第5話 思い出の温度 

 



『――姫さまに、精霊たちの加護があらんことを……』


 セレリアーナは吹き抜ける風に、懐かしい声を聞いた気がした。

 俯いていた視線を上げれば、彼女の碧い瞳には所々に薄い雲を浮かべた秋晴れの青空が映った。穏やかな風に雲が緩やかに空を泳ぐさまを見上げて、煌めく太陽の陽射しに目を細める。

 ――こんな風に広い空を見上げるのは、いつぶりかしら?

 セレリアーナは暫し立ち止まって、流れる雲の行方を見守った。

 唯一神アインスの教義に反するとして、異端の烙印を押された古の王国ファーブニル。浄化という建前の元、セレリアーナの故郷は炎にまかれて滅んだ。その国から命からがら脱し、クロイツ帝国の辺境にあるエーファ城にハウスメイドとして身をひそめてから、六年が過ぎた。

 彼女が身を寄せているエーファ城は辺境にあれど、皇族が居住する城であるため防備に抜かりがない造りをしている。中央にある城を四方を高い塀で囲い城外と区切っていた。城に住み込みのメイドとして働くセレリアーナは、用がなければ外に出ることもなかったので、塀や窓枠に仕切られることのない広大な空は久しぶりだ。

 今日は主である帝国の第二皇子クロレンスの使いで、セレリアーナは町へ買い物に出掛けるところだった。

 城は町から距離を置いたところにあり、彼女は町へと延びる石畳の道をブーツの踵を響かせて歩いていた。馬車を用立てて貰うことも可能だったが、歩くことを選んでの道中だ。

 乾いた風がメイド服である黒のワンピースの上に羽織ったコートの裾を揺らす。質素な焦げ茶色のコートに同色の帽子に、きつく結いあげた苺色の髪を隠したセレリアーナは、ファーブニル王国の王女という出生を隠し、目立たないように生きてきた。

 何の因果か、皇子クロレンスに目をつけられ、掃除婦として雇われたはずなのに彼の近侍役に任命され、日々、皇子に口説かれるという……ありがたくない目立ち方をしているのは、どこで何を間違ったのやら。

 今日の用事もまた、そんな傍迷惑なクロレンスがどこからか仕入れてきた馬鹿げた噂の――巷で評判の薔薇のゼリーを食べた男女は結ばれるというもの――代物を手に入れるためのお使いだった。

 それを共に食べようと言って、クロレンスはいつもの如く、口説いてきたのだ。

 ――噂を真に受けて、馬鹿みたいっ!

 セレリアーナは先日の一件を思い出して心の中で毒づくが、その反面でクロレンスが自分を噂に頼っても求めてくれるのが嬉しかった。

 周囲から馬鹿皇子と呼ばれるクロレンスだがセレリアーナは好意を持っていた。

 何だかんだと言いつつ、クロレンスの頼みを訊いて、町に出掛けようとしている時点で自分も相当に甘いのではないかと、嘆息がもれる。

 もっとも、秘密を抱えるセレリアーナは、クロレンス本人に対して口が裂けても本音は打ち明けられない。

 馬鹿な言動を繰り返す皇子だが、彼のおかげで故郷を失くした傷は癒されたのだ。それにクロレンスは皇帝位争いから逃れるために、わざと馬鹿なふりをしているという噂もある。その真偽はセレリアーナにもわからないし、彼に問うこともできないが。

 何にしてもクロレンスは帝国の皇子であり、皇子付きのメイドという立場は、異教の魔女として手配された過去を持つセレリアーナの秘密を隠してくれる。おかげで城内での悪目立ちを除けば――皆、どう考えても、メイドと結婚できるはずがないのだから、皇子のたちの悪い冗談だと思って本気にしていない故に、現在は静穏な暮らしをしていると言えるだろうか。

 今のところ、セレリアーナをファーブニル王国の王女だと疑っている者は誰もいない。

 掃除に命を懸けていると言っても過言ではないような、徹底した綺麗好きの彼女は、室内に飾られた陶器の壺や皿を綿埃一つ寄せつけることなく磨き上げるのが得意だった。彼女が掃除していった後には塵一つ落ちていない。暖炉の灰に汚れることもいとわないセレリアーナが高貴な生まれの人間だと、誰も思いやしない。

 故に、セレリアーナの秘密は守られていた。彼女としてはこのまま何事もなく、秘密を守り続け、一日でも長く生き延びたいと思っている。

 それが何よりも、故郷で散っていた者たちに報いる方法だった。万物に魂が宿るという精霊信仰は、粛清された人々の魂が生きている者の記憶の中で生き続けると教えてくれていた。

 セレリアーナが忘れない限り、彼らの魂は優しい思い出として、彼女を見守り支えてくれる。セレリアーナの生が彼らの生きた証にもなるのだ。

 そのことに思考がいたり、

『姫さまに、精霊の加護があらんことを』

 穏やかに微笑み、そう祝福を与えて去って行った面影をセレリアーナは思い出して、そっと胸元に手を置いた。

 彼と別れた日の空も、哀しいくらい青く澄んでいた。

 このクロイツ帝国までセレリアーナを導いた騎士は、エーファ城に潜り込むのに必要な事を教えてくれた。その後、メイド仲間に混じって、彼女たちを観察することによってセレリアーナは身分を隠し通すことができたのも、彼の適切な助言があったからだ。

『姫さまはもう、王女ではありません。クロイツの人間です。彼らにとって、ファーブニルに起こったことは他人事でしかないのです。そのことを忘れないでください』

 孤独に泣いたのを一度、クロレンスに見られた以外、悲しみも痛みも怒りも苦しみもセレリアーナは、呑み込んだ。そうしたものは判断を狂わせるから、常に冷静沈着であることを自分に課した。

 脱出行の際は、ボロをまとい身を汚くした。己の体臭に吐き気を覚えたこともあった。足の裏の皮が剥げて血が滲み、歩く度に激痛が身体の芯を走り抜けた。泣きたくなるのを喉の奥で殺しながら、ファーブニル王国とクロイツ帝国を隔てる峻厳なクローネ山脈を越えた、故郷からの脱出の道程を反芻すれば、メイドの仕事が辛いなどと愚痴をこぼす余地などない。

 唯一神アインスの名のもとに母や従姉妹たちが――多くの民人が魔女として火刑に処されたという事実を聞かされた後では、生きていられるだけ幸いだと思う。

 恋をして、その恋は恐らくは叶わないだろうけれど、クロレンスの傍にいることが許されるだけで十分だ。

 今はそう、受け止めている。我儘に全てを望むほど、子供ではない。もうセレリアーナは二十二歳という年齢に達していた。望み過ぎては、クロレンスを窮地に追い込む可能性があることを理解している。

 報われなくても、願う想いがあることを知った。

 あの日の私は幼かったから、彼の考えがわからなかったけれど……。

『ここでお別れです、姫さま』

 セレリアーナを置いて国へ戻ろうとする騎士に彼女は問うた。

『どうして? あなたも一緒にこの国で』

 元々、ファーブニルの王族と民たちとの垣根は低かった。王族は国家の代表として外交の窓口を担うことで敬われていたが、精霊たちを崇めることに身分は関係がなかった。

 自然を自然のままに受け入れること、太陽や風や月や雨の前には王族も農民も猟師も騎士も関係ない。

 人が人であること、万物を敬うように人を敬うこと、それがファーブニルの教えであったから。

 だから、セレリアーナは自分だけが助かることを望みはしなかった。

 国へ戻ったところで、居場所がないことは騎士である彼にも同じだったはずだ。唯一神アインスに許しを請い、改宗すれば命は助かったかもしれない。

 だが、多くの人々はそれを拒んだ。ただ一つの存在だけを絶対とすることなど、どうしてできるだろう。

 アインスが実りを授けてくれるわけでもない。そして天や地の災が神の怒りであると言うのなら、災厄に対する恨みはすべてアインスに向けると言うことか。

 太陽が干ばつを起こし、風が木々をなぎ倒し、雨が川を氾濫させる――それらが全て、アインスの意志であると言うのなら、苦境に陥った人々がどうして神を崇められると言うのだろう。

 唯一神を信仰する者たちは、アインスを敬わないから罰が下ると言うが、信じる者しか許さない神ならば、どうして神は信者以外の人間を作り出したのか。

 自然はいつだって変異の兆しを教えてくれていた。注意深く観察すれば、嵐も予測可能だった。人が精霊の声に耳を傾けず、自らの欲に森や山を潰していった代償に生じた災いをアインスが肩代わりして、天罰と語った。

 天罰を恐れた人々は唯一神アインスの元に頭を垂れた。

 しかし、精霊たちと交信を行っていたファーブニルの民は、精霊たちを敬うことを止めよなどと言う、アインスの教義は受け入れられなかったのだ。アインスなる神がいたとしても構わない。だが、精霊たちの存在を否定することはできない。それがファーブニルの民がくだした結論だった。

 それ故に怒りを買ったとしても、セレリアーナの故郷を滅ぼした炎は精霊たちが生み出したものではなく、人が起こした炎であったのなら、国を失っても信仰は変えられなかった。

 目の前に居る騎士もまた同じ気持ちだっただろう。でなければ、セレリアーナを魔女として引き渡すこともできたはずだ。

『私は騎士ですから……』

 逃避行の過程で青年の頬もこけていた。帝国に入った時点では逆に目立ち過ぎるため、二人とも身なりを整えていたが、道程の苦労が目の淵に黒い影を作っていた。それでも彼は笑う。

『姫さまが王女として、国土を失ってもファーブニルの民をそのお心に宿し生かし続けるように、騎士として一人でも多くの人を守ること、それが私の務めです』

 唯一神アインスが降臨したとされ、アインスの教義によって国が動いている神光国フォルミナード。その国が中心となった侵攻軍の勢いは、ファーブニル王国の騎士団ではとても止められない。

 現にファーブニルの騎士団は侵攻とともに崩壊していた。セレリアーナを助けてくれた青年は、騎士団でも末端に属しており、後方支援を任されていたから生き残っていたようなものだ。セレリアーナはそんな彼の名前すら知らなかった。ここに至るまでの道中の過酷さや精神状態から、そのことに気づく余裕もなかった。

 彼一人が戻ったところで、果たしてどれほどの人間を助けられるだろうか。いや、もう助けるほどの人間が残っているのかも怪しい。死ぬために戻るようなものだろう。

 そうセレリアーナは震える声で、指摘した。

 国が、人が、死滅したなど、認めるのは辛かった。だが、侵攻軍の苛烈さは宣戦布告と同時に、瞬きの間にファーブニルの大半を炎で焼いたのだ。

 儚い希望を口にするより、目の前の騎士を引きとめるのが大事だと思った。

 そんなセレリアーナに、騎士は首を横に振った。そして、キッパリとした物言いで別れを告げた。

『いつの日か、またお会いしましょう。姫さまに、精霊の加護があらんことを――』

 彼は最期まで騎士としてありたかったのだろう。それが全てを失った、青年の望みだったと、今ならばわかる。

 セレリアーナが生き残った王女として、民人たちの魂を、記憶をこの世に生かし続けることを望んだように。

 過酷な運命を前にしても、ファーブニルの生き残りとして曲げられなかった信念が彼を死地に向かわせ、セレリアーナの生を繋がせた。

 別れの記憶にセレリアーナは目頭が熱くなるのを覚えたが、目を瞑り目蓋の裏に涙をせき止め、ぐっと拳を握って悲しみを堪える。

 ――あなたは、私を助けてくれた。あなたのおかげで、私はあの人に出会えたの……。

 いつの日か――彼が残した願いが記憶ではなく、実際の再会であることを祈って、セレリアーナは騎士の思い出に、あの日、茫然と見送るだけで言葉に出来なかったことを風にのせた。

「また会いましょう」



                        「思い出の温度 完」

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