本、図書室、ときどき暗号
7-1 本が逆さになると探偵役が動き出す
小学生の頃の僕はどうも、高校生ともなればもう大人と同列だと見なしていた節がある。不安定な記憶を掘り起こしてみれば、中学生のころにも、同列とまではいかなくとも大人と肩を並べられるくらいには考えていたようだ。
それがどうだろう。六時間目が終わって、帰りのホームルームの前のひと時。うちの担任が担当の授業を終えて帰ってくるまでのわずかな時間、この教室は喧騒に包まれていた。全く嘆かわしいことである。高校生ともなればもう少し分別を身につけていてしかるべきではなかろうか。
……などといいつつ、僕も隣の席の
風間くんは机の上にだらしなく伏している。
「だー、疲れた。あと生物全然わからん」
「開始一分後からあんなに気持ちよさそうに寝てれば、そりゃあ、ね」
「そう、そこなんだよ!」
ガバッと起き上がる風間くん。
「岩本先生なんで起こしてくれなかったんだろ。普通生徒が寝てたら怒るだろ」
風間くん、見た目はごくごく平均的な現代高校生といったところだけれど、中身の方はちょっと変わっている。端的にいえば、結構真面目なのだ。まあ真面目でなければ生徒会なんかに立候補はしないとも言えるが。
「まああの先生はちょっと抜けてるとこがあるから……」
「じゃあ木則が起こしてくれればいいと思うんだけど」
「いや面倒だし。……それはそうとしてさ、風間くんちゃんと睡眠とってる? 結構珍しいと思うんだけど、君が授業で寝るのは」
彼は根が真面目なので、僕が彼に起こされることは多々あっても、僕が彼を起こす機会というのはほとんどない。しかしここ数日、それがちょっと増えてきたように思う。
「いやまあいろいろと、さ。……俺ちょっとトイレ行ってくる」
そう言って、風間くんは席を立った。うちの担任は授業から帰ってくるのが遅いので、これくらいのことは珍しくもなんともない。
などと僕が考えていると、前の席に座っていた女子生徒がいきなりこちらを振り向いた。
女子生徒は言った。
「そうしそうし。今日暇?」
「僕は大概暇だけど、それとおまえの頼みを聞くことには何ら関連性はない。だいたい僕がこのあと追試だって知ってるだろ」
この間の半期試験で一教科赤点を出してしまったため、僕はこの後追試があるのだ。
「つれないねぇ」
はぁ、とため息をつく女子生徒の名前は、
「でも残念だったね阿良川、今日は暇じゃないんだ」
「ははぁ。さては
「デートってのは交際してる男女がするものだと僕は認識しているんだけど」
そして僕と峰岸の間にそういう関係はない。つまりデートなどあるわけがない。はい証明終わり。
「でもそうし、あの子の頼みなら基本何でも聞くじゃないの。休みの日に本屋行ったら行ったで荷物持ちしてあげるし。それって世間一般的には男女交際ってことになるんじゃないかなあ」
「ならないよ。世間一般がどうだか知らないけど僕はそういう感情をもったことはないし峰岸のほうも多分ない。あと後輩に手を出すのはどうかと思う」
「後輩ってったって一つしか違わないよ」
「まあそうだけど。……ともかく! そういう関係じゃないし、あと今日の用事は峰岸に頼まれたわけじゃない」
まあ峰岸も絡んでいないことはないのだが、そこまで言う義理もないだろう。
「じゃあ何なの」
「ちょっと知り合いの一年生に呼ばれたから。義理堅く人情に篤い僕としては助けを呼ぶ声は無視できないのさ」
「『義理堅い』ってどんな意味だっけ」
すみませんでした。
「……知り合いの一年生ってあれだよね、この間そうしが自転車問題の手伝いしてあげた双子の姉の方だよね」
「なんで知ってるんだ!」
「ふっふっふ私にはどんなこともお見通しなのさ」
将来悪の結社のボスにでもなるつもりかこいつは。
「でもさすがに何を頼まれたのかまではわかんないなあ。またぞろ変なことなのかな」
好奇心で目を輝かせながら身を乗り出してくる阿良川。肩を掴んで押し戻しつつ、僕はことの顛末を簡単に説明することにした。
「ええと、その一年生――
で、その図書委員の御手洗さんが言うには。最近、図書室で妙なことが起こっているそうなんだ」
「妙なこと。本棚でドミノ倒しをするのが流行ってるとか?」
図書室を何だと思っているんだ。
「もうちょっと地味なレベルの、『妙なこと』だよ。彼女が言うには、ときどき、本棚の本が上下逆さまに挿されてることがあるらしい」
「へぇ。それは、どれくらいの頻度で?」
「週に二回、決まって水曜日と金曜日。しかもその日は、一冊だけじゃなく何冊かの本がひっくり返されてるんだとか。それもいくつもの本棚にわたって」
「なるほどこりゃ確かに『妙なこと』だ。そうし好みだね」
「僕は別に、こういうのは好きでもなんでもないんだけどな……」
「ただの暇潰し、かい」
「うん」
「でもその割には、暇じゃないときでもやってるように見えるけど? この後追試だろ。追試が終わってから図書室へ行くと、結構遅いよ」
それは……。
「さっきも言ったじゃないか。義理堅いんだよ」
「私の知ってる木則荘士郎は、忙しいときには躊躇なく自分の都合を優先させる男だったんだけどな。……ああ、別に非難してるわけじゃないんだよ。私だって誰だって、忙しいときまで人のことは構ってられないから」
確かに、そうだった。
自分の頭にはこういう使い方もあるらしい、と自覚し始めたのは、確か中学校に入ったくらいからだったように思う。でもその時は、あくまで自分が暇なときにしかやらない、というのが信条だったはずだ。峰岸と会ってからも、そのスタンスは揺るがなかったように思う。
いつから、こうなったのだろう。
「まあいいや、そうしじゃないけど人の事情に立ち入るのは褒められたことじゃないからね。……ほら、先生来たよ」
見れば、トイレから帰ってきた風間くんと、授業から帰ってきたうちの担任が、教室のドアを開けて同時に入ってくるところだった。何とはなしに背を伸ばす。
うちの担任はまあのんびりとした性格で、教室に帰ってくるのも遅ければホームルームにも必要以上に時間がかかる。まあ僕はたいていの場合放課後は暇だから特に気にしないが、部活なんかの用事がある人はちょっと苛々するのかな、とは思う。
まあそんな担任の話だから、まともに聞いているのは教室の三割くらいで、風間くんだってどさどさと鞄に教科書やノートを放り込んでいる。
と、その鞄から本が一冊、滑り落ちた。茶色っぽい色をしたハードカバーで、タイトルに『魔女』などという言葉が入っていたのでフィクションなのは間違いない。僕の方が近かったので拾って手渡すと、風間くんは軽く表紙の埃を払って、「ありがと、大事なものなんだ。……ま、あんまり面白いと思わないんだけど」と言った。
まあ風間くんは、真面目ではあるけれども本はあまり読まないタイプなので、そんな分厚い本は持て余して当然だ。読みたがるのは……そう、峰岸くらいだろうか。
そんなことを考えていると、いつの間にか「起立」の号令がかかっていた。慌てて立ち上がり、何とかみんなと同時に頭を下げる。これで晴れて、我々学生は学校という空間から解放されるのである。
……まあ、僕は追試があるんだけどね。
僕は自分の頭を、よく切れるとはとても言えないけれど、まったく頼りにならないわけでもないと自認している。事実、数学や国語の試験では毎度それなりの点数を取れている。
……が、問題は暗記教科だ。何せ僕の頭はひたすら思考力の側に偏っていて、記憶力の方は何ともお粗末なものなのだ。さりとて思考力の方も、数学や国語で満点が取れるほどではないときているのだから、困ったものである。
ともあれ、帰りのホームルームが終わって小一時間。やっと英語の単語テストの追試から解放された僕は、図書室へと足を向けていた。
ちらりと腕時計を見ると、四時を少し過ぎたところだった。下校時刻は五時なので、少し急がなければならないかもしれない。英語の追試は終了時刻の予想がつくが、こういう頭の体操はいつ終わるかわからないのだ。
階段を二階分下りて右に曲がり、突き当たりの引き戸をゆっくりと開けて図書室に入る。目的地到着、だ。
図書室は広い。おそらく通常教室二つか三つ分の広さがあって、体育館と職員室に次いでこの学校で三番目に広い部屋だろう。
そしてその広い部屋の四方の壁は、当然のように本棚で埋め尽くされている。壁だけではない、部屋の半分ほどの面積はやはり本棚が占拠していた。人間たちが居座るのを許されているのは、残りの半分に押し込まれた閲覧スペースだけなのである。
閲覧スペースの隅の方には、貸出カウンターがある。平時は図書委員か司書の先生がいるのだが、席を外しているのか今は誰もいない。
……って、誰もいない? そんな馬鹿な。
慌ててもう一度カウンターを見るが、人間サイズの物体を見逃していたなどということがあるはずもなく、そこにはやはり誰もいない。
……困ったものだ。
僕は大きくため息をついた。なぜならば、峰岸は今朝はっきり、『貸出カウンターのとこにいますからね』と言っていたからだ。
本を探しにでも行っているのかと思って書架の間を探してみたが、誰もいない。どうやら峰岸は、ここで捜査会議をしようと言いながら、僕が来る前にどこかへ行ってしまったようである。
僕はもう一度大きくため息をついた。貸出カウンターまで戻る。
バーコードを読み取る機械と、それにつながるパソコン。貸出日をカードに押すための判子。雑多に積まれた返却本。要するに、何の変哲もない高校の図書室の貸し出しカウンターである。
けれどその貸し出しカウンターには、いつもとは少し違う部分が三つほど見受けられた(なぜいつもと違うと分かるかというと、峰岸がしょっちゅう僕を連れて図書室へ来るからだ。図書室くらい一人で行けないものか)。
一つ目。貸し出しカウンターのこちら側――つまり、普段図書委員が座って手続きをしているのとは反対の側――に、近くの閲覧席からかっぱらってきたと思しき椅子が一つ鎮座していること。
二つ目。貸し出しカウンターの上に、直径五、六センチほどの円形に、細かい水滴が無数についていること。
三つ目。椅子や水滴の近くに、何かをリストにしてまとめたコピー用紙が置いてあること。何とはなしに手に取ってみると、どうやら本のリストらしい。
リストを元の位置に戻して、こめかみに指を当てる。この三つの異変が何を示すのかは、さほど難しくない。というより、僕は答えを知っているのだから当然ともいえる。
つまり、峰岸と御手洗さんは、ここへ来なかったわけではないのだ。
おそらく授業が終わってすぐ、二人して図書室へやって来た。そして(おそらく峰岸が)椅子を持ってきて、貸し出しカウンター越しに向かい合って座った。
丸い水滴は、飲み物を置いて長時間ここで話をした形跡だと思われる。水滴がついているということは、温度が伝わりにくい水筒ではなく買ってきたジュースか何かだろう。
となればこのリストが何なのかも予想は立つ。要するに、例の悪戯でひっくり返されていた哀れな被害者、いや被害本たちであろう。これを片手に、二人は長時間議論していたらしい。
ではなぜ、いま現在この貸し出しカウンターがもぬけの殻となっているのか。僕が来ることを知っていたはずなのに、峰岸たちは非情にもどこかへ出かけている。それはどういう事情によるものか。二人の鞄がどこにも見当たらないことから、ちょっとごみを捨てに行ったなどという事情ではなさそうだ。
……一瞬後、僕の頭にはある仮説が閃いていた。いつもの僕らしからぬ、全くの直感ではあったが、同時にそれが正しいことを僕は確信してもいた。
決まっている。
彼女たちはこの悪戯の真意に気づき、そしてその仮説が正しいかどうかを確かめに行ったのだ!
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