第4話 友達


 春川がトイレに席を立ち、優人と由紀だけが残る。

「お兄ちゃん、まだ優人さんのこと思い出してないんですね」

 由紀がフォークを皿において、優人に言った。

「え……」

 急に言われて驚き、優人は由紀を見る。

「前なら、迷わず抱き着いたでしょ、さっきの」

 家に招かれたとき、似たようなことがあったことを思い出す。

 確かに、弘樹なら抱き着いていただろう。

 でも、春川はしない。いいのだ、それで。

「私から、お兄ちゃんにお話ししますよ、昔のこと。だから――――」

「いや、話さないでほしい」

 優人が沈んだ顔をしているのに気づいて、由紀は兄に話すと言ってくれたのだろう。

 けれど、それは春川を困らせるだけだ。

 彼はただ、遊んでいるだけなのだ。

「どうしてですか? 離した方が、お兄ちゃんも記憶が戻りやすいだろうし、優人さんだってその方がいいでしょう?」

 由紀は優人の言葉を理解できずにそういう。

 当然だ。ふつう、恋人には自分のことを思い出してほしいだろう。

 けれど、違うのだ。

 彼にとって、優人は彼氏ではない。

『友達』なのだ。

「いま、春川は友達として一緒にいてくれる。俺は、それでいいんだ」

 由紀は、きっと弘樹が遊びで優人と付き合っていたなんて知れば、ショックだろう。

 兄を責めるだろうし、兄妹の仲も悪くなる。

 春川の記憶喪失は、本当なのだろう。由紀が思い出していないと言った時点で、それは確定した。

 だから彼は覚えていないのだ。

 誰と遊び、誰を騙したのか。

 遊びのことも、覚えていない。

 だからいまここに、共にいられるのだ。

「もう、会えないと思ってた。知らないうちに転校しちゃったし、あいつを殺しかけたバケモノに、転校先なんて教える奴もいなかったし」

 一生抱えたまま、生きるものだとばかり思っていた。

 弘樹の家が引っ越しが多いのは知っていたし、彼から会いに来ることなどないと思っていたから。

 諦めていた。

 諦めるしかなかった。

「なのに、また会えたんだ。こうして、一緒にいられる。それだけで、十分嬉しいんだよ」

 騙されていようと。

 傷つけられようと。

 なにをされても、傍にいたい。

 それが、ただひとつの願い。

「昔のことを思い出したら、きっと春川は一緒にいてくれないから」

「そんなことないですよ! お兄ちゃんは優人さんが大、大、大好きなんですよ!?」

 由紀は本当にいい子だ。

 励ましてくれる。

 弘樹と同じで、嬉しい言葉をくれる。

 だから、この兄妹は仲良くあってほしい。

「ありがとう。でも、あいつは記憶がないんだ。なのに男の恋人がいたなんてこと聞いたら混乱しちゃうだろ? だから、俺が機会を待って自分で言うよ」

 これは建前で、自分で言うことなど、今後絶対にない。

 言ってしまえば、いまの関係は跡形もなく崩れる。

 再起不能になるまで、粉々に。

 だからこれは由紀に納得させるための嘘。

「うー……、優人さんがそういうなら、言わないでおきます」

「ありがとう」

 由紀は少し不満そうに、頷いた。

「もし、お兄ちゃんに聞かれたら、とても仲のいい親友だったって答えることにします」

 よし、とばかりに拳を握って天に掲げる由紀。

 それが本当の妹のように可愛くて、思わず頭を撫でたら、喜ばれた。

「もっと撫でてください」

「いいよ」

 こうやって誰かの頭を優しく撫でるようなことをしたことがないので、少したどたどしい。

 でも由紀が嬉しそうなのでまあいいかと撫で続けた。

「あーあ、優人さんもお兄ちゃんになってくれたらなー」

 由紀がふとそう漏らした。

 それに、優人は少し固まった。

 由紀は知らないだろうが、弘樹が優人に放った『家族になろう』という言葉が浮かんだ。

 あんなに嬉しかった言葉が、こんなに苦しい言葉になるなんて思わなかった。

 本当に家族になれたらよかったのに、それは叶わない。

「ごめんね」

 それを由紀は先ほどの言葉の答えだと思って「優人さんが悪いわけじゃないですよ?」と言った。

 けれどそれは、自分が家族になりたいなんて思ってごめんね、という意味だった。

 泣きそうな笑みを浮かべる優人は、窓の外を見上げ、それを由紀は不安そうに見つめた。



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