1ー伍 脱出の時間

紅音は、頭を整理した。なんであんな危ない奴が、僕達の名前を知っていて、調査してるんだ?しかも、この時間にここに来るのは偶然だぞ。なぜこんなドンピシャなんだ?


いや、ドンピシャというのは、僕の印象で、実は毎日あらゆる外人宿街で取り調べをしているとしたら、今の僕から見てドンピシャとしても、実はドンピシャでない、という事もある。


でもおかしい。僕達はベトナムでおたずね者になる言われは無い。まぁいいや。今やるべき事は逃げる事。こいつらに捕まったとしたら、良くて監獄、悪くて殺されるぐらいヤバそうだ。とにかく、逃げるしか無い。


どう逃げるか?言ってみれば、これは人生でも早々訪れない緊急事態だろう。電車で痴漢に間違われたサラリーマンが線路に飛び出してでも逃げるようななりふり構わぬ必死を持てるかどうかが勝敗の分かれ目だ。中途半端な手を使っても、あいつらはプロだ。逃げられない。思い切った手を打つべきだ。


選択肢としては、屋上から屋根伝いに逃げる、火事を起こしてドサクサに紛れる、うーん。どれもハイリスクだが、結果は不明だ。ここはオトリ作戦しか無いか。できるかな。小包に。不安だが、それしか打開策は無さそうだ。一瞬で紅音は頭を整理して、二人のいる部屋に駆け上がった。



「おいっ、大変だ小包、実はそこで、めちゃ滅茶カワイイ日本人旅行者の女の子と知り合った。戦争博物館行くらしい。戦車の前で待ち合わせして、その後一緒に遊ぼうって事で一旦別れた。

でもさぁ、正直僕、戦争博物館とか興味無いんだよね。お前代わりに行かない?なんか僕疲れちゃってさ。今日はもうこの辺でぶらぶらして終わるよ。その子は日本では、大阪に住んでるらしい。お前普通に会える距離じゃん。僕は東京だからどうせ今後会う機会も無いから今回は譲るよ。2時に約束してたから、今から早いうちに先回りして行っておいても悪く無いよね。周りのカフェとか、バーとか下調べするなら、早く行ったほうがいいだろうし。いいね。2時だよ。千載一遇のチャンス。お前のバーチャル彼女なんか目じゃないよ。」


小包は明らかに計略にハマってくれたようだ。小包の癖だが、陰謀や策略を練っている時に出る、舌なめずりをしている。


「なんか、一気にまくしたてて紅音らしくないね。なんかクサイなぁ。俺をハメようとしてない?まぁでも条件としては悪く無い。言っとくけどお前、賭けの事も忘れるなよ。例の奴ね。」


「ああ、忘れてないよ。ものにできたらお前の勝ちだ。賭けは二人分の豪華なメシだったよね」


「黑鉄はどうするの?いいのか、俺がものにして」小包は試すように聞いた。目は遠慮しろよと訴えている。


「どっちでもいいけど。別に。今日はこの辺りも面白そうだから。まぁ、そんなに目で訴えるなら、俺は紅音と一緒にぶらぶらしてるよ。ダメ元でやってみたら?その代わり、ちゃんと誘い出さなきゃ賭けの勝利は認めないぞ」小包の目が輝くが、サッとまた冷静な顔を装った。


「そこまで言うなら、代わりに行ってやってもいいけど。後でまた連絡するわ。そうだな。先に下調べも兼ねて早めに行っておくか。」小包が鏡を見ながらテキパキと髪をセットしだす。


「はやく行けよ。2時だよ。あ、あとバックパックまるごと持って行ったほうがいいね。なんか、バックパックをそのまま奪う空き巣がこのバックパッカー街に最近多いらしいよ。大して重たい物じゃないよね。無くなる事考えたら、それぐらい安いもんだよ。せいぜいチャンスを掴んでね。ところで、何かトラブっても、しらを通すのが一番だよ。警察とかに捕まっても、下手にしゃべったらむしろ面倒になる。どこに泊まっているとか聞かれても誰にも言わないほうがいいよ。一言もしゃべらず、堂々としてパスポート見せれば大体解決するから。ほら、パスポート。落としちゃだめだよ」紅音は小包にパスポートを渡し、追い立てた。


「なんかあったのか?」小包が出て行ったのを確認して、黑鉄が切り出した。


「説明している暇は無いよ。究極にやばい事が起きている。小包は、このまますぐ捕まると思うけど、あいつが言いつけどおり、黙ってパスポート見せれば、なんとかなるはず。なんか知らないけど、僕達2人が、目茶目茶やばい軍人に追われているみたいだ。名前が割れている。やばいと言っても、軍人だから、小包が僕達の仲間とバレなければ、手荒なマネはできないだろうね。でも、しばらくはアイツを取り調べて、そこに奴らのリソースが集中する。そこのスキを見て、逃げよう。」


「分かった。」黑鉄は、いつもどおり、何考えているのかわかりにくい表情の無さであっけなく素直に返事した。


「変なヒゲをたくわえた男が親玉ね。あいつらは今、3人だけでこのメイン通りを巡回しているように見えるけど、私服の調査員も紛れ込んでいるだろうし、ちょっとした事件がさっき路上であって、道には人が全然いない。多分、小包が100メートルも歩かないうちに、奴らは小包を発見して確保する。でも小包にはバックパックを持たせているし、すでにホテルにチェックインしているとは思わない。もしこのホテルに3人で泊まろうとしているとバレたら、小包は生きて帰れないかも。そこがリスクと言えば最大のリスクだね。でも他により有効な選択肢も無いね。」


「続けて」黒鉄は無表情で促した。


「ヒゲの男が小包を尋問する時、このゲストハウスを横切り、焦点を小包に合わせた瞬間、僕達はこのゲストハウスの正面から普通に出て、逆方向に逃げる。で、すぐ先を曲がり、となりの大通りでタクシー捕まえて、取り敢えず直進する。5分ぐらい走らせて、途中でタクシーは降りて、もう一回タクシーに乗って、今度はレンタルバイク屋に行ってもらって、バイクで戦争博物館まで行く。どう?質問を受ける時間は無いけど、より確かな逃げ方があれば提案お願い」


「中々良いと思うが、実はこの部屋をさっき調べていたら、隣の家とつながっている事が分かった。で、隣の家というのが、どうも売春宿で、上がタコ部屋の寮になっているみたいなんだ。さっき小包が1人で盛り上がっていた。売春婦だろうから、セクシーなアオザイ衣装とか持っているはず。皆、お姉さんたちは、夜の仕事だから今は寝てる。つまり服を借用するのは可能だ。」


「さすが!そっちのほうがより安全だね。何しろ最大の懸念事項は、僕達が逃げる時に、それを小包が見つけて、叫ぶ事だから。あいつ、眼鏡とかずっとしてないから、多分視力だけは良さそうだからね。よし行こう。」


隣へ移る穴は、まるでベトナム戦争時に活躍した地下トンネルのような細さで、匍匐前進ほふくぜんしんで進んでいくと、いきなり大股びらきで、若い女が3人が川の字で寝ていた。


そっとまたいで、階段を降りていくと、確かに更衣室のようなところがあった。案の定、アオザイ衣装が並んでいる。黑鉄を見ると、予想が当たったからと言って、とくに自慢気でも無く、静かな表情をしており、紅音は感心する。僕ならちょっとは、自慢するだろうなと。


それで、さっそく着替えて、念のため簡単に化粧もする。着てみると分かるが、かなりごつい胸パットが内臓されていて、パッと見、女っぽく見える。素材がストレッチっぽいので、長身の2人にも、それほど違和感が無く、着ることができた。足のすそを見ると、不自然だが、そこまで一瞬で判断はできないだろう。ラッキーな事に、青い髪とかのカツラも置いてある。こういうのが好きな外国人とかも多いんだろう。


お互いの顔を見ると、紅音は元々女性的で丹精な顔立ちの為、むしろ普通の女よりも綺麗なんじゃないかと黑鉄は思ったが、あえて口には出さない。足もすね毛が生えない体質なのかツルッとしていて、そこらの女より美脚だ。


紅音から見た黑鉄は、正直、こんなブスな売春婦がいたら嫌だろうなという感じのひどい仕上がりだった。決して、容姿が悪いわけでは無いが、女性的とは離れた容姿だし、体系的にもゴツゴツしており、相当な変態じゃないと、これは抱けないなと感ずる。大体、口紅が赤すぎて気色悪い。


「まぁ、いいんじゃない。よし、このまま下に降りて、機を伺おう。」紅音は苦笑をこらえて言った。


下に降りると、早くも小包が恐らく捕まっているのだろう。物々しい雰囲気が嫌というほど出ている。となると、あのヒゲの男はそろそろこの前を通過して小包のほうに向かう。距離が10mぐらい離れた所でタイミングを見て、平然と2人は逆方向に歩こうとしたが、すぐに異変に気付く。


やばい、あれは検問だ。あの交差点にいる奴らのほとんどは、ヒゲの仲間だな。紅音の頭の中で、あのヒゲの男とスキンヘッドの白人の対決が思い出された。あれを見る限り、 もし捕まったら、何されるか分かったものではない。頭がボーとする。本能が近づく事を拒絶する。


「あっちへ行くしか無い。小包がいる所はタクシー乗り場だ。あいつも、タクシーで戦争博物館に行こうとして、あそこに行ったんだろう。まだ封鎖はされていない。普通に白人が今乗った。正面突っ切って行こう。変装したかいがあった。」紅音の承諾を得もせず、黑鉄はヒゲの男の方に向かう。


それしか選択肢が無いし、決断は早いほうがいい、という事だろう。紅音は正直、恐怖心から逆方向に歩きたくなったが、ここは仕方なく黑鉄に従った。右手に小包とヒゲの男を意識しながら、呼吸を乱さず、タクシーに合図する。横からヒゲの男の声が聞こえる。


「これは、日本からいらっしゃったのですね。ようこそベトナムへ!失礼ですがお名前聞かせていただけませんか?」妙に紳士的に、ヒゲの男は小包に問いかけていた。


小包は、オロオロするも、紅音の言いつけが効いたのか、パスポートを見せただけだった。それを横目に、2人はズケズケとタクシーに乗り込み出発した。紅音は通りを曲がった瞬間、安堵の中に目を瞑った。



ファングーラオの雑踏から抜け出ると、大きな通りが開ける。白人、ベトナム人カップル、バドミントンを汗だくになりながら続ける老夫婦を見ていると、かなり緊張が続いていたものの、俺達以外の世の中は普通に平和だという事が確認できて安心した。


とは言え、ここが白昼堂々ジャンキーとドラッグの売人が行き来する事でも有名な9月23日公園だ。確かに奥のほうを見ると、怪しい男がウロウロしている。2人は、カツラを取って、アオザイを脱ぎ、タクシー運転手を驚かせた。


バイクレンタル屋でバイクを借りる頃には、2人とも落ち着き、元の平常心が完全に戻っていた。


「黑鉄、ちょっと怖いが、お前の例の能力で、小包が2時までに戦争博物館にやってくるかどうか、判定できる?」渋滞するバイクの群れをゲーム感覚でかわしながら紅音は言った。


「ああ、できると思うが、もうそろそろ時間だし、そんな事しなくてもいずれ分かる事だ。」黑鉄はあまり乗り気ではない様子だ。


「あんまりやりたくないんだよね。正直。なんか、あんまり頻繁にやっちゃいけない気がする。もしかしたら、やる度に寿命とかが縮んでいるかもしれないし、回数制限とかあるかも知れなしさ。今小包が来るか来ないかが分かった所で、あまり大差は無いよ」黑鉄は、担々ともう一度説明した。


「お、黑鉄も、そういう非科学的な事考えたりもするんだねー。寿命が縮むとか、さすがにそれは無いでしょ。意外。意外」挑発気味に紅音は言う。


「いや、そういうわけじゃないが、まだ「あれ」が何故できるのか、説明できないし、俺の頭が壊れただけなのかもしれないし、そんな事ができたら卑怯だろ。大体」黑鉄は反論するように珍しく大きな声で話す。


「いいじゃん。他人にとって卑怯な事はお前にとっては武器になる。大体、誰も信じないよ、そんな事。卑怯やり放題。うらやましいね。お前が突然、不確実性が分かるようになった、と言い出した時は、確かに数学の勉強やりすぎて頭おかしくなったかと思ったけどさ。どう?」


バイクを走らせながら、黑鉄は一瞬だけ遠い目。そこで、突然バイクは転倒した。幸い対向車もおらず、ただ単に突然転んだ格好になり、周りの人がクスクス笑っている。外国人が直線ですっ転ぶ姿は確かに面白いだろうなと思いながら黑鉄は立ち上がる。


「大丈夫だ。あいつは多分来るよ。少なくとも捕まってはいない」ゆっくりとバイクを起こしながら、黑鉄は冷淡に答えた。


紅音は胸をなでおろした。他に方法が無かったからとは言え、オトリに小包を差し出した罪悪感が重しとして乗っかかっていた。


「それはよかった。ところでさ、 僕、逃げる時、金目のもの以外は大体置いてきた。背に腹変えられないからね。荷物守って捕まるのもダサいし。だけどこの革靴だけは持ってきたんだよ。これ気に入っててさぁ。で、小包の心配が晴れて、何が心配かって、ベトナムって今雨季でしょ。ベトナムの雨はすげーらしいじゃん。威力が。」


「分かった分かった。今答えてやるよ。」黑鉄が、またちょっと硬直したように見えた。


「俺達が戦争博物館に着くまでに雨が降る確率も、小包が助かる確率も残念ながら同じ。100%だ。さぁ、スピードマックスで行こうか」


「早く走っても100%雨降るんだったら、今更仕方ないよー。ベトナムの雨って、あの、パンツまでびしょびしょ級の奴でしょ。開き直るしかないね」紅音は、投げやりに答えた。


「いや、無駄ではないよ。濡れる時間は減る」黑鉄はエンジンを大げさにふかして走りだす。


「そうだ、決まっているからと言って足掻くのは無駄じゃない」黑鉄は念を押すように言った。


まだ、慣れない道路だから、マップで小包がナビをしながら、黑鉄は慎重ながらもテキパキとギアを上げ、紅音はそれに続いた。


「しかし、不思議だよね。いつからそんな事できるようになったんだったけ?不確実性とやら。」横にしっかりついていきながら紅音が言う。


「正確には、2010年8月15日」

黑鉄は、寂しげにも、懐かしげにも見える眼差しで反応した。


「お前から、確率と不確実性は似て非なるものという話を真面目にファミレスで聞いていた頃に、僕も郷愁を感じざる得ないね。確か、確率と言っても、論理的確率と統計的確率という考えがある、とか、いきなり言い出したのが面白かった。サイコロ1回振ったら1が出る確率が1/6というのは論理的だが、サイコロ1億2千万回振って、1が1999万9900回〜2000万100回に収まる確率が99.9%以上だという事は数学を使えば計算できるから、サイコロで1が出る確率は1/6だと言うのが統計的確率であり、意味合いが違うという話だったような」


バイクを最大に飛ばしながらも紅音は饒舌に話す。


「不確実性と確率は違う。現実の世界は、物理学の思考実験を行うような理想化された状態には無く、実際は明日何が起こるかは誰にも計算できない。明日、晴れるか、雨が降るかを一生懸命解析しても、現実にはそれどころか明日に核戦争が起きて地球が破滅しているかもしれないんだ。不確実性が原理的に算出できないとはそういう事だと思っていたが、なぜか俺には不確実性が充満している現実世界の未来の事が、確率的に数値化されて見える、というか感じられるようになってしまった訳だ。ここで言う確率、というのは論理的確率でも統計的確率でも主観的確率でも無く、便宜的に使わせてもらっているだけの言葉だけどな。未だに実は俺は植物人間になっていて、ベッドで夢見ているんじゃないかと思う事があるよ。それぐらい理解不能な状態があの時から続いているからね」


風が突然強くなり、ポツポツきたかと思ったら数秒後にはスコールが始まった。受け入れる準備はできていたと言わんばかりに、2人は黙ってずぶ濡れになりながら戦争博物館を目指す。




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