アルバイト

2016年12月1日


「お母さん!お母さん!」

ひばりが母の体を揺すり、必死に呼びかける。

「ひばり!お母さん、意識がないの?」

「ひまわり!どうしよう……」

ひばりは完全にパニック状態で、どうしたらいいのかわからないみたいだ。

「ひばり!落ち着いて。」

私も、こんな場面に遭遇したのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。

「そ、そうだ。ひばり!救急車、救急車にメールして!!」

私もパニック状態だ。

「違う、メールじゃない。電話、ひばり!電話よ!!」

ひばりは受話器を取ると、電話をかけようとしたが、

「ひまわり!救急車って何番だったっけ?」

ひばりは顔面蒼白で、受話器を持つ手が尋常ではないくらい震えている。

「ひばり!しっかりして!救急車は……」

何番だっけ?

私、しっかりしろ!

「ひまわり!救急車は……117だっけ?」

「それは、天気予報じゃない?」

「あぁ、そ、そうか。」

「117は、時報だよ。天気予報は、177。」

という声が、どこからともなく聞こえてきた。

「そうか!177と。」

ひばりは電話のボタンを押した。

「……」

「……」

私は、ひばりと顔を見合わせた。

「ちょっと!天気予報にかけたいんじゃないの!お母さん!変なこと言わないでよ!」

ひばりは、母を怒鳴りつけた。

「そうなの?ごめんなさい。でも、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。耳は悪くないわよ。」

ひばりの母は、立ち上がりながら言った。

そう、立ち上がりながら…立ち上がりながら?

立ってる!?

「お母さん!なんで……立ってるの?」

ひばりは震える声で聞いた。

「なんでって……立っちゃいけないの?」

「……いいけど。」


「えぇっ!?お母さん、寝てただけなの?」

ひばりは、両隣に聞こえるんじゃないかと思えるくらい大きな声で言った。

「そんなに大きな声で言わなくても聞こえてるわよ。近所迷惑でしょ。」

「寝てるんだったら、寝てるって言ってよ!」

ひばりが、むちゃくちゃなことを言っている。

「お母さん、そんな器用なことできないわ。」

器用とかいうような問題では、ないと思うけど。

「お母さん、死んじゃったのかと思ったじゃない。」

ひばりは、少し目が潤んでいるみたいだ。

「そんなに簡単には、死なないわよ。」

ひばりの母は、笑顔で言った。

「でもこれで、いざというときに、ひばりが頼りにならないということがわかったわ。電話のところに、救急車119って書いておかないとね。」と、ひばりの母は手厳しい。

「パニックになって、どうしたらいいのかわからなくなって、頭が真っ白になったのよ。」

まあ、私もパニックになったから、ひばりの気持ちはよくわかる。

「っていうか、お母さん、いつから目が覚めていたの?」

「うーん……目が覚めたら、ひばりが受話器を持っていたわね。」

「起きたのなら、そう言ってよ!」

「目が覚めたら、目の前にとてもかわいい女の子がいたから、びっくりしちゃって。ひばり、こんなにかわいかったかしら?って、お母さん混乱しちゃった。」

「もう、びっくりさせないでよね……っていうか、どういう意味よ!どうせ、私よりも、ひまわりのほうがかわいいわよ……」

ひばりが、またいじけてしまった。

「まあ!ひまわりちゃんなの?お久しぶりね。」

「はい。ひまわりです。おばさん、ご無沙汰してます。」

「もう、10年ぶりくらいかしら?」

「そうですね。大学生になってからは、全然来てなかったので。」

高校を卒業してからは、自然と来なくなっていた。

「すっかり大人になったわね。あの頃も大きかったけど、さらに大きくなったわね。」

「大学生になってからも、少し伸びたんですよね。」

たぶん、3センチくらいは伸びたと思う。

「おばさん。少し、お痩せになりました?」

「あら、やっぱりわかる?そうなのよ、ここのところ少しずつ痩せてきたのよ。」ひばりの母は、あの頃はもう少しふっくらしていた。

「そんなことよりも、ひばりに聞いたんだけど、ひまわりちゃんも、いろいろ大変だったみたいね。」

「そうですね。私も大学を卒業してから、いろいろなことがありましたね…」

「ごめんなさい。辛いことを思い出させちゃったかしら?」

「いえ、大丈夫です。ひばりのおかげで、だいぶん乗り越えられました。」

「まあ、そうなの?ひばりが役に立つこともあるのね。」

ひばりの母は、ひばりのほうをチラッと見ながら言った。

「お母さん。私のことを少しは見直した?」

ひばりは、母の顔を覗きこみながら言った。

「ちょっと、近いわよ。」

ひばりの母は、ひばりを押しのけた。

「そうそう、ひまわりちゃん。敏之のお店で、アルバイトをしてくれるそうね。」

「はい。よろしくお願いします。」

「こちらこそ、よろしくね。敏之が何か変なことをしたら、『カエルと一緒に閉じ込めるわよ』って、言ってみるといいわ。」

ひばりの母は、笑いながら言った。

「カエル……ですか?」

「そう、ゲロゲロ。」と、ひばりの母は、カエルの鳴き真似をした。

「ちょっと、お母さん。それ、どういうこと?」

「昔ね、敏之がまだ、小学校1年か2年の頃だったと思うんだけど。私と私のお友達とで、敏之をダンボール箱に閉じ込めて、その中にカエルを入れたことがあるの。そのときに、カエルが敏之の顔に飛びついたみたいで、大泣きしちゃって、それ以来カエルが大嫌いになったみたいなの。」と、ひばりの母は言い終わると笑いだした。

ひばりの母は、その当時を思い出したのか、笑いが止まらないみたいだ。

「私、そんなこと初めて聞いたわ。」

「今、初めて言ったもの。」

「今度、叔父さんに言ってみようかな。」

「ひばり、止めなさいよ。杉下さんがかわいそうじゃない。」

「なによ、ひまわりだって顔が笑ってるじゃない。」

「そんなことないわよ。」

たぶん。

「今頃、叔父さん、くしゃみをしてるんじゃないかしら?」


「ハックション!!風邪かな?まあ、ひばりがまた悪口を言ってるだけか。」


「ひまわりちゃん、せっかく来てくれたんだから、一緒にお昼を食べていかない?私が何か作るわ。」

「あっ、はい。いただきます。」

「お母さん、大丈夫?」

ひばりは、母のことが心配なようだ。

「大丈夫よ。1時間ほどぐっすり寝たから、元気いっぱいよ。」


「ごちそうさまでした。美味しかったです。」

ひばりの母が作ってくれた料理は、とても美味しかった。

「嬉しいわ。ひばりは美味しいなんて、一度も言ってくれないんだから。」

「美味しいと思ってるわよ。ただ、毎日食べてると、当たり前になってくるから、わざわざ言わないだけよ。」

案外、そんなものかもしれない。

「それじゃあ、そろそろ帰ります。」

私は席を立った。

「あら、ひまわりちゃん、もうちょっとゆっくりしていっていいのよ。」

「そうよ、もう少しいればいいじゃない。」

「でも、おばさん、あまり体調がよろしくないんですよね。長居しても迷惑ですし。」

「あら、そう。気を使わせちゃったわね。」

ひばりの母は、申し訳なさそうに言った。

「それじゃあ私、下まで送ってくるわ。」

ひばりも席を立った。

「ひばり、別にいいわよ。」

「いいからいいから。」

ひばりは、私の肩に手を置くと、そのまま玄関まで押していった。

「おばさん、お邪魔しました。」

「ひまわりちゃん、また来てね。今度はもっと、ゆっくりしていってね。」


「ひばり、もうここでいいわよ。」

私はマンションの1階まで下りたところで言った。

「ひまわり、あの……」

ひばりは何か言いかけたが、途中で止めてしまった。

「何?」

「……えっ?あ、えーと。あっ、明日は私も、お店に様子を見に行くからね。」

ひばりは明るく、そう言った。

「うん。わかった。それじゃあ、また明日。」

私はマンションを出ると、バス停へ向かった。

バスに乗ると、一番後ろの席に座った。

ひばり、何を言いかけたんだろう?

無理に明るく振る舞っていたような気がする。

……あっ、先週の土曜日のことを聞こうと思っていたのに、忘れていた。

まあ、また今度でいいか。


「ただいま。」

「おかえりなさい。喫茶店はどうだったの?」

母は、私が家に帰るなり、さっそくアルバイトのことを聞いてきた。

「思っていたより小さいけれど、まだ新しくて綺麗なお店だったわ。」

私は、玄関を上がりながら言った。

「お店の営業時間は10時30分から7時までだけど、私の勤務時間は10時から6時までで、お休みは木曜日と日曜日だって。」

「喫茶店って日曜日もお休みなの?」

「ううん。日曜日がお休みなのは私だけで、日曜日だけ、他に手伝ってくれる人がいるんだって。」

「他に?誰が?」

「私に聞かれても、わからないわよ。たぶん杉下さん、あっ、ひばりの叔父さんの名前は、杉下敏之さんね。その杉下さんの知り合いかなにかだと思うわ。」

まあ、知らない人が手伝うわけがないけど。

「ふーん。あっ、ひまわり、お昼ご飯は?」

「ひばりの家で、ごちそうになってきた。」

私は、そう言うと自分の部屋へ戻った。


「えっ!?お姉ちゃんアルバイトするの?」

さくらは、びっくりしたみたいだ。

「さくら、びっくりしすぎでしょう。私がアルバイトしちゃいけないの?」

「そんなことないわよ。」

「ちょっと二人とも、食べるかしゃべるかどっちかにしなさい。」

ちなみに今は夕食中だ。

「どこでアルバイトするんだ?」と、父が聞いた。

「ひばりの叔父さんの、杉下敏之さんがやってる喫茶店よ。」

「ひばりさんの叔父さんって、喫茶店やってるの?」

「うん。そんなに大きいお店じゃないけど。」

「へー。その杉下さんってどんな人?イケメン?」

さくらは、杉下さんに興味津々のようだ。

「えっ、イケメンではないわよ。普通の45歳のおじさんよ。」

普通のおじさんなんて言ったら、杉下さんに失礼だったかしら?

「なーんだ、つまんない。」

もっと失礼だ。

「それで、明日からなのか?」と、父は聞いた。

「うん。」

「ひまわり、良かったな、無理せずにがんばれよ。」

「ありがとう、お父さん」

「お姉ちゃん、私も飲みに行くよ。」

「来なくてもいいわよ。」

「えー、なんで?」

さくらは不満そうだ。

「なんか、家族に働いているところを見られるのって、恥ずかしいじゃない。」

「そう?私だったら、大歓迎だけどね。」

「お父さんは、ひまわりの気持ちがわかるな。」

「えっ、お父さんも?」

「普段の自分と違って、真面目に仕事をしているところを見られるのは、お父さんもちょっと恥ずかしいな。」

「ふーん、そういうものなんだ。」

さくらは納得したみたいだ。

「だから、さくらも来ないでね。」

「はーい。」


2016年12月2日


「ひまわりー!何をしてるの。早くしないと、遅れるわよっ!」

一階から、母が呼ぶ声が聞こえる。

今日は私の初出勤の日だ。

初日から遅刻などしていては、シャレにならない。

なんだか、5年前にも同じようなことがあったような気もするが、たぶん気のせいだろう。

私は階段を駆け下りた。

「ひまわり、いってらっしゃい。はい、お弁当。」

「お母さん、ありがとう。いってきます。」

「気をつけてね。」


私はバスに乗ると、秋山さんにメールを打った。

『秋山さん、おはようございます。

実は今日から、木曜日と日曜日以外は、午前10時から午後6時まで、アルバイトをすることになりました。

なので、今までのようにはメールができません。

ごめんなさい。』

今は9時30分か。

私が仕事を始めるまでには、返信はこないだろう。

昨日の内に送っておいてもよかったかもしれないけど、どうせ夜に返信がくることはないだろうから、同じことか。


お店に着いて時計を見ると、9時55分だ。

ちょうどいい時間のバスがあって良かった。

お店の裏にまわると、杉下さんの黒い乗用車が停まっている。

私は裏口から、お店の中に入った。

「ひまわりちゃん、おはよう。」

「杉下さん、おはようございます。」

「ひまわりちゃん、これ君のタイムカードだから、出勤したらまずはこれを押して。」

私は、杉下さんから受け取ったタイムカードを押した。

タイムカードには、9:56と印字された。

「それじゃあこれが、ひまわりちゃんの制服だから。ひまわりちゃんは、こっちの部屋で着替えて。ちょっと狭いんだけど、ロッカーもあるから自由に使ってくれていいから。休憩もここでして。」

「はい。」

「それじゃあ着替えが終わったら、まずはお店の外の掃き掃除をして。掃除道具は、ここに入ってるから。」

私は制服を受け取ると、その部屋へ入った。

確かに狭いが、一人で休憩する分には問題ないだろう。

部屋の中には、ロッカーが二つと机が一つ、そして椅子が二つある。

私はドアに鍵をかけると、制服に着替え始めた。

制服は、上下ともに黒でエプロンは白だ。

どこにでもありそうな制服ね。

私は着替えを終えると、お店の外に出て掃除を始めた。

ホウキで掃き掃除をするなんて、何年ぶりかしら?

学生時代を思い出すわね。

掃除を終えて、お店に入ろうとすると、

「おはようございます。」

お店の隣の家から出てきた、70歳くらいのおじいさんが笑顔で話しかけてきた。

「おはようございます。」

私も笑顔であいさつを返した。

おじいさんは、私のそばまで来て私の顔を見ると、何故かとても驚いた表情をしている。

「どうかされましたか?」

「い、いや……あんた見ない顔だね。新しい人かい?」

「はい。今日から、ここで働かせてもらうことになりました。」

「あんた、年はいくつだね?」

「えっ?年ですか?28歳ですけど。」

なんで年なんか聞くんだろう?

「そうか、28か。そうか……」

おじいさんは、ちょっとびっくりしたみたいだったけど、満足そうにうなずいた。

いったい、28歳がなんだというのか?

「それで、あんたの名前は?」

おじいさんは、今度は私の名前を聞いてきた。

このおじいさんは、いったい誰なんだろう?

「あ、あの……」

私が困っていると、

「長谷川さん、おはようございます。」と、後ろから声が聞こえてきた。

振り向くと、杉下さんがお店から出てきた。

「長谷川さん、今日もいい天気ですね。うちの従業員がどうかしましたか?」

長谷川さんと呼ばれたおじいさんは、杉下さんの顔を見ると、露骨に嫌そうな顔をした。

「いや、別になんもしとらんよ。」

「そうですか。ひまわりちゃん、ここはもういいから、お店の中に入ってて。」

「はい、わかりました。それでは失礼します。」

私は、長谷川さんに軽く会釈をすると、お店の中へ入った。

あっ、名前を教えなかったのに、杉下さんがひまわりちゃんって呼んじゃったわ。


しばらくして、杉下さんがお店に戻ってきた。

「ひまわりちゃん、びっくりしただろう?」

杉下さんは、そう言うと、カウンター席に腰を下ろした。

「はい。ちょっとびっくりしました。どなたですか?」

「あの人は、長谷川さんっていうんだけど、69歳って言ってたかな。長谷川さんはね、あの年で若い女の子が好きみたいなんだよ。」

「そうなんですか?」

「うん。お店の従業員やお客さんに、20代前半や半ばくらいの気に入った女の子がいると、話しかけてくるらしいんだ。」

「私、もう28ですけど。」

「うん。ひまわりちゃんが若く見えたんだろう。」

あのおじいさん、私が28歳だとわかって、がっかりしたのかしら?

「こっちも注意して、ここ何ヵ月かは来なかったんだけどなぁ。よっぽど、ひまわりちゃんが好みのタイプだったんだろうな。」

杉下さんは、私の顔をまじまじと見つめながら言った。

「長谷川さんは、一人暮らしなんですか?」

「奥さんもいるみたいだけど、なんでも足が悪くて、あんまり外には出てこられないそうなんだ。」

「奥さんがいるのに、女の子に声をかけているんですか?」

「どうも、奥さんの目を盗んで、声をかけているみたいだね。」

酷い人だわ。

「でも、奥さんのことがやっぱり心配なんだろうね、すぐに戻っていくから。だから、ひまわりちゃんも、そんなに気にしなくてもいいからね。お店の中へ入ってきたことは一度もないから。」

そうは言われても、気になる。

「お子さんは?」

「わからないなぁ。以前聞いたら、娘さんがいたようなことを言ってたんだけど、僕は一度も見たことがないんだよ。」

いたっていうことは、今はお嫁にいって、いないということだろう。

「おっと、長話をしすぎた。もう開店の時間だ。それじゃあ、お店を開けるよ。」


「マスター、もう10分たつけど誰も来ませんね。」

「うちはね、午前中はあんまりお客さん多くないから。」

「そうなんですか?」

もっとひっきりなしにお客さんが来るのかと思っていた。

「ハッハッハッ!そうなんだよ。」

杉下さんは、何故か楽しそうに言った。

「12時台がちょっと忙しくて、3時から6時くらいまでが一番忙しいかな。」

ということは、忙しいのは営業時間の半分くらいか。

「お客さんが来るまでは、ゆっくりしてていいよ。」

ゆっくりしててと言われても、何もすることがない。

まさか、携帯電話を取り出して、ゲームをやるわけにはいかない。

そうだ、携帯電話といえば、秋山さんからメールはきているだろうか?

休憩時間に確認してみよう。

もう、10時45分か。

こんなにお客さんが来ないのなら、10時30分開店じゃなくて、もうちょっと遅くてもいいんじゃないのだろうか?

杉下さんのほうを見ると、楽しそうに鼻歌を歌いながら新聞を読んでいる。

私は店内に置いてあった雑誌を手に取り、パラパラとめくって見た。

推理小説がたくさん載っている。

ミステリーの専門誌のようだ。

推理小説募集、賞金300万円なんていう広告も載っている。

「300万か……」

「うん?何か言ったかい?」

杉下さんが、私のほうを見ながら言った。

「い、いえ、なんでもないです。」

ついつい、口に出して言ってしまった。

そういえば、ひばりが様子を見に来ると言っていたけど、いつ来るんだろうか?

「マスター、ひばりが様子を見に来るって言ってたんですけど、いつ来るか聞いてますか?」

私は、杉下さんに聞いてみた。

「僕は聞いてないけど。」

「そうですか。」

まあ、そのうち来るだろう。

そうこうしているうちに、10時50分になった。

早くお客さん来ないかしら、この時間、何もしてないのにお金をもらうなんて、なんだか申し訳ないわ。

「お客さん、来ませんね。」

「開店と同時に来ることもあるけど、午前中2、3人しか来ないこともあるよ。」その時、お店の入口に人影が見えた。

お客さんかしら?

それとも、ひばりかな?

「いらっしゃい……」

私は、お店に入ってきた人の顔を見て、驚きのあまり言葉が止まってしまった。

「ひまわりちゃん、いらっしゃいじゃなくて、いらっしゃいませだろう。」

杉下さんは、私に注意すると同時に、入ってきた人の顔を見た。

「えっ?」

杉下さんも、びっくりしている。

「なんだ、化物でも見るような目で人の顔を見やがって。」

「ちょっ、ちょっと、長谷川さん、何をしてるんですか?」

杉下さんは、とても慌てている。

それもそうだろう、一度もお店の中に入ってきたことがない長谷川さんが、今日に限って入ってきたのだから。

「何をって、決まっとるだろう。ここはその女が、お茶を飲ませてくれるんだろう?」

長谷川さんは、私の顔を見ながら言った。

「えっ?違いますよ。」

私は首をブンブン振って否定した。

「長谷川さん。ひまわりちゃんは28歳ですよ。長谷川さんの好みの20代前半や半ばの若い子じゃないですよ。」

杉下さん、違うのはそこじゃないでしょう……

「あんた何を言っとるんだ?ふん!まあいい。この店は、客を選ぶのか?」

「いえいえ、決してそんなことは……」

「じゃあ、いいだろう。」

「わかりました。それではこちらへどうぞ。」

杉下さんが、長谷川さんを席に案内しようとすると、

「お前に用はない。わしは、ひまわりがいいんだ。」

何か違うお店と勘違いしてるのかしら?

「ひまわりちゃん、適当にお茶を飲んでもらって、帰ってもらうから。」

杉下さんは、私の耳元で、そうささやいた。

「それでは、お好きな席へどうぞ。」

「うむ。」

長谷川さんは、杉下さんのいるカウンターから一番遠い、窓際の二人がけの席に座った。

「ご注文は、お決まりでしょうか?」

「うむ。注文は、ひまわ……いや、ちょっと待て。」

ひまわ?

長谷川さんは、おそらく『注文は、ひまわり、お前だ!』とか言おうとしたんだろうけど、さすがに違うと思ったのか途中で言うのを止めてしまった。

「とりあえず……」

「とりあえず?」

「昆布茶だ!」

「えっ?昆布茶は当店のメニューには、無いのですが。」

「なんだ、ないのか。」

長谷川さんは、がっかりしている。

とりあえずビールみたいに言っても、無い物は無いのだ。

「では、コーヒーでいい。」

「はい。コーヒーですね。」

「うんと甘くしてくれ。ミルクも多目でな。」

「はい。かしこまりました。」

「ひまわりの愛情も多目でな。」

長谷川さんは、ニヤニヤしながら言った。

このスケベじじい……じゃなかった、長谷川さんは、どこまで本気なのだろうか?

まあ、コーヒーを入れるのは、私じゃなくて杉下さんだけどね。

「マスター、コーヒーを砂糖とミルク多目です。」

「長谷川さん、甘党なのか。」

「そうみたいですね。」


「お待たせしました。」

私はテーブルにコーヒーカップを置いた。

私が戻ろうとすると、

「ひまわり、お前もそこに座らんか。」

長谷川さんが、私の腕をつかんで座らせようとする。

「ちょっ、ちょっと、困ります。」

「小遣いをやろう。いくら欲しい?」

長谷川さんは財布を取り出すと、1万円札を数枚取り出し私に握らせようとした。

「いらないです!いらないです!いらな……?」

「長谷川さん!止めてください!いくらお客様でも、怒りますよ!」

杉下さんは、長谷川さんを後ろから羽交い締めにすると、そのままお店の外に連れ出した。


「ひまわりちゃん、大丈夫かい?」

杉下さんは、お店に戻ってくると、私に聞いた。

「はい。大丈夫です。」

「それにしても、長谷川さんがあんなことをするような人だったなんて。長谷川さんには、帰ってもらったから。警察を呼びますよって言ったら、おとなしく帰っていったよ。」

「そうですか……」

「どうかした?」

「泣いていたんです。」

「えっ?ひまわりちゃん、どこかケガでも?」

「いえ、私じゃないです。長谷川さん……泣いていたんです。」

「えっ?長谷川さんが?見間違いなんじゃない?」

見間違い……なんだろうか?

いや、見間違いなんかじゃない。

確かに、長谷川さんは泣いていた。

「ひまわりちゃん、あんまり気にしないで……って言っても無理かもしれないけれど、あんなお客さんばかりじゃないからね。あんなおかしな人は、長谷川さんだけだから。これで、喫茶店の仕事を嫌いにならないでね。」

「はい。わかってます。」

しかし、長谷川さんは本当に、ただのおかしな人なんだろうか?

「いらっしゃいませ!」

杉下さんの声が店内に響いた。

別のお客さんが来たみたいだ。

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