4-4 収斂の解決編
いやいやいやいやちょっと待て。
「二、三回でも乗ってたら分かるんじゃないか? そりゃ初見じゃ気付かないけど、何度か乗ってれば両替してる人くらい見るだろ。だいたいお前だって、両替が必要なことを知ってたのにICカードの類は持ってなかったじゃないか」
「でも、あの人が知ってたのはそれだけじゃありません。バスに乗るなり両替機に向かったってことは、あの人は両替が必要なことだけじゃなく、自分の財布に必要な量の小銭が入ってないことまで知ってたんです。つまりあの人はバスに乗るずっと前に、例えばショッピングモールで買い物をした段階とかで、バスに乗ることを念頭において財布の中身を確認したんです」
……それは、まあ、確かに。
しかし、それだって『ショッピングモールで偶然思いついた』という仮説をひっくり返すには少し弱い。他に、何かその仮説を裏付ける、もしくは真っ向から否定するような証拠はないものか。
記憶の中の男の映像を、片っぱしから当たっていく。ほどなくして、あるシーン――というより、ある音がフラッシュバックした。
「……そうだ、靴だ」
「靴、ですか?」
「男は、いかにも滑りやすそうなつるつるとした靴を履いていた。あんな靴で、乗り物を運転しようなんて気になるか?」
「……なりませんね。車とかならなおさらです」
「そう、基本的に乗り物ってのは足も使って操作することが多い。もし男が、自動車で通勤しているとすればあんな靴は絶対に履かないはずだ。自転車の場合も同じ」
慣れれば何とかなるというような話を聞いたことがあるような気もするが、普通はしないだろう。誰だってブレーキが満足に踏めない車で公道を走りたくはないはずだ。
「つまり男は、通勤に自分の所有する乗り物を使っていない。となると、残された可能性は徒歩か公共交通機関の利用の二つに一つだ」
……まあさらに可能性を挙げるとするなら、男が実は大金持ちで送迎はいつも運転手にやってもらっている、というのもないではないが、そんな男がバスなんかに乗るはずもないのでこれは却下。
「そしてその二つなら、バス通勤の可能性が高いということですね!」
「うん」
さらに言うと、男の靴は真っ黒で汚れもなく、したがって毎日長い距離を歩いている人間の靴ではないというのもあったけれど。しかしそこはどうでもいいだろう。
ただ、そうなってくると元の疑問に戻ってしまう。
男は、バスで通勤している可能性が高い。
なのに、定期券やICカードを持っていないのはなぜだ? 毎回小銭を出そうとすると時間もかかるし、何より頻繁にお札を崩さなければならない。
……いや、違うな。こうじゃない。
男はたぶん、ICカードかそれに類するものを持っている。
そして、それにもかかわらずそれを使わない理由がある。
こう考えれば、まだ発展の余地がある。
使えなくなる理由として真っ先に思い浮かぶのは、紛失だ。しかしこの過程は成り立たない――なくしたものは通常帰ってこない。帰ってくる見込みがないのであれば、今まさにそのバスに乗っているわけだから、停車中に運転手さんに言って再購入すればいいのだ。なのにあの男は、買う素振りさえ見せなかった。
買うお金がなかった、ということはないだろう。男が少なくとも千円札を一枚持っていたことは、さっきの推理で分かっているのだから。
では男は、紛失はしていない。
じゃあ、なぜ使わなかったのか。
答えは簡単――使えなかったから。
「峰岸、分かった。ICカードじゃダメなんだ――でも、定期券ならつじつまが合う」
「はい? ……あの、先輩何を?」
「男は、バス通勤をしている。したがって、当然のように自分の家の近くのバス停から通勤先の近くのバス停までの定期券を所持しているはずだ。でも今回は、使わなかった。
なぜか。
いつもと違うバス停から乗ったからだ」
「だから、ICカードじゃダメなんですね」
その通り。
ICカードなら、同じバス路線であれば基本的にどこでも使える。場所によって使えなくなるのは、定期券しかありえないのだ。
「そういえばあの人、スーツなんか来て普通の会社勤めっぽかったのに、かなり早い時間で退社してましたよね。会社を早引けでもして、どこかに寄る用事でもあったんでしょうか」
何となく、左腕の腕時計を見る。時刻はまだ、三時半を少し回ったところだ。確かに一般的会社員の帰宅時刻には、ちょっと早いような気がする。
そして、あの男はショッピングモール前のバス停にいた。
ショッピングモールなんてものは基本的に少し町の中心部から離れたところに立っているもので、つまり近くにはあまり建物がない。
だから、ショッピングモールはあの男の出発点ではなく目的地だったと考える方が自然だ。ショッピングモールはその名のとおり買い物をする場所だから、必然的に男は会社を早退してまで何かを買いに来ていたとなる。
その『何か』とは、何か。
男はバスから降りるとき、傘をさしていた。これは当然だ、ささないと自分が濡れてしまう。手元に傘があって、雨が降っているにもかかわらずそれをささない人間がいたら逆におかしい。
そしてあの男は、傘を肩にかけるようにしてさしていた。つまり傘は、どちらかと言えば男の後方をカバーする形になっていたわけだ。
しかし、あの時は停止しているバスのフロントガラスに、雨が叩きつけるように降っていた。当然男も、正面から降り注ぐ雨に晒されていたということである。
雨が正面から降ってくるのに、傘は後方に向いている。
この奇妙な事態を説明するには、答えは男のリュックサックに求めなければいけない。すなわち、男のリュックサックには何か大事なものが入っていたのだと。
そしてその『大事なもの』を、会社を早退してまでショッピングモールで購入したものとイコールで結ぶことはごく自然なことのはずだ。
その『大事なもの』は、誰のためのものか?
男のものであるという可能性はもちろんあるが、しかしその確率は低いだろう。男は、会社を早退しているのだ。自分のためのものなら、会社を通常通り退社してから悠々と買いに行けばいい。それをしなかったということは、『大事なもの』はあの男ではない誰か――もっと言うと、ごく近しい人間のためのものだと考えられる。
さらに言うと、早退してまで買わなければならなかったということは、買うのは明日でも明後日でもなく絶対に今日でなければならないという緊急の要件だったわけだ。
寄せていた波がスッと引くように、思考が通常のレベルまで引き戻された。
「……たぶん、家族の誕生日プレゼントを買うつもりだったんじゃないかな」
直前まで思考の奥深くまで潜り込んでいたため、こぼれ出た言葉は小さすぎて峰岸の耳にはとどかなかったらしい。「え、何て言いました?」と聞き返される。
「いや、何でもないよ」
そう答えて、両手の紙袋を気合を入れて持ち直す。さっさと峰岸の家までこれを運んで帰るつもりだったのに、いつの間にかバス停でこんなに時間が経ってしまった。
性格がいいとは言えない人間が、こんな結論を正面切って語るのは気恥ずかしすぎる。
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