お手々のチャチャチャ
青出インディゴ
第1話
深夜二十三時、おれはパソコンの電源を入れた。大手ポータルサイトへアクセスし、無数のチャットルームの中から、いつもの創作カテゴリーへのリンクをクリックする。
明日は土曜日。週末のチャットは、小説書きを趣味としているおれの数少ない楽しみだ。なんたってチャットには全国各地、年齢も立場もさまざまのいろんなやつがいる。大学の文芸サークルだけでは得られない刺激を与えてくれるものがあるのだった。
ハンディ:こんばんは。誰かいる?
と打ち込むと、すぐに馴染みのふたりから返信があった。
しーもあ:いるぞ。ひさしぶり。最近手の空く暇がなくってさ。
Aiko:ハンディくん、こんばんは。待ってたよ。
ハンディ:こんばんは、おふたりさん。なに話してたの?
しーもあ:それは創作論しかないでしょ!
Aiko:あのね、ハンディくんは唯物論と唯我論と、どっち派?
ハンディ:いやいや、いきなりなんの話よ?
おれは面喰らってしまう。まあ、いつもの創作カテゴリーチャットらしい始まりかたと言えばそうだった。
Aiko:フレドリック・ブラウンの小説の批評してるうちに発展したんだ。知ってる? ブラウンの『Cry Silence』っていう短編。
しーもあ:「音に関係したちょっとした議論がある」から始まるやつ。
ハンディ:読んだことあるようなないような……。
しーもあ:森の中で木が倒れたとすると、その木は音を立てたことになるのだろうか。立てるんだとしたら、音は人間の知覚とは無関係に存在するものってことになるし、立てないんだとしたら、音は人間に知覚されて初めて存在するものってことになる。
ハンディ:ああ、わかったぞ。そこから発展して、物質は精神とは無関係に存在するのか、精神が物質を感知するから物質が存在するのか、って議論になったわけか。
Aiko:そうそう。ハンディくんはどう思う? ちなみに私は唯物論派。だって自分が知らないところでも世界は回ってるでしょ? たとえば、私のツイッターのタイムラインは、私が見てなくてもどんどんログが流れていくもの。
相変わらずAikoの言うことは、独特すぎて意味がわからない。
ハンディ:うーん、かもね。
Aiko:ハンディくんのツイッターはどう?
ハンディ:さあなあ。そりゃおれのツイッターのタイムラインも、いない間にどんどん更新されていくけど、だからと言って、その更新されたタイムラインを、それを見た時のおれが知覚して初めて存在させてないとは言いきれない。それは唯物論の根拠とは言えないんじゃないか。
Aiko:えーっ、そう? じゃあ今のところ唯我論派が優位?
ハンディ:しーもあは?
しーもあ:おれは世の中は唯物論でも唯我論でもないと思う。
ハンディ:ふーん、じゃあなに?
しーもあ:唯手論ってのがあってもいいと思うんだ。
Aiko:ゆいしゅろん?
ハンディ:なんだそれ? ただ手だけがあるのか? なんで手?
しーもあ:ハンディ、Aikoさん。今から言うことは誰にも言わないって約束できるか?
流れるように進んでいたチャットログが少し途切れた。おれもそうだし、日本のどこかではAikoも返事に窮しているのだろう。が、数十秒後には新たな返信 が投稿された。しーもあの奇妙な発言は、たぶんなにか言いにくいことを告白しようとしているのだろうけれど、画面の向こうに感情を持った人間がいるのは想 像できても、実感はできないというのが本当のところだ。インターネットの中では、いつだって重大なことが羽のように軽く受け流される。
Aiko:言わないよー。しーもあくんとは一年の付き合いだもん。私の家族のこともいろいろ相談に乗ってもらったし。
しーもあ:ハンディは?
答える前に、おれはチャットルームの設定を確認した。プライベートモードにしてあるから、中の会話は入室していない人間には見えない。つまり、今後しーもあの話がどういう方向に転がろうとも、世界でおれたち三人以外の人間には、内容は伝わらないということだ。
ハンディ:話してみろよ。
しーもあ:ありがとな。実は、おれが唯手論について考え始めたのは、ある体験がきっかけなんだ。
ハンディ:もったいつけるなあ。
Aiko:しーもあくん、言っちゃえ言っちゃえ!
しーもあ:ある朝目覚めたら、両手が真っ赤に染まってた……って言ったらどうする?
おれは「絶句」と打ち込んだ。
しーもあ:夢じゃないんだ。実際そういうことが何度かあった。
Aiko:真っ赤って、なんで真っ赤なの?
しーもあ:なんでだと思う?
ハンディ:ありがちなところで言えば……血だろうけどな。
Aiko:まさか! しもやけで真っ赤、とかじゃない?
しーもあ:そのまさかだよ。
Aiko:しもやけ?
しーもあ:だったらいいんだけど。
ハンディ:血か……。
Aiko:寝てる間にどっか怪我したの?
しーもあ:もちろん体の隅々まで調べたよ。でも怪我なんてなかった。両手が自分のじゃない血で濡れてた。そしてベッドの下にはご丁寧にナイフだよ。血にまみれたやつ。
Aiko:なあにそれ。今度の作品のネタ?
しーもあ:Aikoさんの地元は、おれの家の近くだったよな。
Aiko:うん。それで今度オフ会しようって言ってたんじゃない。ハンディくんは遠いから、次の夏休みまで待ってとうって。
しーもあ:最近近所で立て続けに殺人事件が起こってるだろ。
Aiko:あー……。
しーもあ:ここ半年で三件。おれの手が真っ赤になったのは、決まって殺人事件の起こった翌日の朝。
ハ ンディ:おいおい、待てよ。その事件なら知ってるぞ。全国ニュースにもなってるやつじゃないか。被害者の年齢も性別もバラバラで、物盗りでもないから、快楽殺人じゃないかって。犯人は巧みなナイフさばきで殺人を犯してるらしいじゃないか。それで同一犯であることがわかって、警察は連続殺人に切り替えて捜査してるっていう。
Aiko:偶然だよ! しーもあくん、そんなことする人じゃないもの。そもそも、その被害者の人たちと面識はあるの?
しーもあ:ないよ。ひとりもない。
Aiko:ほらね。
しーもあ:ないからこそ、だよ。この殺人はおれが犯したんじゃない。おれの「手」が犯したんだ。
おれは思わずパソコンから手を離し、口笛を吹いた。しーもあとはチャットで出会ってしばらく経つが、ずいぶんといかれた野郎だったらしい。インターネットを使っていると、本当にいろいろなやつに出会うもんだ。
しー もあ:おれはやってない。「おれ自身」は、絶対にやってない。おれがやる動機はないんだ。おれは被害者の誰ひとりとして面識はない。ニュースで見て初めて近所にそんなやつが住んでたことを知ったくらいだ。かと言って、快楽殺人を犯すような趣味もない。おれは大学の講義が終わったあと、毎晩ちまちま小説を書いてればそれで満足なんだ。
ハンディ:でも、いろんな証拠を考えあわせると、状況はおまえがやったことを示唆してるってことなんだな?
しーもあ:そうなんだ。殺人の次の日、おれの手は血に染まってる。部屋にナイフが落ちてる。だからおれは思うんだ。この犯罪は、おれの「手」が起こしてるんだと。
Aiko:状況証拠が本当だって言うんなら……しーもあくん、夢遊病とかなんじゃ?
しーもあ:ちがうんだ、本当におれはやってない! おれの「手」が勝手にしたことだ!
ハンディ:手が意識を持ってるとでも言うのか?
しー もあ:そうだ! おまえら、シャツのボタンをどうやって掛ける? 親指をこうして、人差し指と中指をこうしてなんて、説明しようとしてもできないだろ? あれは頭が考えて手を動かしてるんじゃない。手が勝手に動いてやってるんだ。ハサミは? 水道の蛇口は? 自転車のハンドルは? おまえらが打ってるその 文字は、本当に頭で考えたことか? 手が勝手にキーボードを叩いてるんじゃないのか? その証拠に、次にどのキーを押そうかなんて考えないだろ? そもそも「勝手」っていう言葉自体がおかしい。昔の人は知ってたんだ。手が体のほかの部分に勝って、主体として動くことを。
Aiko:ばっかばかしい。今しーもあくんの挙げたことは、みんな私が頭で考えてやってることだよ。手は体の従属物に過ぎない。
しーもあ:少し頭を柔軟にして仮定してみてくれよ。本当に手が意識を持ってたらどんなことが起こる? そして、その手が他人を殺すのを楽しみとするやつだったら? 快楽殺人者の思考なんてわかったもんじゃない。だけど自分の体にそれがくっついてたら、おれたちは決して逃れられない。
Aiko:ねえ、しーもあくん。就職活動で疲れちゃったんじゃない? 殺人なんてなにかの勘違い。血のことだってきっと合理的に説明がつくことんなんだよ。
しーもあ:ああもう、うるさい、ババアのおまえになにがわかる!
Aiko:はあ? なに言ってるの、このガキンチョ!
ハンディ:まあまあふたりとも。
深夜のチャットは時に荒れがちだ。おれはあきれて仲裁を買って出た。が、時すでに遅し。Aikoはプリプリしながらチャットルームから退室してしまった。
ハンディ:ちょっと言い過ぎなんじゃないの。
しーもあ:ハンディ、おまえならわかってくれるよな。『おもちゃのチャチャチャ』って童謡、知ってるか。
ハンディ:それがなにか?
しーもあ:あの歌の中で、おもちゃは子供たちが寝静まったあと、おもちゃ箱から飛び出して遊び始めるんだ。おれはあれこそが唯物論じゃないかと思う。「おれ」っていう観察者がいなくても、他の物体は自律的に動作するんだ。
ハンディ:唯手論を思いついたのはそのあたりからか。
しーもあ:ああ。世界には「おれ」が存在するんじゃない。「手」が存在するんだ。「おれ」は「手」の付属物に過ぎない。「おれ」の無意識下で、「手」は「手」の考えで勝手に動いて世界を操作してる。
ハンディ:疲れてるんだよ。
しーもあ:だろうな。もう寝るわ。
ハンディ:それがいいな。じゃあまた来週。
しーもあが退室した。ひとり残されたおれはそのままワープロソフトを立ち上げて、今書いている小説の続きを打ち込むことにした。唯手論か……ばかなことを妄想したもんだね、まったく。おれは首を振って、キーを打ち続けた。
しばらくして、ひらいたままだったチャットルームのウィンドウに、誰かが入室したという通知メッセージが表示された。確認してみるとAikoだった。彼女まだ寝ていなかったのか。確かダンナがいるって話だったけど、大丈夫なんだろうか。と、夜更かしもいいところの自分を棚に上げて考えていると、Aikoの コメントが表示された。
Aiko:ハンディくん、大変。パトカーのサイレンが聞こえてるの。
おれは組んでいた腕をほどき、キーボードに向かった。
ハンディ:近くでなにかあったの?
Aiko:そうみたい。しかも、しーもあくんの家の方面。
ハンディ:そこから見える?
Aiko:何台も向かってる。どうしよう、しーもあくんに電話してるんだけど、つながらない。
ハンディ:寝てるんじゃないの? さっきそう言って落ちたけど。
Aiko:こんなにサイレンが鳴ってるのに? 私の家でさえこんなに騒がしいんだよ。近所の人たちが続々外に出てる。野次馬がすごい。マスコミも来てるみたい。
おれはテレビをつけてみた。画面に、緊急生中継が映し出された。連続殺人犯が捕まったというニュースだった。
ハンディ:Aikoさん、テレビつけてみて。
Aiko:大変、この人、しーもあくん!?
それを最後にAikoからの返信は途絶えた。
画面には、喧騒の中、すやすや眠りながら担架で護送されていく青年の姿が映し出されている。周囲の騒々しさにかかわらず、まるで自我がないかのように、不気味なほどぐっすり眠っている。その手は真っ赤だった。
はたして殺人を犯したのは、彼なのか、「手」なのか。
それにしてもわが同胞め。やっかいなことをしてくれた。世界の主導権をおれたちが「握っている」ことが知れたら、面倒なことになるだろうに。体が反乱を起こさないとも限らない。まあいい。しばらくは誰も気づかないだろう。気づいたとしても、とても信じようとしないにちがいない。Aikoがそうだったよう に。
おれは左手に持ったリモコンのボタンを、右手の人差し指で押してテレビを消した。
お手々のチャチャチャ 青出インディゴ @aode
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