第6話 甘い言葉で嘘をついて


 正直なところ、予感がなかったと言えば、嘘になるだろう。

 セレリアーナは思わず引きつりかけた唇をきつく結んだ。しかし抑えようのない怒りが、手にしていた紙をぐしゃりと握り潰すのは止められなかった。

 その紙には、この帝都から遠く東の国旗用近くにある辺境の地――とはいえ、皇族が住まうエーファ城があるため、それなりに栄えたアルシュで評判の菓子店『花園でお茶会』までの道のりが、簡単な地図を用いて記されていた。

 今日、本来は掃除が主な仕事であるハウスメイドのセレリアーナは、エーファ城の主であり帝国の第二皇子クロレンスからの頼まれごとで、「薔薇のゼリー」なるものをはるばる城から歩いて買いに来たわけだが……。

 通りに面したガラス張りの店の軒先は、店名にあるように花の鉢植えが並んでいた。咲いているのはオレンジ色が鮮やかなマリーゴールド。花は客を手招きするよう、そよぐ風に花弁を揺らしている。そんな店先から店内を覗けば、ガラスのケースには食欲をそそる菓子が陳列されている。

 まだ時刻的に開店したばかりであるから、店内には客の姿はまばらだった。

 そのまばらな客の一人が、他でもなくセレリアーナの主であった場合の、胸の内に湧き上がった筆舌しがたい感情をどう表現すればいいのだろう。

 そのまま、セレリアーナの心を語れば、

 ――騙しやがったな、この野郎っ!

 だろうか。

 かつては一国の王女という肩書きを持っていたセレリアーナだが、メイドとして働き始めて六年の月日に同僚の会話から、とても王女が口にすることのない品ない言葉使いを無意識のうちに叩き込まれていた。

 実際、主の馬鹿げた行動を眼前にすると、罵り言葉が自然と出て来るから不思議だ。

 ぶるぶると握った拳を震わせて、『花園でお茶会』の店の前で佇むセレリアーナに、店内のクロレンスが気づく。

 彼はゆったりとした足取りでこちらに歩いて来ると、ガラス戸を開けた。

 髪を梳いて来るのを明らかに忘れたらしい寝癖がピンと立った金髪に、涼しげな目元の奥にひそむ緑色の瞳は、陽光を受けて輝くエメラルドのように美しく煌めいている。

 目鼻立ちがハッキリとした端正な顔立ちは、果てしなく寝癖が残念で堪らないのだが、それを帳消しにするような爽やかな笑顔でクロレンスは口を開いた。

「やあ、セレリアーナ。偶然だな」

 ――偶然と、言った?

 どの面下げて、そんなことを言えるのか。是非とも、その馬鹿頭に拳で聞きたいものだ。

 他でもなくクロレンスの頼みを聞いて、朝一番に菓子を買いに来たというのに。

 セレリアーナはこめかみに青筋を立てながら思う。

 いつもなら辛辣な言葉を直接、クロレンスの耳に入れてやっているところであるが、ここは彼の城ではなく、人目がある通りだった。

 菓子店の横にはドレスの仕立屋、靴屋が並び、通りの向かいには宝飾品店。花籠を持った少女が「花は要りませんか」と可愛らしい声で、売っている。こんななかで声を荒げて注目を浴びるなど、もってのほかだ。

 通りの先には、唯一神アインスを祭る教会の尖塔が見え、光り輝く太陽をかたどったシンボルがこちらを見下ろしていた。それは異教の魔女という秘密を持つセレリアーナにとっては、近づきたくないものでもある。

 アインスは天災や疫病とともに五百年前、今は神光国フォルミナードと呼ばれるその国の聖地に降臨した。

 享楽に耽り、権力争いで戦争を繰り返す人間たちに、制裁を与えるために降りてきたというのが始まりだ。アインスは自らを絶対唯一の神とし、人々を自らの下に従わせることで天の怒りを収めたという。

 アインスではなく、精霊たちを信仰してきた古のファーブニル王国は、アインスの教義が大陸に広がりつつあるなか、かの神の元に下ることを良しとしなかったため、異端として滅ぼされた。

 ファーブニルの生き残りであるセレリアーナからしてみれば、アインスは非常時にもっともらしいことを言って、天災や疫病を後ろ盾に恐怖政治を敷いただけのように思える。

 戦争が繰り返され焼き野原となった疲弊した地には、嵐に耐えるだけの余力がなかっただけだ。死体が増えれば、害虫や害獣が跋扈し疫病も広がるだろう。

 そんなときにアインスの強い声は人心を掌握し、争いに疎んでいた人々は武器を放棄した。平和になれば、死人は減る。生きる人間が増えれば、土地は再び整えられ、嵐により荒れ狂う河川の増水を前に対応できた。猛威をふるっていた疫病も沈静化していった。それはアインスの、神の御業だと印象づけた。

 次に天災が起こるとき、それはアインスの怒りだと言われた。アインス降臨以降の災いはアインスを信じない人々の愚行によるものと、信者は増えて行った。誰もが、天の災いを自分たちの責任にはしたくなかったのだろう。

 現在唯一神アインスは、聖地の奥から神官や説教師を通して、人々に語りかけるという。

 混沌とした世を平定したアインスの手腕は、セレリアーナとしても認める。だが、その他のものを否定し、ただ一つの存在だけを絶対と崇めるのは、万物に宿る精霊たちを信仰してきたファーブニルの民にはとてもではないが、受け入れられるものではなかった。

 そして、七年前。神光国フォルミナードで火山の噴火により、一つの町が死滅した。アインスの信者たちは災いの原因を求め、アインスを拒み続けたファーブニル王国にその責任を取らせるに至った。

 悲しみや怒りといった負の感情がときとして、人を狂わせることを身をもって知っているから、セレリアーナはアインスの信者たちに憎しみを抱かないようにして来た。

 故郷が辿った悲劇に苦いものが込み上げてくるが、セレリアーナの意識はもう一つの苦い感情にゆだねる。

 それは他でもなく、何よりもクロレンスの恰好が問題だった。

 ただでさえ、寝癖頭が残念極まりないというのに、彼の着衣がセレリアーナとしては許し難かった。

 今すぐクロレンスの首根っこを捕まえ、城に舞い戻り、着替えさせたい!

 クロレンスは明るい、明るすぎて落ち着きがなく品がない紫色の膝丈のコートの内に、大きなリボンタイ付きの赤紫色のドレスシャツ、卵の黄身が腐ったような色のベスト、水色のズボンという衣装に身を包んでいた。ズボンには白の水玉模様が入っているし、コートの裾にはフリルが付いているという仕様だった。

 ――道化師ではあるまいし!

 よりにもよって、その選択肢は何なのだと、指を突き付けて問いたい衝動に駆られる。

 それはセレリアーナがとてもクロレンスには着せられないと判断し、また、この衣装を何者が作らせたのか、知りたいような絶対に知りたくないような禁断の疑問を封じるべく、衣装部屋の最奥に突っ込んでしまっていたものだ。

 ――誰が、これを着せたの?

 今日はクロレンスの用事に出掛けることから、セレリアーナは彼の世話役を免除して貰った。他のメイドが皇子の世話をしてくれるだろうと思ったが、この時間帯から考えるに彼は相当早起きをして先回りしてくれたに違いない。

 寝癖頭が直っていないところからかんがみるに、クロレンス自身で着替えたと見て、間違いないだろう。そして彼は、護衛の連れがいないところから察するに、この外出を内密にして来たようだ。

 クロレンスの近侍役を任されたときは、嫌々で引き受けたものだが、この六年間、彼の衣装を選び着替えさせてきたセレリアーナとしては、今日の彼の装いが自分の見立てだと勘違いされることに恐怖を覚える。

 ――冗談じゃないわ、なんてことをしてくれたの、この馬鹿皇子っ!

 怒りと混乱は嵐さながら、セレリアーナの感情を掻き乱す。実に今さらな罵り言葉でセレリアーナは胸中で吼えた。

 彼のこの姿を城の人間に見られたら、間違いなく彼女が着せたと思われるだろう。

 何しろこの主は、女性であるセレリアーナにボタン留めを頼むという所業を平気でやってのける正真正銘の馬鹿皇子だった。

 いや、噂では第一皇子との帝位争いを敢えて避けるために馬鹿なふりをしているのだとも言われているし、セレリアーナとしてはそうであって欲しいと思っている。

 心の内では、秘かに慕っているクロレンスが馬鹿だとは思いたくないのが、乙女心だ。

 抱えている秘密を守るために、クロレンスの口説きには未来永劫、落ちるわけにはいかないし、クロレンスの真意を問うことも叶わないけれど。

 それでも、彼の馬鹿げた行動は故郷を失くしたセレリアーナの孤独を癒し、時折、彼の瞳に宿る熱には優しい思いやりを感じる。

 だから――。だから……。

 今日、お遣いの目的だった「薔薇のゼリー」なるものには、恋の媚薬が含まれており、それを共に食べた恋人たちは結ばれるという噂があった。それを聞きつけたクロレンスが、「共に食そう」と言いだした。

 そんな実に馬鹿馬鹿しい頼みごとを聞いて、城を出てきた。

 媚薬入りのゼリーを食べたところで、自分たちの関係が変わるわけではないことは重々承知だ。セレリアーナの秘密は下手すれば、クロレンスを窮地に追い込みかねないものだった。彼を守るためにも、秘密は絶対に明かされてはならない。

 ――そう、わかっていても……。

 甘い菓子を食べるくらいは、許されてもいいのではないかと。

 セレリアーナは自分が、クロレンスの甘い嘘に騙されたがっていたことを自覚した。

 頬に熱が昇る。それはきっと、怒りではなく……。

 だが、セレリアーナの心の内をクロレンスに知られてはならない。

 心を鎮めながら、セレリアーナは冷静沈着なメイドという、いつもの仮面を被って、クロレンスに語りかけた。

「まあ、クロレンス様。このような場で、お会いするとは思いませんでした」

 殿下という敬称もまた、この場では禁句だろう。ただの顔見知り、それぐらいの距離感が適当か。

 頭で素早く判断するセレリアーナに、クロレンスは微笑んだ。そうして立ちつくす彼女の手を恭しく取り、上目遣いに言って来る。

「セレリアーナ、ここで出会ったのも何かの縁だ。今日は、俺に付き合ってくれないか?」

 それは図々しい嘘だとわかっているから、セレリアーナは爽やかに微笑んで、彼の手を払いのけた。

「――お断りします」

「何故っ?」

 驚愕に目を剥くクロレンスは、騒ぎを避けるために、そして立場上、皇子である彼を放置できないセレリアーナが渋々ながらも承諾をすると思っていたのだろう。

 一瞬、頷きそうになったけれど。

 嘘に騙された屈辱を、胸の内の甘やかな期待以上に無理やり凌駕させて、セレリアーナはクロレンスをすげなく振ってやることにした。

 心にそっと、嘘をついて。



                        「甘い言葉で嘘をついて 完」

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