第5話夏樹
朱夏が失踪して二十年が過ぎた。
その間、夏樹は十八歳まで児童養護施設で過ごし、奨学金を得ての大学入学以来、一人暮らしをしている。
そして大学を卒業するとともに警察官として社会に貢献し始め、この夏で二十五歳になる。
さらにこの日が、刑事となって初めての勤務だ。
「新たに刑事捜査班に配属となりました、牧村夏樹です。よろしくお願いします」
透き通るようなテノールが事務室に響く。
夏樹は身長が百七十センチと平均的で、朱夏によく似た女顔ではあるが、眼差しは鋭くて激しい。
夏樹は逞しく成長していた。朱夏が知っていれば、きっと喜ぶに違いない。
そんな夏樹とタッグを組むことになったのは、田中という、男性刑事だ。
夏樹より十歳年上で、刑事としての経験はそれなりに長い。
田中は、人の良い笑顔で、夏樹に握手を求めた。
夏樹は田中の握手に応えたが、決して、新鮮で純粋な気持ちではなかった。
細く、しかし強張った自分の手が、一刻も早く田中のように事件捜査で経験を重ねた手になることを願っていた。
そうでなければ、夏樹が刑事になった意味がない。
夏樹は、行方不明になった母親の朱夏を自らの手で探し出すためだけに、ここまで上り詰めたのだ。
「では早速だが捜査に入るぞ、牧村」
「はい」
笑顔から一転、田中は厳しい表情で、ジャケットの襟を正す。
夏樹も気持ちがより引き締まり、端整な顔立ちが際立つ。
夏樹の初めての担当は、女性失踪事件だった。
被害者の名前は春野菜々、十七歳。
県内の通信制高校に通いながら、アルバイトとして働いている。
彼女の実家でともに暮らす両親から被害届を提出されて、一ヶ月も経つ。
しかし彼女の失踪当日の動向がまったく見当がつかず、ベテラン刑事は困り果てていたのだ。
けれど刑事たちにも言い分が二つあった。
一つは、春野菜々の失踪当日、彼女が在籍する通信制高校の登校日ではなかったこと。
もう一つは、この日も彼女のアルバイト先が定休日、つまり彼女は出勤していないということ。
さらに春野菜々は控えめな性格で、積極的に誰かと外出するタイプではなかった。
「・・・・・・つーわけで、いくら聞き込みをしても、春野菜々の足跡が掴めないんだわ。だからな、牧村。俺ら捜査班はある作戦を実行することにした」
「はい」
「春野菜々のアルバイト先であるアパレルショップはうちの女性刑事に任せるとして、お前の潜入先はだな・・・・・・」
それを聞いて、夏樹の背中は電流が走ったようだった。
二日後、夏樹は灰色の校門を見渡していた。
「ここが、春野の・・・・・・母さんの・・・・・・」
夏樹の喉仏 がぐらりと揺れる。
この日からしばらくの間、夏樹は刑事ではなくなる。
一人の高校生として、県立通信制高校に潜入するのだ。
和田夏樹として。
そこは、春野菜々の先輩にあたる牧村朱夏が在籍していた高校でもある。
夏樹の任務は春野菜々の消息を探ることだが、夏樹個人としては母親の情報を掴むことも重要であった。
二十年前、朱夏は幼かった夏樹に分かりやすいよう、通信制高校のことを「おとなもかようがっこう」と教えていた。
夏樹はそれを今でも覚えていた。
夏樹は当時流行っていたアニメや友人のことを、朱夏は高校の勉強のことを互いに話し合い、色彩のある日々を過ごしていたのだ。
けれど、ある日突然、その色彩は失われた。
何日待っても、朱夏が帰って来なかったのだ。
代わりに夏樹を迎えに来たのは、児童養護施設の職員だった。
その日から夏樹は、自分の母親を見付けることだけを考え、灰色の世界で生きてきた。二日前まで着ていたスーツのように。
下駄箱のある玄関に入ると、味の濃い料理を混ぜたようなくどい色合いの絵が夏樹を迎える。
一人の巨人が無数の小人を踏みつける、奇妙な絵だ。
夏樹はその描写に違和感を覚えた。
夏樹が卒業した全日制県立高校にはなかったせいか、この絵を飾る理由に見当がつかなかった。
さらにその絵は非常に古く、かつて自分の母親も同じものを見たのかと、胸が痛んだ。
そしてこれから、夏樹は得体の知れない世界に踏み入ることになる。
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