マクドナルドは密会に最適

 現在。日本、東京。午後十時。

 十五歳の高校生男子、戸輪 伊吹(とわ いぶき)は、自室でノートパソコンを使って調べものをしていた。始めたのは夕食後からだから、すでに数時間が経過している。それでも見つからなかった。

「クソッ……」

 焦りはイライラに変わってくる。病院、薬、研究……思いつく限りの検索語は調べつくした。けれど、目的に合うような情報は見つからない。「新薬完成か?」というようなニュース記事を見ても、現状では治験段階にさえいっていないものが多い。ほかに見つかる情報も「研究段階」「可能性」「解明に道筋」などというものばかり。伊吹が求めているのは、今このとき、この瞬間に実際に効力があるものだった。そうでなければ、たとえ十年後に画期的な成果が出たとしてもなんの意味もなかった。

 すでに関連書籍は調べつくした。図書館で論文も読みつくした。情報を持っていそうな大人たちには聞きつくした。そしてここ最近はインターネットでも手当たり次第に調べているが、膨大な時間を費やしても結局は同じ結果に行き着くだけだった。“解決策はない”。

 ため息をつき、椅子の上で伸びをする。そろそろ寝る準備をしなければ明日に差し障りが出るだろう。最近よく眠れず、学校でも身が入らないことが多い。体育の時間もボーっとしていてバスケットボールが頭にぶつかったものだから、友達にひどく心配されてしまった。そんなことをつらつら思い浮かべながらふと机の横に目をやると、本棚が視界に入った。漫画やゲームの攻略本にまぎれて、コンビニエンスストアで売っている、ペーパーバックの娯楽本が並んでいる。伊吹の持っているのは、サブカルやアンダーグラウンドなテーマの下世話な内容のものばかりである。たとえば、怪獣、都市伝説、裏業界、歴史のトンデモ話……。その中に『大陸魔法国家アトランティスの真実!』という題名のものがあった。

 アトランティスは、地理的には北大西洋に位置する小規模大陸である。十二世紀ころ、ヨーロッパにおける魔女狩りから逃れた魔法使いたちが造りあげ、大陸全体がひとつの国家となっている。その国では、伊吹たちが住むような現代国家の科学文明とはまったく異なる、魔法による文明を築きあげているらしい。らしいというのは、他国との国交が一切ないので詳しいことはわかっていないからだ。そもそもが、一般人による迫害を撃退するために、建国当初から全土に魔法による結界が張られている国だ。結界に触れたものは、船でも飛行機でも瞬時に破壊され海の藻屑となるらしい。そのようなわけで、アトランティスといえば、現実に存在する二十一世紀のオカルトのひとつなのであった。

 本には確か、アトランティスは魔法による文明が花ひらいた夢のような国などということが書かれていた。自動車の排気ガスも、けばけばしいネオンも、人ごみの騒音も一切なく、花が咲き鳥が歌う楽園のような地。住人はみな(実際彼らは全員が魔法使いであるが)美男美女で、魔法で永遠の若さを保っているのだという。もちろんこの本はただの娯楽本なわけだから、伊吹にしたところで書いてあることをすべて信じたわけではない。

 だが、アトランティスという国が現実にあり、そこでは魔法が使われているというのはまぎれもない事実である。魔法、という言葉に伊吹は惹かれた。思いつく限りの検索語がなくなった今、もはやそんな非現実的なものにさえすがりつきたい気分だった。

「アトランティスか……。まあダメでもともとだしな」

 今日最後の検索と思って、パソコンのディスプレイ上の検索ボックスに「アトランティス」と入れてみた。すぐに数千万件の結果が画面に現れるが、例によって一番始めはウィキペディアだった。伊吹は机にほおづえをつき、マウスでウィキペディアへのリンクをクリックした。と――。

「えっ」

 思いがけない結果が現れ、思わず声をあげる。アトランティスのことなど、大陸外の人は誰も知らない。それほど厳重にあの国は秘密を守っている。そのことは常識だし、小学生でも知っている。ところが、ウィキペディアの記事に書かれているのは、驚くほど膨大な量の情報だったのである。あわててウェブブラウザのステータスバーに目をやると、まだすべてのデータを読みこめておらず、待機中アイコンがクルクル回っている。つまり数秒で読みこめないほどの莫大な情報量なのである。目次を見てみる。地理、風土、人種、産業、文化、魔法。どれも、どんな専門書でもかなわないほどの字数の詳細な記事だ。伊吹はすぐに魔法の項目をクリックした。そこにはこんなふうに書かれていた。

――魔法……アトランティスは魔法文明の国であり、魔法は市民にとっての最重要知識である。魔法の根幹は、エレメントと呼ばれる四大元素の操作術である。エレメントには地・水・風・火があり、それぞれノーム・ウンディーネ・シルフ・サラマンダーと呼ばれる精霊がそれらを司っている。最も基本な術は、無から水や火を起こし、地や風を操ることである。また、これらエレメントを組み合わせて応用する術も多岐にわたる。以下に一覧を示す――

 その下に魔法の一覧の長大な表が掲載されている。伊吹は目を皿のようにしながら、長い時間をかけてスクロールしていった。雨を降らす術、雷を起こす術、動物を操る術、ゴーレムを作る術、変身術……。表の終わりにくると、まるでつけたしのようにさらに数行が書き加えられてあった。

――なお、すべてのエレメントを組み合わせ、極限まで魔力を高めて用いる究極の魔法が存在する。それが復活の魔法である。この魔法は黄金の林檎を必要とし――

 伊吹は息をのみ、その下に目を走らせた。が、その先はまだ読みこまれていない領域だったので待機中アイコンがちらついているだけだった。すぐに、すべてを読みこむために「再読み込み」ボタンを押してみた。すると、あろうことか、そのページのすべてが空白に変わってしまったのである。

「なんだよ、これ……」

 あとに残ったのは、アトランティスという大きな題字と、「アトランティスは十二世紀建国の大陸魔法国家である」という申し訳程度の一文だけ。あの膨大な情報が一瞬にして削除されてしまったのである。伊吹がこのページを見始めたのは三十分ほど前だから、ちょうどその時間帯に、何者かがこのページの情報を上書きしてしまったのだ。

 放心状態になって一、二分椅子の背もたれに寄りかかって動けないでいたが、ハッと気を取り直してもう一度パソコンに向かう。ウィキペディアには「履歴表示」というページがあり、その記事の編集履歴を見ることができるのだ。それを見れば、誰があの詳細な記事を書き入れ、また、誰がそれを消したのかがわかるはずだ。

 さっそく見てみると、まさに今日の「22:19」に膨大な量のデータが追加されていることがわかった。その人物は「アリアン」というハンドルネームで表示されている。さっき見た記事は、この人物によるものでまずまちがいなさそうだ。さらにその追加が「23:14」に削除されている。こちらはIPアドレスが表示されているだけで、それだけでは伊吹にはなんのことやら不明だった。伊吹はアリアンという人物の「利用者紹介」ページをひらいてみた。するとそこには文章による説明は一切なかったが、意外にもメールアドレスが記載されていた。

 伊吹は気づくとメールを打っていた。わらにもすがる思いだった。


 次の日の昼、伊吹は駅前のマクドナルドにいて、窓に面した席に座っていた。ここなら店に近づく人間がすぐ目に入ると思ったからだ。学校は昼休み。こっそり抜け出してきたのだ。

 今思えば、と伊吹はコーラをストローですすりながら考える。昨日の晩はなんて無謀だったんだろう。夜中に書いたラブレターは、次の日読み返すと見られたものじゃないとはよく聞くけれど、なんだかそういう気分だった。普段の彼だったら、インターネットで一度やりとりしただけの人物に会ってみようなどという興味は起こさない。だが、ほんのわずかでも望みがあるなら、少しくらいのリスクはかまわないと思った。いや、少しくらいじゃない。怪我をしても傷を負っても、それでも――伊吹は紙コップを握りしめる。

 昨日メールで約束した時間は午後一時。そろそろやってくるころだろう。本当に来るとすればだが。

 いったいアリアンとは、どんな人物だろうか。アトランティスの情報を握っていることはまちがいない。そして、その情報の中に復活の魔法があるのだ。問題はアリアンがどういう出自の者で、危険な人物なのかそうでないのかだ。男だろうか、女だろうか。年齢はいくつだろうか。根拠はまったくないが、伊吹はなんとなく中年の太った男を想像していた。漫画やテレビの影響で、パソコンに詳しい人間となるとそんな偏見にまみれたイメージが浮かんでしまうのだ。

 だからさっきからそんな男が通らないか、外を凝視しているのだが、真昼の駅前通りにいるのはサラリーマンや学生らしい若者たちばかりだった。

 と――ひとりの男が店に入ろうとしている。伊吹は素早く相手を観察した。年のころは三十歳前後だろうか。黒っぽい長髪に、ひょろひょろと長い手足。何より目を引くのは、原色のサイケ模様のシャツに白いパンタロン、さらには肩掛けの籐編み鞄と、まるで数十年前に流行したというヒッピーのような風貌だった。

 男は自動ドアを通り抜けて店内に入ると、レジに行くようなそぶりも見せずに、ふらふらと、だが真っ直ぐに伊吹のほうへ向かってきた。伊吹の願いとは裏腹に。

 そして目の前で立ち止まった。

「戸輪伊吹……くん?」

「アリアンさん?」

 お互いにぽかんと顔を見合わせた。ふたりがふたりとも予想外の見た目だったのである。

 先に呪縛が解けたのはアリアンのほうだった。頭をかきながらぼそぼそとつぶやく。

「なんだ、女の子かと思ってた。名前からして」

「よくまちがわれるけど……がっかりしたんですか」

「そうじゃないけど」

 明らかにがっかりした様子で、この若い男は言った。

「よくおれがわかりましたね」と伊吹。

「ああ、学生服って聞いてたから。この時間帯じゃ学生服はきみくらいだったし。でも学生服って……」

「女子の制服を期待してたんですね」

「そうじゃないけど」

 伊吹は失望しはじめていた。どうも、期待していたような、有益な情報を与えてくれそうな人物ではなさそうなのである。いや、それどころか、はっきりと「ヤバい」と感じていた。

 アリアンはおかまいなしに、ひょろ長い体を伊吹のとなりの椅子にすべりこませた。

「戸輪くん、いや、伊吹くん?」

「どっちでも」

「じゃあ、まあ、伊吹くん、アトランティスについて知りたいってことだけど」

「そうです」伊吹は慎重な口調で言った。

「何が知りたい?」

「一番知りたいのは、魔法です」

「なるほど」男の目がキラリと光った。「言うまでもなく、アトランティスは魔法国家だ。歴史的成り立ちについては、学校で大体のことは習ってるね?」

 伊吹がうなずくと、アリアンは満足そうな顔になって続けた。「魔法について何が知りたい?」

「復活の魔法」

 伊吹は男をまっすぐに見据えて言った。アリアンはひゅっと息を吸いこんだあと、面白そうな顔つきになった。

「へええ、そうくるか。そいつは究極の魔法ってやつだぞ」

「知ってます。昨日そこまでは読んだんで」

「ふうん……」

 アリアンは考えこんでいる様子だったが、やがて話しはじめた。マクドナルドの店内は昼時とあって混んできたようだ。伊吹にとって人々のざわめきを背景に聞くその話は、どこか現実離れしているようで、最初はうさんくさく思っていたものの、気がつくといつの間にか熱に浮かされたように聞き入っているのだった。

「復活の魔法は、魔法の基本元素と言われるエレメントの、地・水・風・火のすべてを結集させて発動する魔法だ。その名のとおり、人間を復活させる。すでに死んだ人間に対しても有効だし、怪我や病気で瀕死の人間であっても、まったく健康な状態に戻すことができる。ただし、アトランティスに住む魔法使いなら誰でも使えるわけじゃない。発動にはふたつの条件が必要だ」

「それは?」

「ひとつは強大な魔力。もうひとつは黄金の林檎というマジック・アイテムだ」

「黄金の林檎……」

「アトランティスの首都アクロポリスの宮殿に、あの国を統べる大魔法使いがいる。名前はシヴァ。その宮殿の中庭には特別な林檎の木が生えている。その木には光り輝く黄金の林檎がなっていて、その林檎を食べることによって復活の魔法の発動が可能になるんだ」

「じゃあ、その人でないと復活の魔法は使えないということ?」

「いや、黄金の林檎を食べて、かつ彼に匹敵するほどの魔力を持つ者なら可能だ。今のアトランティスで言えば、たとえばそうだな……竜騎士シグルス、北の魔女、泉のニンフのウンディーネ、それからシヴァの弟子ぐらいだろう」

「その人たちには簡単に会えるんですか?」

「もちろん彼らはアトランティスにいる」

「うーん、てことは……」伊吹は考えこみながら言う。「アトランティスに実際行くしかその魔法を使う道はないんですね」

「そうだ」とアリアンはうなずくと、座り直した。「さあ、ぼくは話した。今度はきみの番だぜ。なぜこんなことを知りたい?」

 伊吹はアリアンをじっと見つめた。初対面で得体のしれない男だが、どこか愛嬌があって憎めない。もしかしたら今の話は全部作り事かもしれない。だけど、妙に聞き逃せない説得力があった。それに、と伊吹は考える。今日の今日までやれることはすべてやりつくしたじゃないか。今はもう可能性があるならなんだってやってみるべきだ。もうあまり時間は残されていないのだから。

 伊吹は射すくめるように相手を見つめながら答えた。

「助けたい人がいるんだ。魔法の力を借りたい」

 アリアンの目が大きく見ひらいた。

「そんな理由とはね」

「もしその復活の魔法が、アトランティスに行くことでしか使えないんだったら、おれをそこに連れてってくれますか?」

 一呼吸置いてアリアンは答えた。

「詳しく聞こうじゃないか」


 病室はいつもどおり白く、消毒薬のにおいがした。

 少女はベッドの上で青白い頬をほんのりピンクに染めて、伊吹と、それからとなりに立っている見知らぬ男を見あげている。半田 玲(はんだ れい)は、伊吹の幼なじみだった。黒髪を二本の三つ編みにして浴衣の胸の上に垂らしている。なんだか数日前に伊吹が来たときよりも痩せたようだった。

「玲、元気か」

「うん、すっごく」玲はにっこり笑ったが、すぐに顔を曇らせた。「伊吹、学校は?」

「いいだろ、別に」伊吹は唇をとがらせる。

「もう、だめでしょー、ちゃんと行かなきゃ!」

 玲はふくれっつらで言ってから、幼なじみのとなりに視線を注いだ。

「その人は?」

 その言葉に、伊吹は、うしろで居心地悪そうにそわそわしているアリアンをふり返り、紹介した。

「この人は、えーと、ハンドルネームはアリアン。いや、ネットで知り合ったんだ。実はその、もしかするとだけどな、おまえの病気を治せる鍵を握ってるかもしれないんだ」

「どういうこと?」

 玲は大きな目を瞬かせる。

 それから数十分、伊吹とアリアンは大汗をかきながら、マクドナルドで話し合ったことを説明した。玲は当然最初はまったく信じられない様子だったが、幼なじみの熱心に説明を続ける姿に、最終的には理解を示した。

「うーん……とりあえずはわかったと思う。でも、行くんだったらわたしも連れてって」

「はあ?」

 伊吹は素っ頓狂な声をあげた。

「何言ってんだ、無理に決まってる」

 玲は強情に言い張った。

「伊吹はいつも無謀なんだから! 危なっかしくて目が離せないよ。どんな危険な冒険になるかもわからないんだよ? 一緒にカブトムシ捕りに行って、自分に任せろって言ったくせに木から落っこちて肋骨を折ったのは誰? あのときだって何度も危ないよって言ったのに」

「そっ、それは小学校のころの話だろ。とにかく病気のおまえを連れてくなんてできない」

 玲はぐっと言葉につまって黙りこんでしまう。その目には涙が浮かんでいた。伊吹はハラハラとその様子を見守ることしかできなかった。しばらくして玲はまた話しはじめた。

「伊吹がずっと前から、わたしのために治療法を探してくれてるのは知ってる。伊吹にもお父さんにもお母さんにも、わたし迷惑かけっぱなし。だからもういいの。いっぱいしてくれたから、もうそれだけで十分。きっとわたしが十五歳でこの世からいなくなるのは運命なんだと思う」

「なんだよ、運命って!」伊吹は思わず叫んだ。「運命ってのは、ただ受け入れるだけのものなのか? そうなる前にもがいて挑戦してみて、それでもだめならそれは運命かもしれないけど、挑戦してみもしないで受け入れるのは、ただのあきらめだろ」

 玲はうるんだ目で伊吹を見つめていた。

 そのとき背後で、アリアンが遠慮がちに咳払いをした。

「あー、おふたりの心配はごもっとも。実はそれについて、ひとつの解決策になるかもしれないものがあるんだが」

「なんです?」伊吹は眉をしかめてふり返った。

 アリアンは口笛でも吹きはじめそうな様子で、自分の鞄からあるものを取り出した。それは高さ二十センチメートルくらいの、白い人型の機械だった。メカニカルかつシンプルで、洗練された形。背中には小さな翅状の突起がある。光沢のあるプラスチックのコーディングの色合いは、なんとなくバニラアイスクリームを思い出させた。

「ぼくの作ったロボット模型で、〈Rapid Eclectic Identity(機敏性折衷型主体機関)〉って呼んでる。偶然にも略称はREI」

 伊吹と玲が不思議そうに見ていると、アリアンはそれをバランスよく手のひらの上に立てた。それから奇妙な呪文を唱えはじめた。

「鉱物人形よ、ノームの賜物よ、パラケルススの名において命ずる。元素を維持し、具象を組み換え、半田玲の魂をその身に宿せ」

 瞬間、玲の口から小さな悲鳴のような声がもれた。目がとじ、体の動きが止まる。伊吹が驚いて彼女の肩を揺さぶろうとすると、何かが背中にあたった。反射的にふり返ると、さっきまでアリアンが持っていたロボット模型REIが、空中にぷかぷか浮いている。ふたつの青いアーモンド形の目が光っている。

「こっ、これ動くのか?」

「わたしよ。玲よ」

 伊吹はあやうく倒れるところだった。なんて言った、このロボットは!?

「ほんとなの。わたしも自分で驚いてるけど、でも変に自然に受け入れられるの。わたしが動こうと思えばこのロボットは動けるし、飛ぼうと思えば飛べる。このロボットがわたしなの」

「は? え?」

 アリアンが口をはさんだ。「変身魔法の応用の一種だ。一時的に人の魂を物に宿らせることができる。これを維持するのはすこぶる魔力を使って大変なんだけど、このロボットみたいに、内部に魔法によって動く動力機関があれば必要最低限で済むんだ。だから彼女も一緒に旅に出られるよ。出ようと思えばだけどね」

「出たい! わたし、こんなに自由なのはほんとに久しぶり。病気になって以来こんなふうに動けたことなかった」

 ロボット模型であるところのREIは楽しそうに笑い声をあげて、病室の中を縦横無尽に飛びまわった。背中の翅の下からガスが噴き出して飛行できるようになっているのだ。伊吹はあっけにとられて見ている。

「ねえ伊吹、わたしもアトランティスに行くわ。だってわたしの治療法を探しに行くんだもん。伊吹だけ危険な目に遭わせるのはいや。いいよね?」

「そりゃまあ……そのかっこうなら危険もないだろうし……」伊吹はごにょごにょとつぶやきながら、それにしても「危険」という言葉をいったい自分はどういう意味で使ったのだろうかと考えた。玲の体調について? それともこの旅自体?

 REIはシューッと音を立てながら、空中からアリアンのところまで移動してきて言った。

「アリアンさんも魔法使いなんですね。気づかなきゃいけなかったのに」

「まあそうでなきゃ、アトランティスについて詳しく知らないよね」とアリアン。

「ねえ、あなたいったい何者?」

 REIの問いかけに、アリアンは謎めいた笑みを浮かべた。

「きみらはぼくに、自分たちについてたくさんのことを開示してくれた。ぼくもそうしよう。

 ぼくの目的は、魔法と科学の融合だ。二十一世紀の文明は、魔法だけでも科学だけでもやっていけない。今、世界を覆っている閉塞感はそれが理由だと考えてる。そこで両者の融合だ。REIはそのひとつの結実さ。科学で作られたロボットを動かすために魔法を使う。これによって、科学の面から言えば石油などの化石燃料を使わなくてよくなり、魔法の面から言えば魔力のコストを最小限に抑えることができる。ぼくはその成果を信じて研究を続けてたんだが、新機軸ってのは気に入らないやつも多くてね。今のところ普及への望みは薄い。実を言うと、魔法使いの師匠から破門されちまったんだ。そこで仲間を探してるってわけさ。

 ウィキペディアの記事は言ってみれば、一種の釣り餌だな。引っかかってくれる人間を探してた。きみらみたいな科学文明の若者がアトランティスに来て、魔法を実際に見て、そうしてアトランティスと科学との懸け橋になってくれたらうれしい……と思ってた」

 ただし、とアリアンは続けた。「伊吹、きみは知ってるな。昨夜、何者かがぼくの書いた記事を消したこと」

 言われて伊吹は思い出し、うなずいた。アリアンは続ける。

「何者かがアトランティスへの旅を妨害しようとしてる」

「それは誰?」

「予想はつくけど、今は言えない。だが、アトランティス側の人間であることは確かだ。魔法を使って科学世界へ介入してきたんだ。正直に言おう。この旅は危険なものになるかもしれない」

 伊吹と、空中に浮かんでいるREIは、顔を見合わせた。伊吹はREIに語りかけた。

「玲、おれはおまえを助けたい。その鍵はアトランティスにあると思う。少しでも可能性があるならやってみないか」

「いいわ。賭けてみる」

 アリアンが大人げなく飛びあがって喜ぶ。「そうこないと!」


 次の日の早朝、伊吹はバックパックを背負い、自宅のリビングのテーブルにそっと書置きを残して家を出た。

――父さん、母さん、しばらく留守にするけど心配しないで。探し物を見つけに行ってくるだけです。必ず帰ってきます――

 数時間後、伊吹、アリアン、そしてアリアンの籐編み鞄の中のREIは、羽田空港から一路ヒースロー空港へ向かって飛び立った。

 飛行機のエコノミークラスの席でこれからの旅程を確認する。アリアンが言うには、アトランティスへ行くためには、日本からイギリスへ飛び、イギリスから空路で向かうのが最も効率的だという。しかしアトランティス行きの手段は飛行機にしろ船にしろ、世界各国どこにもない。

「空路って、どうやって?」と伊吹が尋ねると、アリアンはにやりと笑って現地で教えるとだけ告げた。

「それに、アトランティスには全土に結界が張ってあるっていうけど、どうにかたどりつけたとしても、結界によって跳ね返されるんじゃ?」

「うん、それだ」

 アリアンは言うと、大学ノートくらいの大きさでほのかに緑色に発光している薄い石版を取り出して、膝の上に置いた。

「ぼく特製のエメラルド・タブレットだよ。きみらの世界のタブレット・コンピュータをヒントに作った。ただし動力源は魔力だ」

 手のひらをかざすと、光の模様が踊りはじめる。気がつくと、シンプルな線状の地図が板の表面に浮かびあがっているのだった。海の中央に、円形に近い形の大陸が描かれている。

「これがアトランティス大陸」アリアンは指差す。「上空から全土を結界が覆ってる。もう八百年以上も前からね。だけど、完全に外部を遮断してしまうと、国内で災害が起こったときや、またはなんらかの理由で中の者が外に出る必要がある場合に困ったことになる。そこで魔法使い連中は、たった一か所だけ切れ目を作ったんだ。それがここ」と言って、その大陸の南部の突端に指を移動させた。突き出た形をしている。

「ここは?」

「ヘラクレスの柱と呼ばれる岬だ。ここが結界の切れ目になっていて、アトランティス唯一の出入り口だ。ぼくもここから出て、いろいろあって日本にたどりついたというわけさ」

「なるほど……。そういえば日本語うまいですね」

「ああ、完璧にとけこんでるだろ。しぐさや服装もだいぶ研究したからね」

「えっ、その服装も研究の成果なんですか?」

 思わず皮肉を言ってしまったが、アリアンはまったく頓着せず(と言うより気づいていないのかもしれない)、

「きみもこいつを使いな」

 と言って、プラスチックの小さな円形の入れ物を取り出した。ふたを回してひらくと、中にグリース状の白いクリームが入っている。

「なんですか、これ?」

「耳の穴に塗ってみろ」

 アリアンはクリームに指を突っこみ、伊吹の目の前に差し出してくる。伊吹はいやいやながらその指からクリームをぬぐって、ちょっぴり耳の穴に塗ってみた。

 そのときちょうど機内アナウンスが流れた。

「お客さまにお知らせします。このあと気流の乱れが予想されますので、シートベルトをお締めください。引き続き日本語でお知らせします……」

「あれ? 今の英語? 日本語みたいに聞こえた」と伊吹。

「というわけさ。その魔法のクリームを塗れば、外国語は母国語に聞こえ、母国語は外国語のように相手に伝わる」アリアンは得意そうに言う。

「売り出したらすごいことになるのに」

「そう簡単じゃない。手元にあるのはこれだけなんだ。量産するにはアトランティス人たちの協力が不可欠だが、今の情勢じゃとうてい無理だ」

「そうだ、玲にも塗ってやらなくちゃ」

「おっとそうだな」

 伊吹が言うと、アリアンは鞄の中の意識のないロボット模型の上部に、ぞんざいにクリームを塗りこめた。

「こんなもんだろう」

「適当だなー」

 伊吹はあきれて言う。なんとなくこの変な魔法使いの性格がわかってきたような気がする。

「それでさっきの続きですけど、無事ヘラクレスの柱から入れたら、そのあとはどうなるんですか?」

「簡単に入れると思うなよ。とにかくあの国は、きみらの生活してる国とは根本からちがうんだ。あいつらの文化、考え、自然環境、何もかもが異端だ。ぼくがあの国を脱出した原因もそこからきてるからね。まずはヘラクレスの柱を突破することだな。その後については近くなったらまた教えるよ。いいか、この冒険を成功させるには、冗談じゃなく、勇気と知恵が必要だ。もう一度聞くが、伊吹、その覚悟はできてるのか?」

 伊吹はじっと相手を見据えた。勇気なら人一倍負けない自信があった。それにどうしても進まねばならない理由もある。玲――伊吹の幼なじみ、一緒に育ってきたきょうだいのような少女。その彼女をどうして見放すことができるだろうか。

「覚悟はあります。必ず黄金の林檎をこの手につかんでみせる」

 言ったとたん、乱気流に入ったらしい、飛行機が揺れはじめた。


 イギリスに着いて、まず初めにしたのは食料の大量調達だった。ビスケット、燻製肉、果物、ミネラルウォーターなどをバックパックがパンパンになるまで詰めこんだ。数か月分もあるのではないだろうか。はたしてこんなに必要なのか、と伊吹が聞く前にアリアンは買い物を終えていた。

 次にふたりは裏通りの人目につかない場所に移動した。そこにたどり着くまでに、アリアンは今後の移動手段についてかたくなに口をとざした。

「そろそろ教えてくださいよ。どうやってアトランティスまで行くんです? やっぱりだましたんじゃ……」

 ロンドンの裏通りで、伊吹がいよいよ腹を立てて言うと、アリアンは伊吹のかぶっているつばつきのキャップを指差す。

「いいからそれを貸してくれ。ちょうどラルフローレンじゃないか」

「はあ……」

 紺色のキャップの正面には乗馬姿のシルエットをかたどったロゴが刺繍されている。いつか母親がデパートでの買い物のついでに買ってきたものだ。伊吹はしぶしぶキャップを脱いで差し出す。

「変身術ってのは、何もないところから簡単に変身させられるものじゃない。なんらかの類縁性が必要なんだ。たとえば糸を弓に変えたり、飴玉を宝石に変えたりだな」

「飴玉が宝石?」

「色が似てる」

 言うと、アリアンはキャップを手のひらの上に載せた。

「帽子よ、シルフの賜物よ、パラケルススの名において命ずる。元素を維持し、具象を組み換え、空飛ぶ獣となれ」

 呪文が終わると同時に、キャップは乳白色のもやに包まれた。もやは急激に膨張したかと思うと、すぐに薄れはじめ、気がつくと目の前に白い翼を持った馬が立っていた。馬は勇ましくいななく。テレビでしか見たことのない――ペガサスだった。

 伊吹は思わず道路にしりもちをついてしまった。今まで数々の不思議なできごと――少女の意識を持ったロボット模型、エメラルド・タブレット、翻訳クリーム、などを見てきたわけだが、これにはさすがに度肝を抜かれた。ここに至るまでアトランティスの魔法を信じていなかったというわけではない。だけど、今まで見てきたことは、ある程度は科学の力でも説明できそうなことばかりだった。しかしペガサスはちがう。神話の生き物だ。しかもそれが自分の普段使っているキャップから生み出されただって? 伊吹はついに、もう後戻りのできない奇妙な世界に足を踏み入れたことを自覚したのであった。

「さあ乗れよ、少年。アトランティスまでは三日だ」

 ペガサスの背中からアリアンが呼びかける。伊吹はまだふらふらする足を叱咤しながらやっと立ちあがった。おそるおそるアリアンのうしろに乗ってみた。ペガサスの背中は温かかった。血の通っている本物の獣。

 アリアンは口笛を吹きながら、レトロなデザインのまん丸のサングラスをかける。軽く首筋を叩くと、ペガサスはいなないて翼をはためかせる。重々しいスケールを感じさせるはためかせかただった。ペガサスは空高く飛びあがった。風が激しくほおを吹き過ぎていく。上昇気流に乗り、上へ、さらに上へ。

「魔法って!」必死でペガサスの背中にしがみつきながら、伊吹は叫んだ。そうしないと風の音で声が届かなかったのである。

「うん?」

 前に乗ったアリアンがふり返らずに聞き返す。得意そうな声色だ。伊吹は続けた。

「結構適当なんですね! 馬のロゴとペガサスが類縁性があるとか!」

「うん、結構適当だよ」アリアンは飄々と返した。


 大量の食べ物は、アリアンが自分で食べるためのものだった。実際それからの三日間の行程で、アリアンは成長期の伊吹の倍も食べた。それでいて、体はむしろ普通人よりも痩せていた。彼が言うには、ペガサスのように大きな動物の変身を維持するには大量の魔力が必要なのだと言う。これも魔法の非効率な点のひとつだ。これを解決するためにも科学の力が必要だと言うのだった。

「ヘラクレスの柱からアクロポリスまでは二千五百二十スタディオン」

 二日目の夜、大西洋のある小島でたき火を囲みながら、アリアンはエメラルド・タブレットで地図を示して言った。

「徒歩で一週間ほど必要だ。最もリスクの少ないルートはこう」

 人差し指を大陸南端の岬から北上させる。

「上陸箇所は言うまでもなくヘラクレスの柱だが、実はここが第一の関門になる。アトランティスが極度に外部からの侵入を おそれてることはわかってるな。そのために、この岬には魔法兵士の一個大隊が配置されてるんだ。アトランティスから出て行くのは簡単だが、入るのはきわめて難しい。兵士に見つかったらひとたまりもない」

「そんなに危険な所だったのか……」

「おじけづいたか?」

「いや」

 伊吹はきっぱりと首をふったが、気になってREIを見てしまう。REIはペガサスでの旅が始まってから、アリアンによって意識を吹きこまれて自在に動けるようになっていた。

「わたしだってこわくない!」とREI。

 アリアンはふたりの様子を確認するとうなずき、再び地図に視線を落とした。指で岬の西側に円を描くようにした。

「そこで、このポセイドンの果樹園だ」

「そんなところに果樹園があるんですか」

「魔法兵士の休憩のための慰労施設だ。文字どおりの果樹園で、永遠に消えない虹が架かってる。外部の人間はここにこんなものがあるなんて知らない。だがぼくは知ってる」

「なるほど、そこがひとつの突破口になるわけですね」

「ああ。ここをこう抜け」アリアンは北方向へ指をすべらせた。「そうして次の場所へ向かう」

「いいでしょう。やってみるしかない。次はどこへ?」

「しばらく道なりに進むと、大きな森がある。そこを抜けると、着くのは常夜の町だ。ここいらへんはずっと平野だから、歩くのにそれほど心配はいらない。ただ……いや、ここについては着いてから説明したほうがいいだろう。今あまりあれこれ脅したくないからな」

 伊吹は反論しようとしたが、アリアンは無視して続ける。

「最後の関門は水晶の谷だ。アクロポリスはこの谷に囲まれてる。いわば天然の城壁だ。ここもどうするか考える必要がある」

 アリアンの話を聞き終え、伊吹もREIもうなることしかできなかった。


 その翌々日、一行はついにアトランティス上空にたどりついた。

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