風のしらべ -旅行鞄の中の夢編-
出雲想空
プロローグ 白昼夢
ひとーつ。
ふたーつ。
青白い
ここはどこで、どういった世界であるのか。
現実の事象なのか夢なのか、はたまた何らかの過去や記憶であるのか。
いや、そもそもこの事象が、自分や他人のことなのかもはっきりとわからない。
ちょうど吹雪は弱まっていた。
だが、信じがたいほどに冷えきったこの世界は、ただ、ただ重く、暗く、その色彩はおろか、ときに雪の白ささえ判別できなくなる。
ふいに、一つの光が
と、すぐにもう一つの光も、つられて消える。
ほんの数秒間だったろうか。
あたりには静寂が芽生えていた。
するとまた……
ひとーつ。
ふたーつ。
青白い靄に見え隠れする二つの光が、じょじょにこちらへと近づいてくる――
***
汽車は
煙突の鼻先はようやく落ち着いた。
ふたたび先頭の客車内では、突き上げるレールの継ぎ目を感じられるようになった。
継ぎ目は何度も車輪をつたい、規則正しく木の床を叩いてとおり過ぎていく。
その客車中央には、不思議な旅人がいた。
彼は腕を組み、革の帽子を膝に抱え、横座席の窓側にもたれて静かに眠りに就いている。
ときおりレールの継ぎ目の音に、銀色の髪が小刻みに揺れる。
鼻筋のとおったきれいな顔立ちは、穏やかに崩れない。
少年というよりは青年だろうか。
旅人は二十歳か、そこらは超えていると思われるが、これまで長い歳月を重ねてきたような、妙に落ち着きを払った印象が深い。
それとは反対に、個性的な深緑のジャケットに重厚で歩きにくそうな黒いブーツなど、一般的な旅人の服装とは、どこか異質を放つ
そんな彼の首もとには、ひときわ目立って、わりと大きな〈青いもの〉がぶらさがっているのだった。
けれども、それが何であるのかはわからなかった――
やがて汽車は、初夏の匂いをわずかに添え、色濃く影の落ちる森へ入りこむと右へ斜めに傾いていく。
くねくねした木々のアーチをくぐり抜けるように、車体は大きく右カーブを描いて、黒い煙を螺旋状に巻きこんだ。
乗客のほとんどは大きく咳きこみ、傾いた車内を必死になって窓を閉めにかかろうとする。
「えー、本日はご乗車、まことにありがとうございました。まもなく終点、終点の『ヘイルハイム』。なお、西方線に乗り換えの方は……」
客車前方にある壁棚の上。
色あざやかなオウムが羽をばたつかせ、よくとおる声でアナウンスをはじめた。
混みあった車内の客は、荷造りや身支度をしはじめ、降車口に向かって、さあ急げとざわつきだす。
すると、きゅうに聞いたこともない、さまざまな言語が飛びかいだした――
quaak! qwe qwe? quaako! qwe qwe qwe?......
kef kef. gaf gaf.
poparap? pohoho!
kohuugo ton ton……
3人の子を連れた、水掻きつきの三本指の
ほかには、色あざやかな革の
降車口に並ぶ面々は、奇妙なものたちばかりいる。
この世界──「マーヴル」──では、もうずいぶんと見慣れた光景である。
ほどなくして汽車は、白い煙を車輪の下から撒き散らして止まった。
焦げついた臭いが、窓枠の隙間から入りこむ。
サンドベージュの石畳のホーム。
白い壁。
オレンジで統一された、柱や屋根、
長大で
まもなく駅員が扉をあけた。
降車口に集まった客は、霧のことなどすっかり忘れてしまったかのように、意気揚々と降りていく。
ついでに、アナウンスを終えたオウムも、外の雑踏へと紛れていった。
もう、そこに残るのは、旅人と忘れ物と太陽の
車内の空席は新しい陽光に占有され、ちゃっかり陽だまりをつくっていた。
「もしもし? お客さん、お客さん!」
見まわりをしていた大きな身体の駅員が、眠りつづける旅人の前まで歩み寄ってきていた。
駅員は、肩を軽くたたいて彼を起こそうとしたが、起きる気配はない。
次に駅員は、旅人の肩に手を置き、軽く前後に揺すって起こそうとする。
「お客さん! もしもし、お客さん!」
耳もとで駅員が呼びかけると、ようやく、旅人はうっすらと目をあけた。
陽光がまぶしかったのだろう。
彼は額に手をかざし、窓から差しこむ光を
紫水晶のように透きとおった瞳には、ぼんやり――二本足で立つ大きなワニ
旅人はしばし、目の前のワニ人を見つめると窓の外を見やった。
まっ白を下地に、オレンジの映えわたるホームは、すでに閑散としている。
旅人は、すぐに状況を呑みこんだようだった。
「あぁ……ずいぶん、寝坊が過ぎた……。あの、申しわけありませんが、ここは?」
旅人は、少し微笑みながら、まっすぐワニ人に向きなおった。
「えっ、えぇ。ここは、終点の『ヘイルハイム』です」
「あぁ……そう……」
旅人は少し考えるように、鼻の頭を指で
ワニ人は、そんな彼を見て、
「その……お疲れのところ申しわけないのですが、もうじき、この列車は〈回送〉に変わりまして……」
と、また申しわけなさそうに、頭のうしろを手でかいた。
すると旅人は、
「あー、〈回送〉ね……ちょうど、僕も〈回想〉をしていたようです……夢中になるほど」
と言って膝上の帽子を手に取り、ゆっくり立ち上がった。
「はっ? はぁー?」
わけのわからない旅人の返答に、ワニ人は困惑しながらも、律儀に回答を模索しようとした。
旅人は、そんなことはおかまいなしに、両腕をゆっくり上に突きだし、力強く背伸びをしてみせる。
ちょうど雲に隠れでもしたか、陽射しがきゅうに弱まった。
旅人も。
ワニ人の顔も。
あたりの現実も。
しっかりと彫が浮かび上がり、把握することができた。
窓から見える柱時計は、正午を過ぎたところを示す。
どおりで陽射しが強いわけである。
だが、いったんは露わになった現実も、そう長くつづくものではなかった。
いつしか陽光は、たった今、互いの目の前で描いていた絵を、軽くスポイトの水でぼかすように遮った。
彼らの視界を、現実を、意識を……午後の光は、しつように邪魔しようとしてくる。
「こう、午後の陽射しがまぶしくなると、いったいどれが現実で、どれが〈夢〉なのか、よくわからないものですね……」
旅人は、窓側のフックにかけておいた、同じ茶色のフードつきマントとポンサックを手に取り、ワニ人に会釈するとそのまま汽車を降りていく。
陽射しを背に、ぼんやりとたたずむワニ人の時間が、一瞬、止まったかに思えた。
「えっ……あぁ! なるほど!!」
ワニ人は、慌てて旅人を追いかけた。
そしてホームに飛び出すと、勢いよく袖をまくり、腕時計を確認しはじめる。
「あ、あのうっ! 本日の『
ワニ人は、また頭のうしろを手で掻き、申しわけなさそうにうつむいて、ふたたび時刻を確認しようと、しきりに腕時計を見た。
片目をつぶり、鋭い目をさらに鋭く、小さな時計の針を見まいと、腕を遠くへ、近くへ。
頃合いのよい位置を見つけ、ワニ人はぐっと腕に力を入れて止める。
しばらくしてワニ人は、やっぱり、という表情で苦笑いした。
晴れ間が多く、太陽の恩恵を授かるヘイルハイムは、太陽を「アポロ」と呼び、
この街では、その陽光の祝福を最大限にあずかり、祈りを捧げようと、街のシンボル、「アポロの塔」にある仕掛けが施されていた。
それは太陽が傾きはじめ、一定の気象を満たしたときに、ほんの数分間、街全体をやわらかな光に包みこむという〈カラクリ〉だ。
その現象は、やわらかな陽光の質と太陽の傾きから、「アポロの
「傾斜の刻」とは、その予定時刻で、「本ノ間の日」は、その現象が、今年一番となる日のことであった。
「ふーん。『傾斜の刻』ね……」
朗らかな笑みをこぼし、旅人は、ボンサックを肩にかけなおす。
ポンサックに括りつけられた銀の懐中時計が、ちかちかと光を反射させた。
彼は帽子に手を軽く添え、もう一度ワニ人に会釈をするとマントを
「あぁ! 一つ、いい忘れておりました! お昼は、ここの駅の社食を利用することもできます。改札付近の駅員にたずねてみてください!」
「そう! わざわざありがとう!」
旅人は、顔を少しうしろに見やり、片手をふって別れを告げると、
どこからともなく、光の射しはじめた午後の微睡みの中へ、靴音の余韻だけを残し、消えていく――
ワニ人は
午後の陽射しはいっそう力強く、しかし、やわらかにあたたかい。
その光は、一風変わった旅人の一部始終を、印象的にも幻想的にも映し出していた。
すると目の前の現実は、どこか疑わしく、今にも忘れてしまいそうになる。
「私は、変な『夢』でも見ていたのか……?」
ワニ人は、旅人の自由気ままで、突拍子もない言動に困惑しながらも、とりあえず、せいいっぱいの回答を述べられたはずだった。
しかしながら、この不思議な感覚に気がつくと、その達成はうれしくも、少し残念な気持ちに傾いているのだった。
それは、駅員という肩書きにとらわれず、「私」というもっと自由で、もっと素直な性質で、その旅人と同じように交流できなかったものかと……、せっかく、これが「夢」であるならばと……
ワニ人は、この一部始終が、〈白昼夢〉ではないかと思いはじめていた。
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