1ー拾 安堵の一時

「私は先生、つまり翠さんのお父様である物部与四郎が経営する医療法人の事務方を務めていますが、それと同時に先生のアシスタントと言うか、色々直に頼まれている仕事を担当したりもしているわけです。先生は医者であり、研究者でもありますが、経営者として行っている事業やご興味は多岐に渡り、紅音君には伝えてありますが、その関係でこちらの軍部と先生は通じておりまして、定期的にベトナムにも来られている訳です」


「分かりました続けてください」黑鉄は、特に分かった訳でもなかったが、要点を促すように答えた。


「中々信じがたいかも知れませんが、この際説明しておきましょう。ただし、今日先生と会う際は、特にこの話題は避けていただきたいですし、翠さんとはつつがなく時間を過ごした、という事にしておいてくれますか?私も本来先生をあざむくなど到底やりたい事ではございませんが、皆さんとここでこうして会った事は、総合的な判断の上伏せておくつもりですので」在原は淡々と、ただし反論は受け付けないという頑固さが見える調子で言った。


「助けていただいた方に不利になるような真似は僕たちしませんよ。だけど、あの在原さんの姿が消えてからの話、まだ僕には信じられないし、理解もできないんです。もう一度説明を聞きたいです」紅音が言った。


「特に信じてもらう必要はありませんが、一応説明しておきましょう。こう説明すると分かりやすいようです。アニメの作成におけるセル画や、例えばフォトショップのようなグラフィックデザインの為のアプリケーションのレイヤーという考え方に近い、と私は理解しています。この世界、この空間、我々が見たり感じたりするものだけで構成されている訳では無く、色々なレイヤーが存在していると仮定してください。我々は当然、この世界を自分の目で見る事しかできないわけですが、実際は目に見えない電磁波が飛び交ったり、人が認知できないニオイ、音の世界があったり等、同じ空間でありながら目に見えない違う動きで構成されています。仮に電磁波の動きだけが大事な存在にとっては、我々が目で見えているものは見えず、その代わり電磁波が見える、という事もあると思いませんか?」在原がこんなにも長々と話をするタイプには見えないだけに、慎重に伝えたい事だけを伝えようとする意思を黑鉄は感じた。


「話はよりややこしく複雑になります。そもそも私はいわゆる文系型の人間であり、本当のところ理屈はさっぱり理解していません。ただ、この機材を両耳に耳栓のように差し瞑想状態に陥る事で、今説明したようなまだ5感的に馴染みがある、想像着く世界を超えた別のレイヤーに行く事ができるという訳です。強いて言えば、プラトンが言うところのイデアの世界と、誰かが言ってました。私はプラトンなんて読んだことも無いですが、なんでも、本質だけを表した世界、という事です。それで別のレイヤーに行くと、この世界の人からは私は見えなくなります。私は黑鉄君と出会った部屋で実際は瞑想めいそう状態にあっただけでした。ただし、紅音君が君達を捜索する活動の支援を同時に行ってもいました」在原はひとりごとを言うように窓から外を見ながら言った。


「支援、というのはどういう事ですか?」黑鉄がたずねる。


「別レイヤーの世界Aに私がいると仮定して欲しい。そこからこちらの世界に影響を与える事ができるんです。しかし、逆はできません。我々がいる世界から、あちら側へは何一つ影響を与える事はできないんです。つまりそれぞれのレイヤーには明らかに、上位、下位がある。我々の世界はそういう意味では最底辺とも言える訳です。

別レイヤーとこちらの世界は、見え方は違うも同じ空間は共有している。しかしあちら側の世界Aから見える、というか感じられるのはこういったモノ、とかヒト、とかではなく、エネルギィというか、存在の基軸みたいなものだけです。その中枢に影響を与えると、こちらの世界では、こちらの世界で不自然では無いような形でそれが実現される」在原が自分でも納得できていないような弱い口調で言った。


「つまり、そのエネルギィみたいなものを破壊すると、こっちの世界ではそのものが壊れるという事ですか?」紅音が言う。


「そうとも言えるしそうでないとも言える。エネルギィみたいなものを破壊する事はできないんですよ。これはエネルギィ保存則という法則があるらしいですが、エネルギィは分裂したり、細切れになったりはしても、その成分の総量は不変で消滅はしないんです。ただ、紅音君が言うように、例えばこの車のエネルギィに攻撃的な影響を与える事で、こっち側の世界では車が横転したり、電柱にぶつかってエンジンが爆発したり、という形で作用する事はあり得ますね」在原が答えた。


「であれば、人間に対してはどうなんですか?」黑鉄がすかさず聞く。


「心臓発作となったり、自殺したり、事故が置きたり、そういう事になるんだと思います。ヒトに対して直接、というのは私は怖くてやらないけどね。一番この世界で起きうる形で誘発されるんだと思います。可哀想な事ですが、先生の研究室でマウスに対してなら何度も試しましたよ。百匹以上は殺しました。そう。私がマウスをね。先生に言わしてみれば、マウスとはそういうものだから、私が殺そうがいずれ誰かに殺されるんだという事ですが、私は慣れませんでしたよ。」在原は誰にも目を合わせずつぶやいた。誰もがまた黙った。


「つまり、僕が虱潰しに部屋を探しまわっていたのに、誰とも会わなかったり、会ったとしても、そいつらが僕に気づかなかったり、どっか行っちゃったり、うずくまったり、倒れたりしたのは全部在原さんのその不思議な話から来ているという事なんですね」紅音は念を押すように言った。


「別に信じる必要は無いですよ。私も本当のところはよく分かっていないしね」在原は答えた。


「我々が閉じ込められている部屋は外から鍵がかかっているはずで、それをすんなり開けたというのもどうやらその力のようですね」黑鉄が言う。


「ああ、あちらの世界では、生命とか非生命とかは関係なく、存在の本質に触れる事ができると聞いています。鍵の本質を無効化した。こちらの世界では単に鍵が壊れたという形でそれが表現された訳です。しかし、まさかあのような形で、戦いになるとは思いもしませんでしたよ。私も本当の実戦は実は今回が始めてですが、なんとか優勢で終わった訳ですが。しかし、彼はまだ生きているだろうし、私と違って、まだ彼は訓練もされておらず、何の補助機材も使っていなかった。それに、あの女の子の助けも大きい」在原がシリアスな顔をして呟いた。


「ヒゲの男と遭遇したって話ですね。で、ティさんが最後に助けてくれたって」 紅音が身を乗り出した。


「ああ、そうです。アイツは、恐らくこのレイヤーについて、全く理解はしていないにせよ、生まれつきその能力を持っており、特にこの能力を磨く事も無く、ちょっとした超能力代わりに適当に使ってきたのでしょう。確かに、この能力は、修行せずとも素質があれば様々な状況で、イカサマ的に自分に有利な状況を作る事ができるでしょうからね。彼はそうやって、大事な時にはうまくこのレイヤーに潜り込んで、証拠を残さずライバルを蹴落としたり、場合によっては殺したりしてきたのかもしれません。こんな事いうのも何ですが、今私は物凄く後悔しています。あいつはやはり、あの時点で殺しておかなければならなかった。あいつは、生まれつきの才能があるだけに、伸び代も大きい。私やあの女の子と今回戦った事で、この能力を持つものが自分だけではなく複数おり、自分はまだまだ、この能力を活かしきれていないという事に気づいたでしょう。それに私のやり方を、見ただけですぐにコピーしたセンスがある。実物の彼を固定する為に、現実世界の彼の環境を大きく歪めたんですがね。履いている靴を床と融合させたり、ドアを石化したりして。驚いたことに彼もそれをオウム返しのように、私の目の前でやりだしたんですよ。マズイと思いましたね。彼は、私からの攻撃でかなりダメージを受けているはずなのに、喜んでいるようにさえ見えました。それで、あの一撃を出してきた。女の子がいなければ、死んでいたのは私のほうでしたよ」


「女の子ってティさんですよね。ティさんも、その在原さんのレイヤーに入り込んで戦ったって事ですか?」


「まぁ、つまるところそうでしょう。彼女はティさんと言うのか。このレイヤーに入れる人間なんて、そんなに滅多にいるもんじゃ無いのに、こうして同時に3人が居合わせたのは、不思議な気分だった。ティさんは、相当な熟練者なんだろうが、攻撃的な使い方をするタイプでは無いようだった。それでも、私には理解できない方法で、あの男に一撃を食らわして、取り敢えず戦闘不能にしてくれた訳です。」在原は外を見る。


外を眺めると小包がニコニコしながら手を降っている。


「いやー、諦めたら試合終了とはこの事だよ。もう漏らしそうになって、やっとトイレ見つけたとドア開けたら、婆さんのしわしわなケツが出てきてたまげた。そしたら、婆さんのケツから丁度汚物オブツが出始めてるじゃないかよ。オマケに何を食ったらそうなるのか、とんでもなくクセーの。なんとか、鼻つまんで歯を食いしばって、婆さんに、はやくしろとジェスチャーしたら、婆さん、なんか指差してわめいている。その方向見ると、豚小屋だよ。一か八か婆さんを信じて豚小屋まで走って行ってもトイレは無いし、豚小屋だけに豚しかいねーしどうしようもなく、そのまま漏らしちまった。なに翠ちゃん、大丈夫だって。一応、パンツ下げてもらしたから、服にはついてないよ。そしたら、用足し終わった婆さんが、ご丁寧に笑いながらちり紙もってきてくれてた。確かに、足元には豚の糞も落ちてるし、婆さん、元々ここでやれ、という意味だったらしくさ。第三者から見て漏らしたって事にはなってないみたいでよかったよ。俺的には漏らしたと思ったけど」一同は、苦笑して、なんとなく話は打ち切られた。緊迫した話の後に、小包の汚い話を聞いて、もう一度シリアスな話を始める力は皆無く、全員示し合わせたように眠りに落ちた。


在原は4人をオペラハウスと共に100年前から営業しているコンチネンタルホテルのオープンカフェへ案内し、すぐに車を走らせた。6時10分。在原の顔を見る限りは、何事もなかったように与四郎と再登場するのだろう。


「在原さんにはたまげたなー。まだ若いし単なる世話役かと思って、舐めてたけど。ちょっと怖そうな感じだったけど、本当はメチャいい人そうだしね」小包は嬉しそうに言った。


「確かに、こういう状況なら説教の一つでもしたくなるもんだろうね」紅音も軽く答える。


小包がトイレに行っている間に話した内容は、面倒なので話していない。在原は翠救出の際も、小包が聞こえない所で、紅音には後で説明するから信じろとだけ言って、救出までの手はずを簡単に説明して決行していた。小包は在原がここまで活躍していた事は知らない。


「私にとっては、手強い監視役だけどね。一時はどうなっちゃうかと思ったけど、まぁ、事がすんなり行ってよかったよかった」翠は不思議と脳天気を貫いている。


「しかし、あのベトナム軍人達、なんなんだよ大体?俺達を捕まえてどうしようっつーんだ」小包が言った。


「以外と丁重に扱ってくれたのは逆に驚いた。あのヒゲの男のクレイジーさは聞いていたから、拷問にでも遭うのかと思ったがね。それより 蒼磨はどうなったんだろうか」黑鉄が誰に言う訳でもなく話す。


「ああ、蒼磨ならうまいこと逃げたみたいだよ。というか僕が逃がしたのか。蒼磨の部屋を先に見つけたんだ。鍵開けちゃったしさ。なんかあのティさん、ただもんじゃないかも。僕しばらく隠れて見ていたんだけど、追手に対して手裏剣みたいなの投げてたよ。追手に刺さって、あれ死んだのかな?バタって倒れたよ。一撃で。蒼磨は手ひどくやられている感じだった。うろたえていただけのようにも見えたな。ティさんは手裏剣投げながら去り際に、俺に向かってウィンクしてそれがなんかカッコイイというかカワイイというか、漫画的だったね。」


「そうそう、それよ。こんな所で時間を食っている場合じゃないよ。ここからなら、走って行くのが一番はやい。多分、蒼磨の店は開いたまま。ラッキーにも私が人形を入れた金庫は、彼らは気づかずそのままあるはず。店の隅のほうにあると思うから、ダッシュで誰か取ってきて」翠が突然大声で言った。


「俺が行ってくるよ。状況は一番分かってたし、カレー屋への道も覚えている」黑鉄は皆の承諾を得る前にトコトコと駆け出した。


「黑鉄がいなくなっちゃったけどそういえば、アラハバキとやらについて、教えていただこうか。お嬢さん」紅音は助けた恩を背景に強い口調で言った。


「あなた達には世話になったけど、知らないほうがいい事もあるものよ。あんまり何でもかんでも首突っ込むのはやめたほうがいいかもね」翠がうつむきながら言った。


「なるほど。そうくるの。じゃあこっちからも提案がある。実はそのアラハバキとよく似たものを僕は持っている」紅音が切り出す。


「え?うそ?どこ?見せて」突然翠は口調を変えた。


「君に見せると、また何やら分からん手をあの手この手使って交渉を無効化されそうだから、悪いけどすんなりと出すわけにはいかない」紅音は言った。


「あ、そのカバンの中にあるのね。小包さん、紅音君のカバンを私に頂戴。今すぐよ」翠が小包に目線を向ける。


「おいバカ!。そういう見え透いた手に乗るなよ。小包!」紅音は焦る。


「紅音、そうは言っても、お前だって単に拾っただけだろ。それ。翠ちゃん可愛そうじゃん。必要としている人に返すべきだろ」小包は、紅音に近寄る。


「お前という奴は、肝心な時には絶対僕の助けにはならないよね。黑鉄が代わりにいる時に話すべきだった。お前、本気で僕のカバン奪いに来る気だね。むしろ笑えてくる。どっちの味方なんだよ。分かった。とりあえず僕は7時には戻ってくるから。じゃね」


紅音は全速力でかけ出した。運動神経がいいだけあって、到底小包が追うのは不可能だ。


「もう少しだったのに~。あんたホントにバカね。もう少しできる子だと思った私もバカだったけど」翠が悔しそうに小包に吐き捨てた。


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