自転車探しは探偵事務所へ

6-1 油断から始まる探偵事務所

 全ては僕が油断していたからだ。

 普段通りの観察力、とまではいかなくても、それなりに気を付けていればまだ気付くことができたかもしれないのに。そうすれば今のこの危機的状況を回避することができたはずなのだ。

 夏休み明けで気が緩んでいたのだろうか。それともいまだ残る熱気で脳が機能不全に陥っていたのか?

 いや、いまさらこんなことを考え直しても意味はない。これはすでに起きてしまったことなのだ。ならば僕の取るべき最良の選択肢は、過去を振り返ることではなく未来を見つめること。つまりこれからどういう行動を取るべきか考えることが最良だろう。

 しかし困った。

 僕は、これをどうするべきかの具体的な解決策を何一つ思いつくことができないでいたのだ。


 そもそも、こんな危機的状況の片鱗が見え始めたのはいつだったか。僕の意識は、ほんの三十分ほど前にさかのぼる。




 映画部というのは顧問が結構ラフな性格をしているもので、コンクールの出品締め切りまでに必ず作品を仕上げろと鞭でビシバシ打たれたり、作った作品に対してここのアングルが悪い役者の演技が大根だという文句を言われたりということは全くない。だから新学期最初の映画部の活動は、特にすることもなくのんびりとスタートした。

 しかし、九月に入ったとはいえ夏の暑さが急に消えてなくなるわけでもない。部室というのは密閉空間なので、窓から入り込んだ熱気は部屋の中で渦を巻いている。職員室などにはエアコンが装備されているが一般教室はせいぜい天井に小さな扇風機がくっついているだけで(どう考えても割に合わない)、もちろんたかが部室風情にはそれすらもない。この映画部室に限って言えば同じようなことを考えた先代が持ち込んだ扇風機があるのだが、彼の人はたいへん財布のひもが固い人だったので、どこかのゴミ捨て場から拾ってきたものではないかと僕はにらんでいる。なにせスイッチを押すだけではうんともすんとも言わず、毎度毎度なだめすかすように揺らしてやって、やっと亀のような速度で羽根が回り始める代物なのだ。普通の人なら迷わず買い替えるのだろうけれど、さすがに扇風機を買うためのお金を部費から出すのは不正に当たると思うので、この扇風機は僕が知る限り一年以上ここに鎮座している。何せ古い製品なので無駄に大きい。ほとんど役に立たないのだからせめて居候らしく部屋の隅で小さくなっていろと思わなくもない。

 とはいえ、読書に集中すればそんな微妙な熱気など気にもならなくなる。心頭滅却すれば火もまた涼し、という奴である。違うか。

 峰岸の守備範囲である本格ミステリというモノは残念ながら僕の肌には若干合わなかったりするのだが、僕も本を読むのは嫌いではない。

 嫌いではない、などと言うとそれは即好きという意味だと勘違いする輩が時々いて閉口するのだけれど、誤解を正すために説明を付け加えるならば、『好き好んで読むわけではないが特に読むのは苦にならない』となる。読書家というわけではないけれど、うん、まあ、『最近の若者』にしてはそれなりに本に親しんでいる人間ということになるのだろうか。よく『本棚を見ればその人の人柄が分かる』などと言うらしいが、ライトノベルや漫画ばかりというわけではないので、まあそういう意味ではどこに出しても恥ずかしくない本棚かもしれない。もっとも本棚といっても、小学生の頃に夏休みの工作で作ったちゃちなものなのだけれど。

 僕は記憶力が悪いことには定評があるので、読んだ本は一年もすれば内容を忘れてしまう。だから、それくらいの容量の本棚であっても何回も読めるのだ。ああ、僕は何と財布に優しい人間なのだろう。

 対して峰岸は絶対に金遣いが荒い。いやまあ普段から見ていれば小遣いをほぼ全額本につぎ込んでいることは分かるのだけれど、それにしたって一度に買う量が尋常ではない。その量は、控えめに言っても、僕が峰岸邸の床の耐久性を本気で考えてしまう程度には多い。というか一度ならず抜けたことがあるのではないかと僕は密かに疑っているのだが、峰岸にそのことを尋ねるといつも微妙な微笑みでごまかされてしまう。

 ともあれ、哲学者が何とかという題名の恐ろしく分厚い文庫本を読んでいる峰岸を尻目に、僕は最近久しぶりに古本屋で補充した新刊を流し読みしていた。新刊なのに恐ろしく安い値段だから買ったのだが、いや昔の人は賢い。安物買いの銭失いとはよく言ったものである。アメリカのスパイの物語なのだけれど、緊迫感あふれるカーチェイスの場面のはずなのに、出てくるのは僕のあくびだけだというのだから困ったものだ。

 しかも窓の外からは、なんだか僕の知らない歌が数十人分合わさって聞こえてくる。そのうち終わるだろうとたかをくくっていたが、かれこれ一時間ほど続いている。峰岸に「あれはなんだろうね」と言ったら、「一組と五組が合唱コンの練習してるんですよ。全員強制参加だとか」という答えが返ってきた。

 合唱コン、というのは正式名称を全校合唱コンクールといい、まあざっくり説明すればみんなで楽しくお歌を歌いましょうという学校の催しだ。女子はどうだか知らないけれど、男子連中にはめっぽう不評のイベントである(どこのクラスも大体仕切り屋の女子によって強制居残り練習が敢行されるからだ)。しかも屋内で行われるため、毎年きっちり予定通りに開催される。ひと学年五クラスで、それが三学年分あるため、当日は貴重な日曜日を丸々半分潰すというのも結構なマイナスポイントだ。

 しかしこんな時期から居残り練習するもの好きな、ああいや熱心な組が、しかも一年生にあるとは。我が校の未来は安泰に違いない。葛西高校の伝統に栄光あれ。

「峰岸の組は、ええと……」

「二組です。うちのクラスは、そうですね……合唱コンが十一月の最初の方ですから、十月の真ん中くらいまでは何もしないんじゃないでしょうか」

 希望に満ちた葛西高校の未来に、たったいま暗雲が立ち込め始めた。まあ別にいいけどね、そういうのは僕も嫌いじゃない。


 ともあれ、快適とは言わないまでも穏やかな放課後だったのだ。

 しかし突如として、ゴンゴンゴン、という乱暴な音がドアから聞こえてきた。どうやら誰かが(かなり激しく)ドアを叩いているようだ。まったく、ノックのマナーがなってない。最近の若者ときたら嘆かわしいもんだね。

 しかもその誰かさんは、こちらが返事をするのを待たずにドアを押し開けて入ってきた。何という狼藉。

 誰かさんは言った。

「おい木則このり、これは何だ!」

 君か、久慈院くじいん




「まあ落ち着きなよ久慈院。あまり感情的になりすぎると生徒会業務にも支障をきたすんじゃないか」

「その生徒会業務で来たんだ」

 ソファを勧めたものの、久慈院は座りもせずにこちらへずんずんと歩いてきた。相変わらず失礼な男だ。まああのソファはスプリングが壊れているから、下手に座るとダメージが大きいのだけれど。

 ポケットから何かの紙を取り出す久慈院。それを見て峰岸が小さくあっと叫んだような気がしたが、僕はそれどころではない。

「さて聞こうか。……これは何だ」

 広げられた紙切れが、僕の鼻先に突きつけられる。

 どうやら素人が作ったと思しき、何かの広告のようだった。とりあえず目を通してみる。えぇと、なになに……『奇妙な事件ならお任せ!名探偵・木則荘士郎がどんな不可解な謎も解決します!』。

 うん。

 うん。

 ……うん?


「はぁぁ!?」


 いや待て何なんだこれは。なぜこんないかにも怪しげな広告に僕の名前がエキゾチックな字体ででかでかと。それに名探偵って何だ。奇妙な事件とは。

「おい」

 混乱状態の僕の肩を容赦なく揺する久慈院。

「な、なんだ」

「これが昇降口前の掲示板に貼られていた。生徒会の許可印がなかったから剥がしてきたが、犯人はお前だろう」

 しょ、昇降口……これがいつ貼られたものかは知らないが、既に十人単位で見られているに違いない。その中には僕のクラスメイトも含まれていてもおかしくない。あぁー……。

 って、僕が犯人?

「……何を言ってるんだ久慈院。僕がこんな恥ずかしいものを、しかも掲示板に貼るとでも?」

「ああ、恥ずかしいという自覚はあったのか」

 だから僕じゃないというのに。

 しかし僕でないということは僕がいちばんよく分かっているから僕は容疑者から外れるとして、まず僕がこういう謎解きじみたことを時々していることを知っている人間が特に怪しい。だが僕にとっては幸いなことに、これの絶対数はそう多くはないのだ。

 まず目の前の久慈院。だが彼はいまこうやってビラの存在を自分から僕に知らせてにきているからありえない、犯人ならばできるだけ多くの人に見せることを目的とするはずだからだ。

 つぎに腐れ縁の阿良川あらかわ。彼女はと言えば、幸か不幸か否定材料は見つからない。性格的にもこんな嫌がらせをしてくる可能性は充分にある。が……。

 僕は思考を一旦止めて、部室の入り口のドアに目をやった。折しも峰岸が、そのドアを開けてそろりそろりと外へ出ていこうとしていたからである。

「久慈院、僕は一人、犯人の心あたりがあるよ」

「ほう」

 峰岸の動きがぴたりと止まった。僕の視線を追って久慈院も峰岸の方を向く。

 峰岸が、恐る恐るといった体で口を開いた。

「ええと……ひょっとして私、絶体絶命です?」

 二時間ドラマで崖に追い詰められた犯人ってところかな。

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