2ー参 楽しき晩餐

「もう付きそうだな。また今度ね。話の続きは。でも面白かったでしょ」翠を見て小包はニンマリした。

リムジンの止まった先は、美しい照明に彩られた庭園を持つビラだった。プールサイドには豊かそうな白人ご一行と、成金をひけらかすようなベトナム人のグループ。皆フレンチを食べているようであったが、紅音達はそのビラを通り抜けて、美しいがひなびた土蔵のような離れの別棟に入ると不釣合いなエレベータがあり、そこから3階に上がると、控え室があり、贅沢な中華のアンティーク家具のソファが備え付けてある。


控室を通り抜けると紅音達は経験の無いような、モダンチャイニーズというのか、シックな作りではあっても、細部細部に贅沢が見られる個室になっており、円卓には物部与四郎、左隣には初めて見る若者が座っていた。在原は円卓から外れた隅にある椅子に待機していた。外からはこの中に贅沢な会食の為の個室があるとは分からない。なんとも金持ち好みなシークレット感だなと紅音は思ったが、内装の趣味はいい。嫌味な感じが無い。どうやら2階は厨房になっているようで、3階の食事の為だけの独立したキッチンという事のようだった。


「よく来たね。今日はこんな時間まで翠と一緒にありがとう。紹介しよう、こちらは王君と言ってね。私の友達なんだ。若いが極めて優秀なのでね。色々と世話になっている。日本語も上手だから今日はお言葉に甘えて日本語で喋ってもらおうと思っているんだよ」与四郎は満面の笑みで語りかけた。


「初めまして。王学斗と申します。本日はよろしくお願い致します。」


王は確かに流暢な日本語で言い、席を立って紅音と小包に勧めた。小包は珍しく緊張しているようで、何も話さない。


「翠、今日のゲストは学生さん達だ。君はホストの席にどうぞ。王君も気を利かせてしまって悪いね。そういえば、確か3人いたと思ったが」与四郎が言った。


「1人、お腹壊したみたいで、ホテルで休んでいるんです」紅音はサラッと言った。


「ああそうか。まぁこちらに来たばかりだとお腹も壊しやすいものだよね。じゃあ二人は私の隣に来ていただこうかな」与四郎は左右の席を二人に勧めた。


上座の中央に座る事に慣れすぎて、自分が一番のホストなのに、そこを譲る発想そのものがどうやら無いようだ。傲慢さを感じない爽やかな感じにそんなものなのかな、と紅音は思いながら、食事は始まっていった。


「このスープはね。僕がここの料理人に教えたんだよ。まあ教えたと言っても、手取り足取りという訳にはいかないから、概要を伝え、何度も作らせたんだけどね」


随分と凝った陶器の蓋をあけると、へんてつもないコンソメ色のスープであった。


「これはね。名前にすると、オニオンスープというんだ」与四郎は面白い事を言ったように笑った。


「ベースは豚の骨さ。ただ、豚骨スープみたいに茹でるんじゃなくてね、特殊な壺に入れて蒸すんだよ。骨は蒸して旨味を出すのが本物と聞いている。中国では蒸したものを存味と言ってね。つまり味が抜けていないという事だよ。昔の人はスープの為だけに、こうやって手間ひまかけたんだね。」


確かに、飲んだことの無い味がしたが、二人にはよく分からなかった。それでも、まずくは無いし、旨いとも思うが、これがそんなに有り難い食べ物なのか?と言われると正直よくわからなかった。


「ここでこんな素晴らしいスープをいただけるとは、幸運でした」王学斗が柔らかい笑みを浮かべて言った。


「そうだね。よくできている。こういうシンプルな料理こそ、中々難しいものなんだよね」与四郎は満足そうに言った。


「紅音君。と言ったね。君はどんなものが旨いと思って、どんなものがマズいと思うのかい?実はね。僕は正直ね、もうよくわからなくなってきてるんだよ。何を食べるべきなのかね。」


紅音は突然話をふられて当惑するだろうという意地悪な魂胆なんじゃないかと察し、スープをゆっくり飲みながら頭をクリアにした。


「旨いマズイなんて事を楽しそうに話すのは確かに愉快な娯楽だとは思いますね」にこやかに紅音は言った。


「ほう。聞こうか」与四郎はやや神妙な顔をして言った。「どういう事かね?」


「正味の話旨いもマズイも無いんじゃないでしょうか?強いて言えば、生理現象と精神的な依存現象の絡み合い。分解していけば旨いマズイ以前に単なる塩分中毒、糖分中毒、油分中毒、と。本当のとこは。要は、旨い、マズイ以上に、中毒者が渇いているもの。これを得た時の喜びは美味を味わう感性よりも生理的に響くと思うんですよ。それを自分がなまじ美味しいものを知っていると思うと、美食に感じ入っていると錯覚してしまう。例えば本当は塩分中毒にすぎないのに、欲する塩分をラーメンを欲していると思い込み、自分のような味にうるさいものが求めるラーメンというのはさぞかし立派な食べ物に違いないとそれをカルチャーに昇華させる。 結果好きなラーメンが一番旨く感じるし、そういう人はどれだけの手間暇かけた高級な料理なんかも庶民感覚で簡単に否定できてしまう。ラーメンに限ったことではなく、全ての美食は多かれ少なかれ、そういう事じゃないかと思うんですね。」 紅音の理屈っぽさは、こういう変な状況でいつも突発的に発動する。小包は何度も目で紅音にやめておけと合図をするが、無視して続けた。


「魯山人は、味が無いものが一番旨いと言ったそうですね。僕からすると寂しい人だったんだと思います。人生を賭けて追求した美食。それでも本当は薄々気づいていったんだと思うんですよ。ああ、なんで美食なんて下らん事に自分の貴重な人生ついやしてまったっんだ!と。そういえば彼は「ふぐは味がないから旨い」と言ったらしいですね。」


「うん、うん。面白い。愉快だな−。ところで私もフグは好きでね。何故フグが旨いと思うのかなんて、考えたことも無かったが、味が無いから旨いとは、中々に含蓄がんちくのある表現だね」与四郎が大げさな表情で笑いながら言った。


「恐らく先生がフグを好まれる理由は、頻繁ひんぱんに良いフグなるものを食べているから好きなんではないでしょうか?良いフグが本質的に美味しい訳ではなく、伝統と権威が保証してくれる希少な食べ物であり、それをいつも食べているから慣れてしまった安心感を美味しいものを食べているんだと変換してしまう。先生が安物の回転寿司がきっとお口に合わないのは、バナナ食べている貧乏人に宮崎産のマンゴーを食べさせても特にピンと来ないのと、本質的には変わらないのかもしれませんよ。ただ、南国でいつもマンゴーを食べているフィリピン人の農家には案外響くのかもしれませんが。」神妙な顔をして紅音は残りのスープを飲み干した。


「いちいち面白いな君は」与四郎はニヤつきながら言った。


「私のようなガキが出すぎた持論をしゃべり、失礼しました。それを先生が意外に、ちゃんと聞いてくれた事がうれしかったです。」紅音は少し恥ずかしそうに言った。


「別に遠慮する事は無いよ。私も日本では色々と役職上立場があってね。こういうフランクな会話にちょっと飢えていたんだよ。」嬉しそうに与四郎は答えた。


「それでは、私も先生の意見を聞かせていただきたい事があるんですが、よろしいですか?」紅音は目線を合わせずに言った。


「どうぞ。私で答えられるならば」


「先生は、さぞ裕福だとお察ししますが、お金を沢山もつという事は搾取によって成り立つものなのでしょうか?あるいは、そんなのは貧乏人から見た卑屈な意見で、もっと別の考えがあるのでしょうか?」


「そうかい。中々際どい事聞くねえ。そういう事、普段聞かれないから上手く言えるかどうか。しかしせっかく紅音君の面白い見解をきかせてもらったんだから、私もできるだけ、とりつくろわずに話してみようかな。搾取するもの、されるもの、か。いつの世の中も出てくる変わらぬテーマに見える。そういう意味では深くて良い質問だ。だがね、そういう議論は常に搾取されていると感じる人から出てくるからツマラナイ話になりやすいんだと思う。なにせ、搾取される側と搾取する側は本当は1対1じゃないんだけど、される方からしてみれば、常に1対1なんだから。搾取される側としては、自分は搾取されている。不条理だ。というだけだろう。人間なんて、どんなに偉そうな事を考えようが、所詮は自分の実感に一番興味がいってしまうからね。搾取する側に視点を移す余裕が持てれば、そんな議論なんかするまでも無いんだがね。」与四郎はゴクリと旨そうに水を飲んで続けた。


「確かに、私には資産と呼べるものもあるし、色々な形で毎日資金が集まってくる。その中には搾取されたと感じる人の金も混じっているでしょう。でもね、人間、ゆるくか激しくかは置いておいても、誰しも状況によって搾取なんてされてるもんだよ。これは誰でもさ。私も勿論もちろん何らかの搾取をされているはずだ。しかし現実では、自分は世に蔓延はびこる不条理によって搾取されていると感じている人がほとんどだ。その違い、なんだか分かるかい?人生でやるべき事を持っている人ってのは、多かれ少なかれ搾取する。いや、勝手にしてしまうんだよ。悪気もなくね。金の問題じゃない。生きているだけで、勝手に誰かの何かを奪ってしまう。おっ、私の好物を選んできたね。なんで知っていたのかな?嬉しいね」ウェイトレスが、野菜炒めのようなものを持ってきた。


「これは、ヘチマとキクラゲに、蛙の胃袋を合わせた炒めものでね。今の広東の人はあまり食べないみたいだけど、私はなぜかはまってしまってね。ヘチマの処理が面倒だし、そんなにどこでも食用として流通しなくなっているからかもしれないね。

さて、話を戻そうか。どんな人にも個性がある。人間だから、誰でも色々な側面を持っているものだ。冷血な殺人鬼でも犬には優しいとかね。逆に、親切に見える人でも、頑なにつまらない所を譲らなかったりとか。勇敢な人でも、小賢しい所があるというケースも考えられる。色々な要素を持っているのが人間だからね。その人その人によって、一定のラインを超えて、溢れるような優しさや、残酷さ、勇敢さ、ズルさ、愛らしさ、そういうものを誰しも一つは持っているのが人間なんだと思うよ。場合によっては2つ以上の場合もある。そういう、その人の人格を表すようなテーマは、普段は中々大っぴらに出てこない。深層心理の中に眠っているものだ。だが、その本領が発揮される場合がある。例えば、危機に立たされるとか、愛する人ができた、とか、どうしても金が欲しい状況になったとか、そういう個人的な事もあるし、権力を持った、組織から阻害された、など社会的な状況もある。そういった時に、その人が持つ人生のテーマであり、その人格を代表するような度を超えた特徴が発揮されるんだ。そして、その時、人は君の言葉で言えば本人も知らないところで搾取を始める。これは強大な権力者が金銭を搾取するケースではわかりやすいが、それだけではない。ごくごく平凡な庶民であれ、その人が持つ人生のテーマが顔を出す環境が整うと、意図せずに始まってしまうものだ。」与四郎は、言う割には旨そうに見えない食べ方で、蛙の胃袋らしきものををボソボソと口に入れた。


「大体、その人が生まれようが生まれまいが、世界は回っているはずだったのに、何かのテーマが、人間の中から生まれてしまった、という事なんだからね。エネルギィは無から生まれない。また、既存のエネルギィが無くなることも無い。つまりはつまるところ、ゼロサム、交換や奪い合いだけの世界だ。世界全体としては増えも減りもしないんだよ。やっぱり。そんな中に、何かのテーマが人間を媒介にひょいと生まれる。綺麗事は置いておいて、真空に空気が流れこむように、勝手に奪ってしまう事になる。ところが何もテーマを持たない人は、奪うなんて事は無い。例えばわかりやすく、金銭の搾取で語ろう。人類の平等や世界平和を毎日言っているとしても、もっと金が欲しいとかこころの底で思っているのが健全な人間だ。そう思わないのは子供とか、裕福な専業主婦とか、資産家の親が突然死んだ後の一人息子とか、養われている人だけでしょう。そういう人から実に美しい見解を私も色々と聞いてきた。しかし、自分で自活する事が前提な人達はそうではない。一生懸命金を集めようとする。 でもね。そういった真面目な人々も心底金を集める事そのものを目的としていない限り、それはその人にとって、人生のやるべき事じゃないと思わないかい。だからそういう人はたとえ経済的に成功したとしても、搾取しているように見えて、搾取する側じゃないからいずれその大事なお金も搾取されるんだよ。何もこれは金に限った事じゃない。もっと抽象的なもの。支配とか、安心とか、愛情、創造、そういうものにも置き換わる。キレイに乳を絞られるように、1滴残らずテーマを持つ人間に持って行かれてしまうんだ。こういう議論、何て言うんだったっけ?厨二病?いや、中々楽しいもんだよね。」与四郎は、備え付けの南京豆を箸でつまみ、口に入れて、ニンマリと笑った。


「初めて聞く意見です。面白いです。ところでちょっと話題の筋とは外れますが、世界の総エネルギィは減りも増えもしない、という事でしたよね。エネルギィ保存則という奴だと思いますが。それで、先生の話を聞いていてあれっ?と思ったんです。新たに生まれてくる人というのは、無から有のエネルギィじゃないんでしょうか?もちろん、体は親が食べた栄養分から作られるとしても、その新たな生命が将来に渡り、色々な活動を行うわけで、それは世界のエネルギィの調和に反しませんか?」紅音は今度は与四郎の目を見て言った。


「中々面白い疑問だね。つまり君が言いたい事は、測定可能なエネルギィを超えて、生命に内包された、魂的なものの可能性について語っているんだと思う。それを持ちだされると、物理学を持ち出すよりは、バイブルを持出すべき話になってくるね。まぁそれはそれで、非常に興味深いと思うがね」

会話のタイミングを見計らって、料理が運ばれてきた。


「ああ、これはガチョウの水かきの干しアワビソースだ。広東料理の定番だよ。中々いけるはずだ。さあ皆さん。まだまだ美味しい料理が出てくるから、楽しんでいただきたいんだけどね。ちょっと大事な用を思い出してしまって。私は今晩はここで外しますから、後は皆さんご一緒に食事を楽しんでください。遠慮無くお酒も飲んで欲しいんだよ。大体なんでもあるからね。」


携帯電話らしきものをちらっと見た後、与四郎はにこやかに伝え、無表情に歩調早く去っていった。在原はその後を追いかける。



リムジンの止まった先は、美しい照明に彩られた庭園を持つビラだった。プールサイドには豊かそうな白人ご一行と、成金をひけらかすようなベトナム人のグループ。皆フレンチを食べているようであったが、紅音達はそのビラを通り抜けて、美しいがひなびた土蔵のような離れの別棟に入ると不釣合いなエレベータがあり、そこから3階に上がると、控え室があり、贅沢な中華のアンティーク家具のソファが備え付けてある。


控室を通り抜けると紅音達は経験の無いような、モダンチャイニーズというのか、シックな作りではあっても、細部細部に贅沢が見られる個室になっており、円卓には物部与四郎、左隣には初めて見る若者が座っていた。在原は円卓から外れた隅にある椅子に待機していた。外からはこの中に贅沢な会食の為の個室があるとは分からない。なんとも金持ち好みなシークレット感だなと紅音は思ったが、内装の趣味はいい。嫌味な感じが無い。どうやら2階は厨房になっているようで、3階の食事の為だけの独立したキッチンという事のようだった。


「よく来たね。今日はこんな時間まで翠と一緒にありがとう。紹介しよう、こちらは王君と言ってね。私の友達なんだ。若いが極めて優秀なのでね。色々と世話になっている。日本語も上手だから今日はお言葉に甘えて日本語で喋ってもらおうと思っているんだよ」与四郎は満面の笑みで語りかけた。


「初めまして。王学斗と申します。本日はよろしくお願い致します。」


王は確かに流暢な日本語で言い、席を立って紅音と小包に勧めた。小包は珍しく緊張しているようで、何も話さない。


「翠、今日のゲストは学生さん達だ。君はホストの席にどうぞ。王君も気を利かせてしまって悪いね。そういえば、確か3人いたと思ったが」与四郎が言った。


「1人、お腹壊したみたいで、ホテルで休んでいるんです」紅音はサラッと言った。


「ああそうか。まぁこちらに来たばかりだとお腹も壊しやすいものだよね。じゃあ二人は私の隣に来ていただこうかな」与四郎は左右の席を二人に勧めた。


上座の中央に座る事に慣れすぎて、自分が一番のホストなのに、そこを譲る発想そのものがどうやら無いようだ。傲慢さを感じない爽やかな感じにそんなものなのかな、と紅音は思いながら、食事は始まっていった。


「このスープはね。僕がここの料理人に教えたんだよ。まあ教えたと言っても、手取り足取りという訳にはいかないから、概要を伝え、何度も作らせたんだけどね」


随分と凝った陶器の蓋をあけると、へんてつもないコンソメ色のスープであった。


「これはね。名前にすると、オニオンスープというんだ」与四郎は面白い事を言ったように笑った。


「ベースは豚の骨さ。ただ、豚骨スープみたいに茹でるんじゃなくてね、特殊な壺に入れて蒸すんだよ。骨は蒸して旨味を出すのが本物と聞いている。中国では蒸したものを存味と言ってね。つまり味が抜けていないという事だよ。昔の人はスープの為だけに、こうやって手間ひまかけたんだね。」


確かに、飲んだことの無い味がしたが、二人にはよく分からなかった。それでも、まずくは無いし、旨いとも思うが、これがそんなに有り難い食べ物なのか?と言われると正直よくわからなかった。


「ここでこんな素晴らしいスープをいただけるとは、幸運でした」王学斗が柔らかい笑みを浮かべて言った。


「そうだね。よくできている。こういうシンプルな料理こそ、中々難しいものなんだよね」与四郎は満足そうに言った。


「紅音君。と言ったね。君はどんなものが旨いと思って、どんなものがマズいと思うのかい?実はね。僕は正直ね、もうよくわからなくなってきてるんだよ。何を食べるべきなのかね。」


紅音は突然話をふられて当惑するだろうという意地悪な魂胆なんじゃないかと察し、スープをゆっくり飲みながら頭をクリアにした。


「旨いマズイなんて事を楽しそうに話すのは確かに愉快な娯楽だとは思いますね」にこやかに紅音は言った。


「ほう。聞こうか」与四郎はやや神妙な顔をして言った。「どういう事かね?」


「正味の話旨いもマズイも無いんじゃないでしょうか?強いて言えば、生理現象と精神的な依存現象の絡み合い。分解していけば旨いマズイ以前に単なる塩分中毒、糖分中毒、油分中毒、と。本当のとこは。要は、旨い、マズイ以上に、中毒者が渇いているもの。これを得た時の喜びは美味を味わう感性よりも生理的に響くと思うんですよ。それを自分がなまじ美味しいものを知っていると思うと、美食に感じ入っていると錯覚してしまう。例えば本当は塩分中毒にすぎないのに、欲する塩分をラーメンを欲していると思い込み、自分のような味にうるさいものが求めるラーメンというのはさぞかし立派な食べ物に違いないとそれをカルチャーに昇華させる。 結果好きなラーメンが一番旨く感じるし、そういう人はどれだけの手間暇かけた高級な料理なんかも庶民感覚で簡単に否定できてしまう。ラーメンに限ったことではなく、全ての美食は多かれ少なかれ、そういう事じゃないかと思うんですね。」 紅音の理屈っぽさは、こういう変な状況でいつも突発的に発動する。小包は何度も目で紅音にやめておけと合図をするが、無視して続けた。


「魯山人は、味が無いものが一番旨いと言ったそうですね。僕からすると寂しい人だったんだと思います。人生を賭けて追求した美食。それでも本当は薄々気づいていったんだと思うんですよ。ああ、なんで美食なんて下らん事に自分の貴重な人生ついやしてまったっんだ!と。そういえば彼は「ふぐは味がないから旨い」と言ったらしいですね。」


「うん、うん。面白い。愉快だな−。ところで私もフグは好きでね。何故フグが旨いと思うのかなんて、考えたことも無かったが、味が無いから旨いとは、中々に含蓄のある表現だね」与四郎が大げさな表情で笑いながら言った。


「恐らく先生がフグを好まれる理由は、頻繁に良いフグなるものを食べているから好きなんではないでしょうか?良いフグが本質的に美味しい訳ではなく、伝統と権威が保証してくれる希少な食べ物であり、それをいつも食べているから慣れてしまった安心感を美味しいものを食べているんだと変換してしまう。先生が安物の回転寿司がきっとお口に合わないのは、バナナ食べている貧乏人に宮崎産のマンゴーを食べさせても特にピンと来ないのと、本質的には変わらないのかもしれませんよ。ただ、南国でいつもマンゴーを食べているフィリピン人の農家には案外響くのかもしれませんが。」神妙な顔をして紅音は残りのスープを飲み干した。


「いちいち面白いな君は」与四郎はニヤつきながら言った。


「私のようなガキが出すぎた持論をしゃべり、失礼しました。それを先生が意外に、ちゃんと聞いてくれた事がうれしかったです。」紅音は少し恥ずかしそうに言った。


「別に遠慮する事は無いよ。私も日本では色々と役職上立場があってね。こういうフランクな会話にちょっと飢えていたんだよ。」嬉しそうに与四郎は答えた。


「それでは、私も先生の意見を聞かせていただきたい事があるんですが、よろしいですか?」紅音は目線を合わせずに言った。


「どうぞ。私で答えられるならば」


「先生は、さぞ裕福だとお察ししますが、お金を沢山もつという事は搾取によって成り立つものなのでしょうか?あるいは、そんなのは貧乏人から見た卑屈な意見で、もっと別の考えがあるのでしょうか?」


「そうかい。中々際どい事聞くねえ。そういう事、中々普段聞かれないから上手く言えるかどうか。しかしせっかく紅音君の面白い見解をきかせてもらったんだから、私もできるだけ、とりつくろわずに話してみようかな。搾取するもの、されるもの、か。いつの世の中も出てくる変わらぬテーマに見えるね。でもそういう議論は常に搾取されていると感じる人から出てくるからツマラナイ話になってしまうんだと思う。なにせ、搾取される側と搾取する側は1対1じゃないんだけど、される方からしてみれば、常に1対1なんだから。搾取される側としては、自分は搾取されている。不条理だ。というだけだろう。人間なんて、どんなに偉そうな事を考えようが、所詮は自分の実感に一番興味がいってしまうからね。搾取する側に視点を移す余裕が持てれば、そんな議論なんかするまでも無いんだがね。」与四郎はゴクリと旨そうに水を飲んで続けた。


「確かに、私には資産と呼べるものもあるし、色々な形で毎日資金が集まってくる。その中には搾取されたと感じる人の金も混じっているでしょう。でもね、人間、ゆるくか激しくかは置いておいても、誰しも搾取なんてされてるもんだよ。これは誰でもさ。私も勿論何らかの搾取をされているはずだ。しかし現実は、私は不条理で搾取されていると感じている人がほとんどだ。その違い、なんだか分かるかい?人生でやるべき事が決まっている人ってのは、多かれ少なかれ搾取する。いや、勝手にしてしまうんだよ。悪気もなくね。金の問題じゃない。生きているだけで、勝手に誰かの何かを奪ってしまう。なぜなら、その人が生まれようが生まれまいが、世界は回っているはずだったのに、何かテーマがある人間が生まれてしまった、という事なんだからね。エネルギィは無から生まれない。また、既存のエネルギィが無くなることも無い。つまりはつまるところ、ゼロサム、交換や奪い合いだけの世界だ。世界全体としては増えも減りもしないんだよ。やっぱり。そんな中に、何かテーマを持った人間がひょいと生まれる。綺麗事は置いておいて、真空に空気が流れこむように、勝手に奪ってしまう事になる。ところが何も決まってない奴は人から奪うなんて事は無い。例えば、人類の平等を毎日言っているとしても、もっと金が欲しいとかこころの底で思っているのが健全な人間だ。そう思わないのは子供とか、裕福な専業主婦とか、資産家の親が突然死んだ後の一人息子とか、養われている人だけでしょう。そういう人から実に美しい見解を私も色々と聞いてきた。しかし、自分で自活する事が前提な人達はそうではない。一生懸命金を集めようとする。 でもね。そういった真面目な人々も心底金を集める事そのものを目的としていない限り、それはその人にとって、人生のやるべき事じゃないと思わないかい。だからそういう人はたとえ経済的に成功したとしても、搾取しているように見えて、搾取する側じゃないからいずれその大事なお金も搾取されるんだよ。キレイに乳を絞られるように、1滴残らず持って行かれてしまう。こういう議論、何て言うんだったっけ?中二病?いや、中々楽しいもんだよね。」与四郎は、備え付けの南京豆を箸でつまみ、口に入れて、ニンマリと笑った。


「初めて聞く意見です。面白いです。ところでちょっと話題の筋とは外れますが、世界の総エネルギィは減りも増えもしない、という事でしたよね。エネルギィ保存則という奴だと思いますが。それで、先生の話を聞いていてあれっ?と思ったんです。新たに生まれてくる人というのは、無から有のエネルギィじゃないんでしょうか?もちろん、体は親が食べた栄養分から作られるとしても、その新たな生命が将来に渡り、色々な活動を行うわけで、それは世界のエネルギィの調和に反しませんか?」紅音は今度は与四郎の目を見て言った。


「中々面白い疑問だね。つまり君が言いたい事は、測定可能なエネルギィを超えて、生命に内包された、魂的なものの可能性について語っているんだと思う。それを持ちだされると、物理学を持ち出すよりは、バイブルを持出すべき話になってくるね。まぁそれはそれで、非常に興味深いと思うがね」

会話のタイミングを見計らって、料理が運ばれてきた。


「ああ、これはガチョウの水かきの干しアワビソースだ。広東料理の定番だよ。中々いけるはずだ。さあ皆さん。まだまだ美味しい料理が出てくるから、楽しんでいただきたいんだけどね。ちょっと大事な用を思い出してしまって。私は今晩はここで外しますから、後は皆さんご一緒に食事を楽しんでください。遠慮無くお酒も飲んで欲しいんだよ。大体なんでもあるからね。」


携帯電話らしきものをちらっと見た後、与四郎はにこやかに伝え、無表情に歩調早く去っていった。在原はその後を追いかける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る