第8話 風に揺れて



 セレリアーナは口角をきゅっと持ち上げニッコリと、主である帝国の第二皇子クロレンスに向けて笑いかけていた。

 普段のセレリアーナはメイドという立場であるにも関わらず、クロレンスに対し素っ気ない態度を取って来た。それは他でもなく皇子が彼女を「結婚しよう」と言って、口説こうとするからである。

 メイドと皇子、この身分差はどう考えても結婚など論外であろう。だが、クロレンスはまったく懲りることなく、出会ってからこの六年、セレリアーナに求婚し続けた。

 そしてセレリアーナも、心の内ではいつしかクロレンスに対して好意を抱くようになっていた。皇子の傍から見れば、呆れかえるような言動も、故郷を失くしたセレリアーナの孤独を癒す薬になっていたからだ。

 果たして、クロレンスの意図がどこにあるのかは、未だ持ってわからずじまいだが、セレリアーナとしては彼の傍に居られたらいいと、秘かに思っていた。

 勿論それは、メイドとして――である。彼の求婚に好意で応じるわけではない。

 何故ならセレリアーナは、大陸を席巻しつつある唯一神アインスの教義において、異端として滅ぼされた古の王国ファーブニルの王女という過去を持つからだ。

 万物に宿る精霊たちを信仰するファーブニルに、アインスの信仰は受け入れられず、故にセレリアーナの故郷は炎にまかれて滅んだ。母や従姉妹たちは魔女として火刑に処されたという。

 当然ながら、セレリアーナがファーブニルの王女であったことを知られれば、魔女として処刑されるのは目に見えている。だから彼女は過去を秘密にし、メイドとして生きることを選んだ。この先もメイドとして生きていくつもりで、彼女の未来図にはクロレンスと結婚など描かれていない。

 その関係を維持するために、セレリアーナはひたすらクロレンスに冷たい対応をして来たのだが、今日の彼女は違っていた。

 何しろここは、クロレンスの住まいであるエーファ城ではない。城がある帝国の辺境アルシュの繁華街であった。周りには買い物を楽しむ客や花売りの少女や屋台の売り子たちの目がある。

 そして、今日のクロレンスは帝国の第二皇子として町に出てきたわけではなく、セレリアーナとしてはここに居る彼が周囲に皇子だと知られるわけにはいかないと、ひしひしと感じていた。

 何故なら爽やかな笑顔が眩しい端正な顔立ちに反して、ピンと跳ね上がった残念極まりない寝癖頭から始まり、明るすぎて落ち着きがなく品がない紫色の膝丈のコート。内側に大きなリボンタイ付きの赤紫色のドレスシャツを着て、卵の黄身が腐ったような色のベストを重ね、水色のスラックスという衣装に身を包んでいた。スラックスには白の水玉模様が入っているし、コートの裾にはフリルが付いているという仕様――と、まあ、道化師もかくやというような格好をしているのである。

 幾ら、周りからは馬鹿皇子と囁かれているはいえ、何もそれを自ら証明しなくてもよいではないか! ――と、セレリアーナとしては叫びたいところである。

 彼女としては、誰にも知られずにクロレンスを城へ連れ戻さなければならない。それは城内の人間に対してでも、だ。

 本来、掃除担当で雇われたハウスメイドのセレリアーナだったが、クロレンスの近侍役に任命され、今は彼の着衣の世話もしている。毎日、服を見立てているのだから、今日の珍妙な格好が彼女によるものと、勘違いされる可能性があった。

 ――この馬鹿皇子っ! 私のセンスはこんなに酷くないわっ!

 憤りを感じれば、頬がぴくぴくと引き攣りそうになる。セレリアーナはゆっくりと息を吸い、心を落ち着けてから猫なで声でクロレンスに話しかけた。

「クロレンス様」

 いつもなら「殿下」と呼びかけるところであるが、その敬称はまずい。名前自体も危険を伴うが、クロイツ帝国において、「クロレンス」という名はそう珍しくもないので、大丈夫だろうと、心に言い聞かせる。

 ――まったく、面倒なことを。

 思わず舌打ちが漏れそうになるセレリアーナは、この六年間でメイド仲間から王女にあるまじき罵詈雑言の語彙や態度を無意識のうちに叩き込まれていた。

 それを必死に喉の奥で堰き止めるセレリアーナの、いつもとは違う柔和な態度に、クロレンスはどれだけ気づいているのか、いないのか。彼は笑みを返して、セレリアーナに近づいてくる。

 許されたと思っているのか、彼女の手を握って来るから、セレリアーナは反射的にその顔面に叩き込みたい拳を押し留めるに、多大な精神力を消費した。

 ――人の気も知らないでっ!

 クロレンスと過ごすようになってからは、本気で苛立つことも多い。だがそれは裏を返せば、悲しみとは縁遠くなったと言えるだろう。喪失の痛みに心が引き攣れ、苦しむよりはずっとこちらの方がセレリアーナの精神を安定させてくれる。そのことに気づいてしまったら、怒りも愛おしさに変じてしまうから、困ってしまう。

 ――嫌いになれたら、多分、楽なのに……。

 この恋が永遠に叶わないとわかっているから、そう思うのだが。

「どうした、セレリアーナ。何、今すぐ俺と結婚したいと?」

「どこからそんな問いが出て来るんですか。……前後の脈絡が見当たらないのですけれど」

「もの欲しそうに見えたぞ、セレリアーナ」

 呆れた声を漏らす彼女にクロレンスは言う。何を馬鹿らしいことを――と、セレリアーナは眉を吊り上げた。

 目の前にいるこの男の首根っこを引っ掴んで、誰にも知られないうちに城の天蓋付きの寝所に放り込んで、今日のことをなかったことにしたいという切実な願いは、本人には伝わらないようだ。

「俺の愛を求めているのだろう。遠慮など要らん、俺の愛は美しいセレリアーナ、すべて君だけに捧ぐ」

 持ち上げたセレリアーナの手の甲に、クロレンスは口説き文句と共に口づけを落とそうとした瞬間、彼女は皇子の手を払いのけていた。

「そんな迷惑な愛は、重しをつけてグロビァナ海の底にでも沈めてくださいっ!」

 セレリアーナはにべもなく切り捨てて、ハッとなった。

 ――いけない。つい、いつもの癖で!

 クロレンスを迅速にエーファ城へ帰還するよう誘導しなければならないというのに、機嫌を損ねるような態度をとってしまった。

 焦るセレリアーナであったが、皇子は軽く頬を傾けると笑った。

「ふっ、甘いな、セレリアーナ。俺の君への愛は海より大きいので沈められないぞ」

 皇子はそう言って、胸を張る。品のない赤紫色のドレスシャツと腐った玉子の黄身色のベストが否応なく目に入るから、セレリアーナは低く呻いた。

 一部ではクロレンスの言動は、帝位争いを避ける意図から、敢えて馬鹿なふりをしているという噂があり、その噂が真実のように思えるほど、たまに策略家めいたところを見せる。

 今日のお遣いも、そして現在、セレリアーナが渋々クロレンスに付き合っている現状も、彼の策にはまった結果だった。

 身分に拘りを見せるセレリアーナを、城の外に連れ出すことによって、クロレンスは二人の距離を縮めようとでも計画したのだろう。

 それは彼女にとっては甘い罠ではあったが、自ら抱え持つ秘密を前に理性で誘惑をねじ伏せた。そして、いつものように素っ気ない態度で彼の口説きを払いのけ、クロレンスを置いて城へ帰ろうとしたセレリアーナに、皇子が放った一言。

『帰り道がわからぬ』という迷子の告白は、実にギリギリの線で真実味があった。

 馬鹿なふりをしているだけなのかも知れない。だが、それだけ理性が冴えているのなら、幾らなんでも道化のような格好はしないだろう。

 それとも、恥すら超越してクロレンスは策に徹するのであろうか。

 ――本当に、どっちなの?

 歯痒く感じるが、クロレンスの真意を問うことはできない。

「まあ、そんなことはどうでもいいです」

 やや諦めた感じで、セレリアーナは声を出した。

「それより、城にお帰りになる前に着替えませんか?」

 とにかく歩いて帰るにせよ、辻馬車を拾って帰るにせよ、この道化師のような格好のクロレンスのままでは帰せないと、セレリアーナは咄嗟に考えた。

 ――何よりも、並んで一緒に歩きたくないのよ!

 恋した相手の見た目など、気にするほうが間違いなのかもしれない。だが、セレリアーナのなけなしの乙女心が、脳内で声高に訴えるのだ。

「ふむ、それはどうして」

「いえ、今日のお召し物が……」

「ああ、俺のこの装いはどうだ? とっておきの場面に備えて、作っておいたものだが」

 ――元凶はすべて、お前かっ!

 王女としてあるまじき叫びが飛びだしそうになるのをセレリアーナは拳を握って堪えた。爪が手のひらに食い込み、血が滲みそうだ。痛いのか泣きたいのかよくわからないものが、涙腺を刺激し、鼻の奥がツンとなる。

 こんな酷い服は着せられないと衣裳部屋の奥に封印していたものを何故、持ち出してくるのか。クロレンスの趣味は、封じたものを暴くことなのだろうか?

 セレリアーナの心の奥の感情を白日のもとに晒そうでもするかのように。

「……そうですね。華やかな場ではとても目立つでしょうが。このような場では、あまりお似合いには見えないのです。ですから、お着替えをして頂きたいと……あちらに、古着屋がありますし」

 引きつる口元に微笑を浮かべ、セレリアーナは繁華街の向こうに見える古着屋を指差した。

 過去、ファーブニルからクロイツ帝国に逃げ込んできた際、古着屋で身なりを整えた経験があるので、手ごろな値段で衣装が揃っているのを知っている。クロレンスが今着ている服は色は酷いが、生地は上等だ。下取りして貰えば、流行遅れではあるだろうが、貴族が着るような上着と交換して貰えるだろう。

 セレリアーナとしては直ぐにでも駆け込んでクロレンスの装いを整えたかった。

 中身は色々と問題がある皇子だが、見目だけはいいのだ。見目だけは!

 とりあえずコートとベストを脱がせ、水玉模様入りのスラックスを変えるだけで、だいぶ変わるだろう。

「そうか。セレリアーナがそれほどまで俺の肉体美を拝みたいと言うのなら、俺も男だ。ここで服を脱ごう」

「あなたは、変態ですかっ!」

 どこをどう訊き間違えたら、ここで脱げという結論に達するのだ。うんざりしながら、セレリアーナは古着屋へとクロレンスを引っ張って行った。

 適当に見繕った服にクロレンスが着替えている間、セレリアーナは通りに出て辻馬車が通るのを待った。馬車が捕まるや否や、速攻で城に帰ろう。着替えが済んだのなら、城には堂々と帰れる。

 ――もっとも、秘書官のアラン辺りが青筋を立てて、待ち構えているでしょうけれど。

 帰ったら自分までお小言を食らうかもしれないと思うと、目の前がどんより曇る。

 でも、早く帰らなければ。風が変わったもの……。

 セレリアーナは城を出てくる際には乾いていた風が、微かに湿り気を帯びたのを敏感に察した。今日は上空で流れる雲の動きが目についた。こういった日は天候が変わりやすいのをファーブニルの人間は知っている。風に耳を傾けば、精霊たちはとても沢山のことを教えてくれた。

「雨が降りだすわ……」

 故郷に居た頃のようにセレリアーナは予言をそっとこぼした。

「まさか、このように良い天気なのに?」

 耳元で声がして、ビクリと振り返ればクロレンスがいた。おとなしい渋栗色の質素な上着とスラックスに着替えた彼は、見目がいいので、どうしても耳目を集めてしまうが、浮かない程度には町中に溶け込んでいた。

「秋は天候が変わりやすいものです。ですから、雨が降り出す前に帰りましょう」

「そんな勿体ない事を言うではない。折角、愛しき君と、二人きりになれたというのに。さあ、参ろうか」

「なっ……?」

 クロレンスに手を握られ引っ張られる。いつもなら簡単に振り払える手が、がっちりと指の動きを拘束していて、セレリアーナは抵抗できずにクロレンスの歩みにつられ、城と反対方面へと連れて行かれる。

 そう、いつもなら振り解けるのだが……。

 ――どういうこと?

 いつもは手加減されていたということなのだろう。熱烈な口説き文句で迫りながらも、クロレンスは無理強いすることなど一度もなかった。

「どこへ行かれると言うのです?」

 大股で歩くクロレンスの後を小走りについて行きながら、セレリアーナは問うた。

「セレリアーナが俺の名を呼んでくれる場所ならば、どこへでも」

 肩越しに振り返った笑顔は、そんなことを言って来る。

 名前を――ということは、皇子としてではなく「クロレンス様」と呼ばざるを得ないこの状況を彼は望んでいるということなのか。

 目的なんて、何もなく……。ただ、二人で。身分など関係ない時を過ごしたいと。

 ――あなたは望むの……?

 いつも皇子にあるまじき馬鹿げた振る舞いをしているクロレンスだが、それもまた彼が皇子であるが故に蔑みと苦笑を買う。

 皇子でなければ、メイド相手に恋をしたところで許されていたかもしれない。でも、皇子という肩書きはそれを許さず、クロレンスを縛る。

 彼がセレリアーナに無理強いをしないのも、皇子だからなのか。セレリアーナが城を出て、遠くへ逃げてしまえばしがらみが多いクロレンスには追うことも難しい。何より、周りが許さない。

 彼女の秘密がこの恋を許さないように、クロレンスもまた許されない恋を自覚しているのだろうか。

 だから割り切って、馬鹿を演じるのか。今を望むのか。

 セレリアーナはクロレンスと繋がれた自らの手に目をやった。

 確かにいつもよりクロレンスの力は強い。でも、強固に拒めばクロレンスとて手を解いてくれるだろう。

 だけど……、今だけなら……。

 何度も自分に言い聞かせてきたセレリアーナの決心は木の葉のように揺れて、秋風に流された。



                         「風に揺れて 完」


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