冒険はエコノミークラスで

 眼下には、真っ青な海原と、白く輝く大地。

 アリアンが言うには、あれは水晶のせいで白く見えるのだと言う。アトランティスは大陸のいたるところで水晶を含む鉱石が露出している。またそのため、水晶を加工したオブジェが建物や宝飾品におびただしく使われているということだ。

「ついに来たぞー!」

 伊吹は誰にともなく高らかに宣言した。アリアンもサングラスのせいでよく表情はわからないものの、久しぶりの故郷に感動しているようだった。

 一行はペガサスを降下させていく。翼が心地よい潮風を運んでくる。潮の香りにもここ数日ですっかり慣れた。

 陸地が目前に迫ってくるにつれ、その南端に険しい断崖絶壁が見えてくる。はたしてそれがヘラクレスの柱であった。

「本当に結界があるんですか?」

 伊吹が訊くと、アリアンは、

「あるよ。見てみな」

 そう言ってサングラスを外してふりかぶり、断崖に向かって力いっぱい投げつけた。とたん、ブーンという振動音がし、岩壁の数メートル手前の何もないように見える空間で、サングラスは粉々に砕け散った。

「ああ、お気に入りだったのに……」

 自分で投げておいてしょんぼりするアリアンをしり目に、伊吹は声も出せないでいた。と、REIがペガサスのたてがみの所で軽やかにふり返る。この三日間、そこが彼女の定位置だったのだ。

「どうするの?」

 アリアンは気を取り直して前方を指差した。

「ごらん。あの崖で一番突き出してる所があるだろ。あのちょうど真下が結界の切れ目だ。そこからペガサスをもぐりこませて、地面まで垂直にのぼっていく」

「伊吹、こわいんじゃない?」

 REIの言葉に、伊吹はカッとなって言い返した。

「こわいもんか。すぐ行こう。あまり時間がないんだ」

「そうだな。こいつもそろそろ休ませてやらないと。頑張ったな。あともうひとふんばりだぞ」

 アリアンはやさしくペガサスの首をたたいた。

 彼らは海上でペガサスを大きく旋回させながら、断崖の突端まで慎重に進んで行った。その下にもぐりこむとき、伊吹は思わず目をとじて息をとめた。が、おそれた衝撃はない。アリアンの言ったとおりになったのだ。

 断崖の下では波が岩に押し寄せて荒れ狂い、水しぶきが激しい衝撃となって襲いかかる。ペガサスは脚を動かしながら苦しそうに翼をはためかせている。

「頼むぞ、おれのラルフローレン」

 伊吹は必死で声をかけた。

 その声に応えてか、ペガサスはゆっくりと上昇を始めた。ばさり、ばさり……大きな翼がはためくたびに、力強い浮揚力が伊吹たちを押しあげる。

「ラルフちゃん、頑張って!」

 REIも応援し続ける。

 上空をふり仰ぐと、強い陽光に目を射抜かれる。険しい岩石の絶壁は、かたくなに侵入者を拒んでいるようだった。

 だがついにペガサスはやり遂げた。

 ペガサスは最後のひと飛びを終えると、緑の草の上に静かに降り立った。脚を折り、力なく崩れ落ちる。伊吹たちは急いでその背から飛び降りた。

「ラルフちゃん!」とREI。

 ふっと、ペガサスの姿がかき消えた。消えると同時に空中にラルフローレンの紺色のキャップが現れ、ぽとりと落ちた。

「あ……」

 伊吹が目を見張っているうしろで、アリアンが息を切らしている。

「だいじょうぶ?」

 伊吹が訊くと、ひょろ長い足を投げ出して草むらに座りこみ、無理に微笑んで見せる。

「うん、ちょっと疲れたかな」

「そうか、変身術を維持するには大きな魔力を使うって……」

「まあな。だけど悠長なことはしてられない。すぐに魔法兵士たちが来る」

 アリアンがやおら立ちあがって歩き出したので、伊吹はあわててキャップを拾ってかぶり、REIとふたりで急いであとを追いかけた。キャップはしわくちゃだった。


 ポセイドンの果樹園は、まさに楽園のような場所だった。十二世紀の魔法使いたちが、古代の海神ポセイドンの力を借り、冷泉と温泉を湧かせて造りあげたと言われる果樹園。空には七色の虹の橋が架かり、この世のありとあらゆる花が咲いて、あらゆる果物が実っている。そのあいまを縫って、純白の大理石の噴水やあずまやが点在する。あたり一帯にただようかぐわしい香り。木々のあいだを、色とりどりの蝶が金色の鱗粉をまき散らしながら舞っている。伊吹とREIはうっとりとその光景を眺めていた。

「うまそうだなー! ひとつ食べてもいいですか?」

 伊吹が言うと、アリアンはうなずいた。

「どれでも食べてみな。驚くぞ」

 伊吹はビロードのような緑色の蔓から、つやつやと輝く一房の葡萄をもいで口に入れてみた。それは今まで想像したこともないような甘美な味だった。

 ゆっくりと味わっている頭上では、鳥の甘いさえずりが聞こえる。永久にここにいたいとさえ思ってしまう。

「冬のあいだはここはどうなるんですか?」

「冬は来ないのさ。ここは永久に変わらない。そら、その証拠に今食べた葡萄の蔓を見てみろ」

 伊吹がそうすると、そこに突然小さな葡萄の房が現れたかと思うと、見る見るうちにさっきと同じ大きさまで成長した。あっけにとられていると、アリアンが解説する。

「どれだけ食べても、どれだけ踏み荒らしても、この果樹園を変えることはできない。すぐに再生しちまうんだ。ここだけじゃない。アトランティス全体が、永久に変わらないんだ」

「どういうことですか? そんなことありえないでしょう?」

 アリアンはいまいましそうに舌打ちした。「今にわかる。この呪いが大陸のあちこちを侵してることが」

「呪いって? 変わらないのはいいことでしょ? その究極が復活の魔法じゃ? そのためにおれたちは来たんだ」

「わたしはなんとなくわかるな」

 REIが口をはさむ。だが、それ以上は続けようとしなかった。アリアンは首をふり、気を取り直したようにふたりをうながす。

「さあ食料調達だ。できる限りもいでいこう」

 そこで三人は、自分たちの荷物のあいているすきまに目いっぱいの果物を詰めこんだ。やがてアリアンが言う。

「よし、もういいだろ。いくら慰労施設と言っても、ここにも兵士がいないわけじゃない。長居は無用ってこと」

 そこで三人は進んで行った。


 数時間ほど歩き、そろそろ果樹園の外が見えてこようかというとき、それは現れた。最初に気づいたのは、上空を飛びながら進んでいるREIだった。

「何か来る!」

 突然、前方から茶色の塊が突進してきた。しかしREIのおかげで、伊吹とアリアンは間一髪で回避できた。横跳びに地面に転がった伊吹はそのものを見あげて、腰を抜かした。

 それは茶色の泥の塊だったが、頭があり、四肢が生えた、見あげるばかりの大きさの土人形だ。目や口のあるべきところには、うつろな空洞が黒々とあいている。それがこちらを攻撃しようと向かってくる。あまりのおぞましさに吐き気をもよおした。

「伊吹、おじけづいてる場合じゃないぞ!」

 アリアンの声に、伊吹は立ちあがろうとするが完全に腰が抜けていて立つことができない。

「ゴーレムめ、こっちだ! こっちを見ろ!」

 アリアンは叫び、ゴーレムと呼んだ土人形を挑発している。ゴーレムはアリアンのほうへ詰め寄っていく。

「だめっ!」

 と、そこへREIが飛びこんできて、ゴーレムの進路を妨害した。突然現れた白いロボット模型に、ゴーレムはゴーレムなりに驚いたらしい。激しく動揺し、反射的にREIの体を両手でつかんだ。

「REI!」

 声をあげたのはアリアンだった。彼はとっさに駆け出した。続けて伊吹もなんとか立ちあがろうとする。ところが、ふたりが到着する前にゴーレムはもだえ苦しみはじめた。発声器官のない土人形だが、もしあったら断末魔の絶叫が果樹園のすみずみまで響きわたっていただろう。

「REI! こっちへ来い、来るんだ!」

 アリアンが懸命にうながすと、REIは悶絶するゴーレムの両手からどうにか抜け出すことに成功し、急いで彼のほうへ飛んできた。

「アリアンさん!」

 REIはアリアンの胸に飛びこみ、アリアンはその機体を受け止めた。

 ゴーレムは全身をひきつらせたかと思うと、パアンと音を立てて粉々に弾け飛んだ。

 砂煙が広がり、パラパラと土が降ってくる。その中で伊吹は荒く息をつきながら、茫然と目の前の光景を見つめていた。終わったのだろうか? いったいなぜ?

 と――後方から地響きが聞こえてきた。ふり返ると、さっきのゴーレムと同じ形態の土人形が一団となってこちらへ迫ってくるところである。

 誰かの悲鳴があがる。

「進もう!」

 アリアンとREIは両側から伊吹の手を取って強引に立たせ、三人は全力で走りはじめた。


 さらに数時間後、彼らは鬱蒼とした森で倒れこんでいた。伊吹とアリアンは、荒く息をつきながら大の字になっている。REIも、肉体的に疲れるはずはないのだが、地面すれすれの所に不安定に浮いている。

 生い茂る木々は太陽を覆い隠し、あたりを不気味な闇に沈めている。カラスが一匹鳴いて飛び立った。

 アリアンはさっきから、おかしい、おかしいという言葉ばかりを繰り返していた。

 伊吹は腕で目元を隠しながら、絶望的な気分に陥っていた。

(おれは玲を助けられなかった。なぜ? 簡単な話だ。びびって動けなかったんだ。本物の悪意ってやつを目の前にして、恐怖で身動きできなかった。アトランティスにもぐりこむだって? 危険は承知だって? 数日前の日本でそう言えたのは、何も知らなかったからだ。リアルな身の危険に遭ったことがなかったからだ。情報を得ただけでなんでも知ってるような気になってたけど、実際はとんだ平和ボケだったんだ。現実は漫画とはちがう。おれはヒーローじゃなかった。悪と戦うことなんてできなかった。だから玲だって――アリアンへ助けを求めたんだ、おれじゃなく)

 泣き出しそうになるのを必死でこらえた。

「何がおかしいっていうの、アリアンさん?」

 REIの声が聞こえる。アリアンが弱々しい声でつぶやいている。

「あそこにゴーレムがいるはずないんだ。ぼくが十年前にアトランティスを出てくるときには絶対にいなかった。数えきれないほどの魔法兵士たちが岬を守ってた。考えてみれば、ヘラクレスの柱への侵入もあまりに簡単にいきすぎた。魔法兵士がいないんだ。いや、魔法兵士の代わりにゴーレムがあの地を守ってるんだ」

「十年のあいだに配備を変えたんじゃ?」とREI。

「いや、ちがう。アトランティスの永久不変性、これは絶対なんだ。なぜ変わったんだろう。何かがアトランティスで起きてるのかも」

「それとも……わたしたちの旅への妨害のひとつかも」

 アリアンは起きあがった。元々くしゃくしゃの長髪がさらに乱れて草まみれになっている。

「すまない。この旅は、予想以上に厄介なことになりそうだ」

「わたしはかまいません。どんなことでもやり遂げてみせる。伊吹は?」

 REIの言葉に、伊吹は寝たままうめき声をあげるだけだった。

「疲れてるんだろう」とアリアン。「しばらく休憩だ。ゴーレムもここまでは来ないだろう。たぶんあいつらのテリトリーはヘラクレスの柱だけだ」

「ゴーレムは魔法で動くんですよね。いったい誰が動かしてるんですか?」

「おそらく……シヴァだ」

 アリアンはその名前を苦々しそうに吐き捨てた。

「彼ひとりであんなにたくさんのゴーレムを? 変身させたものを維持して動かすのはものすごい労力を使うんでしょ?」

「そのとおりだが、シヴァの魔力は一般的なアトランティス人の比じゃない。この大陸を海上に維持し、気候を司ってるのも彼だと言われてる」

「わたしたち、すごい人に会いに行こうとしてるんですね……」

 REIは考えこむようにしていたが、やがてもう一度電気の青い目をきらめかせた。

「もうひとつ質問があります。ゴーレムは、なぜ突然崩れたの?」

「それはたぶんきみのせいだろう」

 REIは驚いたように空中に飛びあがった。「わたし?」

 アリアンはやっと普段どおりのいたずらっぽい目で笑った。

「ゴーレムは魂のない土の塊だ。人間の兵士とちがって、予想外のことには対処できないのさ。そこへ現れたのが、科学で作られたロボット模型だ。しかもそれは魔法で動いてる。やつらに理解できる範囲を超えてるのも道理だろ?」

 アリアンはしてやったりというような表情で自慢げに言う。REIはうれしそうに優美な体を揺らした。アリアンはふり返って地面に向かって言った。

「さて少年、歩けそうかな。できる限り早く最初の町に着きたい」

 伊吹は長い息をついたが、やがて腕で目元を隠したまま答えた。

「行きます……行くしかないんだ」


 鬱蒼とした森は永久に続くかと思われたが、ついに三日後、木々の切れ目が見えてきた。出口にたどり着いたのである。ところが奇妙なことに、出口が近づくにつれて明るくなるどころか薄暗くなってきた。森を抜けると、空は完全に漆黒に染まっていた。時刻としてはまだ午後の早い時間のはずなのに、あたりはすでに夜の闇に包まれている。空には星ひとつなく、月さえ出ていない。

 ここは常夜の町。

 町の入口には巨大な黒曜石の門がそびえ立っている。門番らしき人間はいない。

 その目前まで歩いて行き、三人して天辺を見あげた。暗闇に沈んでいる門によくよく目を凝らせば、精巧な彫刻がほどこされ、紫水晶と黒真珠で飾られているようだ。せっかくのきらびやかな装飾も、星さえない真の闇の中では、ほんのわずかのきらめきも放つことはできない。

「何か書いてある」

 伊吹は、門の正面左壁を指した。そこには長方形の象嵌がしてあって、流麗な筆記体で文字が彫りこまれている。

 アリアンが読みあげる。

「この門を通る者はうしろをふり返ることなかれ」

 三人は顔を見合わせた。

「どういうこと? そのままの意味?」とREI。

「わからん。前向きに頑張れ! ってことでもないだろうし。いずれにしろ用心に越したことはないだろう」

「どうしてふり返っちゃいけないんですか? ふり返るとどうなるの?」

 アリアンは肩をすくめた。

「うーん、たぶんそれがこの町のタブーだってだけなんだろうな。建国当初の魔法使いたちにはそれなりの理由があったんだろうが、今じゃ知るよしもない。ふり返るとどうなるのかは知らないが、まあ気持ちのいいことじゃないのは確かだね」

 伊吹は聞きながらむっつり黙って腕を組んでいた。それに気づいたREIが、からかうようにまわりを飛び交った。

「伊吹、こわくなったんでしょ?」

「こわいもんか!」

 伊吹は遮るように言って、前に出ようとする。それをアリアンが片手を出して押しとどめた。

「待て待て。みんなだいぶ疲れてる。今日はここで野宿することにしよう」

 アリアンの言葉に、REIが不思議そうに言った。

「町がすぐ目の前にあるのに野宿するんですか?」

 アリアンは首をふる。

「今から町に入るのは危険だ。明日、体力が回復してから一気に通り抜けたほうが得策だろう」

 そこで一行は門のわきに荷物を下ろし、今夜の寝床をしつらえた。さいわい、地面はやわらかな草むらだった。枯れ木を集めてきてライターで火をつけ、たき火をおこす。こういったことはこの数日間の旅のあいだずっとしてきたことだから、伊吹もREIも手慣れたものだった。

 伊吹とアリアンは果樹園からもいできた果物をかじりながら、エメラルド・タブレットに目を落とす。REIも火のそばで静かに浮いていた。

「さて、町についての情報を確認しておこう」とアリアン。「だが……アトランティスに入ってから、ぼくの予想外のことが続いてる。異常事態がこの国に発生してるのかもしれない。そのことを念頭において、先に進んでほしい」

「何が起こっても驚かない。臨機応変に……ということね」

 REIが注意深く言う。アリアンは満足そうにうなずく。

「それで、今ぼくらがいるのがここ」

 アリアンはエメラルド・タブレットに手をかざした。光の線が浮かびあがり、地図が表示される。それは町の全体図のようだった。

 常夜の町は、南北に走る大通りを中心とした縦長の町だった。その大通りを、東西方向へ無数の細い道が横切っている。まるで背骨と肋骨のようだ。タロットカードの死神の図面を思い出し、伊吹は少し身震いした。変に恐怖に弱くなっているらしい。

 次にアリアンは大通りの南端を指し示した。門らしきシンプルな図が描かれている。

「この道はこんなふうに続いていく。町の反対側まで、約一日」

 指を北上させていく。

「すごーい。アリアンさんって、どうしてこんなにいろいろ知ってるの?」REIが無邪気に言う。

「知らないことだってたくさんあるさ。でも地理や歴史は、アトランティス人の教養だからね」

「アトランティスの人たちも学校に行くんですか?」

「いや、魔法の師匠に師事するんだ。アトランティス人だって、赤ん坊のころから魔法が使えるわけじゃない。その素養を持ってるってだけさ。修業を積んで一人前の魔法使いになるんだ」

「そっかあ。アリアンさんも修業したんですね」

 面白そうな声音でREIは言う。飄々としたアリアンが、何年も真面目に魔法の修業に取り組んでいたことが信じられないらしい。アリアンは大人げなくほおをふくらませた。

「まあいいや、話を戻そう。この大通りを北へ抜けると、水晶の谷へたどりつく」

「そして決してうしろをふり返ってはならない」とREIが続ける。

 しばらくたき火のパチパチという音だけが鳴っていた。強張った三人の顔を、炎が下から照らしている。やがてアリアンは首をふり、ふたりをうながす。

「さあ、もう休もう。明日は大仕事だぞ」

 そう言ってたき火の火を小さくした。三人は横になり、眠りについた。


「伊吹……伊吹……起きてる?」

 声が聞こえて伊吹がまぶたをあけると、横にREIの白い機体が浮かんでいるのが見えた。伊吹は答えず、質問で返した。

「なんだよ?」

「ねえ、こないだからなんだか怒ってる?」

「怒ってる? おれが?」伊吹はびっくりして問い返した。

 REIは青い目を瞬かせた。そのたびに、ブゥン……というかすかな機械音がする。

「ちょっとそんな気がしたから。ゴーレムに追いかけられてからなんだか変だよ」

「怒ってない」

 ただ自分が情けないだけだ、とは言えなかった。意気揚々とアトランティスに乗りこんだのに、あんな土人形におじけづくなんて。命の危険は日本にいるときにいやというほど味わってきたはずだ。一年前、玲が病気を発症してからずっと命を救うことだけを考えてきた。それなのに、自分自身の命が危険にさらされたら、腰を抜かしてしまった。幼なじみを守りたいだけなのに、その資格さえないのではないかと思ってしまう。

「怒ってない。ほっといてくれ」言って伊吹は寝返りを打つ。「おまえも寝ないと。いつまでも起きてると体に障るぞ」

「ん……わかった。バイバイ。また明日」

 そう言うと、機械の体は糸が切れたように草むらに転がった。


 次の朝も、常夜の町は夜だった。

「覚悟はいいか」

 アリアンの声に、伊吹とREIはうなずき、門への一歩を踏み出す。巨大な門はまるで洞窟のようで、風が不気味なうなりをあげている。

 門を抜けると急に視界がひらけた。延々と続く石畳の大通りが広がっている。道幅はテニスコートくらい、南北の長さは見当もつかない。

「さあ行こう」とアリアン。

 三人は歩きはじめた。

 静かな町に、靴の音が響きわたっている。通りの建物はみな石造りで、紫水晶が装飾に使われている。民家にまぎれて、商店もぽつぽつあるようだ。万が一を考えるとのぞきこむことすらできないが、パン屋、肉屋、果物屋、香辛料の店、テーラー、貴金属店、さらには武器屋などというものまである。だが、科学文明の国々での一般的な武器と言えば銃だ。しかしこの町の武器は、剣や弓であるらしい。ほかに盾や鎧などの防具を売っている店もある。おそらくそれらはすべて実用目的なのだろう。まったく文化のちがう国に来てしまったことをひしひしと感じる。

「伊吹、武器が欲しいんだろう。そうだな」

 突然アリアンが言い出したので、伊吹はぎょっとした。

「武器? いいやいらない、そんなもの。なぜそんなこと訊くんですか?」

「なんとなくこの先必要になるかもしれないと思ってね……」

 伊吹はなんとも言えず黙ってしまった。確かに武器があれば、多少は自分に自信が持てるかもしれない。REIを守るためにも必要かも。が、なんとなく今この状態で武器を手にするのはずるいことのような気がして、頼りたくない気持ちもあった。

「そうだ、ナイフがいい。それならきみでも使える。この町の黒曜石のナイフは有名だぞ」

 アリアンはふらふらした足取りで、通り過ぎたばかりの店に向きを変えようとしている。

「だめっ、アリアンさん!」

 REIが叫び、アリアンの肩を機械の腕で必死に押し戻した。アリアンはよろめき、ハッとして前を向いた。

「危なくうしろをふり返るところだった!」

 伊吹とREIは混乱しながらアリアンのそばに駆け寄る。

「どうしたの? どうして突然ナイフが欲しいと思ったの?」とREI。

「まったく脈絡なく思い浮かんだんだ。この町が仕掛けた罠かもしれない」

 アリアンは鳥肌を立てて震えながら言う。伊吹はつぶやいた。

「そんな……。ただ自分たちが気をつけてればいい話じゃないんだ。町は罠を仕掛けてくる。おれたちの精神に直接働きかけて」

 正体は不明だが、この町に漂う明確な「悪意」の存在を感じとって伊吹は戦慄した。REIの青い目が明滅している。

「気をつけて行こう。それしかない。とにかく一刻も早く抜けるんだ」

 アリアンは言い、三人は足早に先に進んで行った。

 さらに数時間後、彼らはなるべく会話をとだえさせないようにしながら歩いていた。そうすることで少しでも町からの干渉をさまたげようという試みだ。もっとも、どこまで効果があるかはわからない。そのうちREIが妙なことを言いはじめた。

「おかしいと思わない?」

「何が?」と伊吹。

「この町、全然人がいない」

 言われて初めて気がついたが、確かに町に入ってからほとんど住人に会っていない。ごくまれに、小路を背中を丸めて歩くシルエットを見かけるくらいだ。だがそれも、この数時間でひとりかふたりだけ。通りを歩く人もいないし、左右の店の中にも、店員や客がいないようだった。

「そうなんだよな。妙だなあ」

 アリアンは言い、深刻そうに眉をひそめた。

「これも異常事態のひとつなんでしょうか」

「そうかもしれない」

 伊吹の耳にそれが聞こえてきたのは、そんな会話をしていたときのことだった。

 それは始め、虫の羽音のような小さな音だった。だから音がしはじめてからしばらくは、耳鳴りか何かだと思って気にしていなかった。しかし時間が経つにつれ、その音は大きくなり、やがてはっきりとした音量で耳に届いてきた。伊吹はいつの間にかその音に気を囚われていた。それはこんなふうに聞こえた。

「伊吹……伊吹……」

 自分を呼ぶ声。初めにその声に気づいたとき、伊吹は驚き、横目でREIとアリアンの顔をうかがった。が、ふたりの口は動いているものの、さっきからの雑談を続けているだけで、声とはまったく無関係なのだった。

「伊吹……伊吹……」

 声は名前を繰り返す。こちらを呼んでいるのだ。いったい誰が?

 もちろん町の「悪意」にちがいない。こちらを誘惑しているのだ。決してふり返ってはならない。

 おれはふり返らないぞ、と伊吹はかたく心に誓った。そういう声が聞こえていることをふたりには知らせなかった。ひとりでこの誘惑に打ち勝ったら、失いそうな自信を取り戻せるんじゃないか、そんな気がした。

「伊吹……伊吹……」

 それは絶えず聞こえてくる。雑念を追い払い、ほかのふたりの会話に意識を集中させようとするが、そうしようとすればするほど、声に気を囚われてしまう。ひたいに脂汗がにじみ出てくるのを感じた。

「伊吹……伊吹……」

 そうしているうちに、その声が自分の知っている人のもののような気がしてきた。REI? いやちがう。アリアン? そうじゃない。友達の誰か? 学校の先生? いやちがう、もっと身近の……。

 そのとき、また上空に浮きあがって遠方を偵察していたREIが叫んだ。

「出口よ! もうすぐだわ!」

「伊吹、帰ってきなさい!」

 声は突然大声をあげた。それは伊吹の脳裏に爆発的なフラッシュバックを起こした。

「母さん!」

 彼はついにふり返ってしまった。

 そこにあったのは――黒い影だった。地面から見あげるほどの高さに伸びあがり、こちらを覆いつくそうとする、伊吹自身の影。絶望的なまでに黒く、不吉なまでに広がるそれは、「悪意」そのものだった。

「伊吹、どうして……!」

 REIが前方を向いたまま叫ぶ。同じく前方を向いたアリアンが、とっさにトレーナーの襟首をつかんでくれたが、そのときすでに伊吹の体は猛烈な勢いで影に向かって引きずられていた。

「あああ、取りこまれる!」

「伊吹、踏ん張れ!」

「伊吹、行っちゃだめ!」

「だめだよ、なんて力だ!」

 足が掃除機のように吸引され、体が完全に地面と平行になり、引っ張られた襟で窒息しそうだ。表情もないのに影は不気味な笑みを浮かべているように感じる。タブーを犯した者の末路がこれか。

「あきらめるな、戦え! 武器はないか!」

「ないよ、知ってるだろ!」

 しかしアリアンの言葉に伊吹は勇気を奮い起こし、背中のバックパックの口に手を突っこんだ。丸いすべすべしたものが当たる。果樹園でもいだ果物だ。伊吹はそれをつかみ、力いっぱい投げつけた。影はびくともしない。梨、柿、バナナ、葡萄、苺――影に向かって次々投げつける。影にはなんの痛手も及ぼしていないようだ。影は物理的に傷つけることができないのだ。それでも伊吹はあきらめずに投げ続ける。果物は残り少なくなる。最後に残ったのは桃だった。絶対に負けるもんか! 心の中で叫び、それを投げつけた。

 その瞬間だった。

 激しい悲鳴があがり、影が急速に収縮しはじめたのだ。

「は……? え……?」

 伊吹は顔を覆った腕をそのままに、突然の惨状に目をぱちくりさせた。

 アリアンが前を向いたまま声をあげる。「なんだ、今の悲鳴は? やったのか?」

 伊吹はしばらく、あー、とか、うー、とかしか言えなかったが、もだえているような影は徐々に小さくなり、見あげるほどだったのが数十センチメートルくらいになり、さらに小さくなり、地面の上の小さな染みになったかと思うと、消えた。

「消えた……っぽい」

 伊吹はしりもちをついたまま茫然として言う。

「やった、伊吹すごい! どうやったの?」とREI。

「それがおれにも何がなんだか。ただ果物を投げつけてただけなんだ」

「なんの果物?」とアリアン。

「えーと、最後に投げたのは桃だったかな」

 唐突にアリアンが笑い声をあげたので、伊吹は驚いた。アリアンは涙をぬぐいながら言う。

「桃は神話では神聖な食べ物なんだよ。それでだろうな」

「神話が現実に通じるものですか?」

「ここはアトランティスだよ、少年少女よ」

 伊吹はいまだに事態が飲みこめないでいたが、やがて立ちあがった。それしかできなかったからだ。

 相変わらず伊吹とは逆を向いたアリアンが言った。

「さあ進もう」

「ちょっと待って!」

 と伊吹は言って、影の消えた地面に走っていく。石畳の上に、一振りの剣が落ちているのだ。黒い諸刃の剣で、柄はごくシンプルだが、素養のない彼にも相当の価値を持つものだとわかる。おそるおそる拾うと、ずっしりと重かった。アリアンたちのところまで持って帰った。

「これが落ちてました」

 アリアンはその剣を受け取ると、しげしげと眺めた。

「こりゃ驚いた。オリハルコンの剣だよ。なんでこんなものが?」

「さあ。おれたちが通ったときにはありませんでしたよね。影が消えたときに出現したような気がします」

「たぶんそうなんだろうな。だとしたら、これは戦利品だぞ。きみが持ってるといい」

 伊吹は反射的に断った。「無理! 剣なんて見るのも初めてなんですよ」

 アリアンは伊吹を見下ろして、その愛嬌のある目を細くして笑った。

「これはきみの剣だよ。きみが、タブーの『悪意』に打ち勝って得た品だ。『悪意』がきみに敬服したんだ。昔から名剣は怪物の腹から出てくると決まってるのさ」

 アリアンが、さあと言って剣を差し出すので、伊吹は震えながらそれを受け取らざるを得なかった。どう扱っていいかわからなくて、仕方なくバックパックの口から差しておく。果物がなくなって空になったバックパックの中で、剣は軽快に揺れ動く。

 REIが空中から降りてきて、興味津々にその柄に触れている。伊吹はなんだかくすぐったかった。

「行こう」

 そう言って、一歩前に踏み出した。


 水晶の谷は、果てしなく深かった。

 はるか遠くにかすんで見える白い楼閣を、谷がまるで土星の輪のように環状に取り巻いている。その楼閣が首都アクロポリスだ。ついにここまで来たのだ。だが、輝く峡谷がそこまでの道を妨げている。

 伊吹はその谷の断崖まで歩いていき、そっとのぞきこんでみた。底は見えなかった。谷壁から底へかけて、大小の水晶の塊が青白い輝きを放つばかりである。スニーカーについていた小石が、パラパラと音を立てて崖下へ落ちていった。底へ着く音は聞こえない。

「下りていくのは無理だな」

「どうする?」とREI。

「アリアンさん、またペガサスを出してくれませんか」

 伊吹がそう頼んでアリアンのほうを向くと、彼が真っ青な表情をしていたので肝をつぶした。

「さっきからやってる。でもできないんだ」

「えっ?」

 アリアンの手の上には、どこで拾ったのか鳥の羽毛が載っていて、彼は懸命に呪文を唱えている。

「羽よ、シルフの賜物よ、パラケルススの名において命ずる。元素を維持し、具象を組み換え、空飛ぶ獣となれ」

 しかし羽は羽のまま、そよとも変化も見せない。伊吹も狼狽しながら言う。

「ほかのもので試したらどうです? ほら、これ!」

 かぶっていたキャップを差し出す。アリアンは再び試しはじめる。

「帽子よ、シルフの賜物よ、パラケルススの名において命ずる。元素を維持し、具象を組み換え、空飛ぶ獣となれ、なれ、なれったら、なれ!」

 力を込めてどうなるわけでもないのに、キャップを握りしめる。が、なんの変化もない。

 それから思いつく限りのほかの物体を使って試みたけれども、アリアンの変身術が発動されることはなかった。

 ついにあきらめて、ぐったりと地面に座りこむ。

「アリアンさん……」REIが空から降りてきて、心配そうに声をかける。「どうしてこうなったのかな? この一帯に、魔法を使えなくする結界でも張ってあるとか?」

 アリアンはわからないと言って、力なく首をふる。伊吹は、

「変身術じゃなくても、ほかの術ならどうですか? 何かここを越えるためのいい術があるかも」

 アリアンはまたも首をふった。

「だめなんだ」

 消え入りそうな声だった。

「魔法使いには、それぞれ得手不得手がある。たいていの魔法使いは、自分に適応した術ひとつしか使えないものだよ。それがぼくには変身術だったんだ。火や水を操る術は使えない。すべての魔法を使いこなせるのは……アトランティス広しと言えどもシヴァくらいだろうね」

「そうなんですか……」

 伊吹とREIは顔を見合わせる。まったく予想外の展開だった。目的地を前にして、完全な手詰まり状態である。だが一番気落ちしているのはアリアンだろうから、責めることもできない。

「疲れてるだけですよ!」とREI。

「そうですよ、休んだらよくなりますって」伊吹も言う。

 だがふたりの励ましは逆効果のようなのだった。ふたりはアリアンの横に腰を下ろした。そうして三人でしばらく休んでいた。

 伊吹は必死に打開策を考えるが、これといったものは浮かばない。谷底へ下りるのはあまりに危険すぎる。足を滑らせて死ぬか、底へたどり着く前に衰弱死するかの二択だろう。それとも、谷のふちに沿って歩いて、比較的両岸の距離が狭いところを探そうか。そうしてなんとかして向こうへ渡る。……とても現実的じゃない。

 考えている横でREIが咳をした。機械の発声器官が発しているためか、妙な音に聞こえた。

「だいじょうぶか?」

「もちろん」REIは笑って言う。

「おまえこそ疲れたんなら休んだほうがいいんじゃないか?」

「だいじょうぶだってば。どうせ本体はベッドで休んでるんだから」

 ふとアリアンが口をひらいた。

「最後の手段なんだけど……」

 伊吹とREIは同時にふり向いた。アリアンは続ける。

「こうなったら、あいつにダメもとで頼んでみるしかない」


 歩きながらアリアンは「あいつ」のことを、「まず見込みなし」とか「絶対協力してくれるはずない」とか「あいつはぼくを憎んでる」とか言っていた。

 その場所にはほどなく着いた。水晶の谷近くの森。その中で密やかにたゆたう泉だった。まばゆく差しこんでくる木漏れ日を反射して、澄みきった水面をたたえている。

「なんてきれい……」

 REIがうっとりと言った。

 アリアンはこの期に及んで躊躇しているようだったが、やがて意を決して泉の前に立った。

「いるかい、ウンディーネ!」

「ウンディーネ?」伊吹は素っ頓狂な声をあげた。「それってあのエレメントを司ってるっていう精霊?」ウィキペディアの記述では確かそうだった。

 アリアンは眉をひそめて手をふった。

「そのウンディーネでまちがいないが、本人の前で精霊なんて言っちゃだめだ。あいつ、そのことをすごく気にしてんだから」

「どういうことですか? ウンディーネは精霊じゃないの?」

「それは合ってる。ただあいつの場合は、ちょっと複雑でね」

「へえ?」

「くわしくはあとだ。ウンディーネ、ウンディーネ! 聞こえてるんだろ! 言いたかないけど、実は助けてほしいんだ!」

 泉はしばらく何事もないかのように凪いでいたが、突然渦を巻きはじめたかと思うと、中央に輝く銀色の蜃気楼が立ち昇った。その蜃気楼の中に幻のような人影が見える。いや、よく見ると、中にいるのではなかった。蜃気楼そのものが、その人なのだ。その人は水面に立っているように見えた。腰まである長い髪、三日月形の眉、古代ギリシア人のようななめらかな質感の長衣。背は高く、手足はほっそりとして星の輝きをとじこめたような銀白色だ。伊吹は今までこんな美しい女性を見たことがない。幻のように実体のない、だが確実にそこに存在する人。

「よくも、おめおめとわらわの前に姿を見せられたな。けったいなかっこうをしおってからに」

 その声は、確かに彼女が発したものであるのに、まるで体の周りを漂う霧のように全方位から聞こえてくるのであった。

「その子らは何者じゃ」

 ウンディーネは水面上で腕をふる。

「こいつらは伊吹とREI。REIのほうはこう見えても人間なんだ」

 アリアンが答えたとたん、三人の真後ろに雷が落ちた。伊吹とREIは前のめりに吹っ飛ばされ、顔面強打する直前にあやうく地面に手をついた。頭の中がパニックになる。

「実はちょっとわけありでね」落雷をものともせず、アリアンは涼しい声で会話を続けている。

「よもや助けてほしいとはそのことではあるまいな? 科学世界の人間なぞ真っ平じゃ!」

「わかってるわかってる。そうじゃなくて、ちょっとばかり水を出してほしくてね。きみなら簡単だろ?」

 ウンディーネは高慢にあごをあげてフンと鼻を鳴らした。

「そなたの助けなどするつもりは毛頭ない」

 アリアンは情けなくも絶句した。

 伊吹が見たところ、どうやらこの女性と過去に何やらあったらしい。すぐにそれとわかるほど駄々漏れである。だが、これほどの美しさであっても、脈絡なく雷を落とす女性では……。

 姿勢を持ち直したREIが、空中を一歩前へ踏み出した。

「ウンディーネさん、わたし、こんな姿で変に思われるかもしれないけど……」

 ウンディーネは眉をあげ、REIのほうを向いた。

「本当のわたしは、病院のベッドで寝たきりなんです。このままいけばあと数か月の命だって言われてます。そうなるのは覚悟してたつもりだけど、ここにいる幼なじみの伊吹は、絶対あきらめないって言って、いろんな治療法を探してくれたんです。そして見つけたのが、アトランティスの復活の魔法……。アリアンさんはすべて知って、この機械の体にわたしの魂を吹きこんでくれました。そしてわたしたちをここまで案内してくれたんです。それなのに水晶の谷にはばまれて……」

 ウンディーネは黙って聞いていたが、やがてアリアンのほうを向いた。

「そなた、変身術はどうした」

 アリアンは肩をすくめた。「なぜか使えない」

 REIの言葉が続けられた。

「正直わたし、自分ひとりだったらここまで頑張れなかったと思う。でもわたしのために、命がけで冒険してくれる仲間がいることを誇りに思います。そしてみんなのために生きたいって思う。お願い、ウンディーネさん。あなたの力が必要なんです。お礼は必ずしますから、だから、どうか……」

「おっ、おれからもお願いします!」伊吹は頭を下げた。

 ウンディーネはしばらく無言だった。一陣の風が森を吹き抜け、彼女はそっとため息をついた。

「こんなかわいい子たちに頼まれては、断れるはずなかろう」

「ウンディーネ、また……」アリアンはささやく。

 ウンディーネはキッと彼をにらみつけ、うしろを向いた。両手を高くかかげ、空をあおいだ。長い髪がさらりと背中に流れる。

「水よ、わが支配下にあるものよ、パラケルススの名において命ずる。元素を維持し、具象を組み換え、この者たちの道しるべとなれ」

 手を下ろすと、またこちらを向いて言った。「行くがよい。谷のふちの一番高い木から東へ百歩のところ、そこにそなたたちの助けとなるものがあるはずじゃ」

「ありがとう!」

 伊吹とREIは口々にお礼の言葉を言った。

 精霊の姿は消えていく。銀色が白へ、白から透明へ。消えゆく幻影の中で、天上から降り注ぐかのように彼女の声が聞こえてきた。

「そなた、こわいのだね。魔法を使うためには恐怖に打ち勝たなければ。さようなら、ガーネッシュ、科学の子供たち。もうわらわを起こさないでたもれ」


 水晶の谷へ戻ると、まるで様変わりしていた。

 谷を水が満たしているのだ。巨大な渓谷のふちまで満たす、信じられないほどの量の水。

 さらに、さっきウンディーネが言っていた場所へ行ってみると、そこに銀の小舟があった。

「これで渡れってことか」とアリアン。

「ウンディーネさんてすごーい!」とREI。

「すごいもんか。自分が気に入らなきゃ、雷を落とすような女だぜ」

「でもあたらなかったですよ? わざとあたらないようにしたんじゃ?」

 アリアンは何も言わず、鼻を鳴らした。

 その後、三人は小舟を水晶の谷川へ下ろして乗りこむと、手でかきながら向こう岸へ渡ったのだった。

 岸へ小舟をあげるとほぼ同時に、谷を満たしていた水は消え去った。あとには輝く水晶の谷。気づくと、地面に置いた小舟も変化していた。銀の盾がそこにあった。

「オリハルコンの剣に、銀の盾か。これで装備は整ったな」

 アリアンは言って盾を拾いあげ、伊吹に手渡した。

「おれが持つの?」

「きみしかいないだろ。しっかり彼女を守るんだぞ」

 伊吹は目を見張ってREIを見る。REIは無言でぷかぷか浮いていた。

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