7-2 手がかりがなくても暗号は解ける

 ……とは言ったものの、目の前の状況からはもうほとんどなにも導くことができない。まだ水滴の跡が残っているので、出て行ったのは五分か十分ほど前だろうと推測するのがせいぜいだ。これでは峰岸たちがどこへ行ったかは皆目見当もつかない。

 どうしたものかと腕を組んでいると、入り口のドアがかすかに音をたてた。入ってきたのは、司書の先生である。

「あ、木則くん。追試終わったの?」

「ああ、はい。おかげさまで……」

 というかなんで僕が追試に引っかかったって知ってるんだ、この人。

 この司書の先生、名前を翠川みどりかわ水鳥みどりさんといって、峰岸とよくガールズトーク(という名の読書談義)をしている。年はおそらく三十代半ばと推測されるものの、仕事は丁寧だし蔵書にも精通しているしでいい司書さんらしい。僕はよくわからないのだけれど。

 そうだ、図書室へいったらこの人に聞こうと思っていたことがあったのだった。

「翠川さん、ちょっと聞きたいんですが」

「ん?」

「こういう本を知りませんか。タイトルに『魔女』って単語が入ってて、茶色っぽい表紙で……」

 かいつまんで本の特徴を説明する。翠川さんは、ああ、あれね、と得心したように頷いて、小走りに本棚へ駆け込んでいった。

 ほどなくして戻ってきた彼女の手には、同じような二冊の本が。「これかな?」と見せてくれた表紙には、確かに見覚えがあった。タイトルは『図書館の魔女』。

「そうですこれです」

 図書室の本特有の表面のコーティング(『ブッカー』というらしい)に、四桁の数字と二文字のカタカナが書かれた背表紙のシール。風間くんの本にはこれは付いていなかったから、個人の蔵書だろうけど。

「うんうん。……これ、面白いんだ。二年くらい前に出たんだけどね、この表紙でこの分厚さで上下巻でしかも文章が重たいんだけどね、すっごく面白いの。まず『図書館』と『魔女』って言葉の組み合わせだけでわくわくするじゃない? そんでもってその『魔女』、名前はマツリカって言うんだけど、なんと彼女――」

 落ち着いた口調で、でも熱く語る翠川さん。司書さんというより、どちらかといえばプライベートモードのようだ。いつも峰岸と一緒に来るせいか、僕もいい加減この司書さんとはなじみが深い。

「――メフィスト賞っていう講談社の賞の受賞作なのね。二年くらい前にこの形で出版されて、続編も出たし文庫化もしたし。そろそろ最新刊が出る予定なんだけど、まだかなぁ」

 まあこういう人のブックトークは、こちらも心を穏やかにして聞けるから苦にはならない。聞いていればなるほど面白いのかもなとは思う。……ただ、上下巻の分量をみるとやっぱりいいですと言いたくなるけれど。

「峰岸さんもね、『これはいいですよねー』って言ってて……あれ、木則くん。峰岸さんたちがどこ行ったか知らない?」

 いま気づいたようにあたりを見回す翠川さん。

「それは僕の方が聞きたいんですが……翠川先生、峰岸たちが何やってたか知ってますか?」

「ええ、なんとなく。最近変な悪戯が続いてるから、その真相を突き止めるんだーとかなんとか。木則くんが探偵役なんだって?」

「別にそういうわけでは」

「ふぅん? まいいや。そういうことだったから、放課後になるなり峰岸さんたち、リスト片手にあそこに座って、熱心に議論してたよ。実際に悪戯された本を持ってきたりもしてた。で、しばらく見てたんだけど……十五分くらい前に、ちょっと国語の黒沢先生に呼ばれて職員室へ行ったの。で帰ってきたら」

 峰岸と御手洗さんは、煙のように消えていましたとさ。

「そういうことでしたら、先生に聞いても行き先は分かんないですよね……」

「ごめんね?」

 片手を立てて謝る翠川先生。

「いや、別に先生が謝ることじゃないですから。……しかし、となると」

 峰岸たちの行き先を知るには、峰岸たちがこの悪戯からいかなる結論を導いたかを知ることが必要不可欠、というわけか。




「翠川先生、悪戯があった本のリストは、これで全部ですか?」

「うん。三週間くらい前からかな、毎回十冊くらいがいっぺんに。日付も一緒に書いてるから、見てね」

 見れば確かに、リストの一番上には本のタイトル・作者・出版社のほかに日付も書かれていた。用意のよろしいことで。

 とりあえず、最後のページをめくって見てみる。十一月二十五日――あ、これは今日の分か。そう言えば今日は金曜日だった。


 ・学校図書館の現状と将来/江木えき晴敏はるとし後塵社こうじんしゃ

 ・戦国という中世と葛西/前川まえかわ智美さとみ葛西かさい新聞社しんぶんしゃ

 ・日本海海戦の背景と真実/河野こうの貴彰たかあき賀新社がしんしゃ

 ・ミステリー映画の愉しみ/円城寺えんじょうじ恵里えり舞風書房まいかぜしょぼう

 ・方言と古語/尾頭びとう昭二しょうじ栄光社えいこうしゃ

 ・アルデラン戦記/斜森ななもり朱鷺とき石並書店いしなみしょてん

 ・ドイツ自動車の謎/丸崎まるさき剣吾けんご東京とうきょう相伝社そうでんしゃ

 ・アーチャー殺人事件/丸崎まるさき剣吾けんご東京とうきょう相伝社そうでんしゃ


「……あの、翠川先生。これって、やっぱり……」

「うん?」

「何らかの暗号じゃないかと思うんですが」

 学校の図書室の本をひっくり返すという行為そのものには、どう考えても利益はない。なら愉快犯かとも考えたが、それならここまで規則的に、しかも大量に本をひっくり返す必要はない。となれば残るのは、誰かと誰かが本を使って暗号をやり取りしている可能性である。

「暗号、暗号ね。……たとえば、何か伝えたいことをメモ用紙に書いて本に挟み、相手の目印になるように逆さにしておくとか?」

「いえ、それなら十冊近い数の本を使う必要はありません。よしんば誰かがメモ用紙を見ることを恐れたとしても、三冊くらいに分割しておけば全文を読まれることはないでしょう」

 メモを挟んだ可能性はなし。……となると、本の題名や作者名なんかに鍵があるのだろうか。

 とりあえず安直に、題名の最初の文字を拾ってみる。なになに、『がせにみほあどあ』……違うなあ、じゃあ作者の方か? 『えまこえひなまま』……どうもこれでもない。出版社の方も同じである。やはりこんな安直な方法ではないらしい、だいたいこの並びである確証もないのだ。他の方法を考えてみよう。

 ……本は逆さにしてあったのだから、一番最後の文字を取るとか? しかしこれでも『いいつみごきぞん』となって、支離滅裂である。

 うーん、手詰まりか。

 翠川先生に「とりあえず、現物持ってきてみましょうか」と声をかける。峰岸たちも現物を見ようとしていたのだし、同じ行動をとればこの暗号も解けるかもしれない。

「オッケー。えーと、じゃあ0の棚が近いからそこから行こうか」

「はい。……『0の棚』って何ですか?」

「えーっと……日本十進分類法っていう本の分類の仕方があって、そのわけかただと『総記』ジャンルには0から始まる番号が割り振られるのね」

 棚から一冊本を抜き取り、僕に渡してくる翠川先生。

「で、『哲学』は1、『歴史』は2、『社会科学』は3……って続いていって、最後は『文学』の9ね。いちばん目にする機会が多いのは、日本文学の913かな」

 話しながら、手際よく本を抜き取っていく翠川先生。僕の持っている本の山が、瞬く間に高さを増していく。

 しかし翠川先生、本棚を見て目当ての本を探しているというよりは、どの本がどこにあるかあらかじめ覚えているように見える。司書さんというのはみんなこうなのだろうか。

「はい、これで最後ね」

 ポン、と八冊目をのせる翠川先生。

 重たいので、とりあえず貸出カウンターの方へ持っていく。図書便りやその他書類を、邪魔にならないよう脇へ避けて、本の山を置く。

 貸出カウンターの中に回って、本の山を見た。


「先生、わかりました」




 自転車を駅の駐輪場に置いた頃には、すでに陽はだいぶ傾いていた。駅の時計を見ると、四時三十二分を示している。

 ……まあ、間に合ったかな。

 自転車にしっかりと鍵をかけ、すぐそばの公園へ小走りで向かう。

 あまり広い公園ではない。子供が遊んだり、学生がスポーツを楽しんだりするような公園ではなく、単なる駅前の憩いの場であるから当然ではあるが。等間隔で樹木が植えられていて、ベンチもいくつか設置されている。

 そのベンチの一つ――公園の隅の方――に、峰岸と御手洗さんが座っていた。思わず、今日何度目かのため息をついてしまう。

 近づいていくと、先に峰岸の方が気づいた。

「あ、先輩」

 ご無沙汰してます、と御手洗さんも頭を下げる。

「帰るぞ」

「えっ何でですか」

「何でも何もない。……あんまりほめられたことじゃないからだ」

「……何がですか」

 本気で不思議そうな声の峰岸。もしかしたら、とは思っていたが、やっぱりわかってなかったか。

「峰岸。図書室の暗号の答え、何になった?」

「『駅前公園一七〇〇ヒトナナマルマル』でしょう?」

 正解、という意味を込めて、頷きを返す。

 ……だいたい、峰岸でさえ解けたくらいだから、難しい暗号であるはずがなかったのだ。タイプとしては、題名の最初の一文字を拾っていくのと大して変わらない。

 今回の場合は、拾うべき文字が、本の背表紙に、、、、、、貼ってある、、、、、シールの文字だった、、、、、、、、、、というだけのことだ。

 図書室に限らず図書館の本には、全て背表紙に小さな白いシールが貼られている。そこには図書の分類番号と、その本の著者の名前の、最初の二文字が記されている。それらを全部つなげると、『エキ』『マエ』『コウ』『エン』『ヒト』『ナナ』『マル』『マル』――『駅前公園一七〇〇ヒトナナマルマル』、駅前公園で十七時に、というメッセージになる。『ジュウナナジ』としなかったのは、おそらくシールの表記法則では濁点が省略されるため、『シュウナナシ』となって伝わりにくいと思ったのだろう。

 そして肝心の順番だけれど、これは同じシールの中の、分類番号の順だった。一冊目は『学校図書館の現状と将来』だから、000番台の017。『戦国という中世と葛西』は日本史なので200番台の213。『日本海海戦の背景と真実』は397……といった具合に、分類番号で並べればさっきの文章が現れるのである。

 ここまでが、峰岸と御手洗さんが図書室で出した結論だ。


「ちなみに御手洗さん。暗号は解いたみたいですけど、貴方と峰岸は、だれがどんな目的でこんなふうに連絡をしていたと思ったのかな?」

 自転車を止めてあるという近くの駐車場まで、三人で歩く。

「いえ、私はよくわからなかったんですけど……峰岸ちゃんが、『これは麻薬の裏取引の場所と時間を示したものに違いない!』っていうから、そういうものなのかな、って……」

 思わず天を仰いだ。勘違いもここまで行くといっそすがすがしい。

「峰岸。あれが麻薬の裏取引だとして……なぜあんな簡単な暗号なんだい? 現物を持って来てみれば誰でも解けるじゃないか。暗号ってのは他人が見て分からないように情報を伝達するためのものなんだから、違法な取引をするにはもう少し難易度の高い暗号を使うべきだと思う」

「……まあ、言われてみれば。でも、じゃあ何だっていうんですか?」

「もうちょっと平和なものだよ。……学校の図書室で伝達されてる暗号なんだから、常識的に考えてやりとりしてるのは学生だろ」

 まあ別に教職員でも構わないのだけれど、そこはそれ。

「そして、暗号を使っているのならば当然、当人たちにとってその内容は人に知られたくないということだ。なら張り込みなんかしないで、そっとしておくのが人情ってものじゃないのかな」

 話し終えてふと横を向くと、何だか呆けたような顔をしてこちらを見ている峰岸の顔があった。

「何か、おかしかったかな」

「いえ。……なんだか先輩、丸くなりましたよね」

 ……以前の僕は、そんなに人の感情の機微に疎いと思われていたのだろうか。心外である。

「……木則さんは、あの暗号は誰がどんな目的でやりとりしていたと思ったんですか」

 と、これは御手洗さん。やっぱり峰岸の友だちだから好奇心が強いのかなぁ、などと適当なことを考えつつ、

「さあ。それはさすがに分からないよ」

 と笑顔で返す。嘘じゃない、さすがに僕もたったあれだけの情報から、やりとりの目的までは分かるはずもない。

 ……ただ、さっきも峰岸に言ったとおり、暗号というのは他人に解読されてしまっては困るものだ。けれどあの暗号は、その気になれば数分で解ける類のもの。何となく、中途半端である。

 しかしその中途半端さも、少し考えれば理由が自ずと見えてくる。つまり、『公衆の面前ではできないプライベートな情報のやりとり』だ。やりとりしている当人たちはが学生なのだから、公衆とはニアリーイコールで学校もしくは自分の所属しているクラスの人間となる。だからあの情報は、『クラスメイトに知られることなくやりとりしたい情報』なのである。だから教室から遠い図書室が選ばれたし、そういう事情ならばそこまで複雑な暗号でないのもうなずける。当人たちはできれば気軽にやり取りしたいものの、クラスメイトの目が気になって仕方なく暗号でやりとりしているだけなのだから、煩雑な手順なしに易しく解読できることが優先されたのだろう。

 では、『クラスメイトに知られることなくやりとりしたい情報』とは何か。違法ではないことと併せて考えると、知られたくない動機はおそらく『恥ずかしいから』だろう。そして二人(三人以上の複数という可能性もないではないが、結論から逆算すると二人だろう)の学生が、クラスメイトに知られたくない恥ずかしいことといえばこれはもう一択。ありていに言ってしまえば、恋愛沙汰ではないだろうか。

 たぶん二人のうちのどちらかもしくは両方が、この二十位世紀になっても携帯端末の類を所持していないのだろう。あの暗号文は、きっとデートの待ち合わせ場所なのだ。

 ……しかしまあ、この一連の推測は、多分に想像を含んだ恣意的な解釈であるから、ちょっと人に聞かせられるものではない。あと、ちょっと恥ずかしいし。

 そして、どうしてこういう方向性の解釈になったのかも、実は分かっている。言うまでもなく、帰りのホームルームでの風間くんの態度だ。

 あのとき風間くんが落とした一冊の本。図書館の本ではないから個人的な蔵書なのだろうと思ったが、司書の翠川先生によれば文庫版が出ているのだそうな。わざわざ古くて高くて持ち運びのしにくい単行本版を買う必要はないし、それに何より彼は「面白くない」と言っていた。

 面白くもない本を読む理由はあまりない。代表的なものは課題のレポートなんかの下調べだけれど、あれはどう見てもフィクションだったので今回のケースには当てはまらないだろう。では何か。僕は、人に勧められた場合だと考えた。

 そうすると文庫版でない理由もうなずける。つまり、文庫版が出る前に単行本で買っていた誰かさんが、風間くんに「これ面白いよ!」と貸したのだろう。風間くんは面白くもないのに「大事なものなんだ」とも言っていたし、たぶん間違いない。

 そして僕は、風間くんが本を読まない人だと知っている。あまり親しくない僕でも知っているくらいなのだから、彼の友人ならなら誰でも知っているはず。にもかかわらず進めるのであれば、それは逆に、かなり親しい人間だろう。もしくは、風間くんの方から話を合わせようと思って借りたのかもしれない。

 そして風間くんは、どう考えてもその人のことを秘密にしようとしていた。親や兄弟なら隠す必要はないから、彼女でもできたのかな、と思った次第である。

 まあ全ては僕の勝手な想像であるから、真実と必ずしも一致しているとは限らない。そう思って、ふと後ろを見ると。


 視界の淵に、公園へ走っていく風間くんが見えたような気がした。

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木則荘士郎の日常 @Taka2000

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