2ー玖 サイゴンの街並み

<黑鉄>


黑鉄は鳥のさえずりにぼんやりしながら、聞きなれない鳥の声だなと考えるうちに、ここがベトナムサイゴンである事を自覚し、目を覚ます。気持ちのいい温度、湿度、日差し、窓から見える中心部を外れたサイゴンは妙に歩きたくなる路だった。


ホテルを出ると、簡易テーブルと、お風呂で使うようなプラスティックの椅子が路地に並び、フォーのようなものをグツグツ煮立った大鍋で提供しつづけるお婆さん。巨大な天秤の片方が鍋で、片方が具材が収納できるように工夫が凝らされた容器。それを肩で担いで移動できるようにしてあるようだ。鍋を温める火力は石炭のようだ。そしてそれを食べる人達も小奇麗なOLから労働者まで様々だ。


コーヒーを飲みながらタバコをふかすお爺さん、豆を袋から出して、バス停で食べ続けるオバさん、オレンジ色のつなぎと黄色のヘルメットで道路を履き続ける清掃員のお姉さん。同じ格好だから清掃員だろうに、なぜか掃除をせずに、屋台のおかゆ屋を手伝っているお姉さんもいる。何が楽しいのか、ニコニコしながら5匹のチワワのような犬を散歩するオジさん、道路はバイクが時間が経つごとに増えてくる。これがサイゴンの朝なのだなと黑鉄は満足した。


みんなそれぞれの日常に向かって、元気よくバイクで真っ直ぐと未来を見つめて走っているのがなんだか感動的だった。ホテルに戻ると携帯電話が無い。しばらく探すが見つからない。そういえば、昨日は携帯電話の事なんか忘れて寝てしまったが、最後に使ったのは、ティさんがいる時だ。あの時に落としたのか?面倒な事になったと思いながらも、とりあえず昨日ティさんにもらった蒼磨がいるという住所のメモを持って、チェックアウトを済ませた。


ベトナム語での住所なのでよくわからないが、どうやら5区にあるようだ。夕方に来てと言われていたが、時間もある。携帯が無いから紅音達と連絡が取れないし、どこにいるのかも分からない。ティさんしか頼れる人はいない。ティさんに会うためには蒼磨経由しか無い。それに5区と言えば、チョロンという中華街がガイドブックにも大きく取り上げられている観光地であるし、いなければ夕方まで観光してればいい。バイクタクシーのオジサンと交渉し、2$程度で連れて行ってもらえる事となった。バイクで走る朝のサイゴンは渋滞が無ければ格別だ。5区へ向かう方向は対向車線の渋滞を脇目にチャン・フン・ダオ通りをスイスイと進む。


段々と看板に中国語が目立って、いかにも中国人が得意としそうな多岐にわたる卸街が開けてきた。金物屋、プラスティックの容器街、白物家電街、靴屋街、乾物屋街、漢方薬屋街、仏具街など、複数の店が同じようなものを軒を並べて売るのがこちらのやり方だ。異国で生き延びるのには、同業者を商売敵ではなく、共存共栄のパートナーとして考えているものがダーウィンの進化論よろしくこんな感じで残ったのかと考えを巡らす。強欲な中華商人というイメージはそこには無く、寄り添いながら生きている空気があった。


サイゴンの便利なところは、こんなゴミゴミした路地裏にせよ、一応どこにもご丁寧に住所の表札が貼ってあり、住所さえあれば、なんとかたどり着けるところだ。日本ではこうは行くまい。バイクのオヤジさんは何度か周りの住民に路を尋ねながら、スパイスが山積みで所狭しと並んでいる店にたどり着き指さした。


一人でここに来るには少し勇気がいるような、360度に渡り日本では見つける事ができない光景が広がる。路には生きた鴨が足をはねられて首輪につながって婆さんが売っている露天、子供が駆けまわり、犬もそれに続く。同じ界隈を箒で道端を丹念に履いている爺さん。確かに犬のフンぐらい落ちていて当たり前な雑然とした生活地帯であるが、スラムという感じでは無く異臭もしない。


これがベトナムか。と黑鉄は尊敬の念を抱いた。貧しいとかインフラが無いとか、そういうのよりも大事な精神論が息づいている。警戒心を抱きながらも、辺りが牧歌的で緩やかな空気に包まれている事が分かると、黑鉄も気を取り直し、スパイス屋に入っていった。細い通路の両脇には、麻袋に見慣れぬ干からびた植物が置かれている。嫌な匂いでは無いが、漢方薬のような、カレーのような臭いで息が詰まる。


「来たな。話は聞いている」奥から声が聞こえた。蒼磨だった。


「こっちへ来てくれないか。昨日はこっぴどくやられて、動けないんだ」通路を真っ直ぐ突き当たると、ちょっとした小部屋になっており、その薄暗い部屋に蒼磨は横になっていた。


深手を負った猛獣のような貫禄を感じた。動けないと言いながらも凄みがあった。


「大体はティさんから聞いているんだが、俺も幾つか確認したい事がある」


「確認してもらうのはいいのですが、私にも幾つか教えてください」


「分かった。先に聞こう」蒼磨はゆっくりと答えた。


「我々を襲ったのは、何者なんですか?」


「見たように軍人だ。だが、軍人といっても、軍自体が俺達を襲った訳ではない。その中の1人に狙われた。そいつは恐らく、まとまった軍を統括する立場には無いが、職位としてはかなり高い地位なんだろう」


「とすると、あなた自体が、敵を明確に分かっているわけではないと」


「その通り。俺を狙った首謀者がどういう顔をしている誰なのかは分からない。ただ、意図と狙いは察している。つまりは俺がアラハバキを持っていて、他のアラハバキを集めようとしている事を知っているという事だ。それを邪魔する為の攻撃だろう」黑鉄は少しホッとした。


自分達がカレー屋にいた事まで察知されて襲撃されたわけでは無く、元々蒼磨がターゲットだったからだ。ただ、蒼磨を狙う男は自分達を狙う男でもある。あのヒゲの男だ。


「アラハバキとは、何なのですか?」


蒼磨は、指で足元の棚の上に置いてある見たことの無いタバコの箱を差した。黑鉄が蒼磨に渡すと、枕元にあるライターで日を付けて、寝ながら天井に煙をまいた。


「アラハバキというのは、元々は九州あたりの地域で古来より祀られていたものだったらしいんだ。4つの家があってさ。家っていうのは、あれよ。江戸時代とかでお家取り潰し、とか言うだろ。そういう意味での家よ。血縁上の家族というよりは、今で言うと、会社みたいな法人格に近いな。その家がそれぞれ1体づつ持ってたんだ。毎年の祭りの時は、本尊を模した奇妙な出で立ちで、それぞれの家の家長が集って演劇なのか、能なのか、歌舞伎なのか知らんけど、そういう儀式をやるらしい。でさ。そいつらの苗字がさ、おもしれえんだ。紫雲しうん紅猫あかねこ橙花とうか蒼磨そうまと言うんだよ」


「紅猫?紅音も珍しい名前だと思ったけど何か関係が?」


「まぁ聞けよ。それで、紫雲家は2年に1回、紅猫家は3年に1回、橙花家は四年に1回、蒼磨家は五年に1回さ、本物のご神体を腰だかに捲いて演技するんだとさ。つまりよ、120年に1回、4体が揃う祭りがあるって事よ」蒼磨はタバコを似合わない手つきで丁寧に消して、そっと置き、二本目のタバコにすかさず火を灯す。


「最後の120年に1回の儀式うたげというのが、どうも1945年6月。つまり第二次大戦もいよいよという段階に行われるはずだったんだ。だが家長が死んでたり、何やら色々あって取りやめにする事になったそうだ。しかし流石に120年に1回、何があろうが必ず行われてきたと言われるシキタリだよ。その当番が回ってくるあたりに自分が家長になるヤツというのは、文字通り一世一代の仕事。それこそ、生まれた時から、その使命を背負わされているわけよ。少なくともご先祖様はずーとやってきたんだ。自分の代だけそれをやらなかった、という恥は悔しさというよりも、強いて言えば恐怖さ。揉めに揉めたらしくてよ。それに、120年に1回の行事にだけ参加してきた家ってのがあってさ、そいつが黙っちゃいねえと」


「なんか、黙って聞いていましたが、日本昔話のような話ですね」黑鉄はたまらず苦言をもらした。


「まぁ、そうカッカするなよ。その120年に1回の行事を取り仕切る専門家の家柄ってのがさ、黑鉄家というんだ。」


暫く、蒼磨は黙った。黑鉄も黙っていた。


「オレはピンと来たよ。その本来一世一代の行事を取り仕切るはずだったのは、お前の爺さんの黑鉄月詠くろがねつきよだ。どうも、120年に一度の役割を担当するものは、みな黑鉄月詠と名付けられているらしい。そこまでは調べがついている」蒼磨は今度はタバコを吸いきらず、また丁寧に火を消し前の吸い殻と並行にしてならべながら、言った。


「今のところ、特に私から言いたいことはありません。続けてください」黑鉄は興味無さそうな風貌で答えた。


「なんだ、つまらなそうな顔して。信三よ。まあいい。話を続けようか。結局なぁ黑鉄月詠が話をまとめ上げて、やる事になったんだよ。祭事うたげを。ところがやるとなった途端さ。どの家のアラハバキも消えちまってたんだ。で、ついでに黑鉄月詠も消えちまったという訳さ。それで、残された黑鉄家はいつの間にかひっそりとどっかに行っちまった。お前はそのどっか行っちまった家の末裔と言うわけだ。信三。それで話はそこで終わらないんだ。アラハバキはその後どういう訳かベトナムで見つかった。まぁ、訳は知らないんだが、見つかることは分かってたんだ。うちの家のものは少なくともな。蒼磨の家は引き寄せる力を持つ家だからな」


「引き寄せの法則とかそういう奴ですか?巷で一時期流行っていたような気がしますね。欲しいと祈れば手に入る、という類のが。あれで私が感心するのは、物理学を学んでも無い人が、本能的に物理学的にはあり得ないポイントを狙い撃ちして望む点です。エントロピー増大の法則が真ならば・・・というか、真という事になっているはずですが、そんな事は起こりえないはず。熱力学第二法則を勉強した事も無いのに何故そこを的確に突いてくるのか。敬服に値しますね」


「そういう事なら、宗教というのは物理学とは常に対立しながらも、扱っているもの、着眼しているものは同じと言える。お前のそのエントロピー増大の法則とやらで言えば、俺はある仏教のお偉いさんに聞いたことがある。仏教で一番大事なのは何だ?と。その坊さん、すぐ答えやがった。何て言ったと思う?掃除をする事だと言ったんだ。掃除というのは、正に日常生活に置いてエントロピー増大に抗うあらが象徴的な表現方法だろう。俺はその姿勢を美しいと感じた」蒼磨は昔を懐かしむ目で遠くを見た。


「すいません。私から話をややっこしい方向にまた向けてしまった。これでは時間がいくらあっても足りません。話をアラハバキに戻しましょう。」黑鉄は、また蒼磨の話が拡散する事を恐れて言った。


「そうだな。まぁお前が信じるかどうかはとりあえず置いておいて、話を続けようか。俺の家は代々引き寄せる力を持つ家だった。欲しいものが何でも引き寄せられる。そういう事もあって、俺の家はずっと裕福に余っていた。何もしなくても金が入るから、俺の系統は皆無学か学者かのどちらかだ。言っとくがな。無学と学者はおんなじようなもんだぞ。正確に言えば、何も知らないと自覚するもの、という意味で。本当の学者は自分の事を何も知らないと思っているものだからな。まあいい、そんなことは。要は金の為に何か努力しようとは思わないんだよ。


それにしても、アラハバキが無くなってからはその力も無くなってしまったと思っていたのだが、まだ残りカスみたいな力があったわけだ。10年ちょっと前だな。俺がぶらぶらと世界旅行をしている最中に、ひょっこり見つけちまったんだよ。例のカレー屋だ。その時は、新興宗教のアジトだったんだけどな。俺は結局そのアジトを家ごと買うはめになった。何しろ、ご本尊として祀られていたアラハバキだけを売ってくれというのは信者が許さない。だがアラハバキも持ち主の俺に味方してか、そのアジトに共産党のガサが入って内部分裂したんだ。その隙に俺が共産党の幹部に賄賂をごっそり積んで、家ごと買った。それで丁度日本人街の路地裏だし、目立たぬようにカレー屋にしちまったんだよ。そこで俺は墓守のように、アラハバキを守りながら、時間を稼ぐ事にしたわけだ」突然蒼磨はベトナム語で何か叫んだ。すると、奥の部屋からベトナム語で何やら言葉が返ってきた。「腹減ってきただろ。メシを準備させた。まあ食っていけばいい」


蒼磨が言うと、オバサンがお盆に色々と見たことの無いような料理を持ってきた。見たことは無いがどれも旨そうだ。


「これはな、中華麺巻き上げ海老と言ってな。海老を芯にして卵麺をクルクルと巻きつけたものを揚げるわけだ。これはニガウリの肉詰めスープ、ベトナムの一般的な家庭料理を俺好みに味付け変えさせている。俺は料理に砂糖を使うのが嫌いでね。本来のベトナム料理はもう少し甘い」以外と蒼磨は親切な人なんだなと黑鉄は蒼磨の人間性を再評価した。


一通り料理を持ってくるとオバサンはむいた玉ねぎとカレーを持ってきて、神棚に備えた。むいた玉ねぎに、東南アジアでよくあるような大きな線香をぶっさして、火をつけて、実に可愛らしくお辞儀を繰り返して念仏らしきものを唱えた。


「このオバサンはな。俺のお手伝いをやってくれてるんだが、信心深い人でよ。俺の傷が良くなるように、こうやって神様仏様に祈ってくれてるんだよ。気がついたら勝手に仏壇こしらえてな。俺がカレー屋やってるのは、カレーが好物だからだが、そういう事も配慮してお供え物にわざわざカレーを使っている。玉ねぎに線香をぶっ刺したの初めて見た時は冗談かと思ったが、他人の国の宗教をからかうのは下品な事だからな。俺も一応黙認して祈ってもらっている」


確かに、ベトナムの仏壇は黑鉄も驚いた。仏の後光をパチンコ屋にあるようなネオンやLEDライトで表現している。日本の落ち着いた仏教カルチャーに馴染んでいるものからすると、冗談のように見えるが、信仰に正解は無い。自分の国と違うからとからかうのは、蒼磨が言うように下品な事だと黑鉄も同意した。このオバサンが何を考えているか、何を喋っているのか黑鉄には分からないが、うまい飯を作ってくれて、蒼磨の為に祈っている。それだけで十分に雄弁なものだと感じいる。

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