第8話 さようなら

 目が覚めると、ちょうど次は体育の時間だ。

 今日はハードル走をするらしい。

 体育着に着替えると、校庭に集まる。

 いつもは弘樹がペアそしてくれたのに、今日はひとりで体操だ。

 それが終わると、ハードルを並べて走る。

 身体能力しんたいのうりょくは高く、ハードルをポンポンと超えて記録を出す優人。

 体を動かすのは好きだ。頭がすっきりする。それだけを考えればいい。

 嫌なことがあったときは体育があると少し安心する。

 弘樹は、クラスのやつらと楽しそうにしている。

「次俺行く!」

「お、天城大丈夫なのか? 退院したばっかなのに」

「平気平気、これくらい楽勝だ!」

 楽しそうに笑っている。

 あの笑顔は、優人に向かっていない。それだけで、ひどく寂しい。

「うわ、バケモノがこっち見てる」

「マジかよ。天城をまたやる気なのか?」

 さげすみの目を向けて、噂をするクラスの男子。

 弘樹もそのクラスの奴らと同じように、こちらを見る。

「……あ」

 目が、合った。

 いつもこちらを嬉しそうに見ていたその瞳は、いまは知らないひとを見るようなものになっている。

 それにまた胸が痛くて、泣きそうになった。

 あの弘樹の目を見ていると、心臓が押しつぶされてしまいそうになる。

 思わず、目線めせんを逸らした。

「天城、早く走れよ」

「あ、あぁ……」

 男子に言われて、弘樹は走り出す。

 弘樹も身体能力は高いようで、ピョンピョンと飛んでいく。

 しかし、なぜだろう。なにかを考えながら飛んでいるのか、安定感あんていかんがない。

 足がもたついている。

 大丈夫なのかと心配していると、

「うあ………………っ」

 弘樹がハードルに引っかかって転倒てんとうした。

 足をひねったのか足首を抱えてうなる弘樹。

 クラスメイトが悲鳴を上げ、大丈夫なのかと気づかわし気な雰囲気を出すけれど、誰も助けようとはしない。

 見ていられず、優人は弘樹のもとに走り、弘樹を横抱よこだきで持つ。

「夢島! 天城に近づくなと……」

 なんて教師が言うけれど、そんな場合ではない。

「うるさい。誰もこいつが痛がってるのに助けもしないで、友達ごっこしてんじゃねぇよ!」

 さっきまで友達面ともだちづらしてたくせに、いざというときに自分だけ逃げる屑どもが。

 周りを睨みつけて、優人は保健室に向かう。

 保険医の先生はおらず、仕方ないから弘樹をベッドのはしに座らせると、シップを貼って、包帯ほうたいで巻いた。

「…………なんで、助けてくれるんだよ」

 包帯を保護ほごするネットを探していると、弘樹はうつむいたままそう言った。

「なんでって、痛がってたから」

 それ以外に、なにか理由はあるのだろうか。

 優人の発言に、弘樹は顔を真っ赤にして怒る。

「おまえが俺を殺そうとしたくせに! なんで助ける! つぐないのつもりかよ!」

 どうして、優人が弘樹を殺すのだろう。

 なぜ、弘樹はそんなことを言う。

「俺は、おまえを殺そうとしてない」

 優人がそういえば、弘樹は首を振る。

「おまえ以外にあり得ないって先生たちが言ってた。母さんだってそう言ってたんだ。みんなが嘘つくわけないだろ」

 憎むように、優人を見上げる弘樹。

 こんな言葉を聞きたいわけじゃない。千羽鶴を折ったのは、そんなことのためじゃない。

「千羽鶴、嫌だったか……?」

 優人がそう訊くと、弘樹ははなで笑った。

「あんな汚くてよれよれのもので、なんで喜ぶんだよ。だいたい、おまえからの手作りの贈り物なんて、反吐へどが出る」

 あぁ、やっぱり、弘樹はあれを喜んではいなかったのだ。

 由紀は喜んでいたというけれど、それは嘘だったのか。

 優人が傷つくと思って、由紀は嘘をついてくれた。

「そういえば、由紀がおまえと俺が付き合ってたとか言ってたけど、おまえ妹になに吹き込んでくれてんの? 男同士とか気持ち悪いんだけど。嘘もほどほどにしたら?」

 ナイフが、心臓を突き刺して引きいてくる。

 言葉の暴力というのは、こういうものなのか。

「ってかさ、俺がおまえみたいなバケモノと本気で付き合うわけないだろ。馬鹿じゃねぇの?」

 そう言って、弘樹は嗤う。

 こんな笑みは、知らない。

 こんな弘樹は、知らない。

 これが本当の弘樹なのか。なら、いままでやっていたことはすべて嘘なのか。

 笑いかけてくれたことも。

 好きだと言ってくれたことも。

 家族になろうと、言ってくれたことも。

 全部全部全部、嘘だったのだろうか。

「おまえ、さっきから無言でなに。また俺を殺そうとでも……」

 もう、そんな言葉を聞きたくなかった。

「うむ……………!?」

 肩を押してベッドに倒し、その勢いでその口を自身のそれでふさいだ。

 前にしたキスは、恥ずかしいけれど幸せな気持ちで満たされるキスだったのに。

 いまのキスは、むなしさばかりがつのった。

 体を押され、唇が離れると、弘樹が再び口を開く。

 望まない言葉を吐く、その口が。

「……ってっめ! 気持ち悪いんだよホモ!」

 まるで弘樹とは別人の言い方。

 けど声は弘樹だ。顔も、体も、弘樹なのだ。

 憎悪を孕ませたその瞳に、あの輝きはない。

 どんどんと殴って、上から退かせようとするけれど、バケモノの力に弘樹はかなわない。

 優人の知る弘樹はどこにもいない。

 大好きだった。ずっと傍にいてほしかった。


 家族に、なりたかった。


 彼のためになら、なんでもできたのだ。死ぬことすらも、恐れはしないだろう。

 遊び、だったのだろうか。弘樹にとって、この二か月は。

 デートをした。家にも行った。学校で一緒にお昼を食べて、下校して。

 本当にあっという間に、過ぎた二か月。

 でもその中で、弘樹にはたくさんのものをもらったのだ。

 色のない世界があざやかな色に染まるように。り絵にひとつひとつ色を加えていくように。

 楽しいをくれた。嬉しいをくれた。恥ずかしいをくれた。ときめきをくれた。愛しいをくれた。恋しいをくれた。寂しいをくれた。苦しいをくれた。辛いをくれた。虚しいをくれた。

 たくさんの感情をくれた。思い出をくれた。

 抱えきれないくらい、返しきれないくらい、目に見えない宝物をもらってしまって。

 これから少しでもなにか返せたらと思っていた。海や映画も、楽しみにしていたのだ。

 でも、嘘だった。

 弘樹は本当は優人のことを嫌っていて、きっとこうやって傷つけるために、嘘をついたのだ。

 これはむくいなのだろうか。

 バケモノが、恋をした報い。

 だから、弘樹はもう笑ってくれない。

 無邪気に名前を呼んでこない。

 可愛いとも言わないし、好きだとも言わない。

 家族には、なれない。

 嬉しかったのに。自分の知らない家族に、弘樹となれると知って。

 なのに、嘘。嘘だった。

 恨むべきなのだろうか。ののしるべきなのだろうか。殴って、それこそ殺しかけるくらいにまで。

 拳を上げた。

 弘樹が軽く悲鳴を上げたのが聞こえる。

 殴ればこの、もやもやは消えるのだろうか。

「や、やめ……」

 怯えた顔をした弘樹。

 それを見て、拳を下げた。

 違う。見たいのは笑顔なのだ。たとえ二度と向けられないものだとしても、怯えた顔は見たくない。

 大好きなひとの怯えた顔は嫌だ。

 例え嘘だったとしても、もらったものは変わらずに宝物で、輝いている。

 嘘だとしても、嬉しかったのだ。

 だから、

「ありがとう……」

 笑って、別れよう。

 涙がこぼれてしまって、弘樹にかかってしまっていた。

 弘樹に涙は似合わないな……。

 驚いたのか目を見開いた弘樹の頬に乗る涙を拭う。

 もうまともに見れないだろう顔を見納みおさめて、優人は弘樹の上から退いた。

「俺はもう行くから」

 これ以上、関わるべきではないのだ。

「あ、おい!」

 扉に向かって歩く優人に、うしろから弘樹が声をかける。

 手を扉にかけるが、ここから去るのが、怖くなってしまう。

 ここを出たら、最後だ。もう、誰とも関わりたくはない。

 だから最後に聞きたかった。

 嘘だったとしても、いつわりだったとしても、弘樹の心にほんの少しでも優人への気持ちがあったのだろうか。

「ねぇ、弘樹は、俺のこと好きだった…………?」

 声が震えないように、頑張ったつもりだ。

 最後の希望きぼう。それを、みずからつぶす。

「俺はおまえが嫌いだよ」

 その言葉に、優人はっ切れる。

「だと思った。さようなら、

 うまく笑えていたかはわからない。

 でも、もうこれで彼を思わなくて済むのだ。



 次の日、教室から弘樹は消えた。

 突然の転校だった。

彼のいない椅子は、ポツンと残され。

そのにはとっくに散ったはずの桜の花弁がひとつ。

彼の存在はまるで春に見る夢のようにあわはかなく、消えてしまう。

 本当に弘樹と最後になってしまった。

 それに、優人は、静かに涙を流す。













 ひらり。はらり。


 散りゆく花は、あと――――。





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