第7話 愚かなわたしへ



 ――あれは六年前のことだわ……。

 セレリアーナは秋晴れの空を仰ぎ、遠い目をして、回想に耽る。

 六年前、異端の烙印を押され滅ぼされた古の王国ファーブニルから、命からがら脱出し、国境を隣接するクロイツ帝国の辺境アルシュにあるエーファ城に、住み込みのハウスメイドとして潜り込んでまだひと月も数えていない頃のこと。

 ファーブニル王女としての過去をひた隠しにして、ハウスメイドとして掃除に精を出していたセレリアーナをメイド頭の女性が呼び出した。

 何でも、城の主クロレンスがセレリアーナに用があると言う。

 王族と庶民の垣根が低かったファーブニル王国ならいざ知らず、帝国の第二皇子が一介のメイドに何の用かと、目を見開いたセレリアーナだけでなく、メイド頭も驚いていたことを思い出す。

 彼女自身は、秘密がばれたのではないかと、心臓がキリリと痛んだ。

 セレリアーナは異教の魔女として手配されていた。捕まれば、母や従姉妹たちのように火刑に処されるであっただろう。

 ――どういうこと? 私、ちゃんとメイドらしく振舞っていたわよね?

 他のメイドたちを観察し、彼女たちから浮かないよう気を配り、皆が笑うときは故郷を失くした痛みも悲しみも表面上には一切出さずに笑顔を作った。笑い声はどうしても出せなかったけれど……。

 当時は十六歳。クロイツ帝国では一応、成人と見なされる年齢であるが、まだまだ子供っぽさが抜けない新人メイドたちの中では、セレリアーナは落ち着いていると評判だった。

 ――もしや、それがいけなかったの?

 メイド頭に案内され、城の三階へと向かいながら、セレリアーナは自分に落ち度がなかっただろうかと、自らの行動を反芻していた。

 あの日の感情は、六年が過ぎた今もまざまざと思い出せる。

 まだ血が滲み出ているような心に、平素を装うことは傷口に塩を塗られるかのような、苦痛だった。その痛みは忘れようとしても忘れられない。

 両親はなく、厳格な祖母に育てられたとメイドの採用面接の場では話していた。その祖母が亡くなったので、働くことにした、と。落ち着いて見えるのは、きっと祖母の影響だと、仲間うちの話ではそう微笑んで答えたのを覚えている。

 ファーブニル王家の姫として、国家の代表として、礼儀作法は身につけていたから、一般的な十六歳の娘より落ち着いて見えるのは当たり前だっただろう。祖母は昔、貴族の家に仕えていたので言葉遣いにも厳しかったということで、言葉に訛りのないことも誤魔化したつもりだった。

 ファーブニルでの王家は他国への外交面を任されるような存在だった。だから王家の人間は大陸で一番使われているローレン語を流暢に扱えた。

 クロイツ帝国はローレン語発祥の地であるので、言葉には問題なかったはすだ。

 ――何かおかしな態度をとったかしら?

 階段を一段昇るごとに、セレリアーナの頭の中では思考がめまぐるしく錯綜していた。先を行くメイト頭の後ろ姿は目に入っていなかったように思う。

 ファーブニルとクロイツでは、信仰する宗教から何から、文化が違いすぎた。その辺りで浮いた行動を見せてしまったのかもしれない――と、気が気じゃなく、あの日のセレリアーナは考えることを止められなかった。

 王国で一番敬われるのは、万物に宿る精霊たちだ。それは自然であり、また大地に息づく、動物や人といった全てのもの。ただ、ファーブニルを代表する立場であるからか、王家の人間は国の誰よりも精霊を敬い、精霊の声に耳を傾けてきた。故に、他の者たちより自然の変化に早く気がつき、天変地異を予言することもままあった。特にセレリアーナは精霊との交信が上手いと、巫女姫とも呼ばれていた。

 交信といっても、実際に精霊たちの姿が見えるわけではなく、風や木々たちの匂いを敏感に感じ取って、天候の変化を少し早く察していたくらいだ。そうした王家の巫女たちの意見が縒り合されることによって、ファーブニル王国は大陸の他の国々ほど天災の被害は受けなかった。それが唯一神アインスの信仰には目に余っていたことも、国が滅ぼされた原因だっただろう。

 何しろ、唯一神アインスは天災を自らを信仰しない人間たちへの罰だと、語っていたのだから。

 国のことを思い出せば、とりとめもなく悲劇へと辿りつく。

 押し殺した感情の奥で心が乱れそうになるところをメイド頭の声が鼓膜に触れて、セレリアーナは我に返った。

 重厚な扉の前でメイド頭はノックをし来室を告げた。応答があって、彼女はドアを開けると、セレリアーナに先に入るように促す。

 破裂しそうな心臓の緊張を黒のワンピースの上から身に付けた白いエプロンのスカートを握って鎮める。

 ぐっと奥歯に力を込めて顔が引きつらないよう覚悟を決めると、セレリアーナは室内に入った。メイド頭も続き、彼女は閉じた扉の前を定位置にしたようだ。

 セレリアーナは部屋の中央まで歩いたところで、どうしたものかと足を止めた。

 部屋には三人の人間がいた。一人はセレリアーナも知っている相手で、使用人たちを束ねる執事だ。その傍らに若い青年が立ち、真っ直ぐ行き当たった奥に、執務机が置いてあり、彼はそこにいた。

 金色の髪に緑色の瞳の青年は、先日、裏庭で遭遇した相手だった。身につけていた上質な生地の衣から察するに、身分ある人間だろうと思っていたが……まさか。

 セレリアーナは慌てて目を伏せた。

 彼がこの城の主であるなら、メイドという身分にあるセレリアーナが直視できるような相手ではない。

『面を上げなさい』

 傍らから声が命じる。そちらに目をやれば、二十代後半かと思われる青年が見目が良い顔立ちに厳しい色を滲ませて、セレリアーナを見つめ返した。

『こちらに呼ばれたからには、わざわざ紹介する必要もないだろうが……』

 これまた声に苦さを含ませながら、自らと部屋の主をセレリアーナに紹介した。そのときは、彼の苛立ちは自分に向けられているのかと思ったが、違っていた。

 その後の展開を思えば、当然だっただろう。

 栗色の髪と同じ栗色の瞳の青年は、第二皇子の秘書官アランだった。帝都から遠く離れたアルシュに居座ったクロレンスのお目付け役であったのだろうが、彼の苦労は六年が過ぎた今でも未だ報われたことはない。苦虫を噛み潰したような厳しい顔つきは、現在も変わらない。ただ眉間に刻まれた皺が濃くなったことが、彼の長年の苦労を雄弁に物語っていた。

『君を呼んだのは他でもない、殿下が是非君に――』

 アランの声が途切れたのは、当のクロレンスが椅子から立ち上がったからだ。床に敷かれた毛並みの深い絨毯が足音を吸い取って、彼はまるで氷った池の上を滑るかのように、セレリアーナの前にやって来た。

 クロレンスは眩しい笑顔でセレリアーナに微笑みかけてきた。普通だったら見惚れる笑顔であったけれど、先日、彼には泣き顔を見られていたので、セレリアーナは喉の奥で息を詰まらせた。

 まさか、あの出来事から自分をファーブニルの生き残りと繋げることはないだろうが――と、硬直するセレリアーナの手を取ると、彼は言った。

『セレリアーナ、俺と結婚してくれ』

 彼が告げた言葉に、部屋は沈黙した。まるで時の間隙に落ち込んだかのように、音が消えた。

 とはいえ、その沈黙は長くは続かなかった。

 呆然と、開いた口が塞がらなくなった四人のことなど全く気にする余地もなく、クロレンスはセレリアーナを口説き始めたのだ。

『その碧の瞳に射ぬかれて、俺は君に恋をしてしまった。寝ても覚めても君のことばかり考える。可憐な唇も細い指先も、その吸いつきたくなるような真珠色の肌も一人占めしたい。そういうことで、結婚しよう、そうしよう』

 セレリアーナの手を自らの手の内に握り込み、一人で勝手に盛り上がるクロレンスの言動は、六年が過ぎた今では珍しくもなんともない。

 だが、顔を合わせて二度目の相手からいきなり求婚されて、驚かない人間などいるものか。

 まして相手は帝国の皇子。そしてセレリアーナは掃除担当のハウスメイド。

 結婚など、できようはずがないことは誰の目にも明らかだった。この日を境に、城内で馬鹿皇子と呼ばれるようになるクロレンス以外は。

 その翌日には、この顛末が城内に知れ渡っていたことを受けて、セレリアーナは人の口に戸を立てられないことを実感した。

 秘密を守る決心が強固になったことは言うまでもない。

『…………何を、ふざけたことを言ってるんですかっ!』

 衝撃から最初に立ち直ったのは、秘書官のアランだった。わなわなと手を震わせ叫ぶ。

『話が違うでしょうがっ! 世話役を任じるんでしょう?』

『世話役?』

 セレリアーナは目を剥いて、アランを見る。クロレンスの求婚は秘書官の態度を見るに冗談だろう。それならば無視すればいいが、世話役に任ずるというのは聞き捨てならない。

 かつて王女であり、異教の魔女という秘密を持つセレリアーナとしては、あまり目立ちたくはないのだ。メイドの面接で接客役のパーラーメイドはどうかと誘われたくらい、彼女の容貌は美しく人目を惹いた。故に、誰の目に留まらない陰の仕事でなくてならないと、頑なにハウスメイドであることを求めた次第だった。

 もし要求が蹴られていたのなら、セレリアーナは別の潜伏先を探しただろう。幸いにメイドとして採用された。

 帝国皇子の城で、手配中の王女がよもやメイドとして隠れているとはきっと誰も疑わないだろう。この先も何事もなく日陰の身でいい、一日でも多く生き長らえることをセレリアーナは望んでいた。

 それが、何をどう間違って、皇子に目をつけられたのか。見た目がいいだけなら、宮廷を探せば幾らでも美貌の貴婦人は見つかるだろうに、何でメイドを選ぶのか。

『まったく、女性の近侍役など……私も反対なんだが。君を傍役に付けてくれないと、毎晩私の耳元で「アルガ・マリーナの舞」を踊り歌うと脅されては、承服せざるを得ず……』

 ぶつぶつとアランは愚痴をこぼす。「アルガ・マリーナの舞」とやらが何なのかわからないが、

 ――負けたの? そんな脅しにっ?

 自分の未来がわけのわからない理由で、変えられようとしていることにセレリアーナは呆気にとられた。

 現在に至って、深く考えれば秘書官のアランも主であるクロレンス同様に、相当おかしいのではないかという気がしないでもない。

 幾ら馬鹿皇子とはいえ、まったく制御できないというのは秘書官が無能なのではないか? という疑問に突き当たる。

 ――いえ、振り回されているだけだから、そう言ったら可哀想だわ。私も相応に、可哀想だと思うけれど……。

 セレリアーナは現実逃避を止めて、今を直視することにした。

 ……そう、あの日に求婚されて、私は断ったのよ。

 それは当然だっただろう。何しろ会って二度目の相手と結婚など論外であるし、セレリアーナとしてはこれ以上ない最高の隠れ場所――メイドであることを死守すること以外考えられなかった。

 ……もっとも、ごり押しされて近侍役に就くことになったけれど。

 だが、しかし。クロレンスの口説きは六年が過ぎた今でも続いている。

 そして、この六年の間に、セレリアーナは自らの内に密かに芽吹いたクロレンスに対しての恋心に気づいてしまった。クロレンスの突飛な言動が故郷を失くした孤独を癒してくれた。ときに本物と思わせる優しさを見せてくれたから。

 ――それすらなかったことにしたいけれど……。

 今日、セレリアーナはクロレンスからの命を受けて、町へと買い物に来た。そこへ先回りしていたクロレンスは、周囲の目を味方にすることで、彼女をお忍びに付き合わせようと計画したらしい。

 よもや皇子が町に一人でノコノコほっつき歩いているなど、当然ながら知られるわけにもいかない。彼の近侍役でもあるセレリアーナとしては、何としてもこのことを秘密裏に処理したい――クロレンスはその辺りまで見据えていた。

 帝位争いを避けるためにクロレンスは馬鹿なふりをしているという、噂を信じたくなるくらい、周到ではあった。

 だが、セレリアーナはもしかしたら皇子とメイドという身分にわだかまりなく並んで歩ける、唯一の機会かもしれないクロレンスの誘いを断った。

 ――断ったのよ、私は!

 六年間、何度も何度も繰り返されるクロレンスの熱烈な告白に、セレリアーナは心に嘘をついて、諦めて、胸の奥に閉じ込めてきたというのに。

 ――なのに、ずるいわ……。

 まるで何事もなかったかのように、クロレンスはセレリアーナの手を取るのだ。

 再び、払いのけようとするこちらを緑色の瞳で見据えて、彼は言う。

「セレリアーナ、俺は馬車に乗ってやって来たため、帰り道がわからぬのだ……置いて行かれると、二度と君に会えなくなる」

 その切実そうな瞳を前に、セレリアーナは空を仰いだ。

 もしかしたら、これもふりなのかもしれない……けれど。

 ため息を一つこぼして、チラリとセレリアーナはクロレンスに目を向ける。視界に入れたくなかった彼の全身像に眩暈を覚えながら、

 ――この人の場合、迷子だってことも本当にありそうだから、困るのよ。

 セレリアーナは六年前の秘書官同様に、クロレンスの意味不明な脅しに屈する愚かな自分を知った。



                          「愚かなわたしへ 完」

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