2ー伍 ロマンチックな・・

<黑鉄>

渋滞気味の道路をスルスルと走りぬけ橋を駆け上がると、風が気持ちいい。サイゴン川をオンボロな工業船が優雅に進むのを目で追う。川の向こう岸は、広がる平原にクレーンが並び、今は大手企業の巨大看板の鉄柱が並んでいるだけだが、いずれは高層ビルが林立するのかも知れない。こちら側がこんなゴミゴミした地帯なんだから、橋を渡して巨大スタジアムでも作るのか、あるいはショッピングモールか。白紙に絵を描く時は、大胆にやれば何だって達成感が得られ、どこでも何時の世もそれを時の権力者や金持ちが踏み荒らしていくんだな。と黑鉄はしんみり感じた。


「黑鉄さん。ベトナムは慣れましたか?バイク沢山走ってますよね。空気悪くて私サイゴン嫌いです」ティさんが沈黙を破った。


慣れたか?と言われても今日来たばかりで、慣れたも何もないだろうし、お互い大変な1日であったのに呑気な事を言う。何と答えたものか考えているうちに、言い返すタイミングを失ってしまった。


「ロマンティックでしょ」ティさんがバイクの音にかき消されないように喚くように言った。


何のことか暫く分からなかったが、橋に等間隔に距離を取って男女がバイクの上に座っている。ベトナム人流の夜景デートは、器用に椅子代わりにバイクを使って橋の上で過ごすんだな。と黑鉄は感心して理解した。確かに橋から見える川と夜景は綺麗だったが、夜景と言っても、東京や香港のようなきらびやかなものではなく、低層なビルにポツポツと光がついている程度ではロマンティックという表現には見えない。ティさんはスピードを落としてカップル達を観察しながら進む。後ろからクラクションを鳴らされるが、お構いなしだ。


しばらくして、急にバイクを止め、ヘルメットをしたままカップルに向かって歩いて行く。置いてかれた黑鉄が目で追うと、ひと目をはばからず自分達の世界に入り込んでいる派手なアメリカンバイクの場違いな中年カップルの前で止まった。彼らと何か色々と話しているが、直ぐにカップルは興ざめしたようにバイクに乗ってスタスタと去っていってしまった。ティさんは戻ってきて、無言でバイクを手で押して周りのカップルのように横付けに停めたと思うと、「みんなと同じようにやってください」とヘルメットを脱ぎながら言った。


「どういう事ですか?」と黑鉄が言うと、「そこに座ってください」と後部座席に黑鉄をまた座らせた。ティさんもまたバイクにまたがり、アクロバティックにお尻を軸にして座席から体勢を反転し、黑鉄の腰に手を回して寄り添う。ティさんの胸が黑鉄の胸に触れ、黑鉄は心拍数が伝わらないかと心配になっている自分を恥じた。気付かなかったけど以外と大きい胸に触れっぱなしな状態をティさんはどう感じているのか、黑鉄には分からなかった。


「しばらく、30分ぐらいこうしていましょう」ティさんが言った。


「分かりました」何故だと聞きたい気持ちもあったけど、黑鉄は素直に答え、また自分を情けないと思った。


「さっきのカップルに何て言ったんですか?」黑鉄は尋ねた。


「今直ぐどかないと、お前たちが別れるように、呪いの言葉を唱えてやると言った」ティさんはあっけらかんと応えた。


黑鉄は反射的に身を引くと、よろけてバランスを崩しバイクから落ちそうになりティさんは黑鉄の手を強く引っ張った。黑鉄はまたティさんと密着し、手は握り合ったままで、更に頭が混乱する。「ウソウソ。今から警察の検問が始まるからあんた達のような目立つバイクは面倒な事になるよと言ったのよ」ティさんは妙に色っぽい口調で応えた。


確かにさっきからサイレンが鳴っている。あれは検問なのか。「周りの皆と同じようにしていれば、大丈夫だから。心配しないでね」ティさんは握った手を離さず、黑鉄の肩に頭を寄せた。


「一番怪しまれないのは、カップルの群れにカップルとして紛れる事だと思いませんか?」ティさんの吐息が黑鉄の耳にかかる。


「あの、蒼磨さんって人は無事ですか?」黑鉄が気を取り直しながら囁くように言った。


「蒼磨さん元気ですよ。大げさな人だから。気にしないでね」ティはあっさりと答えて黙った。


白バイがどんどん増えてくる。さすがベトナムは警察もバイク主体だ。確かにこの様子では、下手に動かずにしているのが賢明だと分かる。イチャツイているカップル達に対して、いちいち絡むのは荒っぽいベトナムの警察にしても気の滅入る仕事であろう。


「ティさん、あなたは私を何で助けたんですか?それに私が逃げてくるのを知ってたようですけどあの老人を知っているんですか?」ティさんはその質問には答えず、代わりに鼻歌を歌い出した。


なんとも悲しげな哀愁のメロディーだった。魔性の女というのはこういうものなのかと黑鉄は思った。単なるバイトの女の子だと思っていた子が忍者みたいな事したり、今はお色気お姉さん。女というのは分からないものだ。


検問が流れ解散していく中で、ティさんは体勢を戻し、バイクにエンジンをかける。待つことが嫌いな黑鉄としては、何もせずに待っていたこの30分は、人生でももしかしたら始めてかも知れなかった。子供の頃から、遅刻は一度もした事が無く、相手が遅刻をした場合、どんな相手でもどんな状況でもその場を離れた。それが災いし、人間関係に亀裂ができた事もあったかもしれないが、そんな事よりもずっと、待つ事ができなかった黑鉄も、この時間は自分でも驚くほどだった。


バイクがまたサイゴン市内一番の小奇麗な店が並ぶドンコイ通りに入ったところでティさんが聞いた


「どこに泊まっていますか?」


「ファングーラオのホテルの予定でした。なんか、変な人たちに狙われてしまって、今は特に予定も無いんですが」 黑鉄が答えた。


「こういう時は、地元の人の意見が役に立ちますよ。外の二人と連絡着きますか?」そこで携帯電話を思い出したように取り出すと、メッセージが複数残っていて驚く。紅音からだ。


どうやら翠と同じホテルに泊まる事になったようだ。住所が書いてあり、こっちに来いとの事だ。広い豪華な部屋だから、問題なく3人寝られるとの事だった。急いで電話をしてみたが、電源が入っていない。


「俺は無事だ。カレー屋にいたティさんと一緒だ。今日は自力で宿を探す。安全なようで安心した。俺の事は心配無用だから、自分の安全第一でよろしく」と急いで返信した。


「電話はつうじなかったけど、特に問題は無いみたいです」


「ところで、さっき老人知ってる?て聞いたよね。知ってる。話すと長いし疲れたからまた今度話す。でも、トキヨの話聞いた?」


「トキヨ?何のこと?」


「言わなかったか。知らないならいい」またティさんは黙ってバイクをぶっ飛ばした。


黑鉄は、ティさんの思わせぶりが気になって、反芻した。トキヨ、トキヨ、トコヨ、常世の住人・・「あの老人は俺の事を常世の住人とか言っていたな」黑鉄が呟いた。


「トコヨ?トキヨの事?私達はトキヨとかトキョとか言っているが、発音の問題。多分同じ。やっぱりあなたは常世の人なのか。納得した」ティさんは一人で納得し、満足そうににやっとした。


「そうだ、今日、ファングーラオで白人の老人がトーキョーを知っている人を探していると言っていたよ」


「たまにいる。そういう人が。でも無駄」


「ティさん、常世の住人について、知ってる事教えてくれますか?自分が常世の住人っていうのだから助けてくれたんですか?」


「黑鉄さんはその老人と私に関係があって、私が助ける準備をしていたと思っているのだとしたら違う。カレー屋行こうとしたら、危ない空気だった。様子見た。逃げている人がいたから助けた。助けたら知っている人だった。逃げている人を日本人は助けないの?」


「逃げている人が悪い人だったらどうするんですか?」


「でも助ける。急だから判断できない。その後関係ない」黑鉄は、自分が助けられた事もあったが、助けると助けないに、その人がいい人か悪い人かの判断をつけてから助けるべきだと考えるのは確かにおかしいな。と素直に思った。とりあえず助けなければならないか・・・。確かに溺れている人がいたら悪い人でも、ロープぐらいは投げるかな。自分も。それとおんなじことだよな。でも、バイクに乗せるかな?


しかし、ティさんが言っている事に嘘が無ければ、あの老人とティさんは直接示し合わせていた訳では無いが、何かしら関係があるという事か。


「もう疲れました。寝なければなりません。私家に帰ります。私の家は狭いしベッドも一つしかありません。お金ありますか?自分でできますか?」カップルごっこをしていた時のティさんの吐息が思い出されて、熱くなった。


こういう時に小包なら間違いなく甘えて、お金無いから泊めて欲しいと言うんだろうな。とふと頭によぎった。


「いえ、今日はありがとうございました。これ、今書きましたが私の電話番号です。ティさんのも教えてもらっていいですか?」ティさんは、電話番号を黑鉄に伝えた。


「明日、また会うかもしれません。その時にまた、黑鉄さんの疑問について、相談できるかもしれません」ティさんは意味深な発言なのか、単に日本語の使い方がちょっと変わっているのか分からない調子で伝えた。黑鉄はその真意を聞きたかったが、疲れているティさんに悪いと思い、ティさんが安全だと思える簡素なホテルに連れて行かれ、値段交渉までしてもらい別れた。

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