第3話 優しい微睡みに導いて 




「完璧だわ」

 うっとりした声がセレリアーナの唇から洩れた。黒のワンピースの上に質素な白いエプロンを身につけ、苺色の髪を帽子の中に隠した彼女はハウスメイドとしての、己の仕事の出来栄えに恍惚の表情で見惚れる。

 くもり一つなく透明に磨き上げられた窓ガラスは、昼の穏やかな陽光を室内に注ぎ込んでいた。脚立を持ちだして徹底的に雑巾がけをしたので、窓の桟には埃などあろう筈がない。

 秋の金色の陽射しは室内を照らし、こちらも塵一つない絨毯の上に窓枠の格子を描く。

 陽射しが差し込む窓辺に寄せられた長椅子には、光沢のある生地で作られたふかふかのクッションを行儀よく二つ並べた。傍らに置かれたテーブルの上には細かな花模様を編み込んだ、かぎ編みのテーブルクロス。優美なラインを描く白磁の花瓶には、薔薇園から摘んできた秋薔薇を生けた。薔薇はまるで女王のように凛と美しく咲き誇っている。

 暖炉の上のクリスタルの置物も絵皿もまた、綿埃一つ寄せつけることなく、光っていた。

「さすが、私だわ」

 セレリアーナは碧の瞳を煌めかせ、自画自賛で「ふふふ」と笑い声をこぼした。あまり目立たないようにしているが、隠しきれない麗しいかんばせが花を咲かせたようにほころぶ。

 昔のセレリアーナを知る者がいたら、彼女の仕事ぶりにやはり驚いてくれるだろう。

 かつては王女として育った少女が今はハウスメイドとして、掃除に生きがいを見出しているなど――本人でさえ、思いもよらなかったことだ。

 精霊たちを崇めた古のファーブニル王国。緑豊かなその国は、唯一神アインスの教義においては異端とみなされ、炎にまかれて滅びた。魔女として母や従姉妹たちが火刑に処されるなか、セレリアーナは何とか国を脱して生き残った。

 その後、彼女は身分を隠し、クロイツ帝国の辺境アルシュにあるエーファ城に住み込みのハウスメイドとして紛れ込むことに成功して、六年。何故か城の主に目をつけられ、彼の近侍役を担うことになってしまったのもまた、セレリアーナの想像するところではなかったけれど。

 このエーファ城の主は帝国の第二皇子クロレンスだ。皇子に仕えるメイドがかつては王女と呼ばれ、魔女として手配されているなどと、誰も思いやしないだろう。身を隠すにはこれ以上の場所はないし、現在は誰もセレリアーナの素性を疑ってはいない。

 それほどのまでに、セレリアーナの掃除は完璧だった。元々、ファーブニルの精霊信仰は物を大事にするという精神からなる。部屋を綺麗にするということは精霊信仰に通じることがあり、セレリアーナは掃除が一つも苦ではなかった。

 むしろ、部屋が綺麗に片づけられると、気持ちが晴れやかになり、磨かれた陶器や銀器の輝きにうっとりとする。出来れば、このまま時間を止めてしまいたい――そんな感情に囚われる。

 何故なら、部屋の主あるクロレンスには部屋が散らかっていようが片付いていようが差異はないのだ。彼はいつだって、掃除された部屋よりもハウスメイドであるセレリアーナに執着していた。

 今は午前中の書類仕事をこなすために渋々、秘書官に引っ張られて執務室へと向かっているが、秘書官の監視の目が緩めばきっとここへやって来て、嬉々としてセレリアーナを口説こうとするだろう。

 それが約六年間続いた日々だ。クロレンスは帝国の第二皇子であるにも関わらずセレリアーナに求婚している。

 ――ハウスメイドの私にねっ!

 素性を誰にも明かすことが出来ない今のセレリアーナにとって、クロレンスとの結婚など身分違いもいいところだ。いや、例え王女という肩書きを名乗れたとしても、異教の女との婚姻など許すはずがない。帝国もまた唯一神アインスを崇めている。

 恐らく誰もがクロレンスの冗談だと思っているだろう。

 もしくは、例え皇子が本気であったとしても、周囲が認めるはずもなく。それを理解していないクロレンスを馬鹿者と見なしているか。

 どちらにしても、クロレンスとの結婚など、セレリアーナにとってみればあり得ない話だ。そのことを考えると、胸の奥に小さな痛みを覚えるが、セレリアーナは小さく頭を振って追いやった。

 掃除道具を片づけて、ぐるりと部屋を見回す。午前中の仕事はこれで終わりだ。

 ハウスメイドであるセレリアーナの仕事は掃除であるが、彼女はクロレンスの近侍として世話役も務めていた。もう少ししたら、昼餐の用意をしなければならない。

 セレリアーナは暖炉の上の壁に飾られた時計に目をやった。一刻ほど、暇な時間が出来てしまった。

 この部屋はクロレンスの第二私室で、彼にはもう一つ私室がある。そちらの掃除にとりかかろうかと思うも、それは午後の計画だ。今からでは中途半端に昼食の時間に掛かってしまう。

 クロレンスが使用する部屋はセレリアーナが掃除担当していた。近侍役を仰せつかったとはいえ、クロレンスの我儘を聞いてやると同時にセレリアーナも我を通させて貰った。

 ハウスメイドの仕事は絶対に譲らないという条件を呑ませた。いずれ、クロレンスの口説きもセレリアーナの鉄壁さを前に歯が立たなくなり、終わるだろうと見越していたからだ。

 そのときには当然、近侍役は解かれるだろうが、それ以外の職がこの城にあるのかどうかわからない。故郷を失くしたセレリアーナには他に行き場のないのだから、何が何でもこの場所にしがみついていなければならないわけで、セレリアーナはハウスメイドあることに拘り続けたのだが、六年の月日が経つのにクロレンスには諦める様子がない。

 ――そのしつこさを、皇子としての仕事に費やしたらいいのに……。

 と、セレリアーナは窓辺に置かれた長椅子に腰かけて思う。

 肩には秋の陽光が降り注いで来る。皇子の私室であるから、日当たりはセレリアーナのメイド部屋とは比べ物にならない。今日がひときわ陽気がいいというのもあるだろうが、暖炉に火を入れずとも暖かく、一仕事をした身体に心地よい温度で沁み込んできて、セレリアーナの口元から小さなあくびが漏れた。

 クロレンスは皇帝位を手に入れられる可能性を有していながら、欲してはいない様子だ。むしろ、そこから遠ざかるために、このエーファ城に居を置いて、馬鹿を演じているふしがある。

 本気なのか、冗談なのか。クロレンスの真意を見極めるのは難しい。

 先日も、クロレンスの奇抜な口説き作戦には、セレリアーナも唖然となった。

 朝、彼を起こしに寝室に訪れてみれば、クロレンスは天蓋付きの寝台ではなく、細やかな紋様が編み込まれた絨毯の上で目を開け、天井を凝視した姿で横たわっていた。

 一瞬、クロレンスの命を危ぶんだ。

 馬鹿皇子と見なされ、政争からは遠ざかっているが、皇帝位は指名制であるから第二皇子クロレンスでも帝位を狙える位置にいる。その存在を疎む輩がいないわけではない。

 第一皇子は聡明と噂に聞くが、それを推す周りの者が必ずしも賢いとは限らない。

 まさかという考えが、セレリアーナの心臓をギュッと掴んだ。背筋を寒気が走り、腰が砕けそうになる。

 クロレンスが自分の前からいなくなるなど、この六年の積み重ねの前にはもう想像など出来なくなっていた。

 思わず駆け寄ろうとしたが、その前に彼の喉がコクンと息を呑むのを目にして、踏みとどまった。息遣いが正常ということは、そこまで深刻な事態ではない。

 喉を通して自発呼吸が出来ているということは、意識があるとみていいだろう。

 では、この事態は何だ?

 セレリアーナが片方の眉を吊り上げて考えること――数十分。こらえ性のない皇子は腹筋と背筋の力で上体を起き上がらせると、叫んだ。

『何故だ、セレリアーナっ? 死んだふりをしている俺の元に駆け寄り、ああ愛しい人、何があったのですか? と縋り、俺の唇にそなたの唇で息を吹き込み、生き返った俺を前に愛の告白をするはずじゃないのか? そして、盛り上がった二人は捲るめく愛の園へと』

 凝視が過ぎたのか、充血した目からぽろぽろと涙をこぼして訴える皇子に対して、

『一人で盛り上がらないでくださいっ!』

 冷静沈着なメイドという表の顔を忘れて、反射的にセレリアーナは素で返していた。

 ――死んだふりとは何事だ、この馬鹿皇子っ!

 一瞬、縮みかけた寿命を返せと叫びたくなった。

『一人ではないぞ。二人で盛り上がろうと言っているのだ、さあ、愛の園へ行こう、セレリアーナ』

 両腕を広げて誘って来るのは毎度のことで、

『だから勝手に私を殿下の妄想に巻き込まないでくださいと言っているのです。殿下はどこまで、馬鹿なんですかっ!』

 セレリアーナの反応もまた、いつものことだった。

 と、まあ、クロレンスの死んだふり作戦を思い出すだけで、こめかみに鈍い痛みを覚える。クロレンスは馬鹿なふりをしているだけなのだと、心の底から祈りたくなってくる。

 ――本当に、どこまで考えてのことかしら?

 クロレンスの馬鹿馬鹿しくも、からかっているとしか思えない口説き文句は、過去に心細さで泣いていたセレリアーナの心を癒すためではないかと思ったこともある。

 皇子に振り回されている間は、セレリアーナは故郷のことで落ち込んでいる余裕がない。だから……と。

 でも、その真意をクロレンスに問うた事はない。

 ――聞けるわけないわ……。

 そんなことを聞いてしまったら、そして決定的な答えを知ってしまったら、セレリアーナは胸の奥に閉じ込めた秘密が、感情が、溢れだすのを止められなくなるのが目に見えていた。

 そしてクロレンスが万が一に、本気であったのなら……。

 セレリアーナはそれ以上のことを考えたくなくて、陽気に誘われた睡魔に意識をゆだねた。


 ――セレリアーナ……。

 そっと呼びかけて来る声にセレリアーナは懐かしさを覚えた。誰の声か、わかるような気がしたが、明確な答えを導き出せない。

 ふわふわとたゆたう意識はきっと自分が眠っているからなのだろう。これが微睡みのなかであることだけは、やけにハッキリとわかった。

 ――大丈夫か?

 そっと問いかける声に、セレリアーナは微笑む。

 その声がこちらを労わるように優しかったから、「私は大丈夫よ」と返した。

 きっとこの声の主は、自分の中に思い出として宿る故郷の人々だろう。精霊たちは形をなくとも万物に宿る。ファーブニルの精霊信仰は、人が死しても魂は生きている者たちの中に宿り、生き続けると信じられていた。

 だからセレリアーナは、故郷を失くしても、帰る場所がなくとも、一刻でも長く生き延びようと決意していた。

 自分を生かすために犠牲になった人たちに報いるために、散ってしまった人々の生きた証をこの世に残すために。

 そうして自分の中に宿る思い出は、優しい夢を与えてくれる。

 ――辛いことは、ないか?

 心配性の声に、セレリアーナは笑顔で「ないわ」と返す。

 クロレンスに出会ってから、涙を流すようなことはなくなった。皇子の馬鹿な行いに呆れたり苛立ったりするけれど、それ故に退屈を感じたり、孤独に囚われることはない。彼との叶わない恋に痛みを覚えることもあるけれど、傍に居られるだけで十分だと思ってる。

「心配してくれて、ありがとう。でも、私は大丈夫よ」

 セレリアーナは心を込めて告げた。

 ――そうか……。セレリアーナは、強いな。

 声は安堵したような、少しだけ寂しそうな吐息をのせて、言った。

 強いわけじゃないわ。だけど、心を支えてくれる人がいるから、私は迷わずにいられるの――クロレンスの面影を心に浮かべながら、そう口を開こうとしたとき、僅かな衣擦れが鼓膜を打った。

 ふっと意識が現実に戻れば、セレリアーナは長椅子の座席に身体を横たえて寝ていた。

 ほんの少しの休息のつもりが、いつの間にか眠り込んでいたらしい。

 慌てて、身体を起こしたセレリアーナの肩には藍色の衣が掛けられていた。

 それは今朝がた、セレリアーナがクロレンスに選んだ上着だ。どうやら推測した通りに、馬鹿皇子は秘書官の監視の目をくぐりぬけて、こちらへやって来たらしい。

 もしや、いましがた見た夢の声の主は、クロレンス?

「…………まったく」

 セレリアーナはそっと胸元に温もりが残る上着を抱きしめた。その熱は陽射しが暖めたものか、それとも持ち主のものかはわからないが、心の奥にまで穏やかに沁みてくる。

 ――夢の中にまで追いかけてくるなんて。

「しょうがない皇子さまだこと」

 呆れたような呟きに、愛しさが滲んだのをセレリアーナは自覚した。だが、それを表に出すことは許されない。異教の魔女という秘密を持つセレリアーナの存在はクロレンスを厄介な立場に追い込むだけなのだ。

 ――だから、誰もいないこの場だけの秘密にして……。

 ハウスメイドとしての仕事に戻るべく、セレリアーナは背筋を伸ばして立ち上がった。


 

                    「優しい微睡みに導いて 完」

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