4-3 新たな謎を呼ぶ解決編

 またしても現国の黒沢先生の話になるけれど、彼は『文章は全体の大まかな意味で捉えるのではなく、分解して意味を突き詰めて考えていくこと』というのが口癖だった。まさか休みの日に、しかもバスの車中で現国の授業を思い出すことになるとは。

「さて、と。あの運転手さんの言葉は、『あ、お客さん! 百八十円多すぎですよ!』だったよね」

 しばし考えてから頷く峰岸。僕の頼りない記憶力と言えど、さすがにこれくらいの文章はきちんと覚えていたようだ。

「まあ、一文目の『あ、お客さん!』から読み取れることはあんまりないから、やっぱり問題は二文目の、『百八十円多すぎですよ!』。これは、大体百八十円くらいという意味か、それとも百八十円ぴったりという意味か?」

「そりゃぴったりでしょう。運賃の最低単位が十円ですし、大体でいいなら二百円って言いますよ」

「その通り。ちなみにあの男が乗ったのは僕らと同じバス停だったから、運賃は……」

 運賃の表を探す僕。しかし僕よりはるかに多い回数乗っているというアドバンテージがある分、峰岸の方が早かった。

「えぇと、陣野三丁目から白崎一丁目は四百二十円だそうです」

「つまり男は、四百二十たす百八十の六百円を払ったわけだ。

 まず考えられるのは、硬貨の種類を勘違いした可能性だろう」

 例えば財布から取り出すときに、慌てていて手元をよく見なかったとか。

「……でも先輩、硬貨ってだいたい色も大きさも違いますよ。間違えますか?」

 うーん。確かにそう言われると、ないような。穴が見えない状態の五十円玉と百円玉を間違えることはたまにあるけれど、そのほかの硬貨同士ではちょっとやりそうにない。試しに五十円玉と百円玉の入れ替えで上手くできないか考えてみるも上手くいかなかった。だいたい百円玉と五十円玉の組み合わせで二十円ができるわけがないのだ。

「……うん、これは違うみたいだ。じゃあ次――」

「あ、先輩こういうのはどうです? あの人は払い間違えたんじゃなくて、最初から六百円払うつもりだったとか」

 ……ほう。

 どうやれば間違えるかばかり考えていて、そっちは思考の外に置いていた。

「例えばどういう」

「えぇとですね……前回バスに乗った時にたまたま財布の中にお金がほとんどなくって、払えなかった分を今回払ったとか」

「それなら、運転手さんに一言あって然るべきだろ。現に運転手さんは驚いたような声出してるわけだから」

「あー。……じゃ、じゃあこういうのは!」

 へこたれない奴だ。

「あの人はこのバス路線を何とか残そうと、少ない額ながらも寄付をしたんですよ!」

「……この路線、潰れそうなのか?」

「いや知りませんけど。最近新聞とかにそういう記事がよく載ってるじゃないですか」

 こいつ、新聞読んでるのか。朝の短い時間にニュース番組を見るくらいの僕としては、見習うべきところがあるかもしれない。

「しかし、寄付でどうにかなるものなのか? 塵も積もれば山となるっていうけど、別に寄付を募ってるわけでもなし、積もらなければただの塵じゃないか」

「頭ではわかってても、やらなきゃ! ってなることないですか?」

 僕は、そういうのはあんまり。

 しかしそういう観点から話をされると、ちょっと反論のしようがない。『やりたいからやった』というのは、合理性も論理性もすべてを吹っ飛ばしてしまう魔法の言葉なのだ。

 何か反論の材料はないかと周りを見回すが、視界に入ってくるのは誰も座ってない古ぼけた座席とか、無造作に貼られたポスターくらいである。

 ……ポスター?

『定期券より便利なICカード!』と書かれたポスターの右下隅を凝視する。果たして、予想通りの文字列がそこには並んでいた。

「峰岸、これを読んでみろ」

「えー、何ですかぁ……『市交通課』?」

「そう、つまりこのバスは市営バスだ」

 いまいちのみこめていない顔で、首をかしげる峰岸。

「市が運営してるってことは、端的に言うと税金が使われてるってことだ」

「あ、だから……」

「民営ならともかく、ちょっとやそっとで潰れるはずがない。あの男が、特に根拠もないのに偏見でこの路線が潰れそうだと考えた思い込みの激しい人物でもない限りは、その可能性はないんじゃないかと思う」

 むー、と唇を尖らせる峰岸。僕はただ、思いついた仮説を喋っただけなんだけどな……。

 と、そこで再び天井のスピーカーから『次はぁ、白崎公園前ぇ。白崎公園前でお降りのお客様はいらっしゃいませんかぁ』という運転手さんの声が。そう言えば降車ボタンを押していなかったと今更ながら気付き、身体を捻って窓枠の黄色いボタンを押す。

『次、止まりまぁす』

 その言葉と同時に、減速し始めるバス。危なかった、気付くのがもう少し遅れてたら降り損ねるところだった。というかバスに関しては先輩なんだから峰岸もしっかりしててほしい。

 財布から百円玉を四枚と十円玉を八枚取り出す。さっきの喫茶店であえて千円札を使ったおかげで、両替をしなくてもよさそうだ。僕らの他に降りる人がいないとはいえ、降車口でもたつくのはできれば避けたい。

 ……待てよ。

 慌てて記憶をたどる。

 バスに乗る前、つまりバス停においては、あのスーツの男は僕らの前に並んでいた。当然乗る時も、僕らより先にバスの中に入った。

 そして僕らは、乗車口からほとんど離れていないところに立った。なのにその後、。ということは、つまり……?

 しかし断片的な部分は覚えているものの、肝心なものが出てこない。こういうときは隣の後輩に聞くに限る。

「峰岸、僕はよく覚えてないんだけどさ――」

「ほら先輩、バス止まりましたよ。降りますよ!」

 人の話を聞かない後輩である。せっかく仮説を一つ思いついたというのに。後ろからぐいぐいと押され、よろけながら降車口へ向かう僕。

 出しておいた計十二枚の硬貨を運賃箱に放り込み、ステップを降りる。峰岸が「ありがとうございましたー」と言った。

 雨はいつの間にかやんでいた。全く変わりやすい天気である、梅雨と言えば一日中雨が降り続くものではないのか。

 隣で峰岸が、「ふんとこしょ」という謎の掛け声とともに紙袋を持ち直した。……何か聞かなければいけないことがあった気がする。

 あ、思い出した。

「峰岸、あのスーツの男なんだけど」

「はい?」

「ひょっとして彼、バスに乗った直後に両替機へ向かったりしなかったかい?」

 僕らより先に乗ったはずの男が、僕の足を踏んだ。それが示す事実は、乗車直後に彼が一度車体前方へ向かったということだ。

 やや間があってから、

「確かにそうです。でも、それが何か……って、あ、あぁー!」

 いきなり叫ぶ峰岸。どうやら、同じことに気づいたみたいだ。

「その通り。

 たぶん男の財布には、十分な量の小銭が入ってなかったんだろう。おそらく十円玉は望む枚数だけあったものの、百円玉は足りなかった。だから彼は、千円札を一枚と十円玉二枚を取り出し財布はポケットにしまって、両替機に向かった。

 両替機で千円札一枚を百円玉十枚に両替する。そしてそのうち四枚を十円玉二枚を持っている方の手に握り、残った六百円をもう片方の手に握る。おそらくは四百二十円が左手で、六百円が右手だ。そのあとで彼はバスの後部の座席へ向かい、僕の足を踏んだ」

「……先輩の足が、どうかしたんですか?」

 怪訝そうな顔の峰岸。そうかこいつには話してなかったんだった。

「こっちの話だよ。……そして彼は自分が降りる段になると運賃を払うため、握っていた手を開き硬貨を運賃箱に放り込む。けれども彼は、開く手を間違えた。運賃箱には六百円が入り、彼の片手には四百二十円が残る。目で見ればわかるはずだけど、握った感じでいえばどちらも硬貨六枚だし、放り込んだ時の感触で気付けというのも無茶な話だ。

 運転手さんの声が聞こえたら彼もすぐに間違いに気づいたかもしれないけど、あの時風は向かい風だった。彼が気づいたのは、もう少し後になってからだろうね」

 ここまで一気にしゃべり切って、少し疲れた。ふぅ、と一つ息をついてから峰岸を見る。

 しかし、その表情は疑問が解決した時の晴れやかなものではなかった。先程と同じ、怪訝そうな顔をしている。

「どうした、峰岸」

 まさか、何か大事なことを見落としていたか? それも、少し話を聞いただけで気空くような大きな見落としを。

 しかし、僕の心配は杞憂だった。

「いえ、先輩の考えはたぶん合ってると思いますし、どうして百八十円なんて違いが出たのかもわかりました。でも私は、先輩が別のことに気づいたんだと思ってたんです」

 別のこと?

「はい。

 あの人は、バスに乗るなり両替機に向かいました。つまりそれは、バスに乗る前から両替が必要だってわかってたってことです。だから私は、あの人はよくバスに乗る人で、だから両替が必要って知ってたんだって思いました。

 でも、あの人は運賃を現金で払いました。よく乗る人なら、定期券かICカードかのどっちかを持ってると思うんです。あれなら財布の中にちょうど現金がなくても払えますから。

 つまりあの人は、バスによく乗る人で、かつよく乗らない人なんです」

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