百八十円だけ多すぎる

4-1 雨の日は本屋へ行こう

「……結構揺れるものなんだね、バスってのは」

「え、ひょっとして先輩乗ったことなかったんですか!? 一度も!?」

「乗ったことがある可能性はなくもないけれど、それはおそらく覚えていないほど昔の話だろうね」

「……先輩って実は超のつくお金持ちで、お出かけはいつも専用のリムジンとかだったりします?」

「別にそんなことはない」

 たいていの場所へは徒歩か自転車で行くし、それで行けないような場所へはそもそも行かないだけのことだ。どうしても急ぎの時はタクシーを使うだろうから、いわゆる路線バスというものに縁がないというのはそう不思議な話ではないと思うのだけれど。

 平日の昼前とはいえ人がまったく乗っていないわけではない市バスの車中。僕――木則このり荘士郎そうしろうと後輩の峰岸みねぎし早苗さなえは、周りの人たちに配慮しながらも打ちつける雨音に負けないよう、それなりの小声でそんな会話を交わしていた。

 遠足のときなどに乗るバスはもっと乗り心地が良かったように記憶しているが、しかしよく考えてみればあっちは大型バスでこっちは中型。しかも座っているか立っているかの違いもあるので、感覚の差異も当たり前といえば当たり前なのかもしれない。ちなみに乗客は少ないから座席は十全に空いているのだが、何十年酷使しているのかどれもこれもスプリングが駄目になっていて、座っている間中変な振動が身体に伝わってきそうだったので二人ともあえて立ったままでいることを選択したのだった。スマホでゲームらしきものを熱心にしている二回りほど上の男性や、前のほうに座っている洋装の老婦人などはどうしてあれに平気な顔をして座っていられるのだろう。峰岸のよく読むミステリなんかよりこちらのほうがよっぽど不可解である。

 そもそも、どうして平日の昼間っから僕らがこうしてバスに揺られているかというと。

 ことの始まりは、昨日の夜にさかのぼる。


 時刻は午後十時を少し回ったころだったと記憶している。

 明日は創立記念日だからさてどう過ごしてやろうか、と少し早いながらも布団にくるまりながら考えていたときだった――ちょうど一週間後の月曜日、六月六日から中間テストなのだが、成績上位者のエリートたちはともかく人から期待されるほどの何かを持ち合わせていない僕ごときは前日の一夜漬けでどうにかするつもりだし、それで意外とどうにかなるものなのである。ちなみにこの間あったばかりの実力テストは291人中146番という見事なまでの真ん中の順位を取った。

 すると、買ったばかりのスマホに峰岸からの着信が入ったのである。

 なんだ遅い時間に非常識な、いやでも最近はみんな日付が変わっても無料通話アプリで話したりゲームしているらしいからこれが普通なのだろうかと思いつつも、目の前で震えだしたスマホを無視してやるわけにもいかない。峰岸に居留守を使うことに関しては別に罪悪感を覚えたりしないがその間ずっと自分の意志とは関係なく拷問的な振動を与えられ続けるスマホくんがかわいそうである。

 そんなわけで受話器マークをタップすると、スピーカーから峰岸の元気そうな声が流れ出てきた。細かいところは忘れたがこんな感じの会話だったように思う。

『先輩、こんばんはでーす!』

「何か用でも?」

『いえ用ってほどのものじゃあないんですが旦那、明日はご予定とかあったりしますかね』

「特には。さっきまで何をするか考えてたところだしね」

『ではでは、ショッピングについてきていただけないものでしょうか』

「ショッピングぅ? ……まあ、いいけど」

 天気予報では雨だったのであまり良くはなかったが、まあ僕の勝手な都合で峰岸の楽しみを奪っても仕方がないからそう返事しておいた。別に雨の中自転車で北海道なんかへ行こうというわけではないのだろうし。

『じゃあ明日の午前十時、白崎公園前のバス停で会いましょう。それでは失礼』

 その時点で僕が思ったのは、峰岸に似合うのはショッピングではなくショッキングピンクだなぁというくだらない駄洒落だった。


「ところで峰岸。まだ聞いてなかったけど、何を買いに行くんだ?」

 バスに乗ってから十分。目的地は、陣野三丁目という降りる予定の停留所名から市の中心部にあるショッピングモールらしいと推測されるが、肝心のショッピングの内容を聞き忘れていた。

「木則先輩もまだまだですねぇ。私がこんなところまで遠出して買いに来るものと言えば決まってるじゃありませんか」

 ……これは、僕に考えてみろと言っているのだろうか。

 世間一般常識に照らし合わせれば、まず服や化粧品といったものだろう。しかし峰岸はあいにくと世間一般常識に沿っているとは言い難い。しかもそこに僕を連れてくる意味がわからない、普通に考えれば荷物持ちだが峰岸はこれで結構力もあるし服や化粧品ごときの重さで音をあげる道理もないだろう。だいたいこいつはそういうものにあまり金をつぎ込まないたちなので(目の前に立っている女子を見ていればそれくらいのことはわかる)、両手に抱えきれないほど買うとも思えない。だいたい個人で、先輩男子を連れてこなければ持って帰れないような買い物というのはちょっと思いつかない。

 だとすれば、峰岸個人の買い物ではなさそうだ。個人的なものではないから、何らかの集団を代表しての買い物と考えるのが妥当だろう。一番考えられるのは、峰岸の家で何かパーティーをすることになってその買い出しとかだろうか。

 とそこまで考えて、はたと気がついた。峰岸は、僕も当然分かっていることのように言っていたではないか。峰岸の家でパーティーがあるなどという事実を僕が知っていたはずがないのに。

 では何だろう?

 よく分からなかったので降参して聞いてみると、明朗快活な答えが返ってきた。

「もちろん、本です!」

 ……さもありなん。




「しかし峰岸。ショッピングモールに本屋なんてものがあるのか?」

 ふと思いついて聞いてみる。僕の中で本屋というのは静かで落ち着きのある古色蒼然とした場所というイメージであって、喧騒に包まれたにぎやかなショッピングモールとは相容れないような気がしたからだ。僕の本屋観が古いだけかもしれないけど。

「いいえ。ないわけじゃないですけど、それは空港や駅なんかに入っているものとどっこいどっこいの規模ですので私が読みたいのは置いてないです」

 まあ峰岸の好きな本格ミステリとやらはどうひいき目に見てもバカスカ売れそうな本ではないから、それは仕方のないことだろう。マイノリティの宿命という奴だ。

 しかし、峰岸はさっき本を買いに来たと言ったのではなかったか。そう思った僕の心を読んだわけではないのだろうが、峰岸は、

「誰もショッピングモールに行くとは言ってませんよ。近くに大型書店もあるんです。目的地はそっち」

 と言った。

 ははぁ……下りるバス停から安易にショッピングモールと判断したのは早計だったということか。

 と、バスが減速して僕は転倒しかけた。あわてて吊り革につかまりバランスをとる。

『陣野三丁目、陣野三丁目です。お降りの方はバスが止まってから席をお立ちください』

「あ、ここですからね先輩」

「それくらいはいくら乗ったことがなくても分かるよ」

「はい。……ところで先輩、つかぬことをお聞きしますが百円玉何枚持ってらっしゃいます? いまさら聞いても遅いような気がするんですが」

 唐突に奇妙なことを聞いてくる峰岸。なんだなんだと思いつつもポケットから財布を出して確認すると、

「……六枚だな」

 それもあまり奇麗じゃないものばかり。

「十円玉は?」

「八枚」

「じゃあ大丈夫ですね」

 峰岸は大丈夫でも僕の疑問のほうは大丈夫じゃない。何が大丈夫なんだと聞くと、

「いやこのバス、運賃を入れた時にお釣りが出ないんですよ。それで白崎公園前から陣野三丁目まで乗るとちょうど四百八十円になるんです。だから」

 わざわざ確認してくれたということらしい。もしなかったら両替しなければいけないところだった。確認すると、両替機はバスの前方――運転席横の、運賃箱と同じ場所に設置されている。バス会社が怠け者ぞろいなのか何なのか、周りを見回してもそういうことはまったく書かれていないので、言われなければ気付かなかっただろう。

「ありがとう。……ところで峰岸は、このバスはよく乗るのか? 結構詳しいけど」

「いえ、最近はあまり。木津川中時代はバス通学してたので」

 僕と峰岸は同じ中学だった。公立だったので同じ校区であり、したがって家もそれほど離れていない。しかし僕は、普通に自転車通学していた。

「バス使うような距離かい?」

「あの距離を自転車で通学する先輩がおかしいんですよ」

 たかが公立中学校の一校区でバスを使う方がおかしいと思うが……意見の一致を見なかった。残念である。

 バスが止まっても、少ない乗客たちがどっと動き出すということはなかった。僕らより先に席を立った洋装の老婦人が運賃を外国の通貨で払おうとしてひと悶着起こしたくらいである。僕たちも、整理券を渡し用意していた運賃を払ってバスを降りた。

 バス停に立って、二人揃って伸びをする。バス停の脇には緑あふれる公園のようなものがあって、その向こうには五階建てくらいの横に長い建物が見えているがあれがショッピングモールだろうか。しかし峰岸はその建物に背を向けて道路を渡り始めた(信号ないのに)ので、一つ確実なことはあれは本屋ではない。

「あ、先輩あれ見てください」

 道路の真ん中で立ち止まり、反対側の歩道を指さす峰岸。危ないぞ。

「何かあるのかい」

 言いつつ、さりげなく峰岸に道路を渡り切らせる。前方を指さしたまま続ける峰岸。

「何かあるっていうか、珍しい光景が。あれ久慈院くじいんさんですよね」

 ……ふむ。

 僕らの二十メートルほど前を歩いている高校生は確かに我らが生徒会長、久慈院わたるである。しかし真に興味深いのは、彼は一人ではなかった。隣にやはり見覚えのある、同学年の女子生徒を伴っていたからである。

「一緒に歩いてるの道岡さんでしょ! 道岡さんですよね! きゃー!」

「静かに。……ふぅん」

「先輩だってしっかり見てるじゃないですかぁ」

 騒いだら向こうがこっちに気づくじゃないか。

 まああの朴念仁が道岡さんの気持ちに気づいたとは思えないので、おそらくは道岡さんの方が血の滲むような苦労をしてやっとこデートにこぎつけここまで連れてきた、というところだろう。もちろん目的地は本屋という色気どころか活気もないところではなく、向こうのショッピングモールに違いない。

 そしてここが一番大事なところだが、久慈院の方にその意識があるかないかと聞かれたら僕はない方に十ドル賭ける。

「いいですねぇ、青春って感じで」

「年寄り臭いぞ」

「先輩ほどじゃありませんよーだ」

 野次馬根性丸出しで、街路樹の陰から二人を見送る僕ら。

 やがて彼と彼女は歩道を渡って(さすが生徒会)、ショッピングモールへ続く小道へ消えていった。

「そう言えば先輩、彼女とかいないんですか?」

 無邪気な顔で聞いてくる峰岸。そんなことも分からないのか。

「僕に彼女がいるとして、せっかくの創立記念日にその彼女をほっぽり出してこんなところまで後輩の荷物持ちをしにくる理由は?」

「めんどくさいこと言ってますけど、つまりはいないんですね」

 小さく頷く。

「えーでも意外。そりゃ先輩中身はアレですけど」

 アレってなんだよ。まあ自覚はあるけど。

「顔は悪くないですし持って回った言い方も初対面だと頭良さそうに見えなくもないですし。一目惚れする子がいてもおかしくないですよ」

「そりゃありがとう。でもね、僕は正直な人間だから」微妙な顔をする峰岸。「たとえ彼女ができても、デートがつまらなかったら多分正直に暇だ暇だって言うと思うんだ」

「ああ、確かに。……あれ、じゃ今日は暇じゃないんですか?」

 鮮明に刻まれているとは言い難い記憶を探る。……確かに、今日は一度も『暇だ』とは言っていないような。

「隣に騒がしい後輩がいたら暇だって言う暇もないだろう」

「そうは言いますけどね、先輩だって口数結構多いですよ?」

「わかったわかった。……本屋はどっちだ?」

 T字路に突き当たった。峰岸が右を指さす。

「こっちです」

 さぁて、そんじゃ一丁峰岸の本屋めぐりにお付き合いしましょうかね。

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