4-2 払い過ぎにはご注意を

 とはいえ、これはやはり暇だ。

 現国の黒沢先生が以前、本好きという人種は本屋で何時間も立っていられるものだと言っていた。その時は、まあ真っ赤な嘘というわけではないにしても精々十分かに十分のものだろうと思っていたのだが……。

 まさか本当だったとは。

 それが証拠に峰岸は三時間前に本屋に入ってから、ずっと立ったままで棚を物色したりしている。しかも歩き回ったりしているならともかく、いったんお目当てらしき本を探し当てるとその場で何十分も立ち読みをし始めるのだ。

 そんなわけで、最初の方は僕も適当に雑誌を拾い読みしたりして時間をつぶしていたのだが、一時間が経過したあたりで膝が音を上げた。ここで妙な意地を張ったりして明日の朝起きたら立なくなっていたなどという間抜けな話もないので、早々に退散して本屋の隣にあった喫茶店に逃げ込んだのであった。やっぱり僕に本屋は向いてない。

 マスターにコーヒーを頼み、窓際の席に腰掛ける。傘はテーブルの端に。僕がここにいることは本屋を出る時に峰岸に伝えておいたので、買い物が終わったら向こうから来るだろう。そう思ってコーヒーを口に含む。

 ……苦いな、これ。

 思わずテーブルの端に置いてあった砂糖壺を引き寄せそうになるが、しかし僕はコーヒーに砂糖は入れない主義であるということを思い出す。しかし苦い。しかし老後の健康が。いやしかし。

 砂糖壺の蓋に手をかざしたまま逡巡していると、外の歩道を通りかかった五、六歳くらいの男の子と目があった。自分の身長ほどもあるおもちゃの箱を抱えているが、あれでよく転ばないものだ。

 しばらく妙な体勢のままでにらめっこの真似事みたいなことをしていたが、やがて向こうがぷいっと顔を背けて歩き去っていった。しかも、遅れて小走りでやってきたお母さんらしい女性には変な顔をされてしまった。

 ……決めた。やっぱり砂糖は入れない。

 しかし苦いものは苦いので、目をつぶって一気に流し込む。これでは時間をつぶすどころではない、本末転倒である。でもやっぱり苦い。

 しかし峰岸はまだ帰ってくる気配がない。

 仕方がないので、ポケットからスマホを出して電源を入れる。しかし僕はネットはあまりしないし、ツイッターの類もしていない。アドレス帳にも家族の他には、峰岸や久慈院、(不本意ながら)阿良川の番号くらいしか入っていない。じゃあなにをするかというと。

 本を読むのである。

 あまり本を読まない僕が電子書籍を買ってまで読む気になったのは峰岸に感化されたから……というわけではなく、ただ単に読めと言われただけなのだ。しかし僕は、かさばって持ち運びがしにくいため紙の本はあまり好きじゃない。峰岸のような妙なこだわりは僕にはないし、スマホならいつも持ち歩いているから便利だ。

 『最近購入した本』から『空飛ぶ馬』というのを軽く押す。「これを面白いと思えないようでしたら先輩の脳ミソは腐ってます」とまで言われたが、はてさていかがなものか。

 目次なんかはすっ飛ばし、『織部の霊』と書かれたページを開く。急ぐものでもないので、ゆっくり読んでいこう。




 『砂糖合戦』と題された章を読み終えたとき、入り口のベルがカランカランと音を立てた。ちょうど区切りもいいし、とスマホから目を上げると、峰岸が蹴るようにしてドアを開けようとしているところであった。両手は紙袋でふさがっているのである。

 スマホの電源を落として財布をポケットから出し、傘を片手に持ってコーヒー代を精算する。帰りのバス代のことも考えて、あえて残っている小銭は使わず千円札で払う。

 それからドアに挟まれてうんうん唸っている峰岸のもとへ向かい、紙袋を二つ持ってやる。「もう少し早く来てくださいよー」と恨めしげな顔で言われた。いや、見ていて面白かったものだから。

 喫茶店を出て、歩道を少し歩く。ほどなくして、前方にバス停の丸い屋根が見えてきた。来た時とはバスの進行方向が違うので、今回は道を渡る必要はない。

 バス停には先客がいた。リュックサックを背負ったスーツ姿の中年の男性で、片手には傘を持っている。そう言えば今は雨が降っていないが、はて僕は自分の傘をどうしただろう。まさか喫茶店に置き忘れてきたりはしていないはず……と思ったら、ちゃんと自分の右腕にかかっていた。我ながら間抜けだなあと一瞬顔をしかめる。

 数分もしないうちにバスがやってきた。腕時計を見ると午後三時二十分で、バス停の時刻表には『15:20』と記されている。さすが日本。

 スーツの男性に続いて、車体中央の乗車口からバスに乗り込む。男性の真っ黒な革靴はキュッキュッと音を立てていて、滑ったりしないか他人事ながら少し心配になる。

 整理券を取るのを忘れていて峰岸に指摘され、すこし手間取ったものの乗車に特に問題はなかった。

 と思ったら、さっきのスーツの男性に足を踏まれた。せめてすみませんの一言はあって然るべきじゃないのか、などとは言わない。結局男性はそのまま最後部の座席に座った。

 しかし来た時に乗ったバスと同様座席の座り心地があまりに悪そうだったので、僕らは乗車口からほとんど動かずその場で吊り革を掴んだ。運転手さんが全員乗り込んだことを確認したらしく、バスが発進。体勢を崩したりはしなかったが、代わりに吊り革と一緒に掴んでいた紙袋が僕の顔を直撃した。そっと、下ろしているもう片方の手に持ち替える。

 と、にわかに窓ガラスに雨粒が当たり始めた。さっきまでやんでいた雨がまたぞろ降りだしたらしい。バス停から峰岸の家まではそう遠くないものの、この紙袋を抱えたまま傘をさすのはできれば遠慮したい。

「……というか、何冊買ったんだ」

 僕の二袋と、峰岸の一袋。合わせて三袋もある。

「あ、そんなにたくさんは買ってませんよ。十五冊くらいのもんです」

 多いよ。

 ……しかし、予想したよりは少なかった。紙袋が三つもあるから、僕はてっきり五十冊くらい買いこんだのかと。そう尋ねると、

「ああ、これですか? 店員さんに頼んで余分にもらったんです、文庫とノベルスと単行本を買ったので」

 意味がわからない。

「……えぇとですね、文庫は百四十八ミリ×百五ミリのサイズで、ノベルスは新書サイズの百八十二ミリ×百三ミリです。単行本はサイズがまちまちですが」

「つまり?」

「文庫がちっちゃいので、ノベルスは細長いので、単行本はでっかいのです!」

「ありがとう。で、サイズが違うと何か問題が?」

「例えば単行本と文庫本を一緒の袋に入れると、小さい文庫の方が袋の中で動くでしょう!?」

 なぜか怒られた。うーん、そんなに動きまくるものでもないと思うのだが。まあ峰岸なりのこだわりがあるというのは分かった。




 それから二十分ほど二人とも無言だったが、運転手さんの『次はぁ、白崎一丁目ぇ。白崎一丁目です』というアナウンスが入ったあたりで、

「あ、先輩先輩。これの次ですからね」

 と言った。

「さすがに分かるって……」

 さっきも似たような会話を交わしたような。

 やがてバスが減速し、空気の抜ける音と共にドアが開いた。僕らの後ろに座っていたスーツの男性がリュックサックと傘を持って立ち上がる。さっきのように足を踏まれてはかなわないので、壁へ一歩下がる僕。

 スーツの男性は握っていた数枚の硬貨を運賃箱に投入し、そして傘をさしてバスから降りた。ごく自然な動きで、当然僕は、おそらくは峰岸も、そのまま何事もなくドアが閉まりバスは発車するものだと思っていた――運転手さんがこう叫ぶまでは。

「あ、お客さん! 百八十円多すぎですよ!」

 と。

 しかしスーツの男性は、その声が聞こえなかったのかそのままのペースで歩いていった。バスのフロントガラスに叩きつけるような雨と、肩にかけるようにしてさしている傘のせいで男性の顔は良く見えない。やがて彼は、角を曲がって僕らの視界から消えた。

『……えー、では、発車します』

 何事もなかったような運転手さんの声と共に、ドアが閉められバスは発車した。遅れた分を取り返すためなのか、さっきよりも速度を出しているような気がする。

 まあ運賃を踏み倒されたりしたわけではないから、そういうものなのだろう。

 と、峰岸が空いている左手で僕の袖をちょいちょいと引っ張った。

「何だい」

「先輩、気にならないんですか?」

 だから何が。

「あの人がどうして運賃を余計に払ったのか。私は気になるんですが」

 ……このあいだ、峰岸に読まされたミステリに似たようなことを言う女の子が出てきたような気がする。タイトルは確か、かき氷だったか氷ぜんざいだったか。いや何か違う。氷という字が入っていたのは覚えているのだけれど。

「運賃の払い間違いくらい、誰だってやるだろ。不思議でもなんでもないじゃないか」

「でも、百八十円ですよ? 間違えるには、ちょっと半端じゃないですか?」

 別にいいじゃないか、それくらい。

 そうは思ったものの、こう言い始めたら峰岸は止まらないのもまた事実である。やれやれ面倒なことになった、と思いつつ、顎に手をあてて考える。

 ……まずは、言葉の分析からかな。

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