5-2 割に合わないカンニング

 あれは、そう、二か月ほど前――俺が高校二年に上がってすぐの、四月の上旬のことだった。

 校門を出て信号待ちをしていると、道路の反対側を同じクラスの女子――名前は真柄さながらとか言ったか――が、カバンを下げて歩いて行くのを見かけた。もちろんそれだけではなんということのない、日常の一コマである。しかし少し離れたところに立っていた俺は、真柄の十メートルほど後ろから付いてきている一人の男子生徒の姿を認めた。これが国原くにはらだったのである。

 もちろんその時点で俺は、特に何とも感じなかった。おかしいと思ったのは、その十数秒後――真柄が入っていった狭い路地に国原も入っていったのを見たときである。

 これは、帰る方向が同じというのとはちょっと違う――使えそうだ。そう思って、その日暇だった俺は二人の後を追って路地に踏み込んだ。

 果たして、真柄はその路地を抜けたところにある一軒の小さな商店に入って行った。おそらくこれが彼女の家だろう。そして国原は、なんと彼女の家の敷地に入り建物を回り込んで裏の庭らしき場所へ消えた。

 これは、いいものを見た。

 そう思って、俺はブレザーの胸ポケットからスマホを取り出しカメラ機能を起動させた。近くの自動販売機でサイダーを買って時間を潰していると、果たせるかな、真柄の家の庭に立っている大きな木がわずかに揺れた。注意していないとわからないくらいのものだったが、スマホのカメラでズームしてみると、思った通り国原が木に登ろうとしているところだった。おそらく真柄の部屋は二階にあるのだろう。

 そのあとの行動は簡単、その様子をカメラに収めて俺はその場を立ち去ったのだった。




 まあそんなわけで、今回の半期試験は国原が俺をくれることになった。しかし普通あんなものを見たら、迷わず然るべき場所に報告するなり不特定多数の目に触れるところに写真を公開するなりするものだと思うが、絶対にばれないカンニングの手伝いをさせているだけで済ませてやっているのだ。国原にはほとんど実害はない。控え目に言っても俺は寛大だろう。

 そんなことを考えながら、俺は大概蒸し暑くなってきたアスファルトの上を自転車置き場に向かって歩いていた。後ろからギラギラと照りつけてくる太陽がただひたすらに鬱陶しい。

 校舎のそばでは、二人の女子生徒がこの暑い中日陰にも入らず立っていた。スマホを耳にあてた一年生らしい方の女子生徒が、水が出ているホースを握っているので園芸部かと思ったが、しかしもう一人の女子生徒――こちらは見たことがある。確か隣のクラスの生徒で、名前は阿良川と言ったか――が片手に黒と白の縞模様の入った拍子木のようなものを、もう片方の手にはビデオカメラを持っているので、ああ映画部かと気づいた。一年生がホースを持っているのは、おそらく今から雨のシーンを撮るつもりなのだろう。今は梅雨で雨の日には事欠かないだろうに、わざわざ晴れの日にやるなんて全く非効率な連中だ。

 思った通り、数秒後に一年生はスマホをポケットにしまいホースを天に向けて、人工の雨を降らせ始めた。湿度が高くなるのだから、できるなら朝のうちにやってほしかった、などと思いつつその横を通り過ぎる。しかし俺にとっても予想外だったのは――その雨が、何の因果か俺に向かって降り注いできたことであった。

 気づいた時には、すでに避けようもない距離までその水の束は接近してきていた。一瞬後、顔面からしたたかに水を被る。

「す、すみません!」

 きゃー、と癇に障る声をあげてホースを放り出した一年生が、まっすぐこちらに駆けてくる。真正面から大量の水を浴びせられた俺はそれどころではない。「やあやあすまなかったね」などとふざけたことを言いながら阿良川も近寄ってきて、強引に俺のブレザーを脱がせ始める。手に持っているタオルから見てどうやら濡れた服を拭こうとしているようだが、俺はブレザーを引っ張って「もっと気をつけてくれ!」と言い放ち、その場を離れた。

 一秒でも長くあの無能どもの顔を見ているのが耐えられなかったからだ。




 翌日。

 ふとした気まぐれで、いつもより少し早めに登校すると、校内には人がまだほとんどいなかった。当然教室の様相も推して似たり寄ったりで、机に突っ伏して所在なさげにしている姿が二つ。

 少し蒸し暑かったのでエアコンのスイッチを入れ、それから自分の机の横にカバンをぶら下げて中から筆箱と文庫本を出す。駅前の全国チェーンの古本屋で適当に選んで百八円で買ったものだから、元より内容には期待していない。思ったとおり、読み始めてすぐ大学生が数人がかりで、糸を駆使して部屋の外から鍵をかけようと苦心し始めた。その数ページ後から始まる関西弁の語り口がこれまた鬱陶しい。

 そんなわけで、早くも本の内容に飽きてきたころ、教室にいた数少ないクラスメイトの一人が、いきなり席を立って出て行った。誰もいなくて暇をもてあましていたところ、友人が廊下を通るのを見でもしたのだろう。さて俺はどうするか、などと考えていると。

 俺の一つ前の席に座っていた、もう一人のクラスメイト――木則このりが、突然くるりとこちらを向いた。生憎俺は、暇だからと言って人と喋って時間を潰す趣味はないのだが。

 しかし、木則が切り出したのは、お喋りよりはもう少し建設的な用件だった。

「昨日、うちの後輩が届けてくれたんだけど。これ、君のだろ」

 そういって奴は、手帳ほどの大きさをした白い物体をポケットから取り出した。いわゆるスマートフォンである。

 反射的に胸ポケットに手をあてるが、当然そこには何の感触もない。俺は深夜まで端末でゲームに興じるなどという無益な時間の使い方はしないので、ポケットからなくなっているということに気付かなかったのだ。

「……そうだな」

 差し出されたスマホを受け取り、胸ポケットにしまう。

 しかし、それと同時にある疑問がわいてくる。昨日のどこの時点で落とした?

 奴は『後輩が届けてくれた』と言った。つまり、落としたのは学校内だ。しかし胸ポケットというものは深いもので、少し走ったくらいで物が落ちたりすることはない。と、いうことは。

 ……ああ、あの忌々しい一年生にホースで水をかけられた時か。

 あの時、阿良川の奴にブレザーを無理やり脱がされそうになった。あの時に落ちたのだろう。ということは、届けてくれた後輩というのはあの一年生のことか。なるほどろくでもない先輩には、ろくでもない後輩がつくものだ。

「そうか、やっぱり君のだったか。後輩から話を聞いてたぶんそうじゃないかと思ってたんだけど……いや、良かった良かった」

 能天気そうにそう言って、また前を向こうとする木則。しかし、そこでふと思い出したように、奴はこう言った。

「ああ、それともう一つ。気を悪くしないでほしいし、違うなら違うとはっきり言ってくれたらいいんだけど……」


「もしかして君、カンニングなんかしてたりするかい?」


 一瞬、時間が止まったかのようだった。

 次いで、心臓に冷気が流れ込んできたかのように感じる。

 ……待て、落ち着け。ばれているはずがない。確かにカンニングはしたが、しかし方法からいって証拠など残りようがない。だからこいつの言っていることはただのはったりか憶測以上のなにものでもないはずだ。

 しかし頭ではそう分かっていても、冷や汗が流れるのはどうしようもなかった。気のせいか、さっき教室に入ってきたときにつけたエアコンも温度が恐ろしく下がっているように感じる。

 ……大丈夫。証拠は、ない。

 証拠がなければ、万が一こいつが俺のカンニング方法を見破ったのだとしても、それをもとに俺を告発などできるはずがないのだ。

「……そんなこと、するわけないだろ」

 かろうじてそう答え、文庫本に再び目を落とす。目は細かく並んだ文字を追っているが、もちろん内容など頭に入ってこようはずもない。重ねられたページの向こうで、奴がふっと笑った気がした。

 奴の声が、妙に大きく俺の耳に響く。

「じゃあ予言しよう。君の日本史のテストは、確実に四十点以下だ」




 それから数十分後のこと。

 朝のホームルームで、早くも昨日やった日本史のテストが返ってきた。二十問のうち十二問を国原にもらったのだから、百点のうち六十点はほぼ確実に取れているとみていいだろう。俺が自力で解いた四十点分は半分取れているかいないかくらいだから、二十点ほど。あわせて八十点なら、赤点を取る道理もない。木則の奴はなぜか自信たっぷりに俺が四十点以下だとぬかしていたが、それこそ奴が俺の取った方法を見抜けていないことの確固たる証拠だ。そう思いながら、出席番号順に並んだ列で、特に心配することもなくテストが返却されるのを見ていた。

「国原」

「はい」

 ちらりと見えた国原の点数は、九十八点。つまり俺のテストの点は、どんなに少なくとも五十八点はあるということになる。まったくもって問題ないし、これで木則の予言とやらが盛大に間違っていることも分かった。

「木則」

「はい」

 木則はぴったり五十点。まあこいつは正直どうでもいい、さて次だ。

鮫島さめじま

 回答用紙を受けとる。とりあえず半分に折って、自分の席まで持って帰るがまあこれは建前だ。ボーダーラインが死守されたことは、国原の点数からも明白だ。

 そう考えながら、ゆっくりと回答用紙を開く。


 ……十五点?


 あわてて、もう一度点数を見直す。算用数字の『1』の右に、同じく『5』。一と七を間違えているのかとも思ったが、しかしどれだけ凝視しても左側の図形は、縦に引かれた一本線以外の何物でもなかった。そのことは、回答用紙の八割以上を占めている真っ赤なバツマークも雄弁に物語っていた。

 なぜだ、どうしてこうなった? 少し前に返された生物のテストでは、国原の送ってきた答えはすべて完璧に写し取れていた。だから方法自体に不備はなかったはずだ。しかし現に、想定より六十点以上低い点数を取ってしまっている。どこが間違っていた。

 と。

「大問一の二番がエ、三番が五傍の掲示。六番が徳川家茂……」

 前の席の木則が、何かの単語をずらずらと羅列し始めた。大問がどうのと言っているので、どうやらテストに関係していることのようだが……。

 なんとはなしに自分の回答用紙に目を落としてみて、そこで俺は驚愕した。木則の奴が並べ立てているのは――全て、俺の回答用紙に書かれているだったからだ。

「……一番が大隈重信、二番がア……」

 木則はなおも、記号や単語をほとんど囁くような声で呟いている。そしてそのどれもが、俺の解答用紙でバツがつけられている部分なのだ。

「……四番が自由党。どうかな、僕が今言ったものの中に、一つでも君が違う答えを書いたものがあったかい?」

 そう言って、木則はこちらを振り向き、薄く笑った。




「まあ最初はね、いつもに比べてやけに黒板の光が反射するなと思っただけだったんだよ。試験中はそんなに黒板なんて見るものじゃないし、あまり気にはしてなかった。

 でも、一昨日の最後のテストで丸い光が座席表に投射され続けてるのを見て、これは誰かの作為だと気づいたわけだ。ただの反射なら、同じ時間ずつ留まっている訳はないからね。

 さらに、黒板に光を投射する目的というのは、何かを指し示す以外にちょっと考えられない。そしてテスト中に指し示すものといえば、ただ一つ。誰かが誰かにテストの答えを教えているんじゃないかと考えるのは、そう不自然じゃないと思うんだけど、どうかな? そこに気づけば、あの座席表の最上段が一からゼロの数を、残りが五十音表を表しているというのはそこまで難しい問題でもなかった。

 それから、最初だけは座席表じゃなくて黒板に光が投射されたね。通信開始の合図だってことは、あれだけが座席表じゃない場所に現れたからわりあい簡単に分かった。そして、あれがこの列の正面に当たる場所に投射されたことから、通信をしているうちの少なくとも片方は、この列に属しているんだろうと考えたわけだ。付け加えると、合図を見るためにはそれなりに前の方の席に座っているのが望ましい。

 そこまで考えたところで、僕はとりあえず前の席の国原くんの挙動を観察してみることにした。外れたら外れたで別に問題はないしね。

 しかし、彼は左腕を――もっと言うと、彼の腕時計を器用に操り始めた。注意して見なきゃわからないくらいの細かい動きだけど、逆に言うと注意して見ればそれは特有の動きだ。おかげで、一昨日の段階で国原くんが二人のうちの片方だというのは分かった――でも、もう片方が誰なのかはわからなかった。国原くんの性格と、彼が腕時計を動かすタイミングから彼が教える側の人間だというのはすぐわかったけど、大事なのはそれを受け取ってる側が誰かということだったからね。

 そして昨日がやってきた。

 一時間目は分からなかったよ、前日とほぼ同じだったから。でも一時間目と二時間目の休み時間に、君が国原くんの方を二回意味ありげに叩いた時に、ひょっとして君がそのもう片方なんじゃないかと思った。確証はなかったけど、今までばれずにカンニングを行ってきた人物なら、最後にもう一度そういう行動を取るというのはありそうなことだ。

 だから、ちょっと悪戯をしてみることにしたんだ。

 ちょうどうまい具合に、国原くんが机にぶつかってシャーペンやら何やらをバラバラと落としてくれた。その中には、幸運なことに腕時計も含まれていた。だから、僕は彼にシャーペンを拾ってあげるついでに、腕時計を一時間だけ拝借した。僕は昨日、腕時計を持ってきてなかったからね。

 そして僕は、早々とテストを終えて『通信開始』の合図を待った。国原くんは合図を見て初めて、腕時計がないことに気づいたかもしれないけど……まあこれは、彼に責任はないし。

 試験時間が半分ほど過ぎた頃に、合図が来た。

 だから僕は、わざと間違った答えを送ってみたんだ。

 勘で正解を出せる確率は、例えば四つの記号から選ぶ問題なら四分の一だ。でも不正解なら四分の三だし、どの問題にもだいたい『これは間違ってる』って選択肢がある。だから、君に送ったのは全部、ばかりだったんだよ。

 まあ多分に推測と勘を含んだチャレンジだったけど、こういうことで僕の直感が外れたことはなくてね。それにもし外れていたとしても、その人物は六十点を丸々棒に振ったわけだから四十点以下であることは間違いない。そんな点数を取る人はそうはいないから、地道に探していけば当たると思ってね」

 そこまで言って木則は、ふうとため息をついた。

 まさかこんな奴に、俺の計画が看破されるとは……知らぬ存ぜぬ、ただの偶然だと押し通してもよかったが、ここまで正確に間違う可能性というのがかなり低いというのは、俺も分かっている。だいたい、正確化正確でないかに関わらず、判断するのはこの話を聞いた第三者だ。だから、次に俺の口から出たのはこんな言葉だった。

「……で、何がしたい。いまの話を教師の前ですれば、少なくとも俺の今回の成績は全部ゼロ点になるぞ。それとも、今の話をネタに俺を脅迫して小遣い稼ぎでもするか?」

 反論を封じられた俺に今できるのは、せいぜい相手を挑発するくらいのこと。しかし木則から返ってきたのは、俺が予想だにしなかった答えだった。


「まさか。僕はただ、テストが早く終わって暇だっただけだよ」

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