センター街2020年//18_料亭 静(しずか)
暫定治安維持機構/センター街2020年//18_料亭 静(しずか)
それはピンポン玉ほどの球だった。
静の玄関、剣山に活けられた椿の枝の間に挟み込まれてある。
誰が何のためにそんなことをしたのか。
いたずらにしては、意図を図りかねる行為のように見えた。
そのピンポン玉の内部メカニズムは、数テラビットの転送速度を中継するネットワーク強制展開デバイスである。
すでにネットワークスタンバイ状態を現す小さなパイロットランプ(大きさにして針の直系ほど)が点滅していた。
それは確かにピンポン球にしか見えないものだった。
それをあちこちに置いて回る人間がいる、ということである。
VIP専用の奥座敷『瑞鶴』。男が二人、こじんまりとした宴席がもうけられていた。
「おぉ、もうこんな時間ですか。」
年老いた男の腕時計は真夜中十二時四十五分を表示している。
若く線の細い眼鏡をかけた男が、
「飛先生をおもてなしするのがこんなに遅くなってしまい、大変申し訳ありませんでした。」
「ふむふむ」
「つきましては心からのお詫びの気持ちといたしまして、とびっきりのきれいどころを呼んであります。」
宴席の主催者が口を開くと同時に、業務手帳がわりのA5サイズのノートマシンを開いて客に向けた。
軽くリターンキーを叩く。
小さな画面に流れ始めたのは、艶やかな芸者ムービーきれいどころ案内カタログである。
「おぉ、きれいところ、アるね、うんうんうん」
膳のむこう側にいる老人は、相好を崩し、さっそく自分の番が回ってきたかのように喋り始めた。
「最近は、なんてすな、山本センセ、」
かちゃ、かちゃ
「はぁ」
バーコードヘアの脂ぎった老人は、膳の目の前にいる線の細い日本人をねめつける。
口から出る言葉は流暢な日本語だが、妙なクセがある。
箸を持った手は、休むことなく膳の上を動き回る。
老人の顔には、醜い斑が、一つ、二つ、三つ、四つ。
線のように細い両目だったが、眼光は猛禽類のように鋭かった。
「こういった手のこんた健康食を出すこと以外」
はぐはぐはぐ…
「おたくの国、何ら取り柄無いてすからな、」
はぐはぐはぐ、
「…」
ぐぁ、ぐぁ、…くっちゃ、くっちゃくっちゃ…老人の食べ方は極めて下品だった。
「国民を地道に働かせる法律ても作た方か、気が利くいうものてしょ、」
はぐはぐはぐ…
人として生きるに、その姿はいかにあるべきか。
人して在るべき品位を、学び収めてきた歴史からその身に取り込むことは可能である。
歴史とは、何が起こり、どのように変化し、どのように収束したか、そのすべてを曇りのない冷静な目で学ぶことに他ならない。この老人の存在が、国民が
あおぐべき階層の人間の、その質という点において極めて分りやすい見本であるのは確かだったようだ。
永田町や霞ヶ関では、以前にもまして省益を守るために、北京政府の要人を招いて接待するのが流行っていた。
老人は、目の前にいる日本政府高官に説教じみたセリフを垂れることよりも、目の前の刺身の盛り合わせに箸を運ぶ方が優先度の高い作業だったようであ
る。
「この星、石油と情報資産、仕切ったもんがエラいんてすな」
老人の言葉の背後には、覇権大国の戦略が滲み出ていた。
「バカな国民は、権利ばかり主張します。」
「山本センセの気苦労もわかるアるがね、」
はぐはぐはぐ、ぐぁ、ぐぁ、…
「国民、たまし抜いて丸め込んた方がいいアるものですよ。」
「いや、まぁ、」
「ほら、お国で一番発行されてる新聞、」
「あぁ、あれですね、」
「その編集部に、もっともっとお金をやててす、いろいろインセンチぷ、てすな、工夫すぺきは、」
老人の言葉は一から十まで露骨だった。
ある意味、人受けがいい、ともいえる雰囲気は出している。
基本的に明るい男ではある。
「飛先生も大陸情報部では大層な御活躍ということで。」
「そんなことよろしいが」
老人の眉間に皺がよったが…
「聞くところによれば山本センセ、東大出られて外務省入られたいうことてはないてすか、」
老人は、わざと居丈高に振る舞う。
「そうですが、」
「この島国か平和ていられるも、山本センセかたの活躍あれぱこそてす。」
「ありがとうございます。」
「てすからな、年金や愛人スキャンたル、言質とられるようては、また度量足りないいうこと勉強なさった方かよろしい、ふぁっふぁっふぁっふぁっ…」
「御指摘、痛み入ります。」
「今夜は、大事な報告がワタシの電脳網経由入る予定て、ちょと失礼することもあるかと。」
「いえいえ、お気づかいなく、飛先生の為なら便宜を計らせていただきますよ。」
老人は日本人の返答を待つや、ワイシャツをまくり上げた。
左手首にある入出力ポートを見せる。
自慢げだ。
それは、人の精神の属性から外れたものとの融合に見い出す快感だろう。
そしてその快感にこそ、人の世のすべての不幸が関連付けられる。
それは人の心が持つ病弊だった。
それは独立自尊を侮蔑し、価値観の多様性を嫌悪し、創造的な未来への展望の無さをごまかし続ける。
それにしても、老人の内部ネットに来た連絡をそのまま手首から外部のモニターにでも出して見せよう、というハラか?
携帯のモニターを使えば訳はないことだったが、あまりいい趣味とはいえなかった。
“きれいどころ”…赤坂では有名な売れっ子芸者、すみれ野。
今日の奥座敷にお呼びがかかっていた。
0.00秒:作戦開始。
彼女の白いうなじと後れ毛がピンポン球の脇を通過した瞬間、すみれ野からピンポン球に直結のネットが開く。
彼女は正面を見つめた。
東山 すみれ野、通過認証/暫定治安維持機構、戦略MG局第七課所属コマンドディレクター/空自在籍(一尉)
その瞬間、赤坂三丁目にいるすみれ野からピンポン球を中継して、現在すみれ野のベースオペレーターとして起動している17・F0-001号車に攻撃
ネットが繋がる。
001号車が停車しているのは、三宅坂の『北東アジア不戦と友好の誓いの碑(2010年の誤爆紛争にちなむ)』脇だった。
「姐さん、作戦開始だ。」
「おう」
二人のオペレーターが、満足げに言葉を交わした。
一人が、重々しく作戦遂行用のキースクリプトを打ち込む。
メインコンソール
攻撃ネット電子界面。統合作業ファイル004311、防護シェル4重モード、ステルスモードで起動。
『ファイル004311』は、現在、暫定治安維持機構の前線部隊が、頻繁に書き込み使用を継続している戦略の要である。
このファイルを保持した独立機を搭載するF-0-001号車チームは、別名“新撰組・一番隊”というコードネームで呼ばれていた。
ステルスフィルムで車体をカバーしているF-0-001号車は、この時間に三宅坂を通過する車の前方視界からは、完全に気配を絶っている。
3.29秒経過
シンクロコンバーターが起動する。
それは、ロジックコンバーターが下位で制御するイメージ変換システムだ。
超高速で演算されつくり出されてゆく電脳界面のボリュームイメージを、特殊なプロトコルを中継させることにより、人間の思考が視覚的に認識可能な速度
に翻訳描画する機能をもつ。
シンクロコンバーターの見た目は、すみれ野がかけるかなりゴツいゴーグルサングラスそのもの。
ゴーグルサングラスからは、2本の転送ケーブルを介してポケットの中継機につながる。
中継機の大きさも小型のMP-3プレーヤーほどである。
この時間に、このような場所では、他に人気があまり無いということは考慮にいれておかなければならないアイテムではある。
また、JSLのアンチステルス化スクリプトは、すみれ野のもとへも転送済みだった。
指向性を決定する6つの先導タグが、“逆像”モードに書き直されてある。
これで、強力な電子ステルスアーマーとして使用できる。
これは、老人の脳内電子系に対しては、完全に有効だった。
『ACTIVATED』の表示が明滅していた。
現在、ネットに直結して作戦に従事しているすべてのスタッフの顔アイコンが、シンクロコンバーターのアクセスステイタス監視ウインドウ内にずらっとな
らんだ。
齎藤陸将(19式試験教導隊)/継原芙美一佐(19式試験教導隊)/継原詩穂乃研究員(19式試験教導隊)/織田信長
特別一尉_主任研究員(新撰組・一番隊)/厩戸 豊特別一尉(19式試験教導隊)/
東山すみれ野(新撰組・一番隊)/
ドクター織野(新撰組・ニ番隊)
織田特別一尉が報告をあげた。
「19先行試験隊との現状作戦リンク、クリアです。」
「荒木田さん、ひでぇ話だったよな。」
「密葬だろ」
「そうですね。」
すみれ野は、わずかに歩を緩めた。
今の三宅坂の部下達の会話も、重要な報告だった。
ちなみに、料亭『静』の間取は、芸者衆の控えの間から奥座敷まで、かなり長い渡り廊下がある。
5.51秒経過
老人は、右手の腕時計を見て時間を確認する。
そして、ワイシャツのポケットから上海製の携帯電話を取り出し、パチンと開いて左手に持った。
次に、携帯の引き込み式コネクターを引き出し、右手で、老人の左手首にあるポートに差し込む。
「ささ、一杯」
政府高官が、とっくりを老人の盃に注ぐ。
有名所の吟醸酒である。
6.85秒経過
「お、来たアる。」
老人は、一瞬身悶えするような格好をとった。
携帯が着信のランプを点す。
JSLの起動報告だった。(携帯電話の小型液晶に合うようにダイジェストレイアウトがなされている)
TERRORIST SANCTUARY/JSL-7-011490a21-185の起動状況
量子コンピューター特有の三次元ステータスバーが10数個(進行状況)
JSL-CONTENTS…
自由情報連邦presented by JSL/音楽配信サービス:KEITAI♪/占い/政治/ユーザーずすくえあ/ネットサークル…
量子コンピューター特有の10数個の三次元ステータスバーによって、テロリスト聖域の武装ボリュームの活性状況を現している。
6.86秒経過
老人の脳へ、老人には気付かれずに暫定治安維持機構の攻撃ネットが繋がった。
老人の元へ走った電脳界面の情報伝達経路の閃光は、たち所に追跡されてゆく。
それは、夜空に放たれた花火の閃光を、ビデオに写し取ることにも等しかった。
10.87秒経過
老人の脳内ネットゲートウェイスキャン。
突破
老人の脳内ネットスキャン開始。
老人の脳内ナノマシンの分布マップが現れる。
まだ情報量が足りない。
19式先行量産型試験教導隊が引っ張り出したJSL推測マップデータを叩き台に、さらに推論をすすめる。
15.37秒経過
「最近は、お宅の国、暫定なんとか、危ない連中いるそうてすか、」
老人の表情に熱が入った。
このような宴席で、このような言葉を口にする事自体、この男がかなりの格下であるということの証明に他ならなかったが。
「はぁ、噂には…」
老人はニコニコしはじめる。
攻撃ネット電子界面
老人の脳内ネットスキャン。
視野インポーズ描画モジュール/視覚信号分配制御器/老人のパーソナルデータ抽出65%
「あれ、カルトの集団てす、カルト」
「ぅははは、カルトですか。」
「カルトてす、人民奉仕する考え否定するもの、すぺてそう考えなさい。」
「はい。」
この老人が、カルトの意味を本当に理解して使用しているかどうかは怪しいものがあったが、ここでは、それはどうでもよいことだった。
*2011年に『暫定治安維持機構』という名称の超党派の議員研究会結成。2019年現在、所属35名
《あれ、カルトの集団てす、カルト》
“くすっ、カルトの集団かぁ、”
濃紫色の菫の花をあしらった日本髪の紬姿で、すみれ野は、右手の人さし指をこめかみにあてたまま不敵な笑みを浮かべた。
“さしずめ、あたしは正大師で継原さんは正悟師ってとこかな、順番違ったっけか…、”
歴史に名を留めている有名なカルトテロ集団の用語を思い出して、彼女は愉快になった。
老人の脳は、老人が思いもよらないほどの短時間のうちに、老人がその精神的な拠り所としてきたものすべてをさらけだす窓口に改造されていた。
新撰組・一番隊の必殺技だった。
彼女は、老人が携帯で受けた情報転送経路を逆に伝って、老人の脳内電子系ネットワークに侵入したのである。
ロジックコンバーターが下位で制御をかけている脳内音声系信号の抽出ネットに割り込み回廊を作り、抽出ネットの10数個の認識ブロックの処理工程を逆
転させたのだ。
この工程を経て、ネット経由で老人の頭が考えたことをすべて、リアルタイムで聞くことができる。
究極の盗聴だった。
問題は、認識工程のアルゴリズム異常を察知するセーフティが働いてしまうか
(老人の受けたサイボーグ処置から推定すればそんなセーフティは無いことも考えられる)
あるいは老人が頭痛を感じ始めたたら、盗聴はそれまでだ、ということである。
F0-001号車のオペレータールームでは、老人の脳にアクセス侵入に成功した瞬間から加速度的に情報が増加し、老人の脳内ネット解析レベルは、たっ
た20秒前の30倍まで跳ね上がっていた。
攻撃ネット電子界面…ピンポン球からすみれ野へデータ転送が続く。
ロジックコンバーターで制御する攻撃システムを電脳兵器化して体内に埋め込む手術は、情報戦に抜きん出なければならない国家情報部などでは必須化して
いたといえる。
それが新陳代謝を安定させるために必要な体生理感覚を破壊し、統合失調症等の精神障害が発生するリスクを犯してでもメリットがある、と考えられていた
からに他ならない。
戦闘域予測微分解析スキャン:所要時間0.003秒
すみれ野は、見切り判断で、ネット探査プローブの挿入開始をMASURAOの攻撃解析班に指示する。
「平和とは銃口から生まれる、偉大なる毛主席のお言葉てアるものてすが、」
「毛沢東語録、読ませていただいております。」
「そうですか、よろしいてすな、よろしい」
「はい」
「お宅んとこも、昔イラクやソマリアあたり結構鍛えたわけてしょ、そいう人をてす、地方にやって修行させるんてす。」
「なるほど。」
攻撃ネット電子界面…戦闘域予測微分解析スキャン:所要時間0.003秒
「先手必勝いう考え、重要てすなぁ。」
老人はしみじみと呟き、タコをつまんだ。どうやらタコが好きなようである。
「先手必勝?」
「民主主義いうは、食える人間すぺて食えるようなて言う言葉てす、それ待てつに青臭い事言う連中とんとん取り締まるよろしい。」
「なかなか含蓄のある御指摘、有り難く頂戴いたします。」
線の細い政府高官は、正直にそのセリフを放った。
彼は、正直であり、誠実で、まじめだった。
まさにそれは、特権階級のそれに他ならなかったが。
ここ10年ほどの間におけるホームレスの激増、教育システムの終末的崩壊、産業構造の変質すべて、彼の目するところの新たなる日本国創建のためには、
すべて折り込み済みのことだった。
「ささ、もう一杯、」
《民主主義いうは、食える人間すぺて食えるようなて言う言葉てす、それ待てつに青臭い事言う連中とんとん取り締まるよろしい。》
“あたしらの仕事はね、この国を、正直者が報われる国に作り直すことなのさ…”
すみれ野は、こめかみに指をあてたまま、眉間に皺を寄せた。
ハッキングに成功した老人の脳内ネットが発しているこのメッセージこそ、暫定治安維持機構の敵だった。
ウイグル・アラブ解放機構/民主中国陣戦/チベット民族平和会議/民進党先進情報開発局
大陸の中央政府に対抗して連携を計りつつある民主勢力で、暫定治安維持機構が接触を試みているものだけで、現在10近くあった。
権力を民主主義の裏付けとする試みがある。
これは、人が民主主義という言葉を発明してから、その理想の実践を怠る人々が好んで使ってきた方便だろう。
そして、心の実存的な輝きを民主主義の裏付けとする試みがある。
それは、自国の国旗が自国の誇りであることを受けて、他国の国旗や国家元首の写真を決して火で焼いたりはしない、ということである。
心の実存的な輝きを生み出すものが、受容と寛容の精神に基盤をおいている、とすることに関しては論をまたない。
その時に、そのプロセスの最も基盤となる組織は、より単純化し、腐敗し難くなる。
暫定治安維持機構のアプローチは、その実態を検証するための壮大な実験だった。
巨大マスコミが脳死状態に陥っていることの謂いは、安心という名の無知を無分別に垂れ流すところにあるといってもよい。
その時より、国家とマスコミが、民主主義の有益なる擁護者であることにそれほど誠意を尽くさなくなっと言い切るのは正しい。
国家が、脳死状態に維持されたマスコミに依存的に仕切られるようになった時に、戦場はまさにその中にあった。
老人は愉快だった。
この快感は、民主主義とは懸け離れた所にあるものだった。
そしてこの国の未来を自分が仕切れるという、ほとんど酒の力を借りた錯覚に酔っていた。
29.52秒経過
この男の背後にあるものをつかみ取る。
すみれ野は、右手の中指をこめかみにあてて目をつぶった。
ロジックコンバーターおよび、シンクロコンバーターの処理は“最大戦闘速度”で軽快に続いている。
エージェント:すみれ野をリーダーとする“新撰組・一番隊”の主たる任務は、電脳界面における早期警戒戦だった。
迎撃ゲートアレイ展開/追跡探査体射出と同時に120基のデコイ(囮)セットアップ、30基4グループで、非干渉型誘導パターン起動。
この老人の記憶マトリクスから逆探知された100キロ四方のエリア内20箇所に、この男のここ一週間前後の足跡を電子的に追跡調査が完了する。
お目当ての物理推測座標:敵コンバットサーバー座標を絞り込む。
推測情報28.9871%
関連情報364件を含む1.2ギガバイト近い情報が、この老人の脳から絞り出されていた。
追跡シークエンス001開始。
渋谷区から赤坂全域を現す地図に、137個のピンポン球によってサポートされた攻撃ネットマップが現れ、解析シークエンスが、数度の試行錯誤をくり返
した。
31.37秒経過
追跡シークエンス002開始。
ピンポン球ネットは4879個まで増える。
数度の明滅の後に、次のステージに切り替わった。
そして、最終的に39801個、道は繋がった。
西へ向かっていた。
34.13秒経過
すみれ野は、日本海を横断する情報ハイウェイにいた。
その幹線部。
軍事レベルと思われる数十個のセキュリティを難無く突破してゆく。
いきなり“視界”が開けた。
そこはチャットルームだった。
おそらく、チャットに参加しているのは6人。
6つの仮想人格マトリクスは、ちょうど六角形のそれぞれの頂点にあたる位置に存在していた。
電脳界面に、わざわざ巨大な人格マトリクスを配置して、チャットを行っているのだ。
人格マトリクス内部にも複数のセキュリティが存在し、情報質量兵器らしきランチャーを装備しているものもいた。
彼らは、人のふりをした人ではないものだった。
このチャットルームを現す六角形自体も、この電脳界面でゆっくり自転している。
これは、間違いなく国家機密レベルの存在といってよい。
改めて漏神通第二位相の恐るべき解析力に、すみれ野は舌をまいていた。
そしてそのチャットルーム参加者である頂点から外部に向かって、様々な線が、複数のセキュリティゲートウェイを通過して流れている。すみれ野の視界、
遥か彼方に、微かに電脳界面と物質界面を交差させた物理座標解析指標が現れていた。
それは羯諦のスタッフの仕事である。
仮想人格マトリクス1__中国人
《…ということで…》
仮想人格マトリクス2__中国人:?
《…》
仮想人格マトリクス3__日本人
《蓬莢省設置…おりには…》
何なの?蓬莢省って?
仮想人格マトリクス4__アメリカ人:?
《…はうまくいくと思いますよ…》
6つの頂点はそれぞれが、すべての他の頂点と並列的に連結され、太さが脈動的に変動する線分によって結合されている。
この連結された線分が、チャットの内容を現すものだろう。
六角形がいきなり拡大した。
超高速ズームがかかったように、巨大化し、視野を埋め尽くしてゆく。
チャットルームの中央に浮かぶのは日本地図。
そこには、日本族特別自治区/蓬莢省/特別自治区省都:北京/民族会議設置:東京とタイトルされていた。
地図の細部をみると、至る所に…
『帰属希望』『首長選に中国系(美国系)候補者出馬予定』『革命委員会設置希望区』『経済特別区希望』『軍事顧問団派遣済み』『思想統制優良区』『発
禁推薦図書達成優良区』『相互不可侵締結希望区』『出稼人的資源確保区』『文化特別区』『政治特別区』『教育特別区』『美国共同信託統治希望区』『_空
白_』
へぇ!、こんなこと考えてんだ
チャットの会話にかけられていたセキュリティが開放されてゆく。
仮想人格マトリクス5__日本人:?
《もう少しもませた方がよろしいのでは?》
もむ?
すみれ野の思考は、チャットルームの座標の中に開放した全く別の次元にあった。
羯諦を上回る量子ビット数をもつシステムを導入しない限り、彼女の存在を察知されることはありえない。
仮想人格マトリクス3__日本人
《彼らは、少し装備をあてがうとすぐ頭にのりますからね》
《“文明評論家”は結構やるようですな。》
仮想人格マトリクス3__日本人
《あの男は、気にかけてやりましょう。》
仮想人格マトリクス7(?)__韓国人?日本人?
7番目のマトリクスが、6番目のマトリクスから生えるようにして分かれ、分裂して新たなる個体になる。
《恐れ入ります。》
仮想人格マトリクス3__日本人
《おぉ、そこにいたのか、セイジ》
《おひさしぶりでございます》
継原さんたちがあしらってる連中とのからみ?…あいつ…
《盛り上がっているようでございますね》
《保身のため面子など容易く捨てるんですよ、この国は》
《逃げの強弁がうまい政治家が多い国ですなぁ》
《2015年の靖国参拝など、ちょっとした見物でしたね》
《誠に哀れな国民です、まったく》
《いやいや、民の力教育ににこそあり、ということでしょ》
《全くお言葉のとおりですな》
《何も考えようとしない人民こそ導いてやらねば》
《お宅さまの等価交換倫理教育、なかなかよいですぞ。》
《おそれいります》
《国会予算審議中に、首相が携帯でサッカー中継見てる国ですからねぇ》
《バカですな》
あんたに言われたくないわ、その通りなんだけど…
*2018年第二次美方山内閣総辞職事件
仮想人格マトリクス1__中国人
《もう20数年前ですか、李鵬総理が、この国は2020年までに消えて亡くなると言われた達見がしのばれますなぁ…》
仮想人格マトリクス2__中国人:?
《まったくで》
噂には聞いてたけど、いきなりビンゴってやつね、これは…
すみれ野はまぶたを閉じる。
興奮を隠しきれない。
しかし、撤収の時間だった。
すみれ野が覗いて回った座標は、すべて自動的にマーカーが打ち込まれ、すでに数百ギガバイト分のデータが収集されているはずだった。
すみれ野の視界は、敵サーバーの物理座標から、赤坂までの数千㎞を1.5秒以内に戻った。
38.08秒経過
戻るやいなや、老人の脳内管制制御ファイルを書き換える作業に入る。
といっても0.8秒の間に終了するものだったが。
電子ステルスアーマーの座標確定エリアを前進させ、老人の脳内ネットの核制御部分をカバーする。
ファイルの書き換え作業は、MASURAOの攻撃解析班が担当する。
目的は、おみやげを掴ませるためである。
遥々日本まで来て、このような有り難い話を聞かせて(?)もらった以上、謝意は現すべきだろう。
新撰組・一番隊には、ターゲットのニーズ(?)に合わせた多彩なおみやげのカタログが存在していることは注目すべきことだった。
誰に何を慎んで進呈するかも作戦のうちだった。
おみやげ、それは6メガバイトの容量をもつ映像クリップだった。
自動くり返しタグがヘッダに焼きこまれている。
それは、ターゲットにインストールされた時点で、永久にくり返すように設定されたものだった。
1.8秒の間にインストールのステイタスバーは、その作業の完了を現した。
41.39秒経過
老人の目の前に、今まで老人が好んで箸を運んでいた刺身の大皿がある。
それは、何の前触れもなく、刺身の大皿を塞いだ。
老人の視野をいきなり塞いだのである。
老人の目の前5センチくらいの空中にある画面だった。
「う、」
「どうしました、飛先生」
じわっ、と老人の顔に脂汗が浮んだ。
この画面は、絶対に老人以外に見ることはできない。
老人の前頭葉のあたり(額の中1センチあたり)から、静かなモーツァルトのピアノが流れ始めている。
それは老人の脳内ネットに流れ出す音だった。ピックアップの電極を老人のバーコードヘアに当てれば、もしかしたら音が拾えたかもしれない。
老人は刺身に箸をつけたいのだ。
しかし、それは何度も何度も浮かび上がってくる。
刺身の皿に意識を集中していないと、浮かび上がってくるそれによって、刺身が見えなくなる。
ただれた皮膚病を撫でるような嫌らしい感覚が、老人の意識の中に沸き出していた。
「う、うぅ、」
それは正確に30秒間繰りかえされるニュースクリップだった。
タイトル:最後の民族浄化
2015年7月3日16:45 ラサ郊外35キロ地点
・人民解放軍が何人ものラマ教の僧侶を引きずり出す Time code:0000:00~0004:00
・僧院を破壊する Time code:0004:01~0008:00
・曼陀羅を足で踏みちぎる Time code:0008:01~0009:50
・僧侶数人を射殺 Time code:0009:51~0012:00
・兵員輸送車、街道を進軍 Time code:0012:01~0017:00
・逃げ遅れたチベット人の親子を踏み殺していく Time code:017:01~0020:00
2015年8月1日10:25 ラサ
・ポタラ宮を望むラサのマクドナルド Time code:0020:01~0024:00
・漢人の子供が微笑んでバーガーをほおばる Time code:024:01~0030:00
撮影者:爽 銀花 :1992年生まれ。台湾出身の女流写真家。
35ミリ非デジタル系写真、アナログカラーコンバータービデオと多彩な手法を駆使し、中央アジア紛争を追ったマグナムグループ写真家として名を馳せる。
2017年、上海で起きた大規模な民族主義者テロに巻き込まれて死亡。(原文はすべて北京語:30秒かけてテロップ)
無駄なことはわかっていた。
しかし、老人は、それを手ではらいのけようとする。
目の前に右手を突き出し、何もない空中から、それをむしり取る動作をくり返さずにはいられない。
何度も何度も…
「先生、先生、しっかりしてください、」
112.42秒経過
すみれ野は、ふすまに手をかけた。
“サングラス”越しに、艶然とした笑みを浮かべて、そのまま時を待つ。
タグが10回めを呼び込んだ。
さらに11回め。
そして12回め。
うまくいっている。
これは、そのスジ(!)の専門家にかからなければ絶対に外せないものだ。
だから、早く“そのスジの専門家”に引き合わせればならない。
苦痛の暗闇の先に見える希望によって、人間は変革を果たすことができる。
これは普遍の真理だった。
《119番通報と同時に『幸せの青い鳥、前奏』開始!》《りょうかいっ》
174.42秒経過
老人は追い詰められていた。
「停、」
(止まれ、)
「停、停、停… 」
勝負は3分以内についていた。
ふすまが開く。
彼女は、三つ指をついて、あでやかに挨拶をした。
「すみれ野、ただいま参上いたしました。」
ゆっくりと顔が上がる。
日本女性の、静かで優しく強い笑顔が、そこにあった。
「先生、飛先生…」
老人の手は、痙攣したように何度も空をつかむ動作をくり返す。
そして、口からよだれをたらし、不様にぶるぶると震えていた…
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