第4話 お姫様のキス


 次の日の朝は、いつもより数時間早く起きてしまった。

 やることも特にないというのに、楽しみ過ぎて。

 まるで小学生が遠足が楽しみ過ぎて寝れないというのと、同じように。

 いつもならだるくて眠いはずの朝。

 なのにみょう興奮こうふんのせいで、はっきりすっきりしている。

「朝って、こんなにいいものだったか……?」

 一瞬、病気にでもなったのだろうかと、自分で自分を疑うほどだった。

 わくわくと心が浮き立つ。学ランだと不信がられてしまうから、白いTシャツに黒いパーカーを着た。

 院の中で、ある程度の歳を行くとひとり部屋を用意される。

 部屋と言っても、寝る場所くらいしかない、小さくてせまい部屋だが。

 洋服を入れる棚は置くスペースがあるが。

 部屋を出ると、小さい子供たちはまだ起き出していないからか、静かだ。

 いつもはわちゃわちゃとうるさい。

 外に出ると、中肉中背ちゅうにくちゅうぜいの女性がにわ掃除そうじをしていた。

「おはよう、優人くん」

 いつも優しい笑顔を浮かべている、彼女は、この院の院長先生だ。

 眼鏡の奥の目は、やはり優しい色に輝いている。

「お、おはよう、ございます……」

 あの目が、怖いのだ。

 あの優しさを宿やどした目が、怖かった。

 誰にでも優しいあの目。

 先生たちが全員、怯えた目を向けながら、院長先生だけは変わらず優しい目で。

 あの目がいつ怯えたものになるか、考えただけで怖い。

 だから、まっすぐ見ることが出来ずに、らしてしまう。

「今日は朝早いですね。どこかへお出かけですか?」

 まるで聖母せいぼマリアのような微笑みは、いつも変わらない。

「あの……、友達の、お見舞いに……」

 そう言うと、院長はまぁまぁと嬉しそうに声を上げた。

「そう。そう言うお友達ができたのね」

 まるで自分のことのように嬉しそうな声音。

 ちらりと見れば、目を細めて笑っていた。

「じゃ、じゃあ、行ってきます……」

 そうやって優しく微笑まれることに慣れず、居心地いごこちが悪くなって、げるように歩き出すと、院長の声が聞こえた。

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 優しい声で言われると、涙が出そうで怖い。

 優人はなにも返せないまま、院を出た。



 たまり場のバーで千羽鶴を大きめの紙袋かみぶくろに入れてから、病院に向かった。

 朝早く来たというのに、受付うけつけには多くのひとがれつをなしていて、かなりの時間をようしそうだ。

 ひたす待つしかないので、じっと待っていると、

「あれ、優人さん?」

 と声をかけられた。

 そちらを見れば、ランドセルを背負って大きめの荷物をもった由紀がいた。

「由紀ちゃん、弘樹のお見舞い?」

 由紀に引っ張られ、列を出る。

「うん。優人さんもでしょ? 行こう。大丈夫だから」

 学校に行く前に着替えを届けに来たらしい。

「お母さん、いる?」

「急ぎの仕事が入ったから、いないよ。ごめんね、お母さんが」

 どうやらお母さんの優人への態度を知っているようで、申し訳なさそうな顔をする由紀。

 しかし、優人は笑う。

「いや、ああいうのが親なんだなーって、羨ましいだけだよ。いないなら、よかった。また、泣かせてしまうところだった」

 いないうちにこれを届けよう。

「優人さんは優しいね」

「え?」

 由紀は優人の言葉に驚いた後に、そう言った。

「自分がやってないのに追い出されたら、ふつう怒るよ。でも、優人さんはそれを羨ましいって言ってくれる。ありがとうね」

 由紀は本当に嬉しそうに笑った。

 それに、優人は首を傾げる。

「そうなのか?」

「そうだよ。優人さんはいい意味で変だね」

 無邪気に笑う由紀。

 見た目が大人びているから忘れがちだが、由紀はまだ小学生なのだ。

 だからきっと、優人に家族がいないということに気づいてはいない。

「そっか」

 いづれ学んでいくのだろう。

 親からいらないといわれてしまう子供がいることや、捨てられてしまう子供がいることを。

 優人はそう思って、それだけを言って他にはなにも言わない。

「お兄ちゃん、まだ起きてないの。優人さんがキスしたら起きるかな?」

「へ!?」

 病室びょうしつの前までくると、扉の引手ひきてを握りながらとんでもない発言はつげんをした由紀に、優人は間抜まぬけな声で答えるしかなかった。

「ほら、お姫様ひめさま目覚めざめは王子様おうじさまのキスによって起こるなら、王子様の目覚めもお姫様によって起きるかもじゃないですか」

 すごい剣幕けんまくでそんなことを言ってくる由紀。

「なんで俺がお姫様なんだ……?」

 顔を近づけてごり押ししてくる由紀にたじろぎながら不満気に言うと、由紀は「え、なに言っているんですか」なんて驚いた。

「優人さんはどこからどう見てもお姫様ですよ?」

 微妙びみょうに傷つくことを年下なのに身長を抜かれている女の子に言われてしまうと、もう心は二、三本軽くぼっきりいく。

「あはは。本当に面白いですね、優人さん」

 冗談ですよと笑う由紀だが、あの目は確実に冗談を言っている者のそれではなかった。

「小学生、怖い」

 すべての小学生がこんな感じだったら、優人の心臓はいろいろもたないだろう。

「さ、入りますよ。私時間ないので」

 扉をスライドさせて、由紀はそういう。

 あとに続いて中に入れば、弘樹が静かに眠っていた。

「おにーちゃーん。優人さんだよー」

 由紀は弘樹に呼びかけながら、病室のカーテンを開けての光を入れる。

「まだ起きてないな」

 弘樹の横に椅子をもってきて座りながらそう呟けば、由紀がまた意地悪いじわるく「キスします?」なんて言ってくる。

「し、しないよ!?」

 そういえば、由紀はくすくすとまた笑う。

「そんな必死に言われると、もっと意地悪したくなりますよ?」

「うう……」

 そんなことを言われても、まずひとと話すこと自体、最近増えただけなのだ。

 慣れていないし、小学生の女の子の行動などわかるわけもなく、振り回されてしまう。

「私、花瓶かびんの水入れ替えてくるので、ちょっと待っていてくださいね」

 花瓶をもって出て行った由紀の足音が遠のいていく。

 待っていろと言われても、なにをしようか。

 千羽鶴をかざろうか。しかし、どこに飾っていいのか。

 きょろきょろと周りを見回すけれど、なにをしていいのか勝手がわからない。

 挙句、由紀の言葉が脳裏のうりをちらつき、視界しかいすみにちらつく弘樹の唇。

 それがまた恥ずかしくて、顔が赤くなる。

「………………………………」

 いまなら、誰もいない。

 誰にも見られていない。

 き、キスぐらい、もう何回かしているし……。

 しかし、それは全部弘樹からだし……。

 自分からするのは初めてで、心臓が口から出て逃げて行ってしまいそう。

 バクバクと鼓動がうるさく、頭の中がぐるぐるする。

 弘樹はもう、二日間も目覚めていない。きっと、お母さんも由紀も心配しているだろう。

 優人がキスすることで起きるとは決して思わないし、そんなファンタジーが起きる世の中ではないのもわかっている。

 けれどやれることはやるべきじゃないかと。

 すべて言い訳なのだが、そんなことは置いておいて、優人は弘樹の顔を上から眺める。

 いまにも目を開けてしまいそうな弘樹の寝顔は、いつもの笑顔とは違った魅力みりょくがあった。

 綺麗な顔をしていると、あらためて思う。

 唇も、プルプルで、柔らかそうで……。

 鼓動とともに息もあらくなって、まるで変態のようだと思いながら、少しずつ顔を近づけて――――、

「…………っ」

 ほんの一瞬の、触れるだけのキス。

 それだけでも顔に集まった熱でゆだってしまいそう。

「もう少し長くてディープなのでもいいんですよ?」

 知らない間に戻ってきていた由紀は、優人の背後で見ていたようだ。

 不服そうな由紀はそう言って、背後から出ると花瓶を置きに行く。

「可愛いですよね、優人さんは」

 花瓶を置いて花を整えながら由紀は言うけれど、優人は見られていたという衝撃で動けない。

「お兄ちゃん、この可愛い状態の優人さん見ないのー? 超可愛いのに。もったいないぞー」

 由紀は弘樹を見るけれど、起きる気配はない。

 少し残念だが、この可愛い顔のまま固まっている優人を見れたので良しとしよう。

「そういえば、その袋って、お見舞いのしなですか?」

 由紀が優人の足元に置かれた紙袋を見る。

 少し顔の熱が引いた優人がどこかへと旅に出ていたたましいを呼び戻して、その紙袋を取った。

「千羽鶴、折ったんだ。……飾っても、いいかな?」

 俯きながら、上目遣いをして言ってくる。

 これを天然でやっているのだ。

「あー、お兄ちゃんが惚れるわけだわ。可愛いわ」

「なんで!?」

 本当に、可愛い。天使だと言っていた兄にはげしく同意だ。

「千羽鶴とか懐かしいですね。私もあんまり実物じつぶつは見たことがないです」

 カラフルな鶴は、随分ずいぶんとよれよれだが、それが手作り感をかもし出していて、微笑ましい。

「お兄ちゃんのすぐ隣に飾りましょう。きっと嬉しくて大喜びして、さわいじゃうかも」

 好きな恋人から手作りのおくり物だ。

 これ以上の贈り物はないだろう。

「そうだな。うるさいぐらい騒ぎそうだ」

 お互いに、そのはしゃぐ弘樹の姿が思い描かれてしまい、笑みがこぼれる。

「あ、私そろそろ学校行かないと。優人さんはもう少しいる?」

「いたいけど、いつお母さんくるかわからないから、今日は帰るよ」

 ふたりして弘樹に「また来るね」と告げて、病院を出た。

「由紀ちゃんは学校?」

「はい。優人さんは、学校じゃないんですか?」

 この時間で、学ランを着ていない優人を不思議に思い、由紀はそういう。

 優人はそれに苦笑にがわらいを浮かべ、理由を告げると、由紀はぷんすかと怒る。

「優人さんがやるわけないのに! わかってないなもう!」

 唯一の味方は随分と可愛い小学五年の女の子。

 ぷんすかぷんすかと怒る由紀は、優人を少し見下ろして言う。

「私は優人さんの味方だからね!」

「ありがとう」

 背のことはいまは気にしないとして、優人は感謝を述べた。

「じゃあ、私はこれで」

「うん。じゃあね」

 別れを告げて、由紀は学校に、優人はいつものたまり場へと向かう。

「おまえ、こんな朝からここにいるのかよ」

 入るといつも通りの席にいつも通りの格好でいつも通りいる誠。

 もしやここに住んでいるのではないかと、疑ってしまうほどだ。

「いいじゃないか別に。何時にいてもいいのがこのたまり場だし」

「そりゃ学校みたいに縛られてはないけどさ。じゃあなんで毎回制服なんだおまえ」

「いまじゃなきゃ着れないだろ、制服なんて」

 真顔で意味の分からない理屈りくつを言ってくるのはしょっちゅうなので、無視をすることにして、いつものソファーに寝そべる。

「優人もいつもそこじゃんか」

「だって、ふかふかだし、寝やすいからさー」

 院の布団は地面に引く形で、固い。

 寝る場所をもらえているだけましなので、贅沢ぜいたくなことは言わないが、このソファーのふかふか感は、眠気を誘ってくるのだ。

「病院行ってきたのか?」

 置いておいた千羽鶴がないことに誠は気づき、そう聞いてくる。

「あぁ、まだ起きてなかったから、飾るだけ飾ってな」

「なんだ。寝てたのか。じゃあ、起きたらびっくりするんだろうな」

 弘樹が入院している理由を知らない誠は、ふつうに寝ていると思ったのだろう。

 指摘してきしてなおす意味もないので、優人は同意どういして目を閉じた。

「ちょっと寝る」

 昨日、一日中鶴を折っていた疲れが、楽しみ過ぎて寝れなかったせいか取れてはおらず、たったいま眠気が襲ってきた。

「ん。おやすみ」

 それを知ってか知らずか、誠はそれだけ言って、優人を眠りをうながした。


     ◆


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る