんなんでしょう、あの女教師は?
放課後、姫華は生徒会室で、どこぞの会社の社長の机か? と思えるような豪華な机の上に脚を投げ出し、もんもんと考え込んでいた。もちろん、担任の桜庭のことである。この学校では、たとえ教師といえど、自分に逆らう人間は許し難い。そう思うと、つい反抗的な態度を取ってしまった。
いや、それだけではなかった。倒れた瓢一郎に対し、でかい乳をこれ見よがしに顔先に突きつけ、優しい言葉を掛けたのがカンに障ったのかもしれない。
認めたくはないが、姫華にとって瓢一郎はなぜか気になる存在だったのだ。だからこそツンツンした態度を取るのに、まわりが勝手に気を利かして瓢一郎にちょっかいを出すのは困ったものだった。どんどん自分が悪者になっていくのに自己嫌悪してしまうが、いまさら優しい態度を取ることなど、プライドが許さない。
葉桜だけがそのことを見破っているような気がしてならない。それどころか姫華の行動を逐一見張っているような気さえする。
「ほんとうにお父様が、わたくしを見張るためにつけたお目付役かもしれませんわ」
「どうかされましたか、姫華様?」
ひとりの男が、つかつかと姫華の机の真ん前にあゆみ出て、直立不動の体勢で聞いた。
生徒会副会長、
古くからの花鳥院家につかえてきた伊集院家の長男で、三年生ながら、姫華には頭が上がらない。もっともそういうこととはべつに、個人的に姫華をカリスマとして崇拝しているらしく、姫華にとって非情に便利な男である反面、ときおり鬱陶しい。
「なんでもありませんわ、伊集院」
「ほんとうですか、姫華様?」
伊集院はさらに前に一歩出ると、ひざまずいて宝石のような瞳で姫華を見上げた。
まるで美人女優のような麗しい顔に、姫華を真似たかのようなさらさらのロングヘア、華奢な体つきと、男っぽさの欠片もないはずだが、不思議となよなよしさを感じさせない。まるでマンガに出てくる美形悪役キャラそのままの男だ。
美しさの中に強さを感じさせるのは、剣道の達人だからだろう。生徒会副会長という立場のため、主将にこそなっていないが、この学園の剣道部員で最強の男でもある。
「どんな些細なことでも、この伊集院になんなりとお申し付けくださいませ」
「担任教師が、ひょっとしてお父様の使いではないかと思っただけですわ」
「ならばこの伊集院、その教師とやらを拉致し、白状させて……」
「馬鹿ね。そんなことをして、もしほんとうにお父様のスパイだとすると、大変なことになりますわ。多少のわがままは許すが、やり過ぎは絶対にいかんと、常々釘を刺されているのですから」
「ならば、私が密かに探ってみましょう」
「おまえが? おまえは目立ちすぎるでしょう?」
「ご心配にはおよびません。私には部下と呼べる剣道部員たちが何人もいます。彼らに逐一、その教師の動きを報告させましょう」
姫華は少し考えた。たしかにいい方法かもしれない。剣道部はこの学園の中でも部員の多い大御所で、姫華のクラスにも女子部員がいる。そのほかにも、ほぼ全クラスに散らばっているといってもいい。携帯電話の連絡網を使えば、葉桜の動きを完全に把握することもできそうだ。
「それではおまえに任せてみますわ。くれぐれも手荒なことをしないように」
「承知いたしました」
伊集院は深々と頭を下げ、命令を受諾する。
もし、葉桜がお父様のスパイなら、なんとしても弱みを握る必要がありますわ。逆にただの生意気な世間知らずなら、わたくしにたてついたことを死ぬほど後悔させてたたき出してやります。
そう思うと、朝に受けた屈辱も晴れる。すがすがしい気持ちになった。
「では、帰ることにいたしますわ」
そういって立ち上がると、伊集院はポケットからスマホを取り出した。
「姫華様がお帰りになります。よろしくお願いします」
今、伊集院が電話したのは、姫華の執事兼運転手の男、佐久間。これですぐにでも黒塗りのリンカーンが一年生用の玄関口手前にやってくる。姫華は当然のように運転手付き自動車通学をしていたのだ。
「車までお送りしましょう」
伊集院は壁に立てかけておいた布袋入りの木刀に手を掛けた。護衛のつもりらしい。
もっともこの学園の中で、姫華に危害を加えようなどと思うものはひとりもいないが。
「姫華様の鞄を持て」
伊集院は、やはり生徒会室にいた二年生の書記、
「はい」
理恵子は元気よく答えると、ぱたぱたとコマネズミのように走ると鞄を両手で抱える。小柄で痩せた体、童顔にショートカットとくれば、年上にも関わらず、まるで中学生の小間使いのようだ。
姫華はふたりを引き連れ、生徒会室を出た。とたんに、すれ違う生徒たちが姫華に頭を下げる。一年生はいうに及ばず。二年生や三年生、それどころか教師までもが黙礼した。
姫華はそれを当たり前の光景として受け止め、王女のようにさっそうと歩いていく。下足室に着くと、理恵子は一足先にダッシュして、姫華の下足入れを開けると、外履きを取り出した。
「どうぞ」
理恵子は姫華の前でひざまずき、にっこりほほ笑みながら革靴をそろえて差し出した。
「ありがとう」
姫華は心のこもっていない声で、一応の礼をいうと、靴を履き替えた。それが終わると、理恵子はまた上履きを持って下足入れに走る。
姫華はもう理恵子などに目もくれずに外に出る。外には大型のリンカーンが止まっており、燕尾服姿の老執事、
「にゃああ」
なぜか脇にシャム猫が鳴いていた。どこからかまぎれこんできたらしい。
びくんとする。じつは姫華は猫が大嫌いだった。
「こらっ、しっしっ」
それを知っている佐久間が、猫を追っ払う。
「も、もうよろしいわ、佐久間」
猫が三メートルほど離れたのを見て、姫華はいった。その瞬間、佐久間がぱたんと前のめりになって倒れた。
「佐久間?」
佐久間は七十近い老人だが、若いころは空手と柔道で鍛えた体で、下手な若者よりも丈夫なくらいだ。それがいきなり倒れるとは不自然すぎる。
「何者?」
後ろにいた伊集院が、叫びながら木刀の布袋を外し、姫華の前に立ちはだかった。
「姫華様、車から離れてください」
な、なに? いったいなんだっていうんですの?
姫華は激しく動揺する。伊集院は車から離れろといっているが、いったい車がどうしたっていうの?
車に注意を向け、初めて車の下から黒皮の手袋をした手が伸びているのがわかった。それが佐久間の脚を掴んでいる。不意をついて、佐久間の脚を両手で刈ったのだ。
伊集院が木刀を持って近づくと、その手は車の下に隠れた。佐久間は起きあがらない。いきなりのことに受け身を取り損ない、コンクリートに頭を打ったらしい。
「え、なに、なに?」
たまたま居合わせたらしい女生徒が、昇降口から出ると立ち止まり、目を白黒させている。よく見ると、姫華のクラスの川奈陽子だった。
「誰か知らないが、引っ込んでろ」
伊集院が陽子に向かって怒鳴る。そのとき、車の下からひゅんと風を切る音とともになにかが飛び出した。
鞭のようなものだった。それは伊集院の脚に巻き付くと、あっという間に車の下に引っ張り込もうとする。伊集院はそれに必死で耐え、木刀で鞭を叩き切ろうとした。
だが下に注意が向けられたとき、もう一本の鞭が車の屋根をまたいで上から打ち下ろされる。それは木刀を持った右手に絡みついた。
伊集院の体はあっという間に車に張り付いた。上と下から引き絞られ、両方の鞭を結ばれたらしい。
「しまった」
身動きがとれなくなった伊集院が叫ぶ。
次の瞬間、車の下から黒い影が飛び出した。よく見ると、それは学園の男子制服を着た男で、顔は黒い覆面のようなものをしていて、目だけがそこから覗いている。感情を感じさせない冷たい目だった。
そいつは必死にあがいている伊集院のみぞおちに強烈な突きを入れる。伊集院はそれで動かなくなった。おそらく学園の中でも最強と思われる伊集院が、木刀を持った状態で手も足も出ない。
覆面の男は、ブレザーの中に手を突っ込むと、なにか黒いものを取り出した。
「ひょわわわ。け、け、拳銃だよぉおおお?」
すっとんきょうな叫び声。陽子だった。どんぐり眼を見開いてあたふたしている。
「ひゃ、ひゃ、ひゃあああああ。たいへんですぅう」
こっちは理恵子。万歳した状態でのけぞっている。
かんじんな姫華は叫び声ひとつ上げられなかった。体が固まっている。
しかし意識だけははっきりしていた。
男が手に持っているものは、陽子がいったようにたしかに拳銃だ。先端に細長い筒のようなものが付いているが、これはたぶん映画なんかでよく見るサイレンサーとかいうものではないのか?
男は銃口を姫華に向けた。
な、なに、なに? 嘘よ。冗談よね? わたくしを殺す気ですって?
「きゃああああああああああああ」
陽子の甲高い悲鳴が耳に付いた。
3
同じころ、瓢一郎は校舎の屋上にいた。ひとりではない、郷山と鬼塚が一緒だった。それ以外の生徒はいない。やつらが閉め出したからだ。
「瓢一郎よぉ。おめえ、なに葉桜に取り入ってんだよ。なんで、葉桜がおめえをかばうんだ。あぁ?」
鬼塚が坊主頭のいかつい顔を不自然に醜く歪め、瓢一郎に近づけた。
「そうだぞ。おまえいったいなにをやった?」
郷山がにこにこ笑いつつも、のっしのっしと巨体を瓢一郎の方に歩を進める。
放課後、屋上に呼び出された時点で、こういう展開になるのはわかっていたが、あまりに予想通り過ぎてなんの捻りもない。瓢一郎はうんざりした。
いきなり鬼塚のストレートが顔面に炸裂した。
普通ならこれでノックアウト。今、鬼塚は手にバンテージを巻いているが、グローブは嵌めていない。そんな状態でボクサーにパンチをまともに入れられれば、堪ったものじゃない。
案の定、瓢一郎はダウンした。だが効いているわけじゃなかった。
殴られる瞬間、体全体の力を抜き、それこそ柳の枝のように威力を受け流す。
これぞ猫柳流拳法の防御面での奥義。だからほとんどダメージは受けていない。
「な? おめえ、今なにしやがった?」
鬼塚もあまりの手応えのなさを不審に思ったらしい。
う~む。どうも、きょうは本気っぽいな。
瓢一郎は仰向けで空を見上げながら思う。
いつもはせいぜい軽いジャブくらいだったから、受けるにしても適当にダメージを残して受けていたが、さっきは本気のストレートが飛んできたから、こっちもつい本気で流してしまった。
「なんだなんだ、だらしないぞ、鬼塚」
郷山が倒れている瓢一郎の上からのし掛かろうとする。このまま馬乗りになられ、絞められたら堪らない。瓢一郎はその前にするりと立ち上がった。
だが郷山はいつものノロそうなイメージとは裏腹に、じつに素早い動きで瓢一郎の襟を掴み、あっという間に背負い投げに持ち込む。
コンクリートにたたき付けられそうになる瞬間、瓢一郎の体は放り投げた猫のようにくるりと裏返り、両足と捕まれていない左手でふんわりと着地した。
「な、なんだぁ?」
郷山からも驚きの声が上がる。予想しなかったことに驚いたのか、そのまま押しつぶそうともせずに手を離した。
それにしても郷山も本気だ。いつもなら、気に入らないことがあっても押さえ込むくらいだが、コンクリートの上に投げ落とそうとしやがった。
きょう、瓢一郎のことで葉桜が姫華に恥をかかせた結果になったことが、よほど気に入らなかったらしい。
ふたりの目が真剣になった。瓢一郎がじつは只者じゃないことを肌で感じ取ったようだ。
やばいな、こりゃ。
いっそ逃げようかとも思ったが、下に降りる階段の踊り場にはこいつらの仲間が何人も見張りに付いている。そもそもドアを開けることもできないだろう。
こっちも本気になるしかないか。
瓢一郎は覚悟を決める。
学校でどう見ても得体のしれない拳法を使って変に目立つのは極力避けたかったが、今回はどうもそんなことをいっていられる場合じゃないらしい。
ふたりの悪漢は用心しつつ、左右からじりじりと距離を詰めてくる。もう決して油断などしていない。それは顔つきや構えでわかった。郷山は両手を前に突き出しつつ、すり足で近づいてくる。鬼塚はきちんと拳で顔面をガードし、ステップを踏んだ。
瓢一郎はほとんど無意識のうちに左手を地面に付け、招き猫のように握った右手の平を相手に向けた。
滑稽なポーズだが、ふたりは笑わなかった。むしろさらに警戒色を強める。
「く、くそう。舐めやがって。郷山、やつを上から組み伏せて体を起こせ」
瓢一郎の体勢が低すぎて、自分のパンチが使えないことに気づいたのか、鬼塚がヒステリックに叫ぶ。
なるほどそれはいい作戦だ、と瓢一郎は思った。郷山に押さえつけられ、鬼塚が殴る。ある意味、瓢一郎がもっともやられたくないことだ。
郷山は納得がいったのか、上から覆い被さるように襲ってくる。
瓢一郎は風のように横に動いた。
郷山はすでに瓢一郎のいないところに前のめりに倒れ込んだ。
その動きを信じられないといった顔で見ていた鬼塚が、不慣れな前蹴りで顔面を狙う。瓢一郎はなんなく右手でたたき落とした。
「人間か、おめえ?」
鬼塚は驚嘆とも恐怖とも付かない声を出す。
郷山は立ち上がり、じりじりと瓢一郎の後ろに回り込む。前後から挟み撃ちにする気だ。
『瓢一郎、大変よ』
いきなり頭の中に色っぽい女の声が鳴り響いた。フィオリーナだ。昼間は暇をもてあましているらしく、ときどき学校に忍び込んでは瓢一郎にテレパシーで話しかけてくる。
『大変なのはこっちも同じだ』
テレパシーを返す。今は相手にしている暇はない。
『暴漢が姫華を襲ってるのよ。一年生用の昇降口』
天罰が下りやがった。だが、さすがに死ねばいいとは思わない。助けられるのなら助けてやりたいが、今の状況ではどうしようもない。いや、逆にこいつらに教えてやれば、現場に駆けつけるだろうから好都合か?
『姫華だけじゃない。陽子も一緒にいる』
『なんだって?』
『偶然居合わせたのよ。あ、伊集院がやられた。やばいわよ』
『今すぐいく。それまでおまえが陽子を守れ』
「まて、おまえら。こんなことをやってる場合じゃ……」
ふたりに事情を説明しようとした瞬間、前にいた鬼塚が間合いを詰めた。後ろから郷山が近づく足音が聞こえる。
鬼塚の変則的なパンチがごうと音を立て、上から振り下ろされる。
瓢一郎はとっさに三つ足で体を真上に跳ね上げる。
パンチが頭に当たったが、それを受け流すかのように前方に空転。
そのいきおいに任せて、後ろから突進してきた郷山のみぞおちに貫手をぶち込んだ。
足が地面に着くと、その反動を利用し右脚を思い切り跳ね上げた。
踵が鬼塚の顎を下からかち上げる。
そのまま体をねじって両足を地に付けるころ、郷山と鬼塚はばたりと倒れた。
ぐずぐずしてはいられない。
瓢一郎は走る。階段はこいつらの仲間に押さえられている。
とりあえず、校庭側の端にいくと、フェンス越しに下をのぞき見る。
黒塗りのリンカーン。姫華の自家用車が見える。その近辺では明らかにいざこざの気配。
『フィオリーナ。状況はどうだ?』
『やばいわよ。相手は拳銃持ってる』
のんびりしてる場合じゃない。瓢一郎はフェンスの上端に跳ぶ。そのままフェンスを掴んだ。それを支点に振り子のように体を揺らし、校舎の外壁の外に出ている雨樋に跳んだ。
両手で雨樋をキャッチすると、両足で樋を挟み、そのまま滑り降りる。
目立つがそんなことをいっている場合じゃない。そもそも下のやつらの注目は、昇降口に集まっていて、壁に注目するやつなんていないはず。
屋上の階段踊り場に待機しているやつらの手下が、あとで瓢一郎が屋上にいなかったことを不審に思うかもしれないが、そんなこと知ったことじゃない。
とにかく今は、陽子の元へ行く。
瓢一郎はあっという間に二階の高さまで滑り降りると、そのまま近くの樹に飛び移った。枝を掴むと、それをクッションにして校舎前の芝生に着地する。
その瞬間、陽子の悲鳴が耳をつんざいた。
「陽子!」
瓢一郎は黒塗りのリンカーンめがけて走る。
「瓢一郎くん」
陽子が叫んだ。陽子の足下にはフィオリーナ。そばにはたしか生徒会書記の二年生女子が立ちすくんでいる。車の前に倒れ込んだ老人。車に磔状態になった伊集院。そして拳銃を手にしている黒覆面をした制服の男。その銃口の先には脅えきった姫華がいた。
この男は倒す。銃を撃つ前に。
「おい、こっちだ。覆面野郎」
だがそいつは瓢一郎の声に惑わされなかった。冷静に姫華に向かって引き金を引く。
くぐもった銃声と痛々しい悲鳴に、瓢一郎は冷静さを失った。
「このやろう」
瓢一郎はリンカーンを踏み台に、高々とジャンプする。腕を左右に広げ、じゃんけんのパーの状態から指は内側に少し曲げた。鍛え抜かれた瓢一郎の指先は猛獣の爪なみの威力がある。
くたばりやがれ!
瓢一郎は殺意を込め、覆面男に向かって急降下するが、相手は動きを読んでいたらしい。機械のように冷たい目で見すえ、落ちてくる瓢一郎に向かって、冷静に銃口を向けた。
やばい。
男は非情に引き金を絞る。
サイレンサーを使った独特の銃声は聞こえたが、弾は瓢一郎の体を貫かなかった。
フィオリーナだ。フィオリーナがその男に飛びついたことで、狙いを外したのだ。さらにフィオリーナは男の拳銃をたたき落とす。
『今よ、瓢一郎!』
瓢一郎はここぞとばかりに、男の首に向かって虎の爪のごとき指先を落下の勢いを乗せて振り抜いた。
男は殺気を感じたのか、とっさにかわし、狙いを外す。瓢一郎の爪は、男の制服を引き裂いた。左の脇腹のあたりだ。
だめだ。浅い。
引き裂いたのは服だけで、男の肉をえぐることはできなかった。あるいは制服の下にプロテクターのようなものを着込んでいたのかもしれない。
逃がすか。
瓢一郎は間合いをつめた。同時にフィオリーナも横からせまる。
「にゃん」
男は目にも止まらぬスピードで身をかわしつつ、フィオリーナを蹴り飛ばす。フィオリーナは壁に背を持たれて崩れ落ちている姫華の体にぶち当たった。
「野郎」
瓢一郎は左手を床に付けると、それを支点に体を跳ばし、両脚で相手の足を刈ろうとする。男は野獣のように跳んでそれをかわした。
「きゃん」
飛び退いた男は、陽子にぶち当たる。男は悲鳴を上げて倒れた陽子を睨み付けると、そのまま風のように走り去った。
「だいじょうぶか、陽子?」
「う、うん。だいじょうぶ。たいしたことないよ」
陽子は怯えと驚きと恥ずかしさの入り交じったような表情で答える。
「で、でも、姫華さんが……」
わかっている。さっき見た限り、姫華は心臓のあたりを撃たれていた。確認はしていないが、おそらくもう死んでいる。
気になったのは、犯人が逃げるとき、陽子と真っ正面から顔をつきあわせたことだ。
覆面をしていたからたぶんだいじょうぶだとは思うが、それでももしかしたら陽子を自分の顔の一部を見た目撃者として狙うかもしれない。
男を追って警察に引き渡す。瓢一郎はそう決心した。
『フィオリーナ。そこにいて、陽子を守れ』
テレパシーでフィオリーナに伝えると、瓢一郎は犯人が逃げた方向に走る。
「い、いかないでよ。瓢一郎くん。怖いよ」
「だいじょうぶだ。心配するな」
瓢一郎は振り返ると、脅える陽子に満面の笑顔を見せた。そして犯人を追う。
あいつはあっちの校舎の陰にまわった。
同じようにまわりこんだ。誰もいない。人の気配もしない
外だ。
そう直感した瓢一郎は一気に塀を跳び越える。そこはあまり車の通らない狭い道だ。
どっちだ? それなりに通行人はいるが、それらしき姿はない。どこかに逃げ込むにしても、通りに並んでいるのは民家ばかりだった。
これ以上追いようがなかった。向こうから仕掛けてくることを願ったが、しばらくしてもなんの動きもない。
『フィオリーナ、そっちはどうだ?』
陽子が気になって、交信してみる。だが、返事がない。
いやな予感がした。
『フィオリーナ。なにがあった? 答えろよ』
『な、な、な、なにをおっしゃってるの? あなた誰? どうしてわたくしの頭の中に語りかけてくるの?』
「え?」
返答したのはフィオリーナではなかった。この声。喋り方。まさか……?
『姫華?』
『そうですわ。わたくし、姫華です。でも、誰もわかってくれませんの。だって、だって……わたくし、猫になってしまったんですもの』
いったいなにが起こったんだ? 瓢一郎は激しく動揺した。
落ち着け。考えろ。どうすればいい?
『とにかくそっちの状況を教えてくれ。警察は来たのか? 陽子はどうなった?』
『そんなこと知りませんわ。だって、執事の佐久間が、……わたくしの体を車に乗せて運ぼうとしたので、とっさに乗り込んだんですもの。今車はわたくしの家に向かってます。っていうか、すこしはわたくしのことを心配したらどうですの?』
信じがたいが、死んだ姫華の魂が、超自然的な力でフィオリーナに乗り移ったとしか考えようがない。
となると、姫華の執事は、警察の到着を待たずに姫華の死体を自宅に運ぼうとしていることになる。病院ならわかるが、なぜ自宅に?
さっぱりわけがわからなかった。そもそもそんな怪現象が本当に起こりうるのか?
とにかく現場に戻ろう、と思った。
犯人が現場に戻る可能性はほとんどないとは思うが、陽子が気がかりだった。少なくとも今は、フィオリーナの護衛が付いていないことだけは間違いない。
いきなり車が目の前で止まった。車に詳しくはないが、真っ赤なBMWだっていうことだけはわかる。
「乗って、瓢一郎くん」
中から声を掛けたのは、意外なことに葉桜だった。
「せ、先生? なにごとです?」
「いいから。犯人を追ってるんでしょう?」
つまり、この先生は犯人の行き先を知っているのか?
「い、いや、だけど……」
困惑していると、歩道側の左のドアが開いて、葉桜が降りた。彼女は何気なく右手を動かした。手を開いたまま、ゆっくりと。
だがそれは錯覚に過ぎなかった。優雅な動きだったからそう見えただけだった。
それは彼女の掌が瓢一郎のみぞおちに打ち込まれたときに初めて理解できた。
ちゅ、中国拳法?
体全体に衝撃波が広がる。瓢一郎はそのまま意識を失った。
4
これはいったいなにごとだ?
瓢一郎は意識を取り戻したとき、まずそう思った。
体はベッドのようなものに仰向けに寝かされているが、大の字になったままぴくりとも動かせない。両手両脚を広げた状態でそれぞれの手首足首に枷が付けられている。しかもパンツ一丁の裸に剥かれていた。
ここはどこなんだよ?
次にそう思った。首の動く範囲であたりを見回すと、壁にはやたらと複雑そうな機械が設置されている。モニターだのランプだのメーターだの、まるでSFマンガの宇宙船の中だ。
「うひ~ひっひっひっひ。どうやら気づいたようだな?」
薄気味悪い笑い声とともにドアが開き、三人の男女が入ってきた。
ひとりは白衣を着た小柄な猫背の男で、少しカールのかかった長髪を顔に垂らし、頬の痩けた青白い幽霊のような顔に楽しそうな笑みを浮かべていた。変な笑いの主はこいつらしい。
ひとりは燕尾服を着た禿頭の頑固そうなじじい。たしか佐久間とかいう姫華の執事兼運転手だ。おでこに大きな絆創膏を貼っているから、さっき倒れたときに負傷したんだろう。
そしてもうひとりは、なんと瓢一郎の担任であり、誘拐の張本人でもある葉桜だった。
「先生、これはいったいどういうことなんだよ? 姫華を襲ったのはあんたらの陰謀か? あんたら何者だよ? だいたいどうして俺をさらった? しかもなんで裸?」
「やれやれ、なんとも騒がしい男だわい。こんな小僧の面倒を見ないといかんのか?」
佐久間がうんざりした口調でいう。
「あら、これでも瓢一郎くんは学校じゃ物静かなのよ。ねぇ、瓢一郎くん?」
葉桜はいつもののんびりにこにこした顔で、楽しそうにいう。
「ひい~っひっひ。まあ、それだけパニックになってるってことだ。まあ、無理もないだろうな。まるで悪の組織に改造手術を受けるまえの正義の味方みたいな状況だ」
悪の組織のマッドサイエンティストそのもののような男は、そういうと腹を抱えて笑った。もちろん不気味な声でだ。
マジか? 本気で俺を改造する気か?
瓢一郎はびびった。現代の科学力でそんなことができるはずがない、と思う反面、こいつらがまともじゃないのは明らかだ。
「だいじょうぶよぉ。なにも体の中に変な機械を埋め込んだりはしないから。うふっ。改造するっていっても、ほんのちょっぴりだから。ね?」
「やっぱり、するんかよ?」
「改造手術なんていうから、この小僧がビビるんだ。ただの整形だ」
「せ、整形?」
「だいじょ~ぶ。ほんのちょっとだから。ぜんぶ終わればちゃ~んと元に戻してあげるからぁ」
「ひ~っひっひっひ」
「ふ、ふ、ふ、ふざけんな。俺をなんだと思ってやがるんだ?」
そう叫んで、いくらもがこうと動くのは首だけだった。
もがき疲れたころ、瓢一郎は観念していった。
「あんたらの目的はいったいなんなんだ? 俺にわかるように説明してくれ」
「それもそうねぇ。なんか思いっきり誤解してるみたいだし。あのねえ、あたしたちべつに悪の組織ってわけじゃないの」
「それでも犯罪集団には変わりないだろ? そうか、花鳥院家を乗っ取るつもりだな? そんなの勝手にやればいいけど、俺を巻き込むな」
「ワシらが花鳥院家を乗っ取るだと? 馬鹿め、乗っ取ろうとしているのは
佐久間が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「風月院? なんだそりゃ?」
「いくら世間に疎い高校生のおまえでも、花鳥院家が日本、いや世界にどれほどの影響力を持っているか、少しくらいは知っているだろう? 風月院とは、花鳥院に比べればほんの取るに足らない弱小財閥だ。虎と猫の差くらいある。もちろん花鳥院が虎だぞ」
「まあまあ、佐久間さん。そんなに意地にならなくても、だいじょうぶよぉ」
葉桜がにこにこしながら、佐久間の肩をぽんと叩いた。
「と、とにかく、風月院はことあるごとに、花鳥院を倒し、自分が成りかわろうとしているのだ。わかったか?」
ぜんぜんわからん。だからなんなんだよ?
「え~っと、少し補足するとね、花鳥院家には姫華様のお姉さんに
葉桜がのんびりした口調で辛辣なことをいう。
「彼女は花鳥院家の当主、つまりお父様と折り合いが悪くて、数年前に家出したの。それがよりによって風月院の長男と恋仲になったからさあ大変」
ちっとも大変そうに聞こえない。
「なんと皇華様は、姫華様を暗殺して花鳥院家を乗っ取ろうとし始めたってわけ」
ようやく話が少しは見えてきた。つまり今度の事件はその皇華様とやらが命じたわけだ。
「そこであたしは花鳥院家に姫華様のボディガード兼お目付役として、姫華様にも内緒で雇われたってわけなの」
「つまり学校の先生っていうのは仮の姿で、ほんとうは私立探偵かなんかなのか?」
「あらあ、そんな誰でもなれるようなちゃちなもんじゃないわよ」
葉桜はちょっとプライドを傷つけられたといった顔をした。
「いい? 世界には君なんかが知らないことがあるのよ。例えば特殊工作員を育てているような組織とか……」
「特殊工作員? あんた外国のスパイかよ?」
「あらあ、外国のスパイ?」
なにかツボにはまったらしく、葉桜は笑い転げた。
「ちがう、ちがう。民間業者よ。そういう人材を育てて、企業なんかに貸し出す組織。一般には知られてないけど、世界的に見るとたくさんあるのよ。もちろん、電話帳や求人広告には載ってないけどね。日本にだって複数あるわ。あたしが思うに姫華様をおそった犯人も同業他社の工作員よ」
ほんとかよ?
たしかにそれは瓢一郎の常識を覆すようなことだ。
「もうここまで話したから、ぶっちゃけちゃうけど、あたしの組織は『闇の黒猫』って呼ばれてる日本ではナンバーワンの民間工作員派遣業者なのよね」
葉桜はちょっと自慢げに話す。
「民間工作員派遣業者? しかもその名前が『闇の黒猫』?」
「うふふ。かっこいいでしょ? 『闇の黒猫』っていうのはコードネームみたいなものよ。そういう組織がなんとか派遣会社じゃかっこつかないでしょ?」
「ふん。それなのに、任務をまっとうできず、姫華様をみすみす殺されてしまったってわけだ」
佐久間がそういうと、初めてしょぼ~んとなった。
「そう。そうなのよ。旦那様にばれれば当然クビ。それだけじゃすまないかも。もちろん佐久間さんもね」
「いっとくが小僧、その怪しげな組織の一員なのは、この葉桜だけだぞ。ワシは真っ当な花鳥院家の従業員だ。ここをクビになることはあっても、変な組織に処分されることはない」
「あら、べつにあたしだって任務に失敗したからって、べつに殺されたりしないわよ。佐久間さん、マンガの見過ぎ」
「い~っひっひっひひ。安心しなさい。姫華様は死んでなどおらん。仮死状態になってるだけだ。必ず私が蘇らせてあげよう」
「ちょっとまて。このふたりの素性はわかったが、あんたは何者なんだ?」
「私か? 私は花鳥院家に資金援助されている科学者だ。花鳥院家の役に立つ研究を続けている」
幽霊博士(瓢一郎命名)はそういって手に持ったリモコンのようなものを操作すると、異変が起こった。瓢一郎のベッドの隣の床からなにかがせり上がってきたのだ。
それは透明なカプセルだった。中にはベッドに横たわっている裸の女がいた。
姫華だった。彼女の体には無数のチューブやら電極やらが繋がれ、枕元のモニターには心電図や脳波と思われるものが映し出されている。
「生きてるのか?」
「もちろんだ。この機械に繋がれている限り死ぬことはない。かならずや、この私が元に戻してみせる。いつの日か」
「つまり、すぐには無理ってことだろう? ごまかしようがないね」
気の長い話だと、瓢一郎は思った。いずれにしろ佐久間と葉桜はクビになる。知ったことじゃないが。
「ふん、おまえに心配してもらう必要はない。さいわい旦那様と奥さまはしばらくプライベート旅行で外国に行っていて帰ってくるのは二週間後だ。連絡されるのを嫌って連絡先を教えないくらいだ。もちろん、今度の事件が報道されないように警察とマスコミには圧力を掛けた。旦那様から連絡が入ったとき、ワシらさえ黙っていたらわからんことだ。だからその間に身代わりを立てればすむ」
馬鹿じゃねえの、こいつ。
瓢一郎は本気でそう思った。誰を身代わりに立てるつもりか知らないが、ばれないとでも思っているのだろうか? どうやって両親をごまかすつもりだ? それに学校でもあいつは注目の的だ。少しでも変わればすぐに怪しまれるに決まっている。
「というわけで、わかったでしょう? あたしたちは悪の組織でもなんでもないのよ。それどころか姫華様を襲った犯人を捕まえようとしているの。身代わりを囮にすればもう一回襲ってくるのは間違いないってわけ」
葉桜は胸を張っていった。
「ま、だいたいわかった。だけどわからないことがひとつある。それも決定的に」
「あら、なにかしら?」
葉桜は不思議そうな顔で瓢一郎を覗き込む。
「なんで俺がこんな目に合ってるかってことだ。今の話に俺に関係あることはひとつも出てこない」
「ええ! こんだけ説明してもわからない? 瓢一郎くんて意外と鈍いのね」
今の話だけでわかる方がどうかしている。
「瓢一郎くんが、姫華様の身代わりになるに決まってるでしょう」
な、……なんだって? 今なんていった、このいかれ女。頭腐ってんじゃねえのか?
「じょ、じょ、冗談じゃ……」
『冗談じゃないですわ』
瓢一郎の頭の中にヒステリックな声が鳴り響いた。
同時に物陰から白い物体が瓢一郎の腹の上に飛び乗る。
フィオリーナだった。フィオリーナは葉桜を睨み付け、瓢一郎の腹の上で地団駄踏む。「あら、なにかしらこの猫ちゃん?」
「まったくどっから紛れこんだやら」
佐久間は無造作に追い払おうとした。
「ちょ、ちょっと待て。そいつは俺の飼い猫だが、姫華の霊が取り憑いてるぞ」
「は?」
悪の科学者と頑固じじい、それにいかれた女教師は三人とも間抜け面して固まった。
「ば、馬鹿馬鹿しい。なにをいい出すんだこの小僧は?」
「そ、そもそも瓢一郎くんは、いったいなにを根拠にそんなことをいい出すのかなぁ?」
佐久間と葉桜は妙に顔を引きつらせつつも、そんなことをいい出した。なにか、ここを脱出するための作戦か、さもなければ頭がおかしくなったとでも思っているのだろう。
「なにを根拠にって、姫華が俺にテレパシーでそう訴えてるんだから仕方がない。俺はなぜか猫とは子供のころからテレパシーで通じ合えたんだ」
瓢一郎がそういうと、ふたりはますます混迷の極みといった顔で互いを見た。
「ひ~っひっひっひい。面白い。つまり君は死んだ姫華様の霊がその猫に取り憑いているというんだね。もしそれが本当ならば、姫華様を生き返らせるのが楽になるよ。体さえ治せば、あとは魂を元の器に戻せばいいだけだからね」
ただひとり、幽霊博士だけが大喜びした。
『できるんですの?』
「姫華ができるのかって聞いてるぞ」
「おお、心配なさらないでください、姫華様。この四谷に不可能はありません。人間の精神のダウンロードこそ私の生涯を掛けた研究。大船に乗ったつもりでお任せください。ただ心臓を撃たれていますので、姫華様の細胞からクローン技術で心臓を作り出さねばなりません。それに少し時間がかかってしまいます」
幽霊博士は四谷という名前のようだ。よくわからないが、とにかくこの幽霊博士は姫華を元に戻せるらしい。
「そりゃ、よかった。つまり、俺はお払い箱ってことだろ?」
「馬鹿馬鹿しい」
佐久間が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「それがいいたいがための虚言か? 研究のことしか頭にない四谷はだませても、このワシをそんなことで謀れるとでも思ったのか?」
『もう本当に佐久間は頭が固くて困りますわ。まさか本気でわたくしをこのまま猫の体に住まわせておくつもりじゃないでしょうね』
「おい、姫華がどうしようもない頑固じじいっていってるぞ」
「な、なんだとぉお?」
「まあまあ、そこまでいうなら、テストしてみればいいじゃないですか? たとえば姫華様しか知らないことを瓢一郎くんに聞いてみるんですよ」
あきれ顔だった葉桜がいつのまにか楽しくて堪らないといった顔になっている。
「よおし、馬鹿馬鹿しいが付き合ってやる。第一問~っ」
この爺さん意外とノリがいい。
「姫華様が子供のころ死ぬほど好きだったテレビ番組は?」
『……』
『どうした? 答えろよ。このじじいを説得しなきゃ、生き返れないんだぞ』
『……ち、血みどろ美少女探偵、ルイ』
おぉ、そういえばあったな、そんなの。まだ小さい女の子が、なぜか最後にはいつも血まみれになって事件を解決する推理アニメが。今考えれば、よくあんなアニメの存在が許されたよな。それにしても、こいつはあんなのが好きなのか?
瓢一郎はそう思いつつ、その題名を告げた。
「おおおおぅ?」
佐久間がのけぞった。当たるはずがないと思っていたのだろう。
「た、たまたまだ。この佐久間それくらいのことでは納得せんぞ。第二問だぁあああ!」「いえ~い」
葉桜がクイズ番組のアシスタントのように、拳を振り上げて佐久間を盛り上げる。
「姫華様が子供のころ、三度の飯より大好きだった遊びは?」
『…………』
『どうした? もっと恥ずかしい秘密でもあるのか? お医者さんごっこか? それとも勇ましすぎて恥ずかしいやつか?』
『うるさいですわ。ただ……、ただ…………、リカちゃん人形をバラバラにして、ドールハウスに入れて、密室状態を作り上げたりして……、お父様に挑戦したんですわ。「名探偵さん、できるもんなら解決して見なさい」って』
う~む。なかなかユニークな子供だったらしい。それを許す親も親だが。……っていうか、どっちも馬鹿だろう? それも重度の。
そう思いつつ、佐久間に猟奇殺人ごっこの実態を教えてやった。
「ぬおおおおおお? ま、まさか、それまで見破るとは? だがこの佐久間、そんなことでは信じぬぞ。第三問だ。姫華様が子供のころ、もっとも恥ずかしい……」
『いい加減にしなさい、佐久間! いったいこの男にいくつわたくしの恥をさらす気なの?』
姫華はフィオリーナの姿で佐久間に飛びかかり、顔を思い切りひっかいた。佐久間は「ぎゃああ」と叫ぶと、姫華を跳ね飛ばす。
『このっ、このっ。おまえなんか若いメイドの着替えをこっそりのぞいているくせに』
「……っていってるけど、ほんとか爺さん?」
瓢一郎が姫華のいいたいことを代弁してやると顔色を変えた。
「ええと、それからこうもいっている。ええと……」
「ま、待て。わかった。この猫はなぜか知らんが姫華様だ」
よほど後ろ暗いことがあったらしい。ちょっと、秘密を暴くことを匂わせただけでこの始末だ。
「ええ~っ、終わりなんですか? もっと姫華様の秘密を暴いてくださいよ」
葉桜はじつに残念そうにいう。
「ひ~っひっひ。とにかくこの猫が姫華様だというなら、あとはこの四谷に任せるがよい」
「あんた詳しいようだから聞くが、姫華が乗り移る前の猫の意識はどうなったんだ?」
瓢一郎としてはフィオリーナがどうなったのか心配だった。
「たぶん姫華様の意識に取り込まれたんだろうな。姫華様の記憶や嗜好、性格に多少の変化が生じるかも知れん」
『冗談じゃないですわ。わたくし、魂まで猫になりたくありません』
「分離できるのか?」
「ひ~っひっひっひっひ。だいじょうぶ。元に戻すときちゃんと魂を分離させて見せるよ」
それを聞いて少しほっとした。つまり姫華の魂を戻せば、フィオリーナも復活するってことだ。姫華も安堵のため息をついた。
「まあなんにしてもよかった。これでみんな幸せってもんだ。さっさとこれ外して欲しいんだけど」
「まあ、本物が戻るんなら、わざわざ偽物を使うまでもないが……。ところで四谷博士、姫華様が元通りになるのに何日ほどかかる?」
「何日? 佐久間さん、少し軽く考えすぎですぞ。心臓を作らないといけない。機械を作るのとはわけが違う。細胞を培養して体の一部を作るのですから、最低でも一年は見てもらわないと……」
「一年!」
幽霊博士以外の全員が叫んだ。
「やっぱり、それまで瓢一郎くんには身代わりをしてもらわないとだめね」
「む、無理だ。どうやったって無理がある。たしかに顔が少し似ているのは認めるが、男と女だぞ、体がぜんぜん違うだろうが」
「あ~ら、そうでもないわよ。隣と見比べてみなさいよ。身長もほとんど同じ、手足の太さだってそう変わらないわ」
そういわれて、瓢一郎はカプセルの中の姫華の裸体を見る。たしかに身長はほぼ同じらしい。手にしろ脚にしろ姫華は意外と鍛えているようだ。太くはないが、弱々しい細さではない。むしろ脚などはそのせいでかえって脚線美が色っぽくなっている。一方瓢一郎は筋肉を付けすぎると敏捷性が落ちるということで、筋トレとかはいっさいしない。だから案外手足は細いのだ。
だが、あの腰のくびれと、そして、あの……胸が。ミサイルのような、あの胸がぁあ!
『な、な、なにを見てるんですの、この変態』
姫華が爪を立て、飛びかかってきた。葉桜はそれをあっさり制し、首根っこを掴む。じたばたする姫華を無視し、いい放った。
「ほうら、いけそうでしょう?」
「無理だ。あの腰はどうする?」
「そんなのコルセット使えば、一発ですよ」
「じゃ、じゃあ。……胸は?」
「パットってもんがあるじゃないですか」
「じゃあ、脚は? 太さはたいして違わないが、形が違うぞ。うちの制服のスカートは短いからな。すぐばれる。俺の脚はあんなに色っぽくない」
「い~っひっひっひ。心配ない。これを嵌めればだいじょうぶ」
幽霊博士が高笑いしつつ持ってきたのは、姫華の脚を型取ったものだった。葉桜はそれを受け取ると、にこにこ笑いながらそれを瓢一郎の脚に嵌めていく。材質はわからないが一ミリほどの厚さでけっこう堅い。見る見る瓢一郎の脚は姫華の脚そっくりの形に矯正されていった。
「後は上から特殊メークを掛けて、ついでにパンストでも履けばわかりっこない。ひ~っひっひっひ」
「ついでにコルセットも嵌めてみましょう」
いつの間に取り出したのか、葉桜がじつに楽しそうにコルセットで瓢一郎の腹を思い切り絞る。
「ぐわっ」
思わず声を出したが、それほど窮屈でもない。もともと瓢一郎は腹が出ているわけじゃない。こっちも姫華の体型に補正されるような設計になっているらしい。形だけ見ればかなり色っぽくなりつつある。
「だ、だけど顔だってけっこう違うぞ。それに声はどうする?」
「微妙な違いは整形するからだいじょうぶ。化粧でもごまかせるしね。声の方は……」
「い~ひっひっひ。心配するな。簡単な手術で声帯に声を変換する機械を取り付けてやる。それでそっくりの声が出せるようになるさ」
「だ、だけど、見た目だけそっくりにしたってだめだろうが。動きとか知識とか喋り方とか、そういうのですぐにばれる」
「それはワシがたたき込んでやるから心配するな。どうせ撃たれたのはみんな知ってるし、しばらくは治療という名目で通学しなくてすむ。その間に地獄の特訓を受けるがいい」
佐久間の目が、サディスティックに光った。
「それに都合のいいことに、姫華様が猫になった上、テレパシーで通じ合えるんでしょう? 猫のまま学校に行ってもらって、いろいろテレパシーで助け船を出してもらえば完璧よ」
『冗談じゃないですわ。おまえたちみんなクビにしますわよ』
姫華の叫びはやつらに聞こえない。頼まれるまでもなく瓢一郎は代弁したが、やつらは笑い転げて聞く耳を持たなかった。
「さあて、そうと決まれば、本格的な改造は四谷博士に任せるとして、とりあえずいらないものを取り除いちゃいましょうか?」
葉桜は嬉しそうにそういうと、ベッドのわきで床屋にあるようなシャボンのセットで泡を立て、カミソリを取り出した。
非常にいやな予感がした。
だが葉桜はあぶくを腕に塗りたくると、カミソリを滑らせていく。
「うふふふふぅ。ほうら、きれいになっていくわよぉ」
目が尋常じゃない。いつものにこにこのんびりの面影はなく、なんというか、エロい。 あっという間に腕は無毛になった。しかしそれだけでは満足せず、葉桜は当然のように脇の下にシャボンを塗りたくった。
「うわっ、ま、まて。それは……」
だが待つわけがない。葉桜は唇をぴろっと舐めながら、カミソリを当てていく。
「しょりーん。しょりーん」
楽しそうに口でそういいながら、仕事を進めていく。瓢一郎の脇の下は、年ごろの女の子のようになってしまった。
「これで済んだと思ったら大間違いよぉ」
葉桜は薄ら笑いを浮かべながら、トランクスに手を掛けた。そして陰毛が露出するまでずり下げる。竿の根本はかろうじて隠れていた。
「ぐわあああ。なにしやがるこのエロ教師。セクハラもいいところだぞ。やめろ、まて、早まるな。そこの毛は、姫華にだってあるだろうが」
『な、なにを見てるんですの、このエロ猿』
「だめよぉ。姫華様のここの毛は、こんなにぼうぼうじゃないの。もっとおしゃれに刈りそろえてあげないとね」
「うわあああああ。変態。サド教師。色キチガイ」
必死の哀願もむなしく、瓢一郎の下の毛は美しい長方形に刈りそろえられた。
「ちょっと待てぇええええ」
ここまで来て、瓢一郎は重大なことに気がついた。
「よく考えたら、俺がそんな理不尽なことをする必要はない。なんのメリットもないし、逆にやらなくてもなんの不都合もない。おまえたちになんか、ぜったい協力してやらないぞ」
「あら、そういわれてみればそうね」
三人は顔を見合わせた。その後、葉桜がとんでもないことを笑顔でいう。
「じゃあ、いうことを聞くように、四谷博士に爆弾でも埋め込んでもらいましょうか?」「そりゃあ、いい」
三人は腹を抱えて大笑いした。
5
「皆さんも知っているように、きのう、花鳥院さんが何者かに襲われましたが、さいわいにして一命を取り留めました。現在、花鳥院家関連の病院に入院していますが、まだ面会謝絶なのでお見舞いはしないようにしてねっ」
朝のホームルームで葉桜は笑顔を崩さずにいった。教室がざわつく。
「本当か、先生? 新聞にはなにも載ってなかったし、ニュースでも放送しない。どうなってんだ?」
鬼塚が不審な顔で聞いた。
「だいじょうぶですって。だって花鳥院さんは、あの花鳥院家の跡取り娘なのよ。それが撃たれたなんてことになったら世界中大騒ぎになるでしょう? だから、マスコミに圧力を掛けたらしいの」
葉桜はのんびりした口調でとんでもないことを平然という。
「だから、心配しなくてもだいじょう~ぶ。きっと一週間くらいで戻ってくるわ」
嘘だ。
陽子はうさんくさいものを感じてしょうがない。なにせ現場にいた数少ない目撃者なのだから。
あのときはパニックになってろくに見ないうちに連れ去られたけれど、姫華の胸は真っ赤に染まっていた。生きているなら、心臓を撃たれたわけじゃないんだろうけど、少なくとも肺は撃たれていると思う。そんなに簡単に完治するとは思えない。
なにかとてつもなく恐ろしい陰謀が進行しているような気がした。そして陽子がもっとも気にしていることはとうぜんべつにあった。
「せ、先生。瓢一郎くんが来ていませんけど、なにかあったんじゃ……」
恐る恐る聞いた。
瓢一郎はあの犯人を追いかけたあと、戻ってこない。スマホも繋がらない。心配しない方がどうかしている。
「瓢一郎くんは家出しました」
葉桜はじつにあっけらかんとした口調でいった。
「書き置きが置いてあったそうです。しばらく修行の旅に出るって」
またしても教室は激しくざわめいた。
「修行?」
「武者修行だそうです」
「あ、ありえねえ」
そのひと言にさらに疑問の声が複数の生徒から発せられた。当然だろう。瓢一郎はどんないじめも平然と受け流していたが、けっして暴力をふるうことはなかった。武道や格闘技をやっているとは思えないのも無理はない。
だが陽子は知っていた。瓢一郎は間違いなくなにか格闘技をやっている。陽子はそういうことは詳しくないが、あれが素人の動きじゃないことくらいはなんとなくわかった。
「いじめがいやで逃げ出したのよ」
誰かが小声でつぶやいた。
違う。そんなんじゃない。だって、本当は強いのに。
そして、あの伊集院さんを倒したほどの男を追いかけていって行方不明になった。
なにかあったに決まってる。
そのことはきのう、聞き込みに来た刑事にもいってある。どれくらい警察が真剣に探しているかは知らないが、少なくとも捜索はしているはず。
ただそのことは警察以外には、親友の水村礼子にしかいっていなかった。なにか瓢一郎の秘密を公言するようで、いってはいけないような気がしたのだ。
あの場で瓢一郎の姿を見たのは自分ひとり。一緒にいた生徒会書記の人は、たぶん瓢一郎のことなんて知らない。それどころかきっと顔もろくに見ていない。
「だいじょうぶよぉ、きっと瓢一郎くん、ひょこりもどってくるわ。だから心配しないで」
葉桜がそういうのも、その事実を知らないからだろう。ホームルームは終わり、葉桜は教室を出て行った。
「ねえ、陽子。ところで……」
隣の席から、礼子が声を掛けてきた。
「犯人の顔見たの?」
礼子は眼鏡越しに、心配そうに見つめた。礼子はハーフではないはずなのだが、白人の血を継いでいるのかなぜか神秘的な青い瞳をしている。本人はそのことをけっこう気にしているらしい。
「ううん。ほら、覆面してたから」
「それでも見たことある顔なら雰囲気でわかるとか」
「ぜんぜんわかんないよ。たぶん知らない人だと思う」
「そうなんだ。でもそれって不幸中のさいわいよ。だって顔を知られたとなったら、その犯人、陽子を襲うかもしれないものね」
ぞくっとした。あの犯人と目があったときのことを思い出したからだ。
あいつはまるで機械のように感情のない瞳で陽子を見た。なにかロボットかサイボーグのような感じだ。人間らしい心なんてないのかもしれない。あんな男になんか狙われたくない。
ああ、会いたいよ、瓢一郎くん。
今心の底からそう思った。あのとき、目の前で伊集院がやられて、絶望的な気持ちになったとき、突然現れた瓢一郎。それを見たとき、安心するとともに心が躍った。
あたしの危機を感じて、助けに来てくれたんだと。
べつになんの根拠もなかったのに。
だけどあのとき、漠然とそうかもと思っていた感情……つまり、瓢一郎が好き、ということを陽子は確信した。
きっと今だって、瓢一郎が側にいれば、あんなサイボーグのような犯人なんか怖くないに決まってる。
探そう。あたしが、瓢一郎くんを。
天啓のようにその考えが頭の中にひらめいた。
「ねえ、礼子。あたし瓢一郎くんを探してみようと思う」
それをそのまま礼子に話した。
「ば、馬鹿。なにいってんのよ。ひょっとしたら、瓢一郎くんの失踪は、その犯人が関係してるのかもしれないのよ。危険すぎるわ」
礼子の反応は、ある意味当然だった。瓢一郎を探すことは、犯人探しをすることに直結するかもしれない。危険きわまりない行為だ。
「それだけじゃないわ。最近この辺を荒らし回ってる泥棒がいるのよ」
それは新聞で読んだ。怪盗「ねこ」とか名乗る泥棒が夜な夜な周辺を徘徊しているという話だ。神出鬼没でぜったい不可能な状況からでもねらった者を盗み出すプロで、警察は振りまわされっぱなし。それが窃盗団なのか、個人なのかすらまだわかってない。
しかも噂によると盗むものが変わっていて、宇宙人を呼び出す石に宇宙語を刻まれた金属版、あるいは宇宙人のミイラなど、真偽の怪しいというか、はっきりとうさんくさいものばかりらしい。このあたりにはそういうものの収集家とか、研究している企業とかが集中しているそうだ。
「そっちの犯人が関係してるとは思えないけど、陽子がこの辺を調べ回ったら、そっちの方も警戒して陽子にちょっかいを出してくるかもしれないわよ」
それはないんじゃないかな。といおうとしたが、礼子は強く迫る。
「ねえ、約束してよ。そんな馬鹿なことはしないって」
「……うん、わかったよ。ちょっといってみただけ」
そう口にはしたが、心の中では違った。
でもやる。絶対にあたしが瓢一郎くんを見つけ出す。
なんのコネもノウハウもないけど、警察にはできないことで、あたしだけにしかできないことだって、きっとあるはず。
なにしろ自分は目撃者にして、この学校の事情をよく知っているんだし。
陽子は自分を励ますようにいい聞かせた。さらに考える。
なにか見落としはないだろうか?
きのうのできごとを頭に浮かべる。なにか手がかりを思い出すかもしれないと思ったからだ。
漠然と違和感を覚える。
なんだろう? なにかを忘れている気がする。重大ななにかを。
きっとなにかを見たんだ。いったいなに?
出かかっていて出ない。そんなもどかしさを感じる。
もう少しで思い出せそうなとき、一時間目の授業の教師が入ってきた。
陽子の思考はそこでとぎれた。
6
「さあ、自分の顔を見たらきっとびっくりするよ。姫華様そっくりになったからな。ひ~っひっひっひ」
ここは花鳥院家の地下室で、誘拐されたとき目を覚ました、例のSFの宇宙船の中のような部屋だ。
瓢一郎はここでわけのわからない手術をされた。そのあと一週間、自分の部屋を与えられたが、監禁状態で地上には出してもらえない。きょうは手術の成果を確認する日で、この忌まわしい部屋に戻ってきている。例の三人組と姫華も一緒だ。
瓢一郎は今、壁に掛かった鏡の前に立っていた。全身が映る大きな鏡。
その中には例のコルセットで腰を締め上げ、特殊素材で作った脚型を嵌め、胸には特性パット入りのブラをした瓢一郎が映っている。ただしその顔は包帯で覆われていた。さらにその後ろで、白衣を着た四谷がじつに嬉しそうな顔で包帯を外しているところが見える。
はらりと包帯が落ちた。そこに映った顔はたしかに前の顔とは微妙に違っていた。
じゃっかん、傲慢な感じになったかな? ついでに色気が出たかも。
それが最初の感想だった。
どこがどう違ったか、説明しろといわれても上手くできないほどの差だ。しかしそれでも男と女の顔ではやはり根本的になにかが違うのだろう。瓢一郎の顔がそのまま女の顔になったように見える。ちょっときつくなった気がするのは、たぶん目尻を少し上げたせいだろう。
だけど姫華の顔とは少し違わないか?
「ぜんぜん違いますわ。わたくしがこんな不細工なはずがないでしょう?」
姫華の声が、足下にいたフィオリーナのクビにかかった鈴型のスピーカーから発せられた。姫華の思いが瓢一郎にしかわからないのは不便だということで、姫華の思念を受信し、解析して音声にする装置を四谷がこの一週間掛けて開発したのだ。発声はごく自然で、事情を知らない人が見たなら、猫が喋っているようにしか思えないはず。
さらに姫華は猫の体を完全に自分のものにしたらしく、シャム猫の黒い顔につんとした女の子の表情を浮かべそっぽを向く。
「ワシにもあまり似てないように見えるぞ」
そばにいた佐久間が心配そうな顔になる。
「あ~ら、だいじょうぶですよぉ。変身するのはこれからこれから」
葉桜がじつに嬉しそうにいう。いつもにこにこ笑っている女だが、きょうの笑顔は特べつに蕩けきっている。
「まずは鬘よ」
葉桜の手には、艶光りする長い黒髪の鬘。それを瓢一郎に被せた。
「ほうら、似合う似合う」
手を叩きながら、きゃっきゃきゃっきゃとはしゃぐ。
たしかに鬘を被っただけでだいぶ感じが変わった。いきなり姫華度アップだ。
「あとはちょっとお化粧すれば完璧よ」
葉桜は今度は化粧品一式をどんとテーブルに並べた。
「まずはその太い眉毛をなんとかしなくっちゃね」
カミソリを取り出すと、ちゃちゃっと瓢一郎の眉に手を入れる。そのあとさらさらと眉を描き込んだ。鏡の中の顔は眉が細くなり、上がり気味になったため、さらにきつい感じが増す。それだけでずいぶん姫華っぽくなった。
葉桜は今度は顔全体にファンデーションを塗り、白っぽくきめ細かい肌を作っていく。最後に唇に薄いピンクの口紅を塗った。
「ほうら、そっくり」
たしかにこれなら、少なくとも顔は本物と見分けが付かない。
「次に瓢一郎くん、その男物のパンツを脱いでぇ」
満面の笑顔で、葉桜は平然とそんなことをいった。
「な、な、なんで?」
瓢一郎の喉から発せられた声は、姫華の声。整形手術と同時に喉に埋め込まれた人工声帯のせいだ。
「だってそこだけ男物は変でしょう?」
たしかに鏡に映った姿で、トランクスだけが妙に浮いている。脚と胸は人工皮膚のようなもので覆われてはいるが、継ぎ目に特殊なパテをすり込んであるために、ちょっと見にはわからない。若干肩がいかっているところを除けば、体は年ごろの女の子そのもの。いや、もっとはっきりいえば、ミサイルおっぱいを持つ姫華の色っぽい体そのものだった。それがトランクスを履いているのはたしかにおかしい。
だがこれを脱げばもっと変だろうが。だってあれが……女の体で、あれが……丸出し。
あ、……妖しすぎる。
世間一般ではそれをフタナリと呼ぶ。
「じょ、じょ、冗談じゃないですわ。わたくしの外見でそんなおぞましい姿を晒されては堪りませんわ」
姫華が前足を振り上げながら地団駄踏んだ。
「平気平気。ほんの一瞬だから。瓢一郎くんにはこれを履いてもらわないとね」
葉桜の手に握られているものは、パンティーだった。
「え、いや、そんなものを履いたら……」
妙にもっこりするだろうが。それはそれでかなり変態チック。
「うにゃにゃにゃにゃにゃん」
姫華がテレパシーで心を読んだのか、パニックになって猫そのもの化している。
「だいいちスカートの中身なんか、誰も見ないからこれでいいだろ?」
「あら、うちの制服のスカートは短いから、なんかの拍子にめくれることだってあるのよ。そのときは姫華様は男物のトランクスをはいているって噂があっという間に……」
「だめよ。だめですわ、そんなこと。で、でも……あそこがもっこりはもっとまずいですわぁああああ」
「ひ~っひっひっひっひ。心配いらん。もっこりなんかせんよ。これは表面こそ普通のパンティーだが、その中身は今おまえの脚を覆っている人工皮膚でなにをしっかり締め付ける。だから形なんかわからん」
「そ、たとえいやらしいことを考えて、瓢一郎くんの分身が起っきしてもだいじょうぶ。ね、博士」
「ひ~っひっひっひっひ」
天使のような顔で下品なことを平気でいう葉桜と、不気味な笑いを垂れ流す四谷。いいコンビだ。
「というわけで、さっさと脱ぐ」
葉桜は有無をいわせず、トランクスに手を掛けるとずり下ろす。
正面の鏡には衝撃的な姿が映った。
下半身裸の姫華から、△□○が生えている。
そう思った瞬間、その異物はピンコ立ち。
「し、信じられませんわ、この変態男ぉぉおおおおおお!」
「わ、だったら見るな、この恥女」
「きゃっきゃきゃっきゃ」
「ひ~っひっひっひっひ」
「わははははははははは」
とっさに両手で隠すが、それはそれで妙にエロい姿だ。不覚にも胸が高鳴る。
「な、なんですの。なんかとっても恥ずかしいですわ」
姫華の羞恥心はすさまじいらしく、シャム猫の黒い顔を強引に赤くした。
そりゃそうだろう。姫華にしてみれば、パンツ脱がされて真っ赤になって股間を隠す自分の姿を見せつけられてしまったのだから。
もっとも恥ずかしいのは瓢一郎も変わらない。
笑い狂っていた葉桜から、その特殊パンティーを奪い取ると、大急ぎで履いた。
「あら、そのショーツはただ履くだけじゃだめなのよ。こうやって引き絞らないと」
葉桜は後ろからパンティーの中に指を突っ込むと、競泳用パンツの紐を縛るように、中を通っている紐を引き絞る。その瞬間、なにを包んだゴム状のものが全体的に引き締まる。
「うおっ」
妙な圧迫感とともに、パンティーの中で自己主張していたものはいったいどこへ行ってしまったのか? とばかりに存在感がなくなった。
「ほうら。こうすればまるで女の子」
たしかに鏡に映っているのは、もはやおぞましい変態などではなく、下着姿をした魅力的な女の子でしかあり得なかった。
この得体のしれない仕掛けをした下着も、こうやってみるとレースの模様ごしに下がかすかに透けてけっこうエロい。もちろん透けて見えるのは、中の人工皮膚なのだが、そうと知っていてもこの中に男のものが隠れているとはとうてい思えない。
「じゃあ、どんどん着ていきましょう」
葉桜は用意していた着替え一式から、まずストッキングを手渡した。真っ白なそのストッキングを履くと、下の人工皮膚の型どりが透けて見える。これを履くまでは、よく観察すれば継ぎ目があることがわかったが、これを履くことでもはや至近距離から観察しようとも、生身の脚にしか見えなくなった。
さらにブラウス、スカートと身につけていくと、鏡の中の姿は女子高生以外のなにものでもなくなっていく。
首に真っ赤なリボンを付け、紺のブレザーの上着を着ると変身完了だ。
「ほうら、見てみて。完璧よぉ」
たしかにもはや瓢一郎から見ても、鏡の中に立っている女は姫華としか思えない。
「あとは仕草ね」
葉桜は佐久間の方をちらっと見た。
「ふん。まかせろ。この一週間の特訓は伊達じゃない。おい、小僧、歩いてみろ。ただし姫華様としてだ」
佐久間がえらそうに命令する。
瓢一郎はこの一週間、佐久間に鞭片手で強要された特訓を思い出し、うんざりした。
姫華の歩き方から、ご飯の食べ方などありとあらゆる動きを、ああでもないこうでもないといわれながら、たたき込まれた。
もともと瓢一郎は他人の動きをトレースすることに掛けては天才的に上手かった。若くして猫の動きを完璧に真似ることができたのも、その才能あってのこと。だからこそ、学校での姫華の動きを思い出し、なんとか再現することに成功したが、他の者ならとうてい無理だっただろう。
瓢一郎は胸を張り、鼻をツンと上げながら、腰を微妙に振ってすたすたと歩いた。ときおり長い髪をふぁさりとたなびかせる。
「きゃあああ、すごい。そっくりよぉ」
葉桜大拍手。大受け。
「わ、わたくし、こんなナルシストじゃありませんわ」
姫華がしっぽをぶんぶん振りながら怒る。
「なにをいわれます、姫華様。誰がどこから見ようと、姫華様以外のなにものでもないではありませんか」
佐久間の自信満々の断言に、姫華はなおも「嘘ですわ、嘘ですわ」と抵抗した。
「お黙り。猫のくせにこのわたくしのやることに難癖付けるなんてとんでもないことですわ。それ以上文句があるのなら、三味線にしてしまうからそう思いなさい」
瓢一郎は、意識して目をつり上げ、大げさな動きで姫華を指さし叫ぶ。
「わ、わたくしが、そんなに傲慢だとでも」
だが悔しそうな姫華を尻目に、葉桜たちは腹を抱えて笑い出す。
「わ~はっはっは。見ろ。ワシの特訓の成果を」
「ひ~っひっひっひっひ」
「きゃはははは~っ。もう最高。そっくり。そっくりよぉ」
とくに葉桜は涙を流し、大口を開けて笑い狂った。
姫華はツンと顔を背けるが、ヒゲがぷるぷると震えていた。よっぽど悔しいらしい。
「とにかくこれで予定通り、あしたから姫華様として通学できるわぁ」
葉桜は自信満々に断言する。
とりあえず、このわけのわからない地下室に監禁されるのも今夜限り。あしたになれば学校には行けるらしい。
それだけが瓢一郎の救いだった。
そのかわり、姫華の影武者として囮になりつつ、敵の正体をあぶり出すことが条件だ。
「ところでほんとうに爆弾なんか仕掛けてないんだろうな」
瓢一郎は四谷に問いかける。声帯を取り付ける手術のついでにそんなものを仕掛けられていては堪らない。
「ひ~っひひひ。信用しろ。そんな非人道的なことはしていない」
それ以外のことは非人道的ではないとでも……。
「そんなことしなくても、協力してくれるって信じてるから。ほら、犯人は陽子さんを襲うかもしれないでしょう。心配じゃない?」
葉桜は満面にいたずらっ子の笑みを浮かべていう。
「それにあなたの愛しい猫ちゃんの魂を救えるのは四谷博士だけだしね」
なんだかんだいって葉桜のいうとおりなのだ。瓢一郎にしては姫華に吸収されたフィオリーナの魂を救済しなくてはいけない。そのためにはこの幽霊博士の協力がどうしても必要だった。それに陽子が心配なのもたしかで、自分が囮になることで犯人をあぶり出せるのなら協力しないでもない。
「これは貸しだからな。おまえら全員にいつか借りは返してもらう」
「またまたぁ、深刻ぶっちゃって。ほんとは楽しいくせに」
葉桜の言葉に、極悪三人組は大笑いした。
楽しい? それは考えてもいないことだったが、あるいは核心を突いているかもしれない。正直いって、猫柳流の修行にも飽き飽きしていたことだし、自分に敵対するクラスメイトとの学園生活もうんざりだった。姫華の間はまさに好き勝手にやれるではないか。
まあ、いずれにしろ引き受けた以上は全力をつくすつもりだ。多少の楽しみがあっても罰は当たるまい。
「な、なんですの、その楽しそうな顔は? いいこと。わたくしの姿で、わたくしの品位を落とすことだけは許しませんからね」
猫が必死になってなにかほざいていたが、気にしないことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます