2ー肆 美食の後

紅音は窓のほうに向かうと、与四郎はものすごいスピードで歩いていた。在原は小走りで追っかける。これだけ見ると、あの在原の活躍ぶりも嘘のようで、どこかの小役人のようだなと思った。


「なんか、ようわからん話になってどうなるかと思ったけど、これで仕切り直しだな。俺、ボルドーの一番高いワインでも飲もうかな」小包がウキウキしながら言った。


「お前、ボルドーって何か知ってるのかよ?そういう事人前で言うと笑われるから頼むから僕の前ではやめてくれな。僕がいない所ならむしろどんどんやって欲しいけど」紅音が苦笑して言った。


「何をいうかい。紅音君。これでも僕は味にはうるさいんだよ。なんだよ、さっきの君は。偉そうにペラペラしゃべっちゃって。あ、お姉さん。じゃあ、出せるワインとシャンパンを、高いものから3つ持ってきて」


ウェイトレスは、しばらくすると、貫禄のあるソムリエのような男と共にワインを手にしてやってきた。日本ではもう、こういう堂々たる権威を備えたソムリエというのは普通じゃお目にかかれなそうな貫禄だ。


小包が、ワインのラベルを色々見ている時に、ドアが開き、在原が王の元に近寄り耳打ちした。かなり急いでいるらしく、王が在原に何か言った後、在原は小包が呼んだソムリエとその様子を見渡した。「どうしたんですか?小包君?ソムリエなんか呼んで」在原が小包をジロッと見た。


「いや、ワインはありますか?と聞いたら、わざわざなんか色々持ってやってきたんですよ。どうしたらいいんですかね?」小包はしどろもどろになりながら言った。


在原は、ソムリエが持ってきたワインやシャンパンをひと通り見定めた後「遠慮も社会勉強だよと言いたい所だが、色々と世話になったからね。好きなだけ飲み食いしてくれてかまわない。楽しんでください」苦笑しながら、部屋を出た。


窓から除くと、今度はかなり本気で走っている。色々と謎の多い男だと紅音は思った。


在原が去って、もう戻ってこない事を確認した後、「じゃぁ、このスペードのマークのシャンパンでも飲んでみるか」小包は遠慮のかけらもなく、ソムリエをアゴで使い、開けさせた。


「あんた、それ幾らすると思ってんのか分かってんの?」翠は笑いながらソムリエに自分は飲まない事を合図しながら言った。


「まぁ、開けちゃったんだから、遠慮する事無いわ。コーラでも飲むように気楽に飲んじゃって」


あまり見たことの無い料理が次々と運ばれてくる中で、小包は王を舐めまわすように見た。「王君と言ったね。翠のお父さんが友達って言ってたけど、年齢的には、若く見えるけど」小包がシャンパンを飲みながら言った。


「あんた、そろそろ怒るわよ。翠とか、勝手に呼び捨てしないでよ。それに王さんも少なくともあんたよりは年上だし、何その偉そうな態度」翠が睨みつける。


「王さんと言いましたね。この人もこう見えてもそんなに悪い人じゃ無いんですよ。失礼してすみません。」紅音から見ると何か嘘臭さを感じるが、翠がしおらしく言った。


「いや、いいんですよ。遅れましたが、翠さん、ですね。お会いできて光栄です。与四郎先生にこんな美しいお嬢さまがいらっしゃるとは、存じませんでした。王学斗と申します。

お父様には色々とお世話になっていまして。いつもこういった高価な食事に招いてくださるので、私のような農村生まれの田舎者にとってはちょっとこういう会食だけでも荷が重いんですよ。小包さんのような日本の若者と気楽に食事ができるのは私にとっても嬉しい事なんですが」

王は爽やかな笑顔を浮かべて話した。


小包は、王の日本語の敬語や語彙が下手をすると自分よりも高度なのではないかと内心焦りだしたが、ここで態度を変えては舐められると思い、沈黙を保つことで威厳を持たせてみようと黙った。


「ところで王さんは随分と日本語が流暢なようですが、日本にお住まいになった事があるんですか?」紅音が言った。


「いえ、住んだ事は無いですね。数日滞在した事ならあるんですが。中国で日本人とも仕事等で交流が多いものですから、そこで学んだ事も多いですよ」にこやかに王は答えた。


「現在は北京で大学の教員等をしておりますので、若い人とも触れ合う機会は多いのですが。紅音さんと小包さんですね。お二人とも学生さんなんですね。お二人は私が知っている日本の学生さんとは少し雰囲気が違いますね。与四郎先生が食事に誘っているだけに、さぞ優秀な学生さんなんでしょう」王は嫌味のような内容にも聞こえかねない事を、非常に感じ良く言う能力があるようだな。と紅音は思い苦笑した。


「しかし、先ほどの紅音さんのお話、私も興味深いと思いましたよ。美食の話でしたが、何にでも通ずる話だなと感じていました。つまり、人は何に付けこだわり、追求しているようで、まるで関係の無いように見える原因に囚われているだけなのではないか?という風に理解しました。それを受けてか先生も違うテーマを同じような論点で切り返していて、面白い会話だなと感心していました」王は紅音を親しみを込めた表情で見た。


「そうでしたか。そんな深い意図は無かったのですが。つい、話を向けられて空気も読まず話してしまうクセがあり、失礼しました」紅音は軽く会釈をした。


「中国では縁分と言いまして、縁というのは単なる偶然ではなく、もっと深くて大きな道理故に起きている事だと信じる人が多いんですよ。私もどちらかというとそういう迷信も嫌いではないんです。そういう意味で、この出会いも先ほどの紅音さんのお話のように、表面とは違う思いもつかない意味合いがあるのかも知れませんね」王はシャンパングラスを品よくつまみ、左手を添えた。紅音もギリギリタイミングを合わせて、王と目を合わせた。


「皆さんとの出会いに」王がグラスを軽く持ち上げる。


これが中国式の、会食時に何回も行われる乾杯的行為だと即座に判断して紅音は何とかそれについて行った。小包はポカンとしている。翠はちゃっかり乾杯に加わって、シャンパングラスに入ったサンペリグリノを口に含んでいた。中国では会食の会話の内容に応じて、乾杯をタイミングよく執り行える人がマナーのある人だとどこかで聞いたことがあったが、こういう感じなのかと、紅音は感心した。確かに王の乾杯までの流れは優雅さを持っていた。それにしても、目が合った時の吸い込まれるような感覚、不思議な奴だ。


ナポレオンフィッシュの清酒蒸が出てくると王がニコニコしながら言った。


「最後に中国人は宴席では魚を出すのがちょっとした縁起担ぎなんですよ。私も存じなかったんですが、これは与四郎先生に教えていただきましてね。普通はメインの肉料理を食べ終えた後、魚が出るなんて変でしょう」


「それに、3人しかいないのに8切れ出てきてますが、これも意味があるんですか?

まさかこれだけのレストランで、そんな気の利かない分け方しないでしょうし」紅音が反応した。


「さすが、よく見てますね。どうせ験担ぎなら、トコトン、ということでしょう。「八」は中国では縁起の良い数字で、こうやって末広がりに盛り付けてある。魚は中国語では「余」と同じ発音なんですよ。最後まで食べても余りがあるから安心だね。というダジャレみたいなもの。でも、ダジャレだと言って昔の人は馬鹿にせず、教養ある人の遊び感覚なんですね。日本でもおせち料理のコブがよろこぶとか、下らないダジャレとも言えますが、微笑ましくて、温かみのあるいいものですよね。料理の最後に魚を出してきたら、そこのホストは教養がある人だからそのつもりで、と与四郎先生が教えてくれましてね。実際、自分がホストの立場だとして、こうやって粋な演出をしているのに、ゲストが何も考えずガツガツと食べだしたらちょっと悲しいでしょう。だからそういう時は、伝統を重んじた流儀でありがとうございます。とか言っておくと、相手も喜んでくれるんですよ。まぁ社交上のお遊びっていう所ですかね」王は楽しそうに言った。


魚が取り分けられると、王はそれまでの優しそうな表情を一転させた。

「ところで、紅音さん。君は、在原さんの不思議な事を間近でみたんですってね」、目線を下に切り出した。


「不思議な事?と言うと・・」紅音は様子を見るようにはぐらかした。


「在原さんから、言い使ったんですよ。さっき耳打ちしていったでしょう。在原さんが使っていた機材見たと思いますが、あれ、私が作ったものなんですよ。まだまだ出来がもう一つなプロトタイプなんですがね」王がつぶやくように言った。


暫く誰も何も話さず、沈黙が続く。


「ご興味あれば、こちらに連絡ください。あなたは確かにいいものを持っている。今日は楽しい食事でしたね。そろそろ私も行かなければなりません。皆様のお車も外に待っていると思いますが、私はお先に失礼させていただきます。翠さん。先生に宜しくお伝えくださいませ。それではまたどこかで」王は、名刺のようなものを紅音に渡し、スタスタと部屋を後にした。


「彼が黒幕、というか、お父さんが懐刀と言っていた人ってわけか。手強そうだったなあ」翠はボソッと言った。


「手強そう?戦うつもり?」小包はニヤつきながら翠に絡む。


「あ、あなた王さんがいなくなったら元気になってきたわね。さっきまではシュンとしてて、珍しくなんにも喋らないなと思ってたら。だらしない人ね」翠もニヤつきながら小包を見返した。


「さて、そんな事より、ようやく3人になったところで、紅音君、アラハバキは返してくれるんでしょうね?あんたそろそろいい加減にしないと怒るわよ」翠が紅音を睨んだ。


「お前、おかしくないか?返すって、あれはお前のものじゃないよ。何でも買ってもらって当然だと思ってるのかもしれないお前には丁度良い教育的指導ってことだね。残念残念。」紅音は相手にせずに言った。


「何偉そうに。大体あんた黑鉄はどうしてるのよ。お見通しよ。全然心配の素振りも無い。さてはあんたが指示して、黑鉄が取り戻したアラハバキを私に渡さないように仕向けたわね」翠が取り乱しながら言った。


「ほー。そういう風に考えるの。お生憎様ですが、僕は仕向けてないけど、黑鉄も冷静に考えて、お前の言う事を聞く必要性が無いと判断したんだろうね。確かにあいつは僕に、今回の食事のキャンセルと、心配無用とだけメールをよこしたよ。うん。賢明な判断だったと思う」紅音がニヤニヤしながら言ったところで、皿が飛んだ。


紅音はギリギリでよけて、皿は高そうな飾り棚のガラスに当たり、ガラスもろとも割れに割れた。翠が悪びれる様子も無く、投げた皿を見つめている。


「こぇーよ。お前。ちょっと冷静になりなよ」紅音はあっけに取られた。


「まあいいわ。分かった。行くわよ」翠が車椅子を器用に操り廊下に出る。


「おい、なんでお前と一緒に当然のように帰らなきゃならないのよ。どうせ高級ホテルとかに泊まるんでしょ。僕たちどっかこれから適当に見つけなきゃならないけど、少なくともお前が泊まるホテルの近くでは無いよ」紅音が言った。


「あんた、本気で言ってるの?女の子と食事して帰るなら、送るんでしょ。男に生まれたからには」


翠が振り向きもせず、廊下からエレベータに向かう。小包が追いかけ、紅音を振り返り、ニヤッとしながらまた翠を追いかけた。しばらく部屋で一人待っていたが、紅音も渋々ついて行く事にした。

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