誤解
2016年12月3日
私は、杉下さんからのメールを読み始めた。
『ひまわりちゃん、こんな時間にごめん。
もう寝てるかもしれないから、メールにします。
今日、午後8時54分に姉は亡くなりました。
もう少し早く連絡しようと思ったんだけど、バタバタしていて遅くなってしまって申し訳ない。
それで、葬儀の日時だけど、明日が通夜で明後日の午後2時から葬儀を行うことになったから。
ひまわりちゃん、体の調子が悪いようなら、無理して来なくても大丈夫だからね。
ひばりも、そこのところはわかってるから。
そういうわけで、少なくとも月曜日までは、お店は臨時休業になるから。
火曜日以降は、決まったら連絡するから。
長文になってしまって申し訳ないけど、そういうことだから。
明日の午後にでも、電話かメールをするかもしれないから。
それじゃあ、ひまわりちゃんは無理をしないで、ゆっくり休んでください。』
私は、携帯電話を閉じた。
おばさん……
あのときは、本当に元気そうだったのに……
あれから、わずか10日くらいでこんなことになるなんて……
ひばり、どうしているかしら?
私は、電話をかけてみようかとも思ったけれど、さすがに今は、やめたほうがいいだろう。
メールだけでも、送ったほうがいいだろうか?
私は、しばらく悩んだけれど、携帯電話を開くとメールを書き始めた。
『ひばり、お母さんのこと、杉下さんからメールがきました。
つい最近、会ったばかりだったのに、信じられない気持ちでいっぱいです。
元気を出してといっても、今すぐには難しいことかもしれないけど、きっと秋山さんが、ひばりの支えになってくれるでしょう。
それじゃあ、また今度。』
私は、メールを送信した。
メールを送ってから30分くらい待ってみたけれど、ひばりからの返信はなかった。
ひばりも今は、それどころではないのだろう。
そうだ、お母さんにも教えなきゃ。
しかし、時計を見ると、もう11時55分だった。
もう寝ているかもしれないから、明日の朝にしようか。
暖かくして寝ないと、風邪が酷くなりそうだ。
おやすみなさい。
2016年12月4日
「うーん。」
体がだるい。
暖かくして寝ても、酷くなるときは酷くなるのね。
時計を見ると、まだ午前6時35分だった。
熱をはかってみると、38度5分だった。
昨日から、5分上がった。
このペースだと、10日後には5度上がるかしら?
「……」
こんな冗談を思い付くだけ、まだ元気があるわね……
そのとき、そーっとドアが開いた。
「あら、ひまわり、起きてたの?」
「お母さん、どうしたの?」
母が、パジャマ姿にカーディガンをはおってのぞいていた。
「ちょっと気になったから、のぞきに来たのよ。熱はどう?下がった?」
母はそう聞きながら、部屋へ入ってきた。
「今はかったら、38度5分だった。」
「ちょっと上がったわね。」
母は、私の額に手を当てた。
「ああ、熱いわね。」
額に当てられた母の手は、少し冷たかった。
「今日は、ゆっくり休んでなさい。」
「うん。」
「すぐに良くなるわよ。」
「お母さん。」
「何?」
「昨日、寝る直前に、杉下さんからメールがきたの。」
「そう。なんだって?」
「うん……ひばりのお母さん、亡くなったって……」
「まあ、そうなの。」
母も、おそらく想像していたのだろう。
そんなに驚いているようには見えなかった。
「それで、明日の午後2時からお葬式だって。」
「明日ね。わかったわ。」
「明日までに、熱が下がるかな?」
「下がらなかったら、お母さんが行ってくるわよ。」
「うん。ありがとう。」
「ひまわり、もう少し寝てなさい。」
「うん。おやすみなさい。」
もう朝だけど。
「おやすみ。」
母はそう言うと、部屋から出ていった。
今、思うと、涼太の葬儀にも風邪で出れなかった。
そして、ひばりのお母さんのときも……
私が風邪をひくと、誰かが死んでいく……
そんなふうに考えるのは、ちょっと考えすぎだろうか……
さくらに言ったら、変なことを考えるなって怒られるだろうか?
「お姉ちゃん、何を意味わかんないことを言ってるのよ。」
怒られるどころか、呆れたように言われた。
現在、時刻は午前11時30分。
私は、15分前に、再び起きたばかりだった。
「お姉ちゃん、起きたばかりで、まだちょっと寝ぼけてるんじゃないの?」
確かに起きたばかりだけど、これははっきりと目が覚めているときに考えたことだ。
「むしろ、逆じゃないの?涼太さんのときは、涼太さんが亡くなってあとで、風邪をひいたんじゃないの?」
そう言われてみればそうか。
「で、でも……」
「お姉ちゃん、死神にでもなったつもり?」
「そういうわけじゃあないけど……」
「お姉ちゃん、いつまでもこんなところに閉じこもってるから、そんな下らないことばっかり考えるのよ。」
「最近は、閉じこもってないわよ。」
「まだ二日だけじゃない。」
「せっかく休みなんだから、どこか出かければいいじゃない……って、言いたいところだけど、風邪じゃあ無理ね。」
風邪をひいてなくても、ひばりのことを思うと、出かける気分にはなれないだろう。
「とにかく、そんな下らないことばっかり考えてないで、ちゃんと休んでなさいよ。誰も、お姉ちゃんのせいだなんて思ってないからね。」
さくらはそう言うと、私の部屋から出ていった。
午後10時30分。
「うーん。まだ熱が下がらないみたいね。」
母は、私の額に手を当てながら言った。
「うん……さっきはかったら、38度2分あった。」
「そう、まあ仕方がないわね。明日の朝になっても熱が下がってなかったら、お母さんがお葬式に行ってくるわ。」
「でも……少し体がだるいけど、
「それは、だめだな。」と、誰かが私の言葉をさえぎった。
「あっ、お父さん。」
ドアのほうを見ると、父が部屋に入ってきたところだった。
「ひまわり、調子はどうだ?」
「熱が38度2分あって、ちょっと体がだるいけど、咳はあんまり出ないわ。」
「そうか。だけど他の人にうつったらどうする。特に、ひばりちゃんにうつったら大変だぞ。今、ひばりちゃんは、体力的にも精神的にもきっと弱ってるだろうから。そんなところに、風邪をひいているひまわりがのこのこと出ていったら、間違いなくひばりちゃんに風邪がうつっちゃうぞ。」
確かに、父の言う通りだろう。
「うん。わかった。」
「風邪がなおってから、また改めて行けばいいさ。」
「お父さんの言う通りにするわ。」
「ちょっとちょっと、みんなお姉ちゃんの部屋に集まってなんの話?私だけ仲間外れにしないでよ。」と、言いながら部屋に入ってきたのは、当然さくらだった。
「さくら、別に仲間外れになんてしてないわよ。」
私は笑顔で言った。
「それで、なんの話?」
「みんなで、さくらの悪口を言ってただけだよ。」
父が笑いながら言った。
「ちょっと、何よそれ。」
「冗談だよ冗談。」
「お父さん、そんなの当たり前でしょ。本当に三人で悪口を言って笑ってたら、私、家出するからね。」
「さくらって、チビよね。」
私は、ぼそっと言った。
「ちょっと、お姉ちゃん。自分が大きいからってバカにしないでよ。そんな悪口を言うなら、今すぐ家出するからね。」
さくらはそう言うと、部屋から出て行こうとした。
「……」
「……」
「……」
「……って、誰か止めてよ。」
「さくら……冗談よ。」
「わかってるわよ。家出するっていうのも冗談よ。」
そんなこんなで、夜も更けていった。
2016年12月5日
私は目を覚ました。
枕元の目覚まし時計を見ると、午前10時45分だった。
あれから、ほぼ半日も眠っていたみたいだ。
熱をはかってみると、37度9分だった。
どうやら、10日後に5度上がるということはなさそうだ。
38度と37度9分では、わずか1分しか違わないけれど、38度台ではなく37台というだけで、かなり楽になったような気がする。
まあ、それでも、私の平熱と比べたら、まだまだ高いけど。
私が起きてしばらくした頃、母がやってきた。
「ひまわり、おはよう。もう起きてた?」
「お母さん、おはよう。もうちょっと前に起きたところ。」
「そう。そろそろ起きる頃かなって思ったわ。熱はどう?」
母は、私の額に手を当てながら聞いた。
「37度9分だった。」
「37度9分ね。まだ少し熱いわね。」
「お母さん、今日のお葬式だけど……」
「ひまわりは、まだだめよ。お母さんが行ってくるから。」
「うん。わかってる。」
「さくらも今日はいないけど、ひまわり一人で大丈夫よね?」
「大丈夫だよ。私、もう28だよ。子供じゃないんだから。」
「そうね。21のさくらは、まだまだ子供みたいだけどね。」
母は、そう言って笑った。
「ひまわり、朝ごはんはどうする?もう少しでお昼になるけど。」
チラッと時計に目をやると、11時になったところだった。
「じゃあ、もう朝ごはんはいいから、12時に食べるわ。」
この時間に食べたら、なんか中途半端になってしまいそうな気がする。
「12時ね。わかったわ。もう、おかゆじゃなくても大丈夫よね?」
「うん。おかゆはもういいよ。」
「それじゃあ何か、消化に良さそうな物にするわね。ひまわり、下に下りてこれる?それともここで食べる?」
「下りるわ。」
「わかったわ。それじゃあ12時ね。」
「ひまわり、それじゃあ行ってくるからね。」
「いってらっしゃい。」
「ついでに、杉下さんにあいさつできたら、してくるわ。」
12時にお昼ごはんを済ませて、1時20分くらいに母は、ひばりの母のお葬式へ出かけていった。
「ただいま。」
4時前になって、母が帰ってきた。
「おかえりなさい。どうだった?」
「ひばりちゃんは、ずっと泣いてたわ。ひばりちゃんのお姉ちゃんかな?ずっとひばりちゃんに寄り添っていたのは。そうそう、杉下さんにあいさつしてきたわ。ひまわりが風邪をひいてご迷惑おかけしますって、言っておいたわ。それでね、明日もお店はお休みにするそうよ。明後日からやるから、風邪がなおったら出てきてって。」
「もう、だいぶん良くなってきたわ。熱もさっきはかったら、37度2分だったから。」
このペースで下がったら、10日後には……って、そんなことはどうでもいいか。
「それじゃあ、明日には良くなってそうね。」
「お母さん。私、明日ひばりの家に行ってみるわ。お葬式の翌日で迷惑かもしれないけど。」
「そう、わかったわ。ひばりちゃんだって、ひまわりが来てくれたら喜ぶわよ。」
そうだといいけれど……
2016年12月6日
「お母さん、それじゃあ行ってくるね。」
「いってらっしゃい。一人で大丈夫よね?」
「うん。もう熱も、36度2分だったし、元気いっぱいよ。」
「そう。気をつけていってらっしゃい。」
私は、バス停に向かって歩き出した。
現在、時刻は午後1時30分。
ひばりに、お昼から行ってもいいかと、10時頃にメールを送った。
ひばりからは、
『ひまわり、ありがとう。
ひまわりにも心配かけたわね。』と、11時30分頃に短く
返信があった。
メールには、はっきりと、来てもいいとは書かれてはなかったけど、『ありがとう』という言葉を、了解したと解釈した私は、ひばりのマンションに向かうことにした。
もし、だめだったら、すぐに帰ればいい。
そんなことを考えながら、私はバスに乗った。
私は、ひばりの家の近くのバス停でバスから降りると、ひばりのマンションへ向かって歩き出した。
ふと、前のほうを視線を送ると、男性が一人歩いているのが目に入った。
まあ別に、男性が一人で歩いていても不自然でもなんでもないけれど。
後ろ姿だからよくわからないけれど、若い感じの人だ。
秋山さん?
まさか……ね。
しかし、私が秋山さんと直接会ったのは、あの日だけだから、後ろ姿だけでは正直わからない。
私は、その男性の後を付いて行った……というわけではないけれど、その男性も、ひばりのマンションのほうへ歩いているみたいだった。
いや、偶然だろう。
この先に、ひばりのマンションしかないわけではないから。
しかし、その男性は、ひばりのマンションへ入っていった。
まさか……
本当に?
私は、こっそりマンションの中をのぞき込んだ。
ちょうど、エレベーターの扉が閉まる直前だったので、男性の顔は見えなかった。
私は、マンションの中に入って、エレベーターが何階で止まるのか確認した。
ひばりの部屋は6階だけど……
エレベーターは、6階で止まったみたいだ。
6階……
やっぱり……
しかし、6階にはもちろん、ひばりたち以外にも住んでいる人はいる。
どうしたものか考えていると、エレベーターが下りてきた。
私は、エレベーターが急に下りてきたことにびっくりして、とっさに物陰に隠れてしまった。
「……」
私は、いったい何をやっているんだろう?
こんなことをやっていても仕方がない。
エレベーターで下りてきた人がマンションから出ていったら、ひばりの部屋へ行こう。
エレベーターが止まると、二人の男女が出てきた。
早く出て行かないかしらと思っていると、
「昨日は大変だったね。」
男の人の声が聞こえた。
さっきの人だろうか?
「うん。昨日は来てくれてありがとう。」
女の人の声も聞こえた。
「えっ?」
私は思わず声を出してしまった。
私は、あわてて自分の手で口を押さえた。
どうやら、聞かれなかったみたいだ。
今の声って……
まさか……
ひばり?
っていうことは、男の人はやっぱり秋山さん?
私は、そーっとのぞいて見た。
間違いない、ひばりだ。
男の人は、背中を向けているので顔が見えない。
「ひばり……」
しばらく二人は見つめあっていたが、男の人が、ひばりの名前を呼ぶと……
二人は顔と顔を寄せあい、唇と唇をくっつけた。
つまり、キスをした。
私は、親友がキスをしているところを見てしまい、動揺してしまった。
あまりにも動揺しすぎて、持っていたカバンを落としてしまった。
「きゃっ!誰?えっ?ひまわり!?ちょっと、そんなところで何をしてるの?」
しまった!
ひばりに見つかってしまった。
男の人も、びっくりして私のほうを振り向いた。
秋山さんにも見つかって……
うん?
秋山さんじゃ……ない?
誰だっけ?
どこかで見たような気もするけど。
「ひまわり、隠れて見てたの?」
ひばりは顔を赤くして聞いてきた。
「ひ、ひばり!ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。まさか、ひばりがキスをするなんて思わなかったから。」
私も、自分がキスをしたわけではないのに、顔を赤くして言った。
「っていうか、なんでそんなところに隠れてるのよ?」
「えっと……」
どうしよう……正直に言うべきか?
「ひまわりさん、お久しぶりですね。」
私が迷っていると、男性が話しかけてきた。
「えっ?どこかでお会いしましたっけ?」
「ちょっと、ひまわり!あなた、孝太郎のこと覚えてないの?」
ひばりは、呆れたように言った。
「春日孝太郎ですよ。ほら、遊園地で会ったじゃないですか。秋山太陽と一緒に。」
「あっ!」
そうだった。
あの日、秋山さんは一人じゃなかった。
「そういうことか。ひまわり、あなた、秋山さんしか目に入ってなかったのね。つまり、ひまわりは、秋山さんに夢中で、孝太郎のことなんて眼中になかったのね。」
「えっ!?そんなことは……」
「まあ、いいわ。それで隠れてた理由はなんなの?」
これはもう、話さないわけにはいかない。
私は今までのことを全部話した。
「それじゃあ、ひまわりは、私が太陽君と付き合ってると誤解してたの?」
ひばりは、呆れたように言った。
「うん。」
「私が孝太郎と歩いてるところを、見たんじゃないの?」
「あの日は雨が降ってて傘をさしてたから、顔が見えなかったから……っていうか、二人はいつから付き合ってるの?」
「実は、遊園地に行った日の夜にコンビニに行ったんだけど、そこで偶然、孝太郎と太陽君に会ったのよ。」
「そうだったの!?」
「そうなんですよ。偶然、ひばりと再会して、そこで少し話して意気投合して付き合うことに。」
春日さんは、嬉しそうに言った。
「あっ!もしかして、ひばりが秋山さんからのメールの内容を知っていたのって。」
「ああ、すみません。それ、俺がひばりに話したんです。」
「私、てっきり、ひばりも秋山さんが好きで、私に隠れて付き合ってるんだとばっかり思ってた。」
「そんなわけないでしょう。ひまわり、あなたは忘れてるかもしれないけど、高校生の頃に言ったよね?もしも、私とひまわりが同じ人を好きになったらどうするかって。」
「へー。俺も興味あるな。どうするの?」
「私がひまわりと同じ人を好きになったら、ちゃんと、ひまわりに相談するって。」
そうだった……
私は、あの日の会話を全部思い出した。
私は、それに対して、こう言った。
「本当に?ひばりの言うことは、あてにならないからなぁ。」
「なんだ、覚えてるじゃない。」
今、思い出したということは黙っておこうか。
「あっ、譲るんじゃないんだ。」
春日さんは、ひばりが譲ると言ったと思ったみたいだ。
「譲らないわよ。正々堂々と勝負よ!」
ひばりは、そう言うと、拳を握ってみせた。
「だから、ひまわりがもしも、孝太郎のことが好きというなら、正々堂々と勝負するけど?」
「私、そんなこと、1ミリも思ってないわよ。」
「なんか、告白してないのに、振られた感じがするな。」
春日さんは、笑いながら言った。
「っていうか、ひまわりさんは、太陽のことが好きなんでしょ?」
「えっ?そ、そんなこと……好きとか嫌いとか、そういうことじゃあ……」
私は、わかりやすいくらい動揺している。
「だったら、どうしてそんなに悩んでるのよ?」
ひばりが詰め寄ってくる。
「それに、ひまわり、さっきこう言ったよね?『ひばりも秋山さんのことが好きで』って。『も』っていうことは、ひまわりも好きっていうことでしょう?」
ひばりから、鋭く指摘されてしまった。
「私、そんなこと言ったかしら?」
「言ったわよ。いいじゃないの、付き合ってみれば。」
「でも……」
「もうっ、じれったいわね……そうだ!ひまわり、明日はお店に出るのよね?」
「えっ?うん。そのつもりだけど。それがどうかしたの?」
「ちょっと、孝太郎いい?」
「何?」
「ひまわりは、ちょっとあっちに行ってて。」
ひばりはそう言うと、春日さんと内緒話を始めた。
「…………だからね…………ということなの。」
「…………なるほど…………わかった。言ってみる。」
何が、なるほどなんだろう?
「それじゃあ、ひまわり。明日を楽しみにしていて。」
ひばりは、ニッコリと笑った。
「ひばり、何を考えているの?」
「まあ、いいからいいから。それよりも、上がって行くでしょ?」
「うん。お線香を上げさせて。」
「それじゃあ、俺はそろそろ行くよ。」
「うん。いってらっしゃい。」
春日さん、もう帰るんだ。
だからすぐに下りてきたんだ。
春日さんは帰っていった。
「じゃあ、行こうか。」
エレベーターは、ひばりたちが乗ってきたまま止まっていたので、すぐに乗り込んだ。
「ひまわり。私が母親が亡くなったばかりなのに、男の人とキスなんかしているのを見て、
ひばりは、私のほうを見ずに聞いた。
「えっ?そんなことないよ。」
「そう。」
ひばりは、そう言うとエレベーターが止まるまで、何も言わなかった。
6階でエレベーターを降りると、ひばりの部屋に入った。
「私、一人だから。お父さんは、午後からどうしても出なきゃいけない会議があって、お姉ちゃんは午前中の飛行機で帰ったし、叔父さんや他の親戚の人たちもお昼までには帰ったわ。コーヒーでも入れるから座ってて。叔父さんほど美味しくは入れられないけどね。」
ひばりはそう言うと、台所へ入っていった。
私は、待っている間に仏壇に線香を立てた。
仏壇には、ひばりの母の遺影が飾られていた。
「お待たせ。」
ひばりが、コーヒーを入れたカップをお盆に二つ乗せて戻ってきた。
「その写真いい笑顔でしょう。」
「うん。おばさん、とっても楽しそうね。」
「これはね。お母さんがもう長くないってわかってから、箱根の温泉に行ってきたの。お母さんが昔から行きたがってたから。」
「おばさんは、自分が長くないって知ってたの?」
「私もお父さんも言わなかったんだけど、たぶん気付いてたんじゃないかな。どんどん痩せていくことも変だと思っていただろうし、この前、ひまわりが帰ったあとも、最後に、ひまわりに会えて嬉しかったって言ってたから。」
「私も、おばさんに会えて良かったわ。」
「ひまわりが、お線香を上げてくれて、お母さんもきっと喜んでるわ。『もう一度、ごちそうしたいわ。』って言ってたから……」
そう言うと、ひばりの目から大粒の涙が溢れた。
私は、ひばりを抱きしめて、ひばりが泣き止むのを待った。
それから5分くらいたって、ひばりも落ち着いたみたいだ。
「ひまわり……ごめん。服が濡れちゃったね。」
「これくらい大丈夫よ。」
「あー、ひまわりの前でこんなに泣くなんて、夏野ひばり、一生の不覚だわ。」
ひばりはそう言うと、笑顔を見せた。
「何を言ってるのよ。」
私も、笑顔でこたえた。
「そうだ、昨日はお葬式に出られなくてごめんね。」
「気にしないで。叔父さんが悪いのよ。あんな雨の中、送らずに帰らせるから。叔父さんに、慰謝料を請求してやって。」
「慰謝料なんて、そんな大げさな。」
「叔父さん、お金持ってるから
私たちは、しばらく、杉下さんの話や、ひばりの母の話で盛り上がった。
時計を見ると、もう4時30分だった。
「ひばり、私もそろそろ帰るわ。」
「もう、そんな時間?」
「ひばり、疲れてるでしょう?」
「そうね。疲れてないと言えば、嘘になるわね。でも、ひまわりや孝太郎のおかげで、精神的にはだいぶん楽になったわ。」
楽になったというのが、本当なのかどうかはわからないけれど、ひばりは笑顔を見せた。
「そう?なら、いいけど。そういえば、どうして春日さんと付き合ってることを隠してたの?」
そもそも、ひばりが付き合っていることを隠していなければ、私もこんなに悩むことはなかったのに。
「隠すつもりはなかったんだけどけどね。」
『隠すつもりはなかった。』というのは、こういうときの常套句だろう。
「あの日は、ひまわりの為に遊園地に行ったのに、私が先に恋人を作っちゃって、申し訳ないというかなんというか……うーん……それで、言いそびれてしまったの。」
ひばりは、本当に申し訳なさそうに言った。
「そんなこと、気にしなくてもいいのに。逆に誤解しちゃったじゃない。」
「ごめんごめん。まあ、いいじゃない。誤解も解けたんだから。悩んでいた日々は、これもいい人生経験よ。」
なんだそれ?
「もうっ!ひばりったら。」
「ひまわりってよく、『もうっ』って言うよね?」
「えっ?何よ、いきなり。私、そんなに言ってるつもりはないけど。」
「もうって言ったときに、口がとがるのがかわいいよ。」
「ちょっと止めてよ。もうっ!」
「ほらっ、それ。」
「もういい。帰るわ。」
なんか、私が疲れてきたわ。
私は、ひばりと一緒にエレベーターで1階まで下りた。
「そういえば、私がこの前帰るときに、ひばり、何か言おうとしたよね?あれって何だったの?」
「この前?ああ、本当はお母さんが、もう長くないって言おうとしたのよ。」
「なんだ、そうだったの。」
「それがどうかしたの?」
「うん。そのときは何も思わなかったんだけど、あとで考えてみたら、ひばりが秋山さんと付き合ってることを、告白しようとしたのかと思って。」
「ひまわり、それは考えすぎよ。まあでも、心配かけたわね。そのお詫びっていうわけでもないけど、明日を楽しみにしててね。」
「さっきも言ってたけど、明日何があるのよ?」
「それは、明日のお楽しみよ。それじゃあ今日はありがとう。またね。」
ひばりはそう言うと、エレベーターに乗って戻っていった。
私は、ひばりのマンションを後にした。
明日何があるんだろう?
悩みが一つ解決したと思ったら、別の悩みができたわ。
まあ、これは明日解決するんだろうけど。
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