第7話 涙


 学校を終えて、毎日のように兄のもとへ向かう。

 兄はどうやら、頭を強く打ってここ二か月ほどの記憶を忘れたようだ。

 そう、ちょうど、兄と優人が出会う前まで。

 記憶がないことに気づいた由紀は先生に言った。

 精密検査が行われているけれど、戻ってはない。

 なにか刺激を与えれば戻るだろうかといろいろためされて入るけれど、戻らないのだ。

 兄とこの二ヶ月の間ずっと一緒にいたのは優人で、優人から話があれば、あるいは戻るかもしれないけれど。

 母が優人を犯人と信じて疑わないから、病室に入ることすらできないだろう。

 母は、兄が起きてからつきっきりだ。

 離れても数分。

 だから、優人を呼ぶことはできない。

 優人も母が泣くことが嫌のようだし、なにより、自分のことを覚えていない兄と会わせるのは酷な気がした。

 優人はなんだかひととの関わりが薄いように感じる。

 もし兄が自分を忘れていたら、泣き崩れてしまうかもしれない。

 そんな優人を見るのは、嫌だった。

 優人に兄のことを言わないのは由紀の身勝手みがってだけど、必ず入院中に思い出させてみせる。

 そう、由紀は燃えていた。

「お兄ちゃん! 本当なの! お兄ちゃんと優人さんは付き合ってたんだよ!」

「まだ言ってるのか? あのな、ただでさえ記憶なくて困ってるのに、そういう嘘をむなよなー」

 いまだに冗談だと信じてくれない兄は、しつこい由紀にうんざりしているようだ。

「由紀! あなたなに言ってるの!? 弘樹はその子に殺されかけたのよ!?」

「だから、優人さんはそんなことするひとじゃないの!すっごく可愛いひとなんだから!」

 母も由紀の言葉を信じず怒鳴るばかりで。

 泣きそうだったけれど、頑張ってうったえた。

「遊園地にデートにも行ったって言ってたよ!」

「じゃあ証拠しょうこを見せてくれよ」

「それは…………ないけど…………」

 ほら見ろ嘘じゃないか。

 とばかりの目を向けてくる。

 兄も母も、本当のことを信じてくれない。

 どうしてだ。

 母はまだ仕方が無い。こういう出会い方をしたのだ。信じられなくてもいたし方ないだろう。

 だが兄はなんだ。自分から口説いたのにその仕打しうちは。

 むかついて喧嘩して、次の日もそれの繰り返し。

 何度訴えても、兄は信じず、記憶は戻らない。

 結局、記憶を戻すことはできなかった。

 自然に戻ることをいのって、退院して学校に行くことになってしまった。

 由紀はいまの兄と優人が鉢合はちあわせしてしまうことを恐れたけれど、しばらく自宅学習になっているという優人の言葉を思い出し、少しづつ思い出させようと再び意気込いきこんだ。

 しかし、このとき由紀が優人に兄の記憶喪失きおくそうしつを話していれば、悲劇ひげきは起きずに済んだのかもしれない。


     ◆


 犯人は見つからないまま、優人は再び学校に通うことになった。

 ある意味では、この自宅学習は優人への処罰しょばつだったのかもしれない。

 優人は、やはり噂している生徒を抜けて、無視して教室に向かった。

 すると、教室の前に担任がいた。

「夢島。まだおまえへの容疑はかかったままだ。天城には近づくなよ」

 それだけ言うと、去っていく。

 いまの口ぶりからして、弘樹は学校に来ているということか。

 しかしなぜ、容疑がれない。弘樹は、優人がやったわけじゃないことを知っているはずだろう。

 疑問に思ったけれど、直接弘樹に聞けばいいかと安易あんいに考えて教室に近づく。

 すると、中から楽しそうな声が聞こえてくるのだ。

 しかも、弘樹の。

「天城も災難さいなんだったよなー。バケモノに殺されかけるとかさー」

 クラスの男子の声に、弘樹は答える。

「俺なにかした覚えないんだけどさー」

 それに何人かが笑い、ひとりがいう。

「こっわー。やっぱ近づけないわ、あんな不良」

 さらに、もうひとりも便乗びんじょうしてくる。

「あいつ、孤児院にいるらしいじゃん。親も怖かったんじゃね、あのバケモノのことさ」

 なにも知らないくせに、噂話が好きなクラスメイトはどんどん便乗して爆笑する。

「確かさ、幼稚園でも暴れてひとの骨とか何本も折ったりとかしたらしよー」

「幼稚園で!? やっぱバケモノだな」

 ひとのことを知りもしないで嘲笑うクラスメイト。

 前は別に、気にならないし、傷つきもしなかった。

 けれど、その声の中に、弘樹がいる。

 恋人であるはずの、弘樹の声がある。

 ずっと聞けていなかった、愛しい声。

 自分のことを、楽しそうに嬉しそうに呼んでくれた、彼の声。

 それがいま、優人の悪口を言っている。笑っている。

 どうして。そんな言葉が、頭を埋め尽くす。

「あ、あいつさ、俺の入院中に千羽鶴持ってきてやんの! よっれよれで汚いやつ!」

「まじで!? 最悪じゃん」

「母さんがキレてグシャグシャにして捨ててたけどね」

 精一杯、折ったのだ。

 弘樹が早く戻って来てくれるように。元気になるように。

「ってか、いまどき千羽鶴とか!ふっる!」

 自分に出来ることを精一杯できたらと、一日で完成させたのだ。

 起きたらきっと、喜んでくれると思った。

 ありがとう優人って、抱きしめてくれると思った。

 家宝かほうにするって、そこまでするかってくらい喜んで、いつものように笑顔を向けてくれるって。

 もしかしたら、これはドッキリなのかもしれない。

 泣きそうになりながら教室に入れば弘樹がいつもの席で笑っていて。

 冗談だよとか、ただいまとか、言ってくれて。

 それにきっと、自分は泣いてしまうのだ。

 泣いて、弘樹は驚いて、抱きしめてくれて。

 クラスには変な雰囲気が漂って、弘樹は慰めてくれる。

 きっと、きっとそうなのだ。

 そんなふうに思い込ませないと、足が震えて動けない。

 意を決して、扉を開く。

 教室から聞こえていた笑い声が、優人を見た瞬間、ピタリと止まる。

 まるで、時間が止まったかのようだ。

 優人は、すがる思いで、弘樹を見た。

 いつもと違う、中央のうしろの席。

 周りをクラスメイトが囲み、彼はクラスの中心にいた。

 目が合う。いつもなら、子犬のように嬉しそうに笑って、名前を呼ぶのだ。

だから、待った。名を呼ばれるのを。

 そうしたらまた、いつも通りの生活が始まる。

「……………………………………………………」

 しかし、そのいつも通りの生活は、訪れない。

 弘樹は優人を、まるで知らないひとを見るような顔をする。

 そして、クラスメイトのひとりが「夢島……」と呟くと、弘樹は気まずそうに顔を逸らし、そして怯えた目をこちらに向けた。

 その瞬間、優人の中でなにかが堕ちる音がした。

 ひらり。はらり。

 弘樹と出会い、咲いた恋の桜が、堕ちておく。

 元には戻らない桜が、散っていく。

 涙がこぼれそうになったのをこらえて、席に座ると、うつ伏せになった。

 嗚咽を、震えを、必死に押し殺して、涙を流す。

 弘樹のあの目は、尋常じゃなくらい、優人に堪えしまった。

涙を一滴いってきこぼして、優人は逃げるように眠った。


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