体育祭は皆で協力するもの
3-1 邂逅
「……頭が痛い」
当たり前のことと言えば、当たり前のことなんだけれど。
いや――痛いのとは違うのか。意識が朦朧としていて頭の中に霞がかかったような、とでも形容するのが正しいように思う。いつもなら意識するほどでもない思考のプロセスが、今日は苛立たしいほどに遅い。しかしその苛立ちも、やはりいつもよりは素早くないのであって……。
頭に乗せられた氷袋を落とさないように左手で支えて、僕はごろりと寝返りをうった。
今日――五月二十一日、わが葛西高校では体育祭が開催されている。
僕は物事に積極的に干渉するタイプの人間ではないものの、やらなければいけない事には全力を尽くすタイプの人間でもあるのでかなり頑張った。その反動が出たのかもしれない。
簡潔に言うと、熱中症になった。
……まだ五月なのにとかたかだか数分炎天下の下で走り回っただけでとかだいたい体育祭が始まってからまだ一時間しか経ってないじゃないかとか自分でもいろいろ不甲斐ないとは思うが、ここはあえて『必要のないときでも全力を出している輩と違ってそういうことに耐性がないのだ』という言い訳をしておく。じゃあ常日頃から全力を出せ、というお叱りが各方面から飛んできそうでもあるけれど。
しかし、ただ熱中症で倒れただけならよかったのだがこれは思わぬ二次災害を生むことになった。くらっと来たのが、ちょうどグラウンドの隅の廃材置き場の横だったのだ。しかも運悪く、先がいい感じにささくれだった材木が突き出ていたのである。
そういうわけで、たまたま一緒に歩いていた久慈院が熱中症の手当とおびただしい出血の手当てのため救護テントに僕を放り込んだのが三十分ほど前のことで、下された診断は『安静にすること』。言われなくても頭がぼーっとしているので、大したことはできそうにない。
「――をお願いしたいんですが」
「迷子、ですか?」
すぐ近くから聞こえてくる声にうっすらと目を開けて、どうやら自分が眠っていたらしいことに気づく。依然として頭のもやは晴れていない。
けだるい体を起こすと、隣接した本部テントに三つの人影が見えた。一つは同学年で生徒会の
もう二つは近隣校の制服を着た見知らぬ男女だった。かなり身長差があるので一瞬兄妹かと思いかけたが、襟についている学年章からどうやら二人とも中学二年生らしいことが分かる。彼氏彼女の関係だろうか。背の高い彼がどうやら風間くんに何やら頼みごとをしているらしい、というところまで考えて少し思考力が戻ってきたことに気づく。適度に使ってやる方が回復が早いのかもしれない。
「本当にすみません」
「はぁ……じゃ、ま、放送してみます。どんな人ですか?」
「一人目は性別女性、年齢は十七歳。身長は165から170センチで、こいつと同じ
「あ、あとすごい美人です。でもすごい残念な行動取ってると思います」
小さい彼女の方も横合いから大して役に立たない情報を追加してくれている。
「二人目も性別は女性、年齢は十二歳。身長は140から150、やっぱり鳴海の生徒です」
……というか、それは本当に迷子なのか?
風間くんも同じことを思ったようで一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに気を取り直して、
「あ、いや、その迷子の人の名前を言ってもらえますか」
「
「相川真純さんに茅崎紗耶香さんですね」
一度確認して、外のスピーカーに繋がっているマイクのスイッチを入れ、「相川真純さま、茅崎紗耶香さま。お連れの方がお待ちです、本部までおいでください」と言って、彼の方に向き直る。これでいいか、という意味のようだ。
「いやどうもありがとうございました。お手数おかけしてすみません」
そう言って、隣の小さい彼女ともども頭をぺこりと下げる。テントの外で待つつもりらしく、そのままくるりと入口の方へ向き直った、のだが……。
折しもその入り口から、僕の良く見知った高一の女子生徒がきれいに折りたたまれた白いハンカチを持って飛び込んできた。
「あ、風見さんお勤めご苦労様です! こちら落とし物です、そこの外にある手洗い場のコンクリの上に乗っかってました!」
女子生徒――僕と同じ映画部所属で一つ下の後輩、
「どうもありがとう、峰岸さん」
「どういたしまして!」
ぴょこんとおじぎをした彼女は、くるりと僕の方に振り返ってぱたぱたと走り寄ってきた。なんだかこいつ、いつも通りというか、いつもより動きがさらに軽くなってないか?
「先輩大丈夫ですか? 何かぐったりしてますけど、大量出血でもしたんですか?」
「いや、そういうわけじゃ……ない。ぐったりしてるのは熱中症で……右手の怪我は、その時に資材置き場の資材に引っ掛けたから。不幸な偶然だよ」
「そうですか……でも安心しましたよ私。先輩が落ちてたバナナの皮で滑って転んで額がパックリ割れてじきに救急車が来るって聞いたんで」
「……それ、誰から聞いた?」
「
やっぱりあいつか。
色々妙な芸に長けているやつではあるものの、中でも話を大げさにすることにかけては天下一品だと感心してしまう。しかし、バナナで滑って転んだら普通は後頭部を打つものじゃないのか。
「まあごらんのとおり無事だから……心配しなくてもいいよ」
「でも先輩、それあんまり無事って感じじゃないですよ。いつもみたいに軽口がぽんぽん飛び出してこないですし」
それに関しては、確かにその通り。
頭の中ではだいぶ思考が回復してきたのでそういうことも考えれるようになってきたのだが、まだ口を開くのが億劫なのである。いやはや情けない。
「まあ、でも、明日には元気になってると……思うから、さ」
「本当ですか? 先輩基礎体力ないですから、また別の病気にかかっちゃうかもですよ」
「そこまでヤワじゃない……と思うよ」
「――あの、ちょっといいですか?」
堂々巡りな会話を続けていた僕と峰岸だったが、そこへ割り込んできた人物がいた。さっきの中学生の背の高い彼である。小さい彼女は人見知りらしく背の高い彼の背中に隠れているが、同時に好奇心旺盛なのかじっとこちらを見ている。
「何だい」
「いや、あなたじゃなくてそちらの、さっき落とし物を持ってきた人になんですが」
そうですか。
「……何?」
「さっきのハンカチなんですが、手洗い場のコンクリの上に乗ってたと言いましたよね。手洗い場って、このテントの裏の?」
「うん。もともとこのグラウンド、水道はそこと、トラックを挟んだ向こう側のトイレだけなんだ」
「その手洗い場って、今ちょうどこのテントの裏側で影に入ってますよね?」
「そうだけど……それが、どうかしたの?」
回りくどい言い方をする背の高い彼に、峰岸は若干苛立った声で答える。彼もそれに気づいたようで、早々と結論を述べることにしたようだ。
「いや、大したことじゃないんですが……さっきあなたが持ってきたハンカチ、乾いてましたよね。皆さんの体操服を見てるとポケットは深く、入れておいたハンカチが落ちるとは思えない。であれば当然手を拭くのに使ったあと忘れられたのだと考えられますが、そうすると乾いているのはおかしいんじゃないかと思ったんです」
「あー、それであんたさっきからなんか考え込んでたんだ」
ポンと手を打つ小さい彼女。してみると彼、よくこんなことをしているのだろうか。少し親近感が湧いた――とはいえ、彼を動かしている動機は、僕のそれとはまた少し違ったもののようだが。
補足説明ということだろうか、背の高い彼は話を続ける。
「いつもはどうなっているのか部外者の僕らは知りませんが、今日に限ってはここに本部テントが設営されているため、そこの手洗い場は日陰になっています。だから、体育祭が始まってたかだか一時間やそこらでハンカチが乾くのはおかしいのではないでしょうか」
「「なるほど」」
小さい彼女と峰岸が同時に得心したような声をあげた。こちらはこちらで、似た者同士なのかもしれない。
「ただそこまで考えたはいいものの、どうにもその先が詰まっちゃいまして……ここの事情に詳しい方から話を聞けば、何かわかるかとも思ったのですが」
そう言って若干照れくさそうに頭をかく背の高い彼。
と、峰岸が「はいはい!」と叫びながら手を挙げた。
「君、そういうことならそこのベッドでぐうたら寝こけてる私の先輩に頼むといいよ! この人ね、見た目は頼りなさそうで中身も根暗な皮肉屋だけど頭だけはいいから!」
他人が具合が悪いのをいいことに好き放題言ってくれる。しかし、なぁ……。
「他の時ならともかく、今日は無理だ、峰岸……そもそも、何で僕がここにいるのか、忘れたのか」
「あ、そうか先輩熱中症でしたね。すっかり忘れてました」
「忘れるな。……だから今日は無理だよ、気になるなら自分で考えてくれ」
再び寝返りを打って、テントの中の三人を視界から外す。別にここまでの会話にうんざりしたわけではなく、ただ単にまた頭痛がぶり返してきただけの話だ。だいぶ機能が回復してきたとはいえ、まだ本調子ではない。
しかしその本調子ではない頭脳、いったん動かしたせいかずきずきと痛むくせになかなか意識をブラックアウトさせてくれない。なかんずく三人の会話が耳に入ってくることになる。
「――ですから、僕が思うに日の当たるところに置いておけば一時間で乾くこともあると思うんです。ほら、今日って熱中症が出るくらいの日差しじゃないですか」
「ふんふん、つまり君が言いたいのは、あのハンカチはもともと濡れた状態で手洗い場にあったのを、誰かが一時間ほど乾かしてから元に戻したと。そういうこと?」
「え、私は違うと思います。誰が何でそんな事を? 落し物を拾って地べたに落としておくのが忍びなかったのなら、なにもわざわざこっちまで持ってくる必要はないじゃないですか。むしろできるだけ近くに置いておくのが妥当かと」
「だよな」
「じゃあ何で言うのよ!」
「他に思いつかなかったんだ」
「まあまあ二人とも。じゃあ落し物を拾った人が置いておいたという説は置いておくとして……」
「ややこしいです」
「ごめん。落し物を拾った人が置いておいたという説は脇にどけて、別の可能性を考えてみようじゃないの。何か他に思いつく人!」
「……」
「……」
まったく。
聞いていてじれったくなってきた。
頭が痛いのを無視して再び三人の方を向き、口を開く。
「ハンカチは、何も手を拭くためだけのものじゃないだろう」
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