久しぶりの謎ならやさしめに

1-1 ミステリ講義は必要ない

「先輩、木則このり先輩。起きてください」

 うとうととまどろんでいた僕を現実世界に引き戻したのは、後輩の峰岸みねぎしの声だった。ぼーっとした頭で何とはなしに左腕の腕時計を見ると、午後四時二十分を示している。どうやら僕は、部室で三十分ほど居眠りをしていたらしかった。そう思って見れば、アルミホイルを貼って作った手製のレフ板やら旅行先で買った安っぽいカチンコやらなるほど映画部の部室としか思えない光景である。

 視線を正面に向けると、峰岸が頬を膨らませてこちらをにらんでいた。僕何か悪いことしたっけ。

「今度撮るやつの脚本を今日の五時までに仕上げるって話はどうなったんですか」

 ……ああ、思い出した。我らが映画部(現在のところ部員二名)は、とりあえず六月までに一本映画を撮ることに決めたのだ。そのためにはまず脚本を書く必要があるので、話を考えるのが苦手という峰岸に代わって僕が放課後の部室でポツポツとキーボードを叩いていたというわけなのだが……。

 どうやら、途中で居眠りをしてしまったらしい。

「ああ、ごめんごめん。今書いてる途中だからさ」

 謝りながらさりげなくノートパソコンを閉じようとする僕だったが、目ざとい峰岸にすかさず奪われてしまう。一瞬後、峰岸がくわっと目を剥いた。

「先輩何ですかこれは! たった十三文字しか書けてないじゃないですか!」

 今度から文字数のカウントがされない方法で書こう。手書きとか。

「仕方ないじゃないか、僕あんまりミステリとか読まないし」

 脚本を書くにあたって峰岸が出した条件がいくつかあったのだが、その中で最大の難問が『ジャンル:ミステリにすること(本格なら尚良し)』というものだった。

 ……このミステリ好きめ。

「読まなくてもわかるでしょう、ほら最近推理系のアニメとかも多いですし」

「僕はアニメとかあんまり見ないからなぁ」

 そう答えると、「はぁ……」とため息をつかれた。僕からすればここまでミステリに傾倒している峰岸の方がマイノリティだと思うのだが、それを口に出すほど僕も馬鹿ではない。この後輩は自分の好きなものをバカにされた(と思った)ら烈火のごとく怒りだすのだ。

「推理小説は読まない、アニメも見ない、どう説明したらいいのかなぁ……あ、そうだ先輩。今は読まなくても、小学校時代に読んだ覚えのあるミステリとかありません?」

 小学校時代か。そういえば、図書室に何冊かそれっぽい本があってそれを読んだような気がする。確か……。

「シャーロック・ホームズとかは読んだ覚えがあるよ」

「よしよし、普通ですね。その後でアガサ・クリスティとか読みませんでした?」

「何書いた人だったっけ」

 聞いたことのある名前だったが何を書いた人だったか良く覚えていないので質問すると、本日二度目の盛大なため息をつかれた。

「……信じられない。クリスティを知らない人がいるなんて」

「いや、聞いたことはあるよ。ただ作品と結びつかないだけで」

「それを知らないっていうんです! ……『そして誰もいなくなった』とか、『オリエント急行殺人事件』とか、『ABC殺人事件』とか、『アクロイド殺し』とか、『スタイルズ荘の怪事件』とか……」

 ずらずらと羅列されていく作品群。そのうちの一つには聞き覚え……というか、見覚えがあった。

「ああ、オリエント急行とやらは読んだことがあるよ、あの赤い背表紙のやつだろ。……ただ、あの大量の外国人の名前が全然覚えられなくって途中でやめちゃったけど」

「ぎゃー!」

 ついに峰岸、ため息を通り越して悲鳴を上げるまでになった。そんなに罪なのだろうか、読みづらい本を途中で投げるというのは。

「せめてミステリは読みかけたら最後まで読みましょうよ! 気にならないんですか真相が! それにオリエント急行はぶっちゃけ登場人物の名前が一つも頭に入らなくたって解りますよ!」

「だってほら、カタカナの名前って目が滑るじゃないか」

「まあその気持ちは分からなくもないですが……で、では、国内ミステリはどうですか」

「正直、読まないなぁ……」

「本屋で表紙のラノベっぽい表紙に惹かれて買ったら思いのほかミステリだったというような経験は? 最近、アニメ化の際にキャライラストを特大の帯にして巻いてる文庫とか見かけますが」

「っていうか、峰岸勘違いしてないか。僕はそもそも、本は嫌いじゃないけどあまり読まないんだよ」

 そう言うと、峰岸は『駄目だこの先輩』というような目で僕を見てきた。しかし世の中は僕のような人間であふれかえっているものだろうに。この後輩、これから世の中のほとんどの人間をこういう目で見るつもりなのだろうか。

「仕方ないですね……予定を少し遅らせましょう。あとで、図書室から十冊ほど見繕って持ってきますから月曜までに読んできてくださいね。脚本はその後でいいです」

 省略された主語が推理小説であることくらいは僕でもわかる。ただ、一つ問題があって。

「今日金曜なんだけど」

「二日もあれば十冊くらい読めるでしょう」

 可愛い顔して鬼のような要求を突き付けてくる後輩だった。いや、顔が可愛い分要求がますます酷いものに思えてくるというものかもしれない。

 ともあれ説教はこれで終わりということだろう。そう考えた僕だったが、

「あ、そうだ先輩。このあと時間あります?」


 峰岸が久しぶりに何か厄介ごとを持ち込んできたようだった。




「私たち、入学してから一週間経ったじゃないですか。一応全教科授業があったんですよ」

 まあ、そりゃそうだろう。入学したての一年生の授業をほっぽりだすような教師はいまい。現国担当のうちのクラス担任は二年の第一回の授業を放り出して九州へ旅行に行ったようだが。

「昨日は金曜だったので、初めて体育があったんですよ。で、更衣室で着替えてる最中に聞いたんですけど……って、先輩更衣室の場所解ります?」

「……そもそもうちの学校に更衣室なんて代物があったっけ?」

「四階の空き教室を、体育の時間の前後だけ開放してるんですよ。知りませんでした?」

 男子の僕らには関係のないことだからね。

「で、それがどうかしたのかな?」

「二年生の誰かが財布を盗まれたんだそうです」

 ……ふーん。そういえばうちのクラスでも、このあいだ財布を盗まれたって騒いでたやつがいたような。

 この時点で僕の頭の中では警告音が鳴り響き始めていたが、きっと何かの偶然だろうと思って続きを促す。

「二年三組のキリバナさんって人らしいんですけどねー……あれ、先輩って何組でしたっけ?」

 三組です。


 桐花きりばな彩音さやねの名前くらいは、今年度になってクラスが同じになるまでに知っていた。葛西高生ブラックリストのトップ10にランクインしていて、名前を知る以上の関わり合いにはなりたくない系女子。当然僕だって苦手だ。

 分かりやすく荒れているわけではないものの、性格はかなり陰湿。趣味は人の弱点を探すことだと公言してはばからず、彼女に弱みを握られたら残りの長い人生を平和に過ごすことは望めないと覚悟した方がいいとか何とか。今までに警察のご厄介になっていないのは被害者側が全員泣き寝入りしているからだろう。

「確かに桐花なら、このあいだ財布を盗られたってうるさく騒いでたけど……言っちゃ悪いが財布が盗まれるなんてよくあることだし、彼女なら盗まれても何の不思議もない。わざわざお前が聞きつけて僕にご注進に来るような話じゃあないと思うんだけど」

「ふっふっふ」

 薄気味悪い笑い方をする後輩だった。さっさと要点だけ話さんかい。

「実はですね、その時四階空き教室は他ならぬ密室状況だったのですよ!」

「馬鹿を言うな」

 密室というのは人の出入りができない状況下にある部屋のことで、付け加えるなら殺人やら盗難やらが起きている事件でどこかに穴があって密室ではない、というようなことを以前丁寧に講義してくれたのは他ならぬ峰岸自身だったはずだが。

「馬鹿って何ですかー! 馬鹿っていう人が馬鹿なんですよー!」

「分かった分かった」

「……えー、事件が起こったのは水曜日の五時間目と六時間目の間。その日の体育の授業は五時間目の一年四組と五組、それから六時間目の二年一組から三組の二回だったそうです。休み時間が被るので、空き教室は割と混雑してたみたいですね」

「三組が体育だったのは知ってる。ふーん……」

 峰岸は昨日――金曜が体育の授業の初回だったと言っていたので、一組か二組か三組のどれかなのだろう。

「桐花さんとその取り巻きさん二人が最後に空き教室を出たそうで。そして授業が終わった後、今度は反対に桐花さんたちが最初に空き教室に入って、彼女の財布が消えていることに気づいた、ということらしいです」

 ……おや。

 しかし僕はあることに気づいてしまった。人差し指を一本立てて静かにするように峰岸に合図し、そのまま静かに立ち上がって抜き足差し足忍び足。

 薄く開いていた扉を一気に引き開けると、紺色の物体が室内に転がり込んできた。

「……何やってるんだ、阿良川あらかわ


「いやぁ、ははは。何のことかな」

 制服についた埃を払いながら、その女子生徒――阿良川しおりは、露骨に視線をそらした。

「現行犯で逮捕する」

「笑えないギャグは相変わらずだねぇ」

 うるさいよ。

 妙に馴れ馴れしい態度であるが、別に十年来の竹馬の友などというわけではない。もとはと言えばこの高校に入学した際、最初のクラス分けで隣の席に座っていたのがこいつだったというだけのごく普通の関係だったはずなのだが以来腐れ縁のような関係が続いている。

 変な口調と僕より若干高い身長という性質を持ち合わせているため、こいつとの会話で僕が優位に立てたためしがない。

 峰岸がぼそりと呟く。

「先輩って見た目は普通の人っぽいのに、変な人の知り合いが多いですよね……」

「それは自分も変な人にカウントしているという認識でいいのかな」

「仕方ないじゃないですか、先輩が毎日変人変人って言うから」

 毎日は言ってないと思うけど。

 ふと見ると、いつのまにか阿良川は傍若無人を絵に描いたような姿でふんぞり返って僕の椅子を占領していた。邪魔なので早くどいてもらいたいのだが、こいつはなかなかの頑固者なので言うことを聞くとは思えない。椅子を奪還するために消費するエネルギーと部室の隅から新しい椅子を持ってくるために消費するエネルギーではどちらが少ないかは天秤にかけるまでもない。

 パイプ椅子を開いて座り、お互い初対面の峰岸と阿良川の正面に座る。

「峰岸、こちら阿良川栞。阿良川、こちら峰岸早苗。後輩だ」

「へぇー……峰岸ちゃん、ね。入学そうそう映画部に入るとはなかなか変わってるねぇ」

 ……そういえば、阿良川には峰岸のことをきちんと話したことはなかったかもしれない。説明しようと口を開きかけたのだが、持ち前の面倒くさがりな性格がその口を閉じさせた。今度でもいいだろう。

「ところでそうし」

 阿良川は僕のことを『そうし』と呼ぶ。僕の名前の『荘士郎』を縮めた呼び方らしい。

「さっき廊下を通りかかったらこの部屋から面白い話が漏れ聞こえてきたんだけど」

「え、廊下まで聞こえてました!?」

 悲鳴を上げる峰岸。割と馬鹿みたいな会話だったので穴でもあったら入りたい心境なのだろうが、

「気にしなくても大丈夫だ峰岸。こいつがドアにへばりついて聞き耳立ててたのは見ただろ」

 こいつに関して言えばいつものことだ。

「失敬な事を言うね、そうし。私はそんな変人みたいな真似しないよ……だけどどうしてわかった? そうしのソファは入り口と逆方向を向いてるし、そっちの峰岸ちゃんの位置からだとロッカーが邪魔で扉が薄く開いてるのは見えなかったと思ったんだけど。まさか窓ガラスに映ってたとか?」

 それは自白と受け取ってもいいのだろうか?

「いや、まだ太陽が出てるから窓ガラスの反射じゃないよ。……そこのレフ板だ」

 各部室標準装備のスチールラックに立てかけている手製のレフ板を指さす。アルミホイルを貼ってあるので、反射で扉のあたりがよく見えるのだ。

「あぁ、なるほど……いや流石にそれは気づかなかった。今後の参考にさせてもらうよそうし」

 やめてくれ。

「ところで桐花さんの財布が盗まれた件だけど」

 他人の話を聞け。

「実は私もその件は少し気になっていたからね、近々そうしに意見を仰ごうと思っていたところなんだよ。それと――」

 と、阿良川が何か言いかけたその時。

 キーンという耳障りな音が響いて、上部のスピーカーから、

『あー、あと三十分で、下校時刻の五時になります。繰り返します、あー、あと三十分で下校時刻の五時になります。校内に残っている生徒は、部室の戸締りなどをきちんとして帰る準備を、あー、しましょう』

 生徒指導の八戸やつと先生の声が流れてきた。いい加減古くなりつつある設備で、校内放送も音が割れていて声だけでは誰が喋っているのかわかりにくいのだが、八戸先生の場合はしきりに『あー』を挟むので分かりやすい。

「あ、いけない! 先輩、ちょっと待っててください! 十分で戻りますから!」

 突然峰岸が椅子から飛びあがった。ずいぶん慌てた様子である。

「どうかしたのか?」

「図書室が閉まっちゃいます! 先輩に読んでもらわないといけない推理小説!」

 先輩思いなのはとても嬉しいのだけれど、峰岸、僕としてはそれは明日でも明後日でも構わないんだけど。

 そう声をかける暇もなく、自分の鞄を引っ掴んだ峰岸は大急ぎで部室から飛び出して行った。バタン、という扉の閉まる音だけが妙に耳に残る。

「……話を途中で放り出して行くなっての」

 これではお預けを食らった犬だ。阿良川が身を乗り出してくる。

「ん? そうし、話の続きが気になるのかい?」

「気になるさ。せっかく暇潰しができると思ったのに」

「私と話せばいいじゃないか」

「お前と話すと確かに暇潰しにはなると思うけど、疲れるから嫌だ」

「つれないねぇ。さっきの話の続き、私が知ってると言ってもかい?」

 ……なんだって?

「知ってるのか?」

「『少し気になってる』って言ったろ。当然情報は集めてあるさ」

「……お願いします」

「よろしい」

 尊大な態度がやたらと癇に障った。

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