第2話 秘密の鍵



 ――泣ているのか?

 そう問いかける声は不安に満ちていた。

 ――誰? まるで、あなたの方が泣きそうだわ。

 すごく泣きたかった気がするのに、その声を耳にしたら、自分より声の主の方が心配になった。震える吐息のような問いかけは直ぐ傍から聞こえた気がして、声の主を探そうと首を巡らせた途端、セレリアーナは眠りの淵から目を覚ます。

 ほのかに差し込む朝焼けの金色に、闇から醒めた碧い瞳が焼かれる。開けた視界の眩さに、彼女の目尻から一筋の涙がこぼれた。

「泣いてなんかいないわ、ちょっと眩しかったせいよ……」

 こめかみへと流れた涙を拭い、誰にともなく言い訳を口にして、彼女は身を起こした。

 小さな窓にかけた木綿のカーテン。日焼けした白の布越しの朝陽が、質素な屋根裏部屋の薄暗い闇を僅かに払拭していた。

 荒い木目の板を敷いた床に、灰色の石壁。陽が昇ってもなかなか暖まらない室内は、まだ暦の上では秋だというのに今日はことさら冷える。開いた唇から漏れた白い息に、セレリアーナは身震いした。自分の体温が残るベッドにもう一度、横になろうかと誘惑に屈しそうになる。

 けれどと、首を振った。

 お世辞にも寝心地がいいとは言えない木枠の寝台。硬いマットレスは長時間寝ていると腰に来る。そんなことを思うのは、年のせい?

 もう二十も幾つか過ぎたら年を言い訳にしても、罰は当たらないと思うけど。年を言い訳にするのが、何だか少し寂しい気もするわね、と。

 セレリアーナはくすりと笑って、毛織のショールを羽織り寝台の足元に並べて置いていた室内履きに足を入れた。ベッドをぎしりと軋ませて、腰を浮かす。

 丸テーブルの上に用意しておいた洗面器に水を移して顔を洗い、黒いワンピースのお仕着せを身に付けた。その上から肩ひもや裾にフリルがついた白いエプロン。ストッキングを穿いて、編みあげのブーツに履き替える。

 櫛を通したセレリアーナの艶やかな苺色の髪は、綺麗な髪と、故郷では褒めそやされた。

 しかし、こちらでは派手で下品とみなされるから、セレリアーナは髪をきっちりとまとめた。その上からメイド帽子をかぶる。

 化粧は最小限に留めるが、それでも彼女の人目を惹く美貌は鏡の中に健在だった。

 唯一神であるアインスの教義のおいて、異教を信仰していたことで滅びた王国の王女という、秘密を抱えるセレリアーナとしてはあまり目立ちたくないのだが、これ以下には化けられない。

 魔女と判定されたけれど、セレリアーナには魔法が使えるわけではない。彼女は万物に宿る精霊と対話する能力があっただけ。対話と言っても、人より物に宿る存在を感じるというだけで、特に何かができるわけではない。ただ、精霊の存在を常に意識している分、人より多くのものに寛容で視界が広くなる。風に含む湿気で天候の変化を敏感に察したり、物の劣化に早く気づいくことで予言者と呼ばれたこともしばしばだった。

 実際に精霊の声を聞いたことはなかったけれど、もしかしたら自分が気づかなかっただけで精霊が教えてくれたのかもしれない。

 そう素直に受け止めるほどに、セレリアーナの中には故郷であるファーブニル王国の精霊信仰が深く根付いていた。

 だからこそ、セレリアーナは一刻でも長く生き延びたい。自分の中には故郷の人々の魂が思い出として宿り、息づいている。その存在を守り続けるためにも、出自に関する秘密は誰にも知られてはならない。

 身支度を整え鏡で己の姿を確認しながら、セレリアーナは今日の予定を頭の中で確認する。生き延びるためには、是が非でも現在のメイドの職を失うわけにはいかない。

 何しろ、セレリアーナが仕えるのは帝国第二皇子のクロレンスだ。皇子に仕えるメイドが、滅びた王国の王女だとは誰も思うまい。

 今日は冷えるから、クロレンスの寝室に暖を入れ、起こした後は食事を運び着替えさせて、執務室に放り込んで皇子の寝室の掃除をしよう。

 あの皇子がちゃんと仕事をするのかどうかは、セレリアーナの関知するところではない。帝都プロフェートに居らず、辺境アルシュを根城にしている時点でクロレンスの為政者としての程度は知れるだろう。呼び戻されもしない時点で、帝都の方もクロレンスを放置しているらしい。

 皇子が影で――セレリアーナもまた心の中で――馬鹿皇子と呼ばれているのは、決して誤った認識ではないだろう。

 一部では、第一皇子との帝位争いを避けるためにあえて、馬鹿を装っているのだと庇う声がある。次代の皇帝は先代皇帝から指名制なので、第二皇子であるクロレンスが多少なりと帝位につく可能性もあるわけだから、その声もまったく的外れというわけではないのだが、実際の皇子を見ればセレリアーナにしてみれば信憑性は薄い。

 なにしろ皇子は隙あらば、セレリアーナに付きまとって、口説こうとしているのだから。

 ――この前はあの馬鹿が邪魔してくれたおかげで、掃除が半端で終わってしまったわ。

 元は王女という肩書きを持つセレリアーナだが、掃除は嫌いではない。物を大切にするというのはファーブニルの精霊信仰にも通じるものがあるし、物が磨かれ綺麗になるのは心地よい。

 暖炉に火を入れるようになるこれからの季節は、灰や埃が積もりやすいので、一日でも手を抜きたくないというのに。

 セレリアーナは思わずギリっと歯を鳴らす。

 ――まったく本来は掃除がメインであるハウスメイドの私が、どうして近侍役をしなければならないの? まあ、見てくれだけはいいので、服の選びがいはあるけれど。あの人ったら、私の前で服を脱ぐのよ?

 ボタンを留めてくれだなんて言うに至っては、セレリアーナの血管も切れそうになる。

 花も恥じらう乙女に、男の着替えを手伝わせるなど、権力乱用も甚だしい。

 皇子とはいえ、馬鹿呼ばわりしたところで、罰は当たらないだろう。

 鏡の前で知らずセレリアーナは拳を握りしめていた。

 もう既に皇子に仕えて六年近くになるけれど、セレリアーナの愚痴は尽きることはない。一向にクロレンスの態度が変わらないことにあるだろう。

 彼はメイドであるセレリアーナを何かにつけて口説き、結婚しようという。

 その度に、セレリアーナの心は揺さぶられる。結婚や恋愛などといったものは、秘密を抱える彼女にはもう縁のないものであるのに。

 セレリアーナは握った拳に気がついて、慌てて解く。ピンと背筋を伸ばして、鏡に映る自分に頷くと部屋を出た。

 ――落ち着いて。

 そっと自分に言い聞かせる。

 馬鹿皇子に付きまとわれても、冷静沈着に対処するメイド。それがセレリアーナの表の顔だ。クロレンスの言動に心が振り回されているなんて、誰にも知られてはならない。

 それこそクロレンスに知られてしまったら、勘違いされそうだ。

 ――どうせ、からかっているだけよ。

 それだけではない可能性をクロレンスの緑色の瞳に宿る熱に感じることもあるが、セレリアーナはあえて黙殺した。

 ――そうよ、からかっているだけ。

 だって……。

「おはよう、セレリアーナ。目覚めて一番に愛おしい君の顔が見られる俺は何と、幸せな男であるのだろうな。できれば、俺の腕の中で目覚める君を見たかった。まあ、今からでも遅くはないということで、ほら、ここへ」

 クロレンスを起こすために天蓋付きの寝台のカーテンを開けば、皇子が待っていたとばかりに腕を広げて誘ってくる。

「さあ、何も隠すことなくお互い素直になり、肌と肌で愛を語らおうではないか! 貞操のことは気にするな。責任をとって結婚することに躊躇いはない。俺の方はいつでも準備万端だ」

 毎朝毎朝、よくもまあ口説き文句が出てくるものだ。そうして、それらはあまり品が良いとは言えない。

 ――この人はっ! 本気で口説こうとしているのなら、もう少し言葉を選んだらどうなの?

 軽薄な言葉を前にすると、やはりクロレンスの真意に疑問を持ってしまう。

 ――本当に私のことが好きなの?

 好きになられても困るのに、どうしてもムッと怒りに似た感情がわき上がって来る。しかしセレリアーナは苛立ちを抑えて、静かに挨拶を口にした。

「……おはようございます。今日も殿下の頭には、お花が咲いているようですね」

 腐った脳味噌を養分にして、クロレンスの頭の中には陽気に花が咲き乱れているようだと辛辣に返すセレリアーナに、金髪頭に見事な寝癖をつけたクロレンスはニッコリと笑う。

「ああ、セレリアーナには美しき愛の花を贈ろうか。もっとも、そなたの美しさの前には俺の一途な愛など、霞んでしまうのだろうな。切なきことに俺の愛が通じないのは、セレリアーナの美しさ故か」

 しかも皮肉が通じないどころか、話が明後日の方向に飛躍している。からかっている云々より、本気でこの人は馬鹿なんじゃないだろうかと、心配になって来る。

 きっと寝癖頭に寝間着姿でも、顔だけは端正で見目よろしいのが原因だろう。可哀相なお頭も許したくなってしまう。

 クロレンスの口説き文句を六年間突っぱねてきたセレリアーナも、内面は二十二歳の乙女だった。

 抱えた秘密のために、恋は諦めたけれど。

 それ故に、叶わない恋に引きずり込もうとするクロレンスに苛立ちを覚えることもあるけれど。

 セレリアーナは自分の立場を思い出して、キッパリと拒絶した。

「いえ、結構です」

「遠慮することはないぞ、俺とセレリアーナの仲ではないか」

「主従の関係に愛は要りません。義務だけです」

「主従などと、そんなつれないことを言うではない。昨夜はあんなに愛を睦みあったではないか」

「いつですかっ?」

 クロレンスを就寝時間に寝台に放り込んだ後、セレリアーナは質素なメイド部屋に帰って、あの固いベッドで眠った。断じて、クロレンスと閨を共にしたことはないっ!

 皇子という立場だが、クロレンスはこの六年間、セレリアーナに無理強いすることはなかった。そこだけは彼女も彼の誠意を信じていた。

 だから何だかんだと文句を言いつつも仕えてきたし、惹かれたけれど、あることないことを城内で吹聴して回っているとしたら許しがたい。

 肩を怒らせ、いきり立つセレリアーナの様子などまるでそよ風のように流して、クロレンスはあっけらかんと言い放った。

「俺の夢の中で」

 誤解される様な物言いは止めてくれっ! そうセレリアーナは叫びそうになる。

 ――冷静に、落ち着いて。

 喉元まで押し寄せた激情をセレリアーナは呑み込んで耐えた。

「勝手に、私を夢に登場させないでください」

「何を言う、セレリアーナの方から俺の夢に訪れたではないか」

 クロレンスの物言いに一瞬、セレリアーナはぎくりと身を強張らせた。

 現実では叶わない恋も夢の中でならと、考えたことがあったのだ。その願いをクロレンスに見透かされたような気がした。

 目を見張るセレリアーナの碧い瞳が、故郷の森を思わせるクロレンスの緑色の瞳とかち合った。真っ直ぐにこちらを見る目には、からかうような色はない。

 不意に今朝の夢で聞こえた「泣いているのか?」というあの声を思い出した。

 あれは、この人の声だ……。過去に一度、聞いた。

 この城にメイドとして雇われたばかりの頃。故郷を失くしたばかりで、心細くて誰にも知らない城の裏庭で秘かに泣いていたときに、通りすがったクロレンスが声をかけてきた。

 セレリアーナがクロレンスの傍に仕えるようになったのは、その後だ。

 ――この人は私が泣いていたから、私を傍に置いたの? からかうような言動は、私を泣かせないようにするため?

 思い返せば、クロレンスに仕えてから、泣いた記憶はない。いつも彼の言動に振り回され、怒っていた。それが悲しみに張り裂けそうになるセレリアーナの心を癒したこともあった。

 ――本当に?

 馬鹿げた口説き文句も、すべては自分を癒すためだったと思って良いのだろうか。

 政争を避けるために馬鹿なふりをしているのと同じように、クロレンスの真意が表面から見えないところにあるのだとしたら……。

 真実を探るように息を詰めて見つめ返すセレリアーナに、クロレンスが指を伸ばしてきた。無遠慮に目尻に触れて来るその指先は湿っていた。それは他でもない、セレリアーナの涙だった。

「すまない、泣かせるつもりはなかった。ただ、俺は……」

 バツが悪そうに眉を顰め口ごもるクロレンスに、セレリアーナは頬に触れている彼の手を、熱が離れていくのを惜しみながらゆっくりと払った。

 呑み込んだ言葉が皇子の真実を語っているような気がした。クロレンスもセレリアーナと同じように、表の顔と裏腹のもう一つの顔を持っている――そう信じたかった。

 泣いて彼の胸に飛び込めたら、どれだけ楽だろうとセレリアーナは思う。でも、それは駄目だ。秘密を知られたら、クロレンスとて彼女を持て余すだろう。

 帝国も唯一神アインスを信仰している。異教徒の魔女など、容認できるはずがない。

 例え、クロレンスがセレリアーナの正体を知って変わらなかったとしても……周りが許さない。

 そして秘密の露見は他でもなく、クロレンスを危険に巻き込む。唯一神アインスの教義に反するというだけで、セレリアーナの故郷は滅ぼされ、多くの人間が火刑に処された。帝位につくことに意欲を見せない彼を守ってくれるものは多くない。

 だけど、セレリアーナには他に行くあてもなく、クロレンスの傍から離れるのを嫌がる自分を知った。

 ――ならば……。

「泣いてなどいません。先日、殿下に邪魔をされて掃除が滞ったせいで、埃が目に入っただけです」

 セレリアーナは気丈にクロレンスを見つめ返して、告げた。

「さあ、起きて朝食をとってください。悪い冗談だと反省されたのでしたら、今日ばかりは私にハウスメイドとしての仕事をさせてくださいませ」

 彼女の言葉にクロレンスが寂しそうな顔を見せたが、直ぐに笑顔で隠した。

「セレリアーナは俺より掃除が好きなのだな。いっそ埃に塗れてしまえば、俺も愛して貰えるだろうか」

 強がりか、セレリアーナを泣かせないよう身をひいたのか。

 彼の真意はわからないけれど、セレリアーナは心の内側でクロレンスに感謝した。

「残念ですが、殿下。埃と誇りを間違えてますわ」

 テーブルに食卓を整えるために、クロレンスから視線を逸らして言った。そうしながら心の内側で固く決意する。

 この人の傍にいるために、守るために。この想いは絶対に誰にも知られてはならない。

 だから秘密は胸の奥に閉じ込めて、鍵をかけよう――と。



                          「秘密の鍵 完」

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