第9話 桜
家にひとり先に帰ってくると、優人はふらふらしながらいつものソファーへと寝ころんだ。
実はたまり場から、赤いソファーだけ持ってきたのだ。
捨てられていたものだし、もらってもなにも言われないだろうと思って。
少し朦朧とした意識のまま、天井を見上げた。
目を閉じると、春川の怯えた顔が浮かんだ。
「……………………っ」
たった数日だった。
数日で、今回は終わってしまう。
もう、きっと春川は話しかけてこない。
あの席からも、消えるだろう。
笑いかけてくることもない。楽しそうに名を呼ぶこともない。一緒に帰ることもなくなる。
また、失ってしまう。
もう、次回はない。
仲良くなることも、恋人になることもなく。
中学ときのように、知らないひとを見る目で、怯えた目で、優人を見るのだ。
そしてきっと、またどこか遠くへ行ってしまう。
あぁ、そうしたら、もう苦しまなくて済むだろうか。
春川を思って、――――弘樹を思って、泣かなくてもいいのだろうか。
恋愛というものは、実に面倒くさいもので、それはないと否定できてしまう。
春川がどこへ行こうが、例えもうあの頃の――――弘樹が戻ってこなかろうが、死んでしまおうが。
この彼を思う気持ちは消えなくて、ずっと胸の奥でおもりのようにのしかかってくるのだ。
戻りたい場所には戻れないのに。
あの頃のように、戻れないのに。
気持ちだけは悲しいくらい変わらない。
環境は変わるのに。
関係は変わるのに。
歳だって、身長だって、どんどん変わる。
世界は、とどまることを許さない。
変わらないものなんてそうそうないのだ。
この気持ちをどうにか和らげようとこの地に来たのに、それが無理なのだと悟ってしまうなんて。
こんな感情、抱かなければよかったのに。
出会わなければ、恋い焦がれることもなかったのに。
殴られた疲れか、だんだんと眠気に襲われる。
「…………弘樹……」
そう呟くと、静かに落ちた。
◆
翌日、学校に行くのがすごく億劫だった。
けれど、春川が無事に学校に来れているかが気になってしまった。
いつもの席に座る。天城はまだ、来ていないようだ。
疲れていたはずなのに、深く眠ることができなかったようで、かなり早い時間に目が覚めてしまった。
ふつうの生徒なら、あと一時間は来ないだろう。
腕を組み、枕にして机に寝そべる。
窓の外には、緑になった桜の木。もう、花弁はない。
「まるで桜みたいだったな」
少しの間だけの、短い夢。
数か月の間だけの恋人ごっこ。
中学の頃に、終わったはずの夢の続き。本当なら見れるはずもなかったのに、見てしまった、美しい夢。
そして、ひどく
あっという間に過ぎて、散っていった。
「あぁ、でも……」
桜は来年も咲くけれど、優人の方はきっともう――――。
ひらり。
もうないと思っていた桜の花。
最後のひとつだろうか。それが、風に吹かれて落ちた。
あぁ、あれが落ちたらもう終わってしまう。
寂しさからか、窓の外に手を伸ばして、その花弁を取ろうとした。
風に弄ばれて、くるくる回って落ちる桜の花弁は優人の方へとくる。
ひらりひらりと、机の上に乗る。
陽の光を浴びてきらきら輝く桜は、まるで――――、
「夢島」
目の前に立つ、春川の髪のようだった。
「……なんで」
「いつも、夢島はそういうな」
苦笑して、いつものように、こちらを向いて席に座る春川。
その光景が、夢のようで信じることができなかった。
中学の頃のあの光景と、重なって見える。
「だって、あんな目に遭って……」
友達でいれるはずがなかった。
「うーん、なんかさ、ああいうのも青春かなって思うんだけど、どう?」
いつもの調子で、笑いかけてくる天城。
「ふつう近づかないだろこんな危ない奴!」
「自分で言うか」
笑っているけれど、おかしいのは春川だ。
怒ったらなにするかわからないような奴に近づくなんてどうかしている。
「前々から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、こんなに馬鹿だとは……」
呆れてしまう。
「え、ちょ、ひどくない!? 馬鹿じゃない!」
「いや、馬鹿だ」
酷いなー、とブツブツ文句を言う春川に、優人は言う。
「俺はバケモノだ。昨日おまえも見ただろう。キレたらあんな風になる。だからおまえのことだって、下手したら……」
殺してしまうかもしれない。
昨日は誠が止めてくれた。でも、次もし誠がいないときになれば、誰かを殺しかねない。
実際、頭に殺すと浮かんだのだ。
「いつか俺は誰かを殺してしまうかもしれない。なのに……」
一緒にいるなんて、危険すぎる。
「俺は、おまえを殺すかも……」
目の前が、暗くなった。
優人の顔が、暖かいものに包まれていた。
「怯えてるのは、おまえじゃん」
上から聞こえた春川の声で、理解した。
優人は、春川に抱きしめられていた。
「周りに『バケモノ』と怯えられてるおまえが一番、自分に怯えてる」
春川は優人を抱きしめて、優しく言う。
「でも、夢島は『バケモノ』じゃないよ。俺が保証する」
体を離したと思えば、優人の顔を両手で包んで、春川は笑う。
「夢島は、俺の友達。それでいいじゃん?」
やはり優人に春川は理解できない。
なぜ、こんなにも春川は心を乱すのだろう。
涙が、あふれそうだ。
前のときのように、慰めてくれたことに。
前のときのように、『恋人』とは言ってくれないことに。
「それがいやなら、親友? 恋人にでもなってみるとか?」
ふざけた様子で、春川は笑顔を浮かべる。
そうやって、冗談で言われる『恋人』という言葉に、虚しくももしかしたらと期待してしまう。
けれど、それは決してない。
春川にとって、中学の思い出はないもので、そのときの恋人の記憶など、ないのだから。
記憶になど、残ってはいない。所詮、遊びだったのだろう。
デートに行ったことも、海や映画観に行こうと約束したことも。
『家族になろう』と言ったことも、まやかしで、冗談で。
まさか、男に告白されて本気にするとは思ってもみなかったのだろう。
弄んで捨てた男のことなど、覚えている必要などないのだ。
彼は交通事故で記憶をなくしたと言うけれど、それも本当かどうかは怪しい。
だから、こうやって笑いかけてくることも、遊びなのだ。
彼にとっては、人生の暇つぶし。
本気になどしたって、こっちが傷つくだけ。
「おまえは、本当にうざいな」
「え!?」
不満気な春川。
その顔を見て、また許してしまう。
本気になどしなければいい。
そして、だまされたふりをして付き合うのだ。
彼の遊びに付き合って、彼が飽きるまで。
飽きたら、消えればいい。それまでは、一緒にいられるから。
いつから、春川なしでは生きれなくなったのだろう。
どうせこちらを見ないのに。縋ってしまう。
溢れてきた涙を拭い、優人は笑う。
「ありがとうな、春川」
唐突な優人の感謝の言葉に、春川は固まる。
なぜか、顔を赤くして。
「夢島が……笑った……?」
「いや、そりゃ笑うだろ。というか、いままでも笑ってたけど?」
なに言っているんだとばかりに言うと、春川は首を振る。
「いや、そうなんだけど、そうなんだけど! いまのはすっごい……」
「すっごい?」
じーっと見つめられるのに耐えきれない優人は少し身を引きながら聞く。
すると、春川はそのまま答えた。
「ムラっとした」
「殺す」
「なんで!?」
あぁ、やはりこいつは馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。救いようなんてどこにもない馬鹿だ。もう死んでやり直さないといけないほどの馬鹿だ。
「おまえは殺してもいいと思うんだ」
「いやいやいや、ダメでしょダメでしょダメでしょ!」
なんだ。男に対して男がムラっととか。
「馬鹿なのかゲイなのかホモなのか」
「馬鹿でもゲイでもホモでもないよ!?」
「じゃあなんだ」
「おまえの友達」
「殺す」
「だからやめろ! その拳をしまうんだ!」
やはり、こいつのことを好きになんてなるべきじゃない。
そう思いながらも、こういう関係を気に入っていたりするが。
「夢島が可愛いのがいけないんだー!」
「死ねっ!」
引かれてしまうかもしれないから、絶対に春川には伝えないけれど。
このとき、春川が優人と距離を置いていたら。
ある意味ふたりは幸せだったのかもしれない。
けれど、ふたりはまた花弁を散らせる。
その先のさらなる悲劇へと。
ひらり。
はらり。
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