2ー捌 正式な朝食の取り方

<小包>

翌日、小包は目覚めると紅音はいなかった。置き手紙がテーブルには置いてあった。


「急遽用事ができて日本に帰る事となった。心配するな。翠にもよろしく伝えておいてくれ。黑鉄には別途伝えておく。また連絡する 紅音」


しばらく状況が飲み込めなかったが、異国で一人になってしまった寂しさが襲ってくる。とにかくまずは翠ちゃんと合流しよう。フロントに駆けつけ、翠の部屋に電話してもらう。


「なによ。あんた、朝っぱらからどうしたの?」


「紅音が日本帰っちゃったんですよ。俺に相談もなく」


「え?何それ?」


「部屋に置き手紙が置いてあったんだよ」


「分かった。今フロント行く」暫くして翠がフロントに降りてきた。


翠は紅音の手紙を暫くの間眺めていた。「不自然だな。恐らく、誰かに言われたから、あえてこういう形で手紙を残したんだろうね。それにしても、普通旅行中にすぐ日本帰る理由と言ったら、親が危篤とか、そういう事ぐらいでしょ。そうじゃないみたいだし、特別な事情がありそう。そういえば、お父さんからもさっき連絡があって、急遽予定を変えて行かなければならない所ができたと言ってたけど。可能性としてはそこに何かつながりがあるかも」


「翠ちゃん残して帰っちゃったの?中々に酷いですね」


「いや、在原さんはこっちにいるんでしょう。そろそろこっちに来ると思うわ。彼を問い詰めるしか無さそうね。あなたはとりあえず黑鉄君に連絡してみたら?」


「あ、そうですね。あいつ大丈夫かな?まぁ、あいつならどこでも平気だと思うけど」小包は黑鉄の携帯電話に電話する。


「はい」


「あのさー、紅音も日本帰っちゃったんだよ。俺と翠ちゃんが今ホテルに残されちゃった。在原さんがもうじき来るらしいけど」


「分かった」電話は切れた。


何か音が悪くて不自然だったので、もう一度電話をかけても出ない。あれは本当に黑鉄だったのか?小包は不安になったが、翠には言わないでおいた。


「まぁ、今ジタバタしてても仕方ないわ。朝ごはんでも食べに行きましょう。」翠は言った。


「何してんの?押してよ」


「あっ、はい」小包は翠の車椅子の背後に小走りでまわり、いつの間にか翠の支配下に置かれている自分が情けないというよりは、嬉しく思い、又そんな自分が恥ずかしくなった。


ホテルの朝食はビッフェ形式で、随分と朝からゴージャスに揃っていた。小包は、生ハムやら、ローストチキンやら、色々盛って来る。


「あんた、私と一緒に食事するなら、そういう下品な事はやめてよね。ビッフェってのはね。最初にそうやって肉とか持ってくるものじゃないよ」


「へ?」


「私がいない時は好きにすればいいけどさ。軽く見られるの嫌いなんでしょ」翠も席をたち、スルスルと車椅子で野菜とチーズを軽く見繕って、また席に戻った。


「別に、私も上品を気取って、こんなサラダとか食べてるわけじゃないんだけど。ものには順序ってものがあるよね。あなた、そんなんだからもてないんだと思うよ」


「そんなもんですかねぇ?」


ビッフェのテラスからホテルのエントランスをぼーと小包は眺めながら、香りが強いコーヒーをすすっていると、在原らしき男がやってきた。小包はぼーと目で追う。突然、ホテルの入口前で列を作っている数台のタクシーから1人の運転手が在原に向かって駆けてきた。女性である。珍しいなと思い、引き続き見ていると慌てた様子で在原に何か喋り、お願いするように手を取った。在原もつられて女のタクシーに向かう。在原は女がドアを開けると、ドアに突然吸い込まれるようにスルスルっと入って行った。女はドアを閉めて直ぐ運転席に乗り急発進した。一連の出来事を小包は、何が起こっているのかよくわからずに流れるような展開に見とれてしまったが、冷静に見ると色々とおかしい。周りは、あまりの自然な流れだった事もあり、誰も気づいていない。在原がホテルに来て、何でタクシーにスルスルと引きこまれて、運転手がドアを閉めたんだ?これはもしや拉致なんじゃないか?しかし、あの運転手は見覚えのある女だった。記憶を辿り思い出した。カレー屋で見たティさんだった。


「翠ちゃん、なんか、マズイことが起きたかもしれないよ。あのさぁ、・・・」


「そうよ、マズイことが起きている。あなた、結構いい勘してるじゃん。ここに軍隊よこすという事は、かなり確証を掴んでいるという事だな」


「へ?なんか話噛み合ってるようで噛み合ってないね。翠ちゃん。あのさぁ、そこで」


「あー。わかった分かった。今集中して考えてるから暫く大人しくしてて。目立つような事しないでね。ヤバイよ。私達。かなり。全身全霊で集中して考えるから。ほら、そこら辺にあるテレビ画面見てみなよ。ヒゲのオヤジが映ってるでしょ。」


「ゲッ、あいつじゃん」


「あいつはどこからか遠隔操作でこいつらを指揮している。ホテルの防犯カメラとかがジャックされていると思う。アイツからはこのホテルが全部見えているんだろうね。気づかれたら終わりよ。私の合図で、そろりとこの場を離れるから。いいわね」翠が聞こえるか聞こえないか、絞りだすような声で言った。


「あのさぁ、今ヤバイ事が起きたんだって。翠ちゃん。いいかい、在原さんがティさんに捕まって連れ去られたんだよ」小包は、こんな時でも自分の観察力を誇るように翠を見返した。


「いい?今は私の言う事に集中して。あなたは、音を立てずに、私の車椅子を押して、何も無かったようにこのまま私の部屋に向かって。できるだけ目立たず、そっとよ」


小包は、折角自分が見つけた、在原がティさんに拉致されるという特ダネに驚くほど翠が関心を示さないばかりか、命令口調で使用人がごとく使われる事に苛立つも、おとなしく言う事に従った。小包が珍しくヘマもせず、ヒゲの男に気づかれずに、レストランを後にしたタイミングで、高らかな声が聞こえてきた。ベトナム語に続き、流暢な英語で拡声器を通じて声が小包達にも聞こえてきた。要は、テロリストと思われる外国人がホテルに潜伏しているという情報が入った為、特殊部隊として超法規的にホテルの調査をする。反抗すると身の保証は無いよ。という恐ろしい内容だった。


「間一髪、と言いたかった所だけど、まだ私達の危機は続いているわね。このまま部屋に戻ればまず捕捉されるでしょう。かと言って、もう入口は塞がれてしまってるし、困ったな」レストランを脇に見て、翠はつぶやいた。


レストランで食事をしている大半は、日本人を含むアジア人、欧米人、アラブ人、インド人等。彼らは全員、確保されてしまったようだ。サイゴンでも高級の部類に入るホテルであり、客もそれなりの立場が多い。普段は人に対し命令する事はあっても、命令される事に慣れていない堪え性の無い連中達だ。あまりにも理不尽な検査に当然、怒号も飛びかってきた。いつの間にかヒゲの男の仲間が集まってくる。まだまだ増える勢いだ。


他のものも私服であるが、極めて地味で目立たない黒を基調とした服装の中で、ヒゲの男だけは相変わらずモニター内ではあるが異様な目立つ服だ。ダリのふざけたヒゲを毎日キープしているのかと考えると変質ぶりがうかがえる。それに髪型も妙にヘンチクリンだが凝っていて、軍か公安の組織人とは到底思えない。それどころか、手品師というのが相応しい妙な道化がかったサテンの生地がいやらしく光る。振る舞いを見ても、この男が組織を逸脱しても許される立ち位置を暗示している。妙にナヨナヨしており、訓練を受けた軍人や警察とは到底思えない。


「親愛なる皆様、勘違いされては困りますよ。皆様を凶悪なテロリストからお守りする為に、超法規的に、皆様を取り調べるというわけなんです。ここに許可状もあります。そこの日本人の貴殿。あなたですよ。あなた。静粛にしたまえ」ニヤつきながらヒゲの男は言った。


「なんだテメー。役人か?俺も役人なら有力者知っとるぞ。たたじゃおかんぞ。名前言えよ。」オッサンも見かけによらず以外と堪能な英語で堂々と応戦した。


「貴殿は随分と高貴なご身分とおみそれしました。お会い出来まして誠に光栄の限り・・・・しかしそれが何だと言うのでしょう。どれだけ財力があろうが、どれだけ権力があろうが、あなたに何ができるんでしょうか?

そうだ、あなたは例えば眠る喜びを増幅する事はできますか?」ヒゲの男はこのオッサンに語ると言うよりは、恍惚とした表情で全員に演説するように語りだした。


「は?何が言いたいんじゃ、このボケが!そんな事よりワシはこの後会議があるんじゃ!」オッサンもブチ切れて大声で怒鳴った。


「うむ。この方は特に象徴的ですが、ここ世界の人達というのは、感情の虜になる事に本当に夢中な事で・・・。話を続けますよ。あなたの財力で食べる喜びを増幅する事はできますか?お金でできる事と言えば、できるだけ高級な美食に溺れる、というぐらいでしょう。しかしそれも飽きる。性欲はどうですか?愛し、愛される喜びを貴殿はコントロール出来きますか?セックスに関し、もしかしたら薬物を使う事により、さらなる快感を増幅しようと考えるかもしれませんね。あなたのような方は。しかしそれも社会的にも肉体的にも制約が大きい。


きっと、あなたのような頭の禿げ上がった紳士でも、少年が秘密基地を探すように幸せを探しているのでしょう。私にはよく分かりますよ。

しかしね。あなたが探している幸せなんていうのは、糞を我慢していて、トイレが見つからなくて、死にものぐるいでトイレに駆けつけた。というのと本質的に同じと思いませんか。排便したら一緒に流れてしまうはかないもの。

あれだけ欲しいと思ったものを捕まえたと思った瞬間、満たされるどころか生じるのは強烈な違和感、虚しさ、もしくは虚無。人間はそういう風にできている。あれだけ触りたかった乳房に触れたのに、求めていた程の対価はない。あれだけ憧れた人とセックスしても、しばらくはセックスなんかしたくない。

あれだけ2度寝できたら、という思いが、実際しっかりと熟睡できれば、2度寝なんてしたくない。あれだけ気持よかったマッサージが、疲れが取れてしまえば、あとは苦痛しか残らない。

メシはたらふく食えば食いたくないし、忙しい時に憧れた退屈な時間なんてのも、数日やることが無くなっただけで、恐怖にすらなる。


人間にとっての幸福感は金で買えないとはよく言ったものです。どれだけ金を稼いでも満たされない。どれだけ愛されても信用できない。どれだけ満ち足りたら気が済むんでしょうか? いいですか?満ち足りない状態を飢餓と言った。飢餓が続くと人間は餓鬼になると仏教では言われております。餓鬼は食っても食っても腹が膨れない。寝ても寝ても眠い。ヤってもヤってもまたヤリたい。欲望追求を肯定化するのはいいが、餓鬼が死肉を貪り続けていて、あなたはそれを見て羨ましいと思うのですか?」ヒゲの男は目を赤く輝かせながら、興奮の絶頂に浸っているようだ。オッサンは言葉を失い、放心している。


「まぁ、いい。何やってんだ。はやく始末しろ」ヒゲの男が合図をすると、長身の黒光りする肌の男が、警棒のようなものを腰から抜き、前置きも無く唐突にみぞおちを突いた。


ガクッと膝を落とし、オジサンは呻いて崩れた。失神しかけてもがいている戦意喪失のオジサンに容赦なく、うずくまる背中に、何発も何発も、警棒で打撃を加える。ヒゲの男は止めるどころか、もっとやれとばかりに薄ら笑いをしている。


「調査に進んでご協力いただけない場合は、私どもの裁量でご協力していただいて良い、と人民委員会から許可を頂いておりますので。皆様の安全を脅かす問題が起こりかねない重要な問題につき、皆様のご協力、心から感謝しております」オジサンがよろよろと軍人の足に手をのばそうとしたところ、「お前、ちゃんと仕事をしろ」と髭の男は厳しく言いつけた。


ビクッとした軍人はオジサンの行動から正確に手の動きの軌道を読んで、足を引っ込め足の踵で手を捻り潰し、オジサンは奇妙な音を口から出して動かなくなった。オジサンの連れの若い女が呆然と見ている事にヒゲの男は気づいたようだ。


「どうですか?終わりましたよ。苦しい事もいつか終わりがある。苦しみが大きいほど、その苦しみが無くなっただけで、言い得ない幸せが手に入るんです。なぜなら人間の生の本質は、苦であるからです。苦から開放される事だけが本当の幸福。こうやって擬似的にでも体験できる事がどれだけ幸せな事か。大丈夫。心配しないで結構ですよ。お連れの方は、ご無事です。私もプロですから、分かるんですよ。命があるか無いかというのぐらいは、ですが。無抵抗だったのが幸いしましたね。もう少し骨のあるようだと、抵抗する拍子に業務上の過失で、死なれてしまう事も頻繁にあり得るんですがね。やはり、中途半端に強いのはどんな世界でも命を縮めます。圧倒的に強くなければ、弱ければ弱いほうがいいんです。よかったですね。お連れの方が弱くて」


ヒゲの男は饒舌にニッコリと語った。


「気持ち悪い奴だなぁ。さっきあいつに捕まった事を思うと、今でもぞっとする。」小包は翠の耳元に囁くふりして、鼻先を翠の耳にあてた。


「何ヤってんのあんたこんな時に。気持ち悪いのはアンタよ。幸い、あいつはまだ私達の事に気づいていないけど、恐ろしく頭が回る奴だから、ちょっとした隙でも見せたら大変よ。このまま何食わぬ顔して、表口から出るわよ」小包はバツが悪そうに、顔を引っ込め、車椅子を押してフロントに差し掛かった。


「ほら、そこのお嬢さんとお兄さん。ダメですよ。ズルしちゃ困りますよ。あれ?あなたは、昨日ファングーラオにいましたねぇ。あれほどご協力をお願いしますと伝え申し上げているというのに従わないんですね。」全館に響くような音量で鋭い声が響いた。


「やばい、バレたな。小包君、しばらくは無視して直進。その間にこの車椅子の取っ手の部分が外れるから、これを握って、ドアマンに近づいて、思いっきり殴って。狙うのは、男の急所よ。ためらいなく行ってね。で、ドアマンがうずくまっている隙に、私の所に戻ってきて、私をおぶって逃げるの」担々と翠が言ったが、小包は上の空だ。自分が当事者として役割を果たす事に今までずっと逃げてきた。それがよりによって、こんなヤバイ状況であの見ず知らずのドアマンの金玉をいきなり殴れとは、こいつ何考えてんだ?と思う事で精一杯だった。


「はやくやりなさい。あんた、捕まったらわかってると思うけど、かなり痛い思いして死ぬよ。多分。いいの?」翠は他人事のように、慌てる事も無く言い捨てた。


「わ、分かった。やってみる。失敗したらどうなる?」小包が声を絞り出した。


「だから、捕まったら痛い思いして死ぬの。失敗する?そんな事言ってどうすんのよ。失敗は禁止よ。はやくやりなさい」小包は、腹をくくって、ヘラヘラとドアマンに近づいていった。


ドアマンは、警察じゃないし、特に武装もしていない。高級ホテルだけあって、がっしりした身なりの好青年であるが、隙をつけばいけるだろうと高を括る。小包は、ドアマンに近づき、馬鹿正直に翠から渡された金属片を握って、突然しゃがんだと思うと、正拳突きをした。力いっぱい力んだ正拳は、確かに強い衝撃を股間に与えたようだが、イメージするように、一撃でうずくまって痛がる様子がない。やばい、と思った瞬間、ドアマンが小包を掴んだ。


「何するんじゃーボケー」股間への打撃というのは、拳を押し付けるように殴ると、玉袋がスルッと拳にまとわりつき、竿に当たるだけなので、効果は薄いのだ。


護身術のプロは股間攻撃の場合、しなるムチのように、軽くパシッと当てるのが常識だ。さすがに翠はそんなアドバイスまではしてくれないから小包はありったけの力で、潰すがごとく拳を押し込んだことで、返って命中しそこねたわけだ。小包は胸ぐらを捕まれ壁に擦り付けられながら、どんな時も必ず大事な時に失敗する自分の宿命をもはや笑った。もうどうにでもしてくれという気になった時、ドアマンは突然ガサッと崩れ落ちた。見ると翠がピッタリとくっつくぐらい近くまで寄っている。スタンガンだ。


「すぐ私を抱いて!」翠が叫ぶ。


小包は頭が白紙になった。抱く?何をこいつはこんな時に、と思いつつ、どうせ死ぬなら、翠を抱かないよりは抱いたほうがいいなと思い、車椅子から抱きかかえた。


「ほら、車椅子を思いっきり蹴り飛ばすのよ!すぐ!」


3人ばかりの黒服が追いかけてきている。そこにめがけて小包は車椅子を蹴り飛ばすと、ほぼ同時に爆発した。文字通り、本当に爆発し、爆風が二人にも直撃する。


「何ボケッとしてんのよ、早く外に走ってタクシーの運ちゃんを引きずり下ろして、運転しなさいよ」


もう、何がなんやら分からないが、何も考えずに翠の言う事を聞く以外に、自分で考えてできる事も無い。言われたとおり、列の先頭のタクシーの後部座席を開けて翠を放り込み、動揺しているタクシーの運ちゃんを放り出して小包はアクセルを踏んだ。

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