第4話朱夏

 朱夏の日常は、職場でも変化が現れていた。

 中年女性のウェイトレス係は息を潜め、空気に溶け込んでいる。

 朱夏より幾つか年上の女性同僚は、体調悪化という理由で退職し、朱夏と比較的年が近い新人が数名入社してきた。

 我が物顔の先輩がほとんどいなくなったためか、新人の男女とものびのびと研修を受けている。

 レストラン・ベストスマイルの責任者である店長も、以前よりもずっと働きやすくなったと、終日嬉しそうに言っている。

 今のところ、職場でのいじめは解決したことになる。

 VIVIDのカードが不要になったことで、朱夏の心は軽くもなり、また穴がぽっかりと空いたようだった。

 あと残るのは、あの学校そのものと、意気地のない大塚だけだ。

 そして、夏樹と二人きり、平穏な生活を取り戻す。

 夕暮れに人と足並みを合わせて伸びる人影のように、朱夏の残された母性と良心が、懸命に朱夏自身から離れまいとしていた。


 「は? どういうことなのよ」

 数日後、再び赤色のドレスに身を包んだ朱夏は、大塚に向かって仁王立ちしていた。

 「ですから、本日のターゲットは貴女さまの選別ではなく、この私にお任せいただきたいと申し上げているのです」

 大塚の上半身は、まっすぐ立ったときの頭部を零度とすると、九十度を超え深々と前に垂れ下がっている。従者のように、右手を左胸に添えて。

 朱夏は大塚の勝手な行動が許せなかった。けれど、すでにターゲットの用意が出来ていると言われると、朱夏にはなす術がない。朱夏が選んだ人間はやって来ないということになる。

 「理由は?」

 「先日申し上げましたが、貴女さまとご子息の将来を案じてのことでございます。どうかご理解いただけますよう」

 大塚は白々しく、滑らかな口調で答える。

 「他にもあるんじゃないの? あんたが今日にこだわる理由が」

 頭を下げたままの大塚を見下し、朱夏はさらに詰め寄る。

 朱夏にターゲットの選別権を譲っておきながら、ときには口を挟み、この日は大塚に選別権を返せと言っているのだ。朱夏は大塚の言い分を信用できなかった。

 否、大塚の存在そのものが信じられなかった。

 毒をもって毒を制すると豪語しておきながら、朱夏が在籍している通信制高校の教師だけはターゲットに選別しない。

 一方、一部の生徒ーー赤田、青崎、白川、他数名ーーは制裁する。

 これでは、舞台が変わるだけで、高校となんの変わりもないではないか。

 朱夏はそれが最も許せなかった。

 朱夏がVIVIDに関わった本来の目的は、一人息子の夏樹の脅威になりかねない悪を排除するためだ。

 その脅威が、大塚によって温存されている。

 朱夏個人の嫌悪でもあるが、一刻も早く大塚をターゲットとして処分したかった。

 体格が良い男性を好む女性でも、同性愛者でも、条件さえ揃えば愛玩権利者は誰でも良いのに。

 それよりも先に、選別権を大塚に取り戻されてしまってはいけない。

 「私は嫌よ。たとえ今日のターゲットがどんな人間であろうとね。開演までに、私が納得する理由を言いなさい」

 「ですから、先ほど申し上げたように・・・・・・」

 「それ以外で!」

 朱夏は赤色の手袋をはめた手で大塚の髪の毛を持ち上げる。必然的に大塚の引き攣った表情が見えた。

 「申し上げます。申し上げますから、髪の毛は・・・・・・。男も髪の毛は大事に扱わないといけないのです」

 「じゃあ、早く言いなさい。私がこの手を話してあげたら、あんたは禿げなくて済むかもしれないのよ」

 くん、と朱夏はさらに髪の毛を引き上げた。大塚は両手で頭部を押さえて、声を絞りだした。

 「実は、貴女さまが制裁されたいターゲットよりも、はるかに悪質な存在を、私は存じ上げております。まずはそちらをどうにかしなければ、貴女さまの根本的な問題は解決しないと、私は読んでおります。ですから・・・・・・うっ!」

 朱夏は大塚の髪の毛を持ち上げたまま、左右に振ってみた。すると大塚の両膝が床に着き、苦々しそうに呻く。

 その様子をしばらく眺め、朱夏は突然手を離した。

 「良いわ。けれど、次はないわよ」

 「ありがとう・・・・・・ございます」

 大塚は掴まれた髪の毛根を擦りながら、頭を下げた。

 そして、朱夏は使い慣れた赤色の羽が施されたアイマスクで顔を覆った。

 観客のざわめきは、幕で隔てた舞台にまで聞こえてくる。

 赤色の玉座に構える朱夏は、不機嫌のあまりに頬杖をついている。

 大塚の要求に応えたものの、朱夏は不服ではあった。

 朱夏がどれほど訊いても、大塚はターゲットの正体を明かさなかったのだ。

 それでいながら、女王の務めを通常通り果たすよう、指示してきた。

 朱夏のような性格では、納得できないはずだ。

 それでも平静を装っていられるのは、さっさとVIVIDを閉幕して帰宅したいという思いが強いからだ。

 朱夏は魚のように、濁った沼の中で清らかな水を求めている。

 けれど、その手は届かない。

 光が去るように、赤色の幕が上がると、朱夏の意に反して歓声が大きくなる。

 「クイーン!」

 「クイーン!」

 「クイーン!」

 朱夏が頬から手を離し、玉座の肘かけに乗せる。脚を組み、朱夏の挙手で観客は一斉に静まる。

 そして、スポットライトが二か所。

 「皆さま、長らくお待たせ致しました。VIVIDの開幕でございます」

 大塚の語尾が上がり、観客はふたたび歓声を上げる。

 朱夏はその様子に違和感を覚える。

 観客は興奮のあまり狂乱しているはずだが、舞台から見下ろすと、真っ直ぐで強烈な視線を一筋だけ感じ取られる。

 それが針金のように朱夏を固く締め上げているようで、息苦しい。大塚の処分どころではない。

 大塚は朱夏の異変などお構いなしだ。むしろ、好都合だと言わんばかりに、自分一人でVIVIDを進行させる。

 「皆さま、本日はかなりの大物をご用意しておりますので、商品は一品とさせていただきます。こちらに関しましては、オークションのみとさせていただくことを、ご理解のほどお願い致します」

 大塚はマイクをスタンドに固定して、ジャケットのポケットからあるものを取り出す。

 「本日の目玉商品は・・・・・・」

 大塚は静かに歩み寄り、赤色のリボンで二本の腕と硬い肘かけを固定する。

 「こちらにいらっしゃる、我らが女王さまでございます」

 朱夏は耳を疑った。この私が? と。

 「なっ・・・・・・どういうことなのよ!」

 これまでにない盛況ぶりに、朱夏の動揺した声など観客には聞こえない。

 大塚は朱夏を玉座に縛り付けた後、そっと耳打ちする。

 「近頃のお前の暴走ぶりには、ほとほと呆れているところだったのだ。これ以上お前に好き勝手させては、VIVIDの存続自体が危ういのでな。悪く思うなよ」

 ターゲット選別の幅を広げた朱夏を、大塚が手放そうとしている。

 今、この場で。

 先手を打たれた、と朱夏は思った。女性である朱夏は、子持ちとはいえ、若さゆえにターゲットとしての魅力は充分だ。そのうえ、これまで何人もの女性を制裁してきた分、立派な悪と言える。大塚が朱夏に制裁を下すのは、簡単なことだった。

 観客の反応はさまざまだった。どよめく人もいれば、さらに興奮する人もいる。中には信じられないと言わんばかりに、アイマスクをメガネに見立てて両手で構えて女王を凝視する人もいる。

 その中で朱夏の目に留まったのは、一人の男性だった。彼はただ平静を保ち、肘を曲げて拳を握るだけだった。

 このホールにいる人間は皆、アイマスクを着用しているので、それぞれの素性は分からない。しかもアイマスクのデザインは毎度変わっているので、個人を特定することは不可能だ。

 けれど彼の仕草によると、彼はVIVIDの常連であり、以前より女王を狙っていたということになる。

 朱夏と男性は互いに凝視する。そして、彼は力強く挙手した。

 「五十万!」

 司会を務める大塚の口角がいやらしく上がる。観客はハッとして、負けるまいと声を張り合う。

 「六十万!」

 「七十万!」

 「八十万!」

 次第に朱夏の人権が値上がる。朱夏は恐怖のあまり、深紅の口紅で縁取った唇が小刻みに震えている。

 得体の知れない人間に穢されるなんて、冗談じゃない!

 かつて夏樹を身籠ったことで逃げた男のほうが、まだましだ!

 朱夏は強く思う。

 やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて!

 声にならない叫びが朱夏の体内で渦巻き、値が上がるたびにそれが加速する。

 「百万!」

 「出ましたー、百万! 他にはどなたかいらっしゃいませんか?」

 大塚は意気揚々として、スタンドから離したマイクを握る。

 朱夏が初めてVIVIDに踏み入った日から、女王として君臨してきた日々までを思い出す。

 朱夏や大塚に選別された何人もの女性たちが血のような涙を流してきた。

 きっと、家族に顔向けできない思いをした人もいるだろう。朱夏が息子の夏樹を想うように。

 朱夏はこれまでの行いを初めて後悔した。けれど、もう遅い。

 「ニ百万!」

 朱夏の愛玩権利者は、一気に値を上げた男に決まった。

 「では、落札された方、ステージまでお願い致します」

 大塚に促され、男は壇上に昇った。

 玉座の間近で、朱夏にしか分からないよう、右側だけアイマスクを外す。

 「うそ、なんで・・・・・・」

 にやりと笑ったのは、朱夏がよく知る人物だった。

 朱夏の勤務先であるレストラン・ベストスマイルの店長だ。

 「困るんだよね、突然人手不足にしてもらっては。ここの常連である俺が、自分の城での変化に気付かないと思ったのか? 君のせいで城の空気が生温くなって仕方がない」

 店長は左手で覆った紙切れを朱夏に見せた。それは朱夏がベストスマイルの従業員を選別するのに使っていたVIVIDのカードだった。

 「これからは、俺が可愛がってやるよ。女王さま」

 傷口から血が出てくるように、アイマスクで覆った朱夏の目からは涙が溢れた。

 盛り上がる歓声も、それを煽る大塚の声も聞こえない。今、この場で舌を噛み切ることができたら、どれほど良いだろうと悔むばかりだ。

 好きでもなく、それも息子の実父でもない男性に穢されて、唯一の家族に顔向けできるはずがない。このままいなくなったほうがマシだ。

 「夏樹・・・・・・」

 そう呟き、朱夏は玉座に縛られたまま、気を失った。


 「さあ、次代の女王は一体誰なのか? その答えは来週までお楽しみに!」


 その後、朱夏は行方不明となり、息子の夏樹は児童養護施設で暮らすことになった。

 いつまでも戻って来ない朱夏の帰りを待ってーー。

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