秘密を閉じ込めて
松原冬夜
第1話 秘密を閉じ込めて
「セレリアーナ、俺たちの付き合いはもう何年になるか」
唐突な問いかけに、セレリアーナは寝台のカーテンを閉じる手を止めた。
豪奢な天蓋付きの寝台の中央には、部屋の主が横になっている。
クロイツ帝国第二皇子であるクロレンスには、男の従僕が世話してやるべきなのだろうが、彼の我が侭でセレリアーナがハウスメイドという立場で採用されたにも関わらず、近侍役をおおせつかっていた。
二つ年上の二十四になる皇子との付き合いは、彼が十八歳の頃から始まったから、もう六年になるか。
計算する流れで、セレリアーナは二十二歳という自分の年齢に唇を噛んだ。今日はそのことで一つ、嫌な思いをしていたのだ。折角忘れていたことをクロレンスの一言で蒸し返された。
セレリアーナは自分の感情の荒れを押し殺して、つとめて冷静に淡々と事実を口にした。
「六年ですね」
「もう充分に時は熟したな」
――何の時だ? と、軽く疑問に思い、セレリアーナは碧い瞳を瞬かせた。そんな彼女を前に皇子は身体に掛けていた軽い羽布団をめくりあげた。
絹の寝巻に身を包んだ上半身をこちらに覗かせ、端正な顔立ちにまばゆい白い歯を覗かせる笑みを浮かべると、これまた聴いた者の神経を甘く溶かしそうな、熱のこもった声を響かせて告げた。
「セレリアーナ、俺と結婚しよう。夫婦になろう。ということで、ほらここへ」
男は己の身を横たえた柔らかなマットレスを叩く。寝床に女を誘うには余りに色気のない誘い方であるが……。
セレリアーナは耳に聞こえてきた言葉に目を見張った。
言葉を発した相手を信じがたい思いで見つめた数秒後、彼女の頭のなかで神経がぷつんと音を立てて切れた。
主従という関係を思い出せば、どう考えても、これはたちの悪い冗談だ。もとから、この男はこちらをからかう性質の悪さを見せつけていた。
朝、顔を合わせれば、「今日もまた花が咲くように美しいな、その唇を我だけのものにしようか」とセレリアーナに口づけしようと迫って来るところから始まり、掃除をする彼女の後を付きまとっては「ああ、その指が埃まみれになるなど、耐えがたい。今すぐ、我が妻となるがいい」と的外れなこと言う始末。
冷静沈着を座右の銘にしているセレリアーナもいつもなら、何を馬鹿なことを言っているのだと、軽く流したところだが今宵に限ってはタイミングが悪かった。
メイド仲間の結婚話を聞かされ、とくとくと長時間、自慢話に付き合わされたのだ。そうしてこれ見よがしの皮肉な目線で、もう既に世間でいう結婚適齢期に――この国は十六から結婚が普通だという話だった――達しているセレリアーナに「あなたはどうなの?」と問いかてきたのだった。
付き合っている男性など一人もいないことを―― 一人ではなかったら問題だろうが――知られている仲間の嫌味に、何と答えてよいのやら。
居心地の悪さを押し殺しながら、表面上はにこやかに付き合った果ての、ワガママ主の今回の所業。
己の忍耐強さを自負しているセレリアーナであるが、今日ばかりは我慢ができなかった。
大体、セレリアーナが結婚相手に恵まれないのは目の前の男が、やたらとちょっかいを出してくることにあった。
エーファ城の主で、一応、帝国の第二皇子のクロレンスと敵対しようなど考える者はいない。まあ、セレリアーナ自身のガードが固いことも一つの原因ではあるだろうが……。
彼女の周りに男が寄って来ない原因も、結婚できない原因も、その七割くらいは皇子の責任と言っていいだろう。
セレリアーナは薔薇色の唇の端を引きつらせつつ、厳かに声を発した。
「寝言は寝てから言ってください」
フッと、クロレンスは鼻先で笑う。
笑いやがったな、この野郎――と、セレリアーナのこめかみに青筋が浮かぶ。そんな彼女の怒りなど一欠けらにも気づいていない様子で、クロレンスは続けた。
「寝言と申すか。セレリアーナの目に、俺が眠って見えるのか」
らんらんと輝いている緑の瞳は、熱っぽくセレリアーナを見つめている。これで眠っているというのなら、ハッキリ言って怖い。
「ですから、眠ってから言ってくださいと申し上げているのです」
「起きている言葉を何故、そのまま受け取らぬ?」
「ご自身のお立場を知っておいでであれば、殿下がお口にできるはずがないでしょう」
「何故?」
「あなた様は皇子です」
「確かに」
「私はハウスメイドです、本来なら掃除婦なんですっ!」
「それも事実であるな」
「この世のどこにメイドに求婚する皇子がいるというのですっ? 常識を考えください」
「俺に常識を期待するとは、セレリアーナ、熱でもあるのか?」
――ああ、確かに!
反射的に心の中で毒づく。
この男に常識を求めるのが、そもそもの間違いであることをセレリアーナは思い出していた。ハウスメイドである自分に男の着衣の世話まで手伝わせるのだ。
権力の使いどころを間違えている馬鹿皇子であるから、帝都プロフェートから遠く離れたこの辺境アルシュに年がら年中居座っていたところで、誰も困りはしない。むしろ政争相手の第一皇子はクロレンスが政治に興味を持たないことにホッとしているに違いない。
困るのは一日中、この男に付き合わされるセレリアーナだけ。
毎日、この男の脳味噌は花が咲き乱れているに違いないと思わせる、口説き文句の数々はセレリアーナにしてみれば騒々しい雑音以外の何物でもない。
ハウスメイドという仕事は、雑巾片手に掃除をしていればいいはずであった。
そもそもメイドという存在は、高貴な人間の目には見えざる者であるはずなのだ。声を掛けられること自体、稀だ。メイド職の中でも、ハウスメイドの地位はさらに低い。
それこそ誰にも顧みて貰うことなどない職種であったから、セレリアーナはハウスメイドの職を選んだ。
彼女の人目を惹く美貌ならば、もう少し表立った仕事――給仕などといったパーラーメイドはどうかと打診された経緯の末にセレリアーナは頑なに陰の仕事を選び、ハウスメイドに拘った。
掃除をするということに魂を燃やしていれば、瑣事に煩わされることもなく、綺麗好きの本能の赴くままに窓ガラスやら花瓶やらを磨いて磨いて磨きまくって、綺麗になった室内をうっとりと眺めて過ごすはずの日々は、クロレンスに出会ってからこちら、どこへ行ったのやら。
――こんなはずではなかったのに!
歯軋りするセレリアーナの額にひんやりとした指先が触れた。気づけばクロレンスが寝台の端から身を乗り出し、彼女の額に触れているではないか。
「熱はないようだな」
真剣な声音で唸るクロレンスの緑の瞳を間近に見つめた。
額にこぼれた金髪の間に見える彼の深い緑の瞳は、セレリアーナの故郷の森を思い出させた。
万物に息づく精霊たちを信仰するという、古の文化を頑なに守り続けていたその国は、周辺諸国が信仰する唯一絶対神アインスの教義には異端とみなされ、それを口実に侵略された。
セレリアーナは、六年前に大陸の地図から消え失せたファーブニル王国の生き残りだった。紅蓮の炎に巻かれて失われた緑の王国。
故郷の森が育んでくれた穏やかで、優しい記憶。あの場所ではセレリアーナの心は自由だった。
でも、今の彼女には果てしなく遠い場所で、思い出をよすがにするしか許されない。
――触らないでっ!
心の奥に無遠慮に入り込んでくるような気がして、セレリアーナは反射的にクロレンスの手を払っていた。
「お戯れが過ぎますっ!」
自分の過失を誤魔化すように、セレリアーナは叫んだ。本当なら、主に反抗した使用人の自分が叱られる立場であるだろう。
失態に気付いてうろたえるセレリアーナにクロレンスが静かに言った。
「すまなかった。そんなに嫌がられるとは思わなかった」
心なし表情が暗く沈んでいるように伺える。
――違うでしょ?
いつもなら、揚げ足をとってこちらをからかってくるのに、心配そうな目で真っ直ぐにこちらを見つめてくるから、セレリアーナとしては調子が狂う。
――どうして、そんな顔をするのよ。私はただのメイドなのよ。
メイドは皇子であるクロレンスと言葉を交わすことなど許されない立場だ。
しかし、クロレンスは地位や身分などの垣根を越えて、メイドであるセレリアーナに近づいてくる。
そのせいでどれだけこちらが混乱して、振り回されることか。彼にできることなら知らしめてやりたい。
けれどそれはできない相談で、だからこそセレリアーナの気苦労などまったく歯牙にかけず、クロレンスは屈託のない笑顔を見せる。
その笑顔を見ると一瞬だけ、セレリアーナはハウスメイドという己の立場を忘れてしまう。からかう言葉に、対等に言葉を返してしまう。
今はハウスメイドという立場に、何が何でもしがみ付いていなければならないというのに、忘れそうになってしまう。
だが、それは危険なこと。
セレリアーナは故郷では精霊と対話する能力に優れ、巫女姫と呼ばれた。ファーブニルの王家は代々、人と精霊たちと繋ぐ役目を担っていた。
しかし、アインスの信仰ではファーブニルの巫女は、魔女と呼ばれ、異端審問の末に処刑の対象となった。王家に連なる女たちが――母や従姉妹たちが、火刑に処されたのをセレリアーナは王国から逃げ出す途中で聞かされた。
セレリアーナ自身も魔女として手配された。多くの人間の尽力と犠牲によって、彼女は何とか生き残った。
彼女を生かすために働いてくれた者たちに報いるために、セレリアーナは一刻でも長く生き続けることを自分に課した。
異端の国の、まして王家の生き残りであることを悟られてはならないのだ。秘密がばれれば、セレリアーナに未来はない。
だから彼女は王女であった過去を捨てて、手が荒れることもいとわず、人に見下されながらも、メイドとして陰に隠れることに決めた。ひっそりと息を殺して生きていくことにしたのだ。
そんなセレリアーナの固い決意を、クロレンスの笑顔は柔らかく砕こうとする。
――止めて欲しい。近づかないで。私を見つめないで。
クロレンスにしてみればただこちらをからかって面白がっているだけなのかもしれない。それでも心の拠り所を失ってしまったセレリアーナには、彼の言葉が、仕草が、波紋を生む。
彼の言葉に振り回されたことも多々あったけれど、そのおかげで生き残った己の孤独に潰されることなく、癒されたことも事実だった。
――だから、この人は嫌いだ。
セレリアーナは心の内側で叫んだ。
故郷を失ってから、ようやく落ち着いてきた気持ちが揺らいでしまう。泣きごとを言いたくなる。甘えたくなる。縋りたくなる。
そんなこちらの気も知らないで、掻き回して、楽しんで。心の底から笑って見せる。セレリアーナが失ったものを見せつける。
故郷では、セレリアーナも屈託なく笑えていた。
自分だって彼のように笑いたい。できることなら、クロレンスに笑顔を返したいのに、もうそれは叶わない。
そして密やかな願いも表に出せやしない。弱さを晒してしまったら、生きていけない。秘密を隠した心の奥に踏み込まれる隙を与えてはいけない。
「もう遅いですから、お休みなさいませ、殿下」
つとめて冷静に、セレリアーナは声を吐き出した。そんな自分の声に、身体の内側が冷めていくのを実感する。
――ああ、そうよ。
結婚とか、そんなこと、自分には関係のないことだ。
他人の幸せそうな自慢話がちょっと羨ましくなったところで、己の立場を思い出せば、何も望めないのだから期待することも無意味だ。
クロレンスの言葉に反応してしまうこと自体が間違いなのだ。
――私の本当のことを誰にも知られたらいけないの。だから、誰とも結婚なんてできないわ。
秘密を誰かに明かすことなど考えられないのだから、セレリアーナとしては一生、独身を貫くしかない。恋も結婚も自分には関係ないことだ。
例え、からかうように振る舞うクロレンスの瞳に、本気の熱を見つけたとしても、自分には手を伸ばせない。
セレリアーナに出来ることは一刻、一日、一年でも長く生きて、亡くなった同胞たちに報いるだけ。彼らが生きた証を自らの中に刻んで、この世にひと時でも残すことだけ。
それはファーブニル王国が古から伝え、守ってきた精霊信仰だった。形はなくとも、万物に魂は宿り、時に助けてくれる。
意識が冷めてくると、セレリアーナはクロレンスに視線を返した。彼女の冷厳な瞳を前にすると、クロレンスの面に寂しげな色が浮かんだ。
「よい夢を見られることをお祈りしていますわ、殿下」
自分の声をどこか他人事のように聞きながら、セレリアーナは寝台の天蓋を閉じて、寝室を出る。
「では、今宵はセレリアーナの夢に訪れようか」
ドアを閉じる瞬間、クロレンスの声が耳に届いた。
――夢の中でなら……彼の差し出す手をとれるのかしら?
セレリアーナは一瞬、胸の内に生じたざわめきに気づかないふりをして、扉を閉じた。
秘密は、秘密のまま――。
火照った頬の熱は、誰にも知られてはならない。
「秘密を閉じ込めて 完」
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