第3話女王

 「牧村、お前、自分が一体なにをしでかしたのか、ちゃんと理解しているのか?」

 生徒指導室に入ると、大塚が煙草をくわえ、ソファに足を組んでいた。

 「ええ、ここの校則に背き、赤田さんたちに歯向かった。それだけのことです」

 大塚がテーブルで遮ったもう一つのソファに腰をかけるよう促さなかったので、朱夏は生徒指導室の入口に立ったまま答えた。

 すると大塚はくわえていた煙草を乱暴に灰皿に押し付け、勢い良く立ち上がった。

 「なんだ、その上から目線は! お前のその行動がどれだけ重大で愚かなことか分かっていないだろう」

 「分かりません。私だけではなく、会ったこともない息子のことまで侮辱されたのですから」

 朱夏は大塚を見下したつもりはなかったがそう言われたので、あえて顎を上げて言葉を返す。

 朱夏はこの高校の一生徒ではあるが、同時に母親でもあるのだ。

 朱夏が憤慨するのは当然のことだった。

 その気持ちを、男性の大塚が理解できるはずがない。

 「あのな、牧村、この校則の意味を本当に理解できないのか?」

 「社会的立場を利用して虐げる権利のことですか? まったく理解できません」

 「ふん、その様子だと、子どもの将来が心配だな。お前は確かレストランで働いているそうだが、この調子だといつか学費に困るだろうな。大学進学なんて夢の夢、良くて県立高校卒業ってところか。私立と比べて、授業料が安いからな。だか、それもどうだか」

 「・・・・・・どういうことですか?」

 大塚がにやりと不気味に笑うので、朱夏の怪訝な声が低く響く。

 「ここは県立高校で、教師は全員公務員。転勤は免れない。つまり、必然的に県内の教師同士で人脈ができる。お前の息子が入試に不利なよう、今のうちにお前たち親子の酷評を広めることが可能だってことだ」

 「なんて卑怯な・・・・・・!」

 朱夏はその場に立ったまま、両手で拳を握った。怒りと悔しさから、短く整えられた爪が食い込むほどの握力だった。

 確かに現在の経済力がこのまま続けば、息子の夏樹を県立高校に進学させるまでが精一杯だ。中学まで公立に行かせるにしても、朱夏には夏樹を私立高校に進学させるだけの余裕がない。

 悔しいが、それが現実だ。

 それを、息子の夏樹を利用してまで生徒を脅す大塚の言葉は汚れきっている。

 怒りに満ちた朱夏をしばし眺め、大塚は二本目の煙草を吸い始めた。

 「・・・・・・扉を閉めろ」

 朱夏は力任せに生徒指導室の引き戸を閉めた。通信制高校はここだけではない! という思いを込めて。

 「座れ」

 大塚が向かいのソファを指で指し示す。

 朱夏は大塚を睨み付けたまま、どさりと座る。尻はほとんど沈むことなく、座り心地は固くて最悪だった。

 「・・・・・・牧村」

 煙を吐く大塚が、声を潜める。

 「退学の件ですか?」

 煙草の副流煙よりも喫煙者本人に嫌悪感を抱くため、朱夏は避けるように背中をソファの背もたれに密着させる。

 「違う」

 「そっちの件でしたら、口にした時点で訴えます」

 朱夏は拒絶するよう、煙草の煙を平手で相手に向けて払う。大塚を自分の男にするなんて御免だ、と。

 「馬鹿か、お前みたいなやつは趣味じゃない」

 「でしたら、一体なんですか?」

 今度は朱夏の平手が左右に揺れ、煙草の煙が室内に充満する。

 「俺がここの校則に賛同する理由を知りたくないか?」

 「私には到底理解できるものではないと思いますが」

 大塚の語尾と重なるように、朱夏は頑なに即答する。

 「では、息子の将来を守りたいとは?」

 朱夏の眉がピクリと動く。教師の人脈を武器に夏樹の将来を握ると言われ、過敏に反応してしまう。

 「息子とここの校則、そもそも大塚先生とどのような関係があるのですか?」

 「いずれ理解する日が来る」

 大塚は人脈という脅威を得意げに語ったが、朱夏の質問に対して細かく話そうとしない。ただ一言。

 「VIVIDだ」

 大塚は煙草の火を消し、生徒指導室に朱夏を残した。


 数日経ったある日の夜、牧村家は無人の部屋となる。

 朱夏の息子である夏樹がお泊まり会に参加しているからだ。

 夏樹が通う保育園には、母親が十代で出産した園児が数人いる。

 朱夏も夏樹も、そういった家庭環境の人と気が合うので、いわゆるママ友と相談して、各々が携わる仕事に合わせて子どもを預け合うのだ。朱夏も自宅で何度も夏樹の友人を預かっている。

 レストラン・ベストスマイルに勤務する朱夏のシフトは、ランチタイムがほとんどで、夜の帰宅はまずない。

 しかし朱夏が自宅を空けるのには、理由があった。

 VIVIDの真相を確かめるためだ。

 生前の敏子をはじめ多くのクラスメイトが禁忌とする謎の言葉を、前日、教師である大塚が口にした。

 つまり、大塚がなんらかの形でVIVIDに関わっているということだ。

 その真偽を確かめ、夏樹の将来を守るため、朱夏はVIVIDについて情報を集め始めた。

 意外にも、その情報源は主に赤田と青崎を交えた大塚との密談であった。

 彼女たちでさえ口にしなかったことを、普段の会話と変わらない口調で平然と話していた。

 どうやら、VIVIDとはなにかを目的とした集まりのことらしい。

 しかし朱夏は己の盗み聞きが知られないようにするために、集まる日時と場所を拾うだけで精一杯だった。

 そして、この日に至る。

 普段着のチュニックにスキニーパンツ、そしてキャップを深く被り会場へと潜り込む。

 そこは小規模な催しに使用されるホールのようで、比較的地味だ。

 しかし彼女を除く二十人ほどの観客は皆、スーツやドレスなど身なりが良く、画面やアイマスクで素顔を隠している。

 観客は舞台の幕が開くのを、今かと待っているため、隅に座る朱夏のことなど目に入らないようだ。

 朱夏は観客の背中を見渡したが、赤田、青崎、そして大塚らしき体型の人物は見付けられなかった。

 観客席にいなければ、朱夏が長居する必要はない。校内での密談はダミーだったということになる。

 早く帰宅してレポートを仕上げよう。

 保育園で使う夏樹のスモックのほつれも直さなければ。そう思い、朱夏が観客と舞台に背を向けたそのときだった。

 「皆さま、長らくお待たせ致しました。VIVIDでございます」

 大塚の声に似ていた。否、大塚の声そのものだった。

 朱夏が振り向くと、彼もまたスーツ姿にアイマスクという、奇妙な格好をしており、観客の喝采を浴びている。

 赤田と青崎らしき姿は相変わらず見えない。

 しかし、大塚がいるだけでもなにか収穫できると踏んだ朱夏は、出入り口から離れて、ホールの隅に戻る。

 朱夏はキャップのつばに隠された目で、校内では見ることのない意気揚々とした出で立ちを睨んだ。

 「皆さま、本日の目玉商品は・・・・・・『本当はいじめられたいSまがいの熟女二人組』でございます!」

 カートが引かれると同時に、朱夏は唖然とした。菅生沼を晒した赤田と青崎が舞台に現れたのだ。

 彼女たちは立てられた板に両腕両足を固定され、何種類もの模様が施された露出度の高い服を着ている。サーカスやマジックショーのアシスタントを思わせた。

 しかし彼女たちの唇の間にはハンカチが挟まれ、涙目になっている。つまりこの状況を望んでいないということだ。

 これから一体なにが起こるのかを想像できないが、朱夏は、このホール全体の異常な熱気だけは感じ取られた。

 「さあ、初めのお楽しみと致しましょう! 思う存分、的に向けてお手持ちのものを投げ付けてくださいませ」

 わあっ! と一気に歓声が高まる。そしていつの間に持っていたのか、観客は卵を手に掲げ、力強く放り投げる。卵の嵐だ。

 赤田と青崎の体が次々と卵を受け止めて、あっという間に、割れた生卵で汚れた。

 それが照明に照らされ、卵を投げずホールの隅に立っていた朱夏でも分かった。

 「なによ、これ・・・・・・」

 かつて自分と息子を侮辱した相手への爽快感が朱夏にはなく、観客の盛り上がりぶりに狂気と恐怖を抱き、身を震わせる。踵が鉛のように重く、びくともしない。

 「いかがでしょう、この表情! 存分にお楽しみいただいたところで、メインイベントに移りましょう! ご希望の方は挙手を」

 大塚の高らかな声がホールに響くと、早速数名の男性が手を挙げ、数字を唱え始める。

 五十万、六十万、七十万・・・・・・数字が大きくなるたびに、赤田と青崎は声にならない悲鳴をハンカチに込め、思い切り噛みしめる。

 「出ました、百万! 他にいらっしゃいませんか? いらっしゃらなければ、こちらの熟女二人組の愛玩権利者を決定致します!」

 朱夏の悪寒はさらに激しくなる。とんでもないところへ来てしまった。

 これは、人身売買ならぬ、人権売買のオークションなのだ。

 「おや? ところであちらには、見慣れない方がおられるようだが・・・・・・?」

 観客の一人が、背後の朱夏に目をやる。そして生々しく自分の唇を舌で伝う。

 「さあさあ、皆さま。他にも目玉商品が舞台に登場致しますよ!」

 大塚の高揚とした声は、それ以上聞こえなかった。

 己の危機を感じ、朱夏は重い踵を懸命に引き摺り、全体重をかけて重厚な扉に隙間を作る。

 そのわずかな空間に身を投げ、朱夏はその場から逃げ出す。

 どのようにして帰宅したのか、朱夏に記憶はない。玄関に鍵をかけるとゼーゼーと荒い呼吸が繰り返されるだけだ。

 動悸が止まらない。朱夏は背中を丸めて左胸を抑え、その場に座り込む。

 朱夏の混乱はいまだに治まらない。自宅にいても、例のホールに長居しているようだった。

 朱夏が去った後、赤田と青崎はどうなったのか。もしかしたら白川の退学理由と関係しているのだろうか。

 赤田たちの次は、誰がターゲットになるのか。

 複数の疑問が朱夏を雁字搦めにし、身震いさせる。


 夏樹、夏樹、夏樹・・・・・・!


 その晩、朱夏は玄関から一歩も動かず、ただひたすら息子の名前を呼び続けた。


 翌日、朱夏はなに知らぬ顔で、無事にお泊まり会を終えた夏樹を迎えた。

 夏樹は機嫌良く、友人となにをして遊んだのか、食事にはなにが出たのか、知る限りの言葉で朱夏に教える。

 「そう、楽しかったのね」

 「うん! でもママ、ぼくがいないときにむりしちゃだめだよ。ともきくんのママのくちぐせ、なんだとおもう? 『ほどほどに』だよ。ママ、しっていた?」

 「夏樹はなんでも知っているのね」

 朱夏は夏樹の友人の一人、ともきの母親のことは良く知っていたが、まさか子どもにまで口にしているとは、知らなかった。お泊まり会は、よその家庭を知る醍醐味である。

 朱夏と夏樹は両手を唇に当て、顔を合わせてクスクスと笑う。

 こんなやりとりが、いつまでも続けば良いのに、と朱夏は心の中で思う。

 昨夜の異常な世界を忘れられたら、と強く願う。

 しかし現実はそう甘くない。いつどんなときでも脳裏から離れないのだ。

 勘の鋭い夏樹にだけは悟られたくない、と朱夏は願うしかない。

 「さあて、夏樹は保育園。ママはお仕事の日だからね。そろそろ行こうか」

 「うん」

 朱夏は白いシャツに黒いパンツ、夏樹は黄色の帽子と水色のスモックに身を包み、手を繋いで玄関を出る。

 しっかりと鍵を閉めると、二人のそれぞれの日常が始まる。

 夏樹は保育園で元気に遊び、ひらがなを勉強する。

 朱夏は週五日、レストラン・ベストスマイルでウェイトレスとして働き、休日二日のうち一日は通信制高校に登校する。

 これまで朱夏は、社会人と学生の二重生活は四年の辛抱だと捉えていたが、前日よりその考えが変わった。

 初めてものごとの追求を捨て、今のうちに別の通信制高校へ編入する。つまり逃げ場を求め始めた。すべては朱夏と夏樹、二人の平穏な暮らしのため。そして夏樹の将来のため。

 けれどそのささやかな願いは、登校日に壊される。

 「お前の罪は重いぞ、牧村」

 生徒指導室にて、大塚の口から低く重い声が放たれる。一週間ほど前の夜と比べ、大した変貌ぶりだ。

 朱夏は身構える。大塚に呼び出された時点で、朱夏には逃げ道がないと悟ったからだ。

 VIVIDに踏み入ったばかりに。

 「・・・・・・なぜ、罪になるのですか? そもそも、あれの存在理由は一体なんですか?」

 朱夏は室内のソファに座らず、引き戸に背中を当てて問う。

 この質問が、さらにVIVIDに踏み入ってしまうことを承知して。

 なんとしても夏樹の将来を守らねば、という母親としての強い思いがそうさせてしまった。

 大塚は指を組んだ両手に顎を乗せ、朱夏の目を見据える。

 「牧村、ここでは大きな声では言えないが、お前は俺の招きなくあの世界に踏み入った。あれは、俺にとっては特別なんだ」

 「VIVIDが?」

 「だから大きな声では言えないと言っただろう。とにかく、今度は特別に裏方を見せてやるから、観客席には二度と来るな」

 「そう仰って、赤田さんたちみたいな目に合わせるんですか?」

 今度は朱夏が大塚の目を見据える。クラスメイトの有りさまを見て、大塚の言葉を疑う他なかった。

 大塚は朱夏に対し、イエスともノーとも答えない。

 「ここの校則を熟知していれば、警戒する必要はない」

 大塚はソファから立ち上がり、朱夏を除けて引き戸を開け、生徒指導室を去るだけだった。

 朱夏の探求心がふたたび目覚めてしまった。

 「夏樹のために・・・・・・」


 その日の夕方、朱夏はVIVIDへ二度目の足を踏み入れることにした。

 夏樹が通う保育園には、高校の課題でどうしても遅くなると伝えている。

 あえてママ友に夏樹を預けなかったのは、大塚の真意とVIVIDの目的を確かめ、早々に引き上げる予定だからだ。

 日が沈む前、オレンジ色の空の下で、会場の自動開閉式扉が朱夏を招き入れる。

 VIVIDの開演を控えたホールは、観客席を含め全体的に人気がなかった。

 朱夏は観客席を横断し、舞台に手をついた。

 そして左足を上げ、どうにか舞台へとよじ登った。

 右足で宙を蹴り、その反動で朱夏の体が冷たい舞台の上で転がってしまう。

 それを止めたのは、大塚の黒い革靴だった。

 「なぜ、裏口から入らなかった? 探すくらいならできるだろうに」

 大塚はタキシード姿で両腕を後ろで組み、朱夏を起こそうとはしない。

 朱夏は不粋な大塚のエスコートを期待していなかったので、自力で立ち上がる。

 「あなたの庭のような裏口で監禁されるわけにはいきませんから」

 「そんな妄想をしていたなんて、お前はずいぶんと変わったやつだ」

 「ええ、昔から言われてきました」

 朱夏は、ふぅ、と息を吐く。

 「それで、あなたはなぜ、VIVIDとやらを催しているのですか?」

 朱夏は大塚を教師として見ていなかった。一人の狂乱者と見なして、顎を上げて問う。

 しかし大塚は朱夏の態度に憤慨しない。それどころか狂乱者とは思い難い真剣な目で、落ち着いた口調で朱夏に問い返す。

 「校則は熟知しているだろうな?」

 「ええ『教師が社会的弱者にあたる生徒をいじめても良い』『その規則に反することは許されない』でしょう。つまりは、越権濫用のパラダイスということ」

 朱夏は鼻で笑った。母親になってからは、こういった正義に反することに敏感になっている。

 一方、大塚はどこまでも冷静な態度だ。

 「一応、頭には入っているようだが、その例えは少しずれているな。VIVIDと関連付けたら」

 「だから、その答えは一体なんですか? それを聞いたら早く帰ります。息子が待っているので」

 「やれやれ、シングルマザーは特に気が強くてせっかちだな。仕方がない、今回だけはお前の要望に答えるとしよう。観客から見たVIVIDは、金持ち対象の闇オークションだが、VIVIDの真の目的は・・・・・・」

 それから、大塚は明確に説明した。

 VIVIDはいじめ断絶を目的に大塚が立ち上げた催しであること。

 そのため、いじめる権利のない生徒をターゲットとし、人権売買という形で制裁している。

 人身ではなく人権売買である理由は、正義のために行っているので、警察がターゲットを行方不明者として捜索することを避けるため。

 たとえ、大塚にとってVIVIDが正義であっても世間一般からすれば、犯罪と変わりない。極めて危険な制裁の場なのだ。

 VIVIDという名前は、ターゲットがいじめ行為を心から後悔する際、心の中で流す鮮血な涙から由来している。英語でも、vividは「鮮血な、鮮やかな」という意味をさす。

 そしてーー。

 「毒をもって毒を制する。正義だけではいじめなんて解決できない」

 大塚は己の信念を明かす。しかしそれだけでは朱夏の疑問は解決できない。

 「では、教師によるいじめは? そもそも、なぜあなたがそこまでする必要があるのですか?」

 「前にも言っただろ、公立校の教師は転勤族だって。俺は本来ネチネチしたことが嫌いだが、あいにく勤務先は選べない。俺が知る限りでは、あの校則は第三者をいじめる生徒を罰するために施されたらしい。しかし今では単なる差別的の道具になっている。だから・・・・・・」

 「それであなたが自ら『毒』になったとでも?」

 大塚は朱夏の皮肉に頷く。

 「なにも俺だけではない。真意を知らぬとはいえ、客もまた毒だ。そして牧村、俺はお前を毒どもの支配者に任命したい」

 「・・・・・・は?」

 朱夏は訳が分からず、首を傾げる。大塚こそがこのVIVIDの支配者だと思っていたのだ。

 それを突然、朱夏になれと言われ、混乱するしかない。

 「お前は唯一、校内であいつらに立ち向かった生徒だ。裁く者として十分に素質があると思うが」

 あいつらとは、朱夏のクラスメイトである赤田と青崎のことだ。彼女たちは一週間ほど前、VIVIDにおける人権売買のターゲットにされた。

 今では、夫の他に自分たちを買い取った男の相手もしているのだろう。

 朱夏は、自分がそれを取り仕切るのかと思うと、ゾッとした。

 自分をいじめた相手とはいえ、同じ女性なのだ。心を許さぬ相手に肌を晒すなど、屈辱の他にならない。また、自分にはそれができないと思っている。

 「それともなんだ、お前は将来、息子をいじめの世界に無言で放り込む気か?」

 朱夏は大塚の言葉に操られていることを感じ取っていたが、抗うことはできなかった。

 息子の夏樹がいじめられる可能性の高い要素はいくつもある。

 十代で出産したシングルマザーの家庭。現在母親の最終学歴は中卒であること。安月給の接客業で生活を切り盛りしていること。

 夏樹自身にはなんの罪のないことだが、世間の大人に倣い、その子どもは主に肩書きを理由に差別的な言動を取り、相手の心身を傷付ける。

 つまり、現在の朱夏の力では、大人からも子どもからも夏樹を守ることができないのだ。

 それを突かれ、朱夏は言葉が詰まる。大塚の提案を呑むしかないのだろうかと。

 しかしそれには一つ問題が生じる。

 「夜遅くまで息子を一人で待たせるなんて、できません」

 「ならばVIVIDの時間を早めよう。ここまで話した以上、関わってもらわないと困るからな、お前・・・・・・否、女王さまには」

 大塚は朱夏に向かって傅いた。

 朱夏はさらに迷った。たとえ将来いじめのない世界が誕生するとしても、果たしてそれが夏樹のためになるのだろうか。母親として、夏樹に対して胸を張ることなどできるのだろうか。

 勘の鋭い息子が、なにかしら気付くに違いない。しかしーー。

 「裁きのターゲットを、いじめている人間に変更してくれるのなら」

 朱夏は考えた末に頷いてしまった。大塚は跪いたまま、顔を上げて朱夏の渋った表情を確認する。

 「・・・・・・良いでしょう。不慣れなうちは私がフォローしますので、あなたは玉座で威厳を観客に示してください」

 「威張っていろ、ということですか?」

 「さようでございます。それから、VIVIDでは、私に敬語など不要です」

 「じゃあ、私の質問に答えて。あなたはどんな手口で赤田さんたちを誘ったの?」

 大塚の返事には、罪悪感の欠片も感じ取られなかった。

 「向こうが勝手に媚びてきたので、私は校則を利用したまでです」

 一教師であるはずの大塚は、一体いくつの顔を持つのか。朱夏は背筋がざわつき、不気味に感じた。


 翌日の仕事を終えた後、朱夏はシャワーを浴びる。飲食店特有の食材の香りを洗い流すのだ。

 なぜなら、この日早速VIVIDが開催されることになっているからだ。

 時間帯は朱夏の希望通り夕方、それも一般家庭では夕食を準備するころに変更された。

 朱夏も本来は母親として台所に立つ時間だが、この日はあらかじめ準備した二人分の夕食を冷蔵庫に保存しておく。

 朱夏の都合で、夏樹に不自由をかけないために。

 そして朱夏はVIVIDの会場へと向かう。


 「皆さま、開幕の前に大切なお知らせがございます。このたび、我らがVIVIDにふさわしい女王が誕生致しました。皆さま、どうぞ拍手でお迎えくださいませ!」

 観客の喝采とともに幕が上がる。舞台の上では、朱夏が赤い肘かけ椅子に腰をかけている。

 素顔を隠すフェザーのアイマスクに、光沢のあるマーメイドドレス、組んだ足を包むハイヒール。どれも鮮やかな赤色だ。

 朱夏の目線は、前回と打って変わった。今回は三十人ほどだろうか、色とりどりのアイマスクで素顔を隠し、狂気を曝け出す観客を見下ろしている。

 「クイーン!」

 「クイーン!」

 「クイーン!」

 毒に侵された者の一部がその場で立ち上がり、手のひらが赤く腫れるまで朱夏に拍手を送る。

 朱夏は手を振ることなく、椅子に座ったままじっとしている。

 大塚のアドバイスによる行動だが、これは朱夏の意志でもあった。

 朱夏はVIVIDの女王になることを承諾したが、決してVIVIDに溺れるつもりはない。あくまで、息子の将来を守るためだ。

 だが、後に現れたターゲットを顎で指すと、朱夏の心は高ぶった。

 女王の指示一つで、観客が一斉に卵を投げ始める。いじめる人間を自分が制裁しているのだという優越感が生じたのだ。

 初めて観客席から見上げたときの印象とは、まるで別ものだ。

 異常だと思っていたこの行いが、見下しても横に振り返っても心地良くて、そしてターゲットの涙さえ正当化してしまう。

 朱夏は平静を保っていたが、心の中では卵の数だけ音が弾けていた。そのたびに普段抱えているストレスが脳裏に浮かび、消えていく。

 仕事の厳しさ、若さと未婚出産ゆえの社会から浴びる冷ややかな眼差し、朱夏の両親や男に捨てられた悲しみや孤独感、朱夏一人での子育て。他にもささいなことでの不快感が多数。

 それらが解消された証のように、生の卵黄がターゲットの体中に張り付く。

 この後に行われた人権オークションでは、肥えた体格の男が値を上げるたびにターゲットが首を左右に振る。ターゲットはこのオークションの意味を理解しているのだ。

 多くの女性は、己の合意なしで肌に触れられることを嫌う。

 その相手が加齢や肥満で醜ければ醜いほど、なおさらのことだ。

 朱夏は同じ女性としてその気持ちを十分に理解している。

 だからこそ、この行為も報いの一つだと見なしてしまう。

 朱夏はVIVIDの溝に入りかけてしまったのだ。

 このときに、罪悪感など抱くはずもなかった。


 「中々、上等な振る舞いでございましたね、女王さま」

 VIVIDの幕が閉じられた後、大塚が拍手する。そこそこ高値で人権が売れたこともあり、機嫌が良い。

 「笑えない冗談はやめて。ところでこの利益、一体どうするの? まさか自分の懐に入れているとか?」

 朱夏はアイマスクを外し、冷めた目で大塚を睨む。

 普段の人格が戻った瞬間だった。

 「とんでもございません。全ての利益はこのVIVIDを維持するためのものでございます。ご存じでしょうが、生卵一つでもただではありません。あれだけの数を、薄給の者が賄えるはずがない。ですがお望みとあらば、貴女の財産に致しましょう」

 「結構よ!」

 大塚は右手を左胸に当てて深々と頭を下げ、朱夏はそれを吐き捨てるようにアイマスクを大塚のつむじに叩き付ける。

 「・・・・・・ですが、まんざらでもなかったでしょう?」

 大塚は朱夏が使ったアイマスクを拾い、顔を上げる。

 身に付けているドレスのように赤面し、朱夏は舞台を去る。

 更衣室にてドレスを脱ぐと、優越感から一変、罪悪感が一気に朱夏を襲った。

 同じ女性を特殊な性癖を持つ男の餌食にし、人権を踏みにじった。たとえ誰かをいじめている人間が相手であっても、道徳に反することだ。

 それを行った朱夏は、己を人間として、母親として失格だと心の中で責める。その声は誰にも聞こえない。

 今日のターゲットの泣き顔が浮かび、その涙が朱夏の脳裏で溜まると、それが息子の顔に変わった。

 楽しそうにアニメや友人のことを話す無邪気な姿。

 朱夏は一刻も早く夏樹に会いたかった。そして、自分自身を浄化したかった。

 私服に身を包み、駆け足でホールを離れる朱夏を、誰も止めない。

 「もう遅いですよ・・・・・・女王さま」

 大塚の囁きは、朱夏に届くはずがなかった。


 「ママ、おかえりー。がっこうおつかれさまー!」

 保育園に残っていた園児は、朱夏の息子、夏樹一人だけだった。

 夏樹は寂しかったはずだが、母親の朱夏に笑顔を見せる。

 健気で清らかな存在を求め、朱夏は両腕を伸ばす。

 だが、朱夏の両腕は前方に突き出したまま固まってしまう。

 朱夏の全身を介して、夏樹にVIVIDの毒が感染することを恐れている。

 それでも両腕を引かずにいられないのは、夏樹が朱夏の温もりを強く求めていることを知っているからだ。

 澄んだ目で夏樹に見つめられ、朱夏は両腕を下ろす。

 「ママ・・・・・・?」

 はかない心を傷付けないよう、朱夏の指先が夏樹の手にそっと触れる。

 そして、朱夏は幼く小さな両手をぎゅっと握りしめる。

 「ごめんね。ママ、今日はすごいクタクタになっちゃった。だから早く帰ろう、夏樹」

 「・・・・・・うん!」

 朱夏には、それ以上話す気力がなかった。それを悟った夏樹は、黙って朱夏に手を引かれる。

 互いの一日を知らない日が、できてしまった。


 その後も朱夏は、VIVIDの女王として富裕層の上に君臨し続けた。

 この世にいじめが存在する限り、VIVIDが制裁を繰り返す。

 女王としての優越感と母親としての罪悪感。

 それぞれの心に板挟みとなり苦悩するが、やがて朱夏の中は女王の存在が大きくなった。

 大塚の助力なしでターゲットの選別ができるようになったこともあり、夏樹をママ友に預けたり、遅くまで保育園に残すことが増えた。

 当然のことながら、朱夏と夏樹の会話も、夏樹の笑顔も減った。

 だが夏樹は決して、周囲に泣き言を口にしない。

 母親に甘えたい年頃であるはずの少年は、朱夏が仕事と勉強の両立に疲れていると思っている。唯一の家族として、朱夏を困らせないように、と気を遣っているのだ。

 そんな夏樹の想いを知ることなく、朱夏の勉学は疎かになっていた。

 登校の目的はもはやVIVIDのターゲット探しであった。

 教師にレポートの中身を指摘されても、朱夏の心は痛みを感じなくなり、その変化はクラスメイトも気付いた。

 「牧村さんって、以前よりもずいぶん冷たくなったというか、近寄りがたくなっていない?」

 「あれかな。赤田さんたちが退学して、彼女を悪く言う人がいなくなったでしょ」

 「もう、のびのびして良いはずなのにね」

 幾つもの声が耳に入っても、朱夏は風の音にしか聞こえない。

 もともと朱夏が在籍する高校は通信制。登校日は週一日なので、誰かと深く交わることは少ない。せいぜい年が近く同じ中学出身者や、近所の住人同士くらいだ。

 朱夏にとって、クラスメイトのほとんどはそのどちらにも当てはまらない。

 さらに卒業する者が少ないとなれば、全日制高校と違い、朱夏には誰かと交わる必要がない。

 ただ、レストラン・ベストスマイルでの仕事は別だった。

 VIVIDでの利益を受け取らないと啖呵を切った以上、自力で生活費を稼ぐしかない。

 そのためには従業員のチームプレイが不可欠で、常に周囲に気を配らなければならない。

 その上、どれほど理不尽な客にも頭を下げるので、ストレスが溜まりやすい。

 そして週に数回、VIVIDで発散する。

 人を虐げる者に制裁を下すので、今や朱夏にとって、女王という立場は善以外の何ものでもない。

 ただ一つ、大塚の存在を除いて。

 大塚は朱夏にターゲットの選別権を譲ったものの、いまだにやたらと助言したがる。

 朱夏はそれが鬱陶しくもあり、言動を含む大塚のすべてを理解できずにいた。

 いじめを嫌っていながら、観客に頭を下げる。朱夏の影に隠れて動くことしかしていない。

 現在のVIVIDを盛り上げているのも、観客を喜ばせ、いじめを制裁しているのも朱夏だ。

 それを、裏でしか正義を謳えられない大塚に邪魔されているようで、朱夏は不愉快でたまらなかった。

 そのうち、朱夏はVIVIDのターゲットに、大塚を候補に入れるようになった。

 だがその実現には大きな壁があった。

 大塚はターゲットとしての魅力が弱いのだ。

 スポーツ歴を語るがっしりとした体に厳つい顔立ち。

 女性のターゲットがほとんどのVIVIDでは、よほどの物好きが現れない限り、大塚に制裁を加えることはまず不可能だ。

 それでも、朱夏はどうしても大塚を処分したかった。その気持ちが強くなるたび、忘れかけていた母親としての罪悪感が朱夏の心が激しく揺れ動いた。VIVIDを潰せ、と言わんばかりに。

 VIVIDがなくなれば、大塚の立場はなくなる。

 警察の鼻を恐れずに堂々といじめを撲滅できる。

 朱夏が在籍する高校の校則を廃止することだって、可能だ。

 けれど朱夏は、現在の立場を選ぶ。

 それ以降も朱夏はVIVIDの女王として観客に威厳を見せていたが、アイマスクに隠れた目だけは四方八方に動いた。ターゲットへの制裁中の盛り上がりぶりを観察するためだ。

 多くの男性が夢中になって卵を放り投げている。どれほど派手なアイマスクで覆っても、嬉々とした目は隠せてはいない。

 中にはドレスを着た観客もいたが、喜びというより鬱憤を晴らしているように見える。女性は同性を妬む人が多いので、嗜好を把握しにくい。

 どうやら大塚のような男性を好む人はこの場にいないようだ。それでも朱夏は探し続ける。

 正しいと信じる世界の君主として。


 結局、この日も目当ての人物を見付けることができなかった。

 「女王さま、なにか御不満でも?」

 「あんたには関係ないわよ!」

 朱夏を煽るように大塚の語尾が上がり、朱夏は刺々しく言い放つ。

 大塚の声も、頭を下げる仕草も、大塚のなにもかもが癇に障る。

 「そういえば、最近は少々年上の方を選ばれることもありますね。彼女たちもまた、悪なのですか?」

 大塚はふと思い立ったように、朱夏が選んだターゲットについて尋ねた。

 朱夏は大塚を横目で見たが、すぐに視線を逸らした。指で顎を撫でる仕草までもが嫌なのだ。

 「そう、立派な悪よ。彼女の舞台は学校ではなく、社会だけれど」

 朱夏の背中は、一人の社会人を物語っていた。

 朱夏の勤務先では、ウェイトレス係のほとんどが女性で、家庭を持っている。

 子育てや夫の世話などに対する不満を、立場の弱い後輩に叩き付ける人もいるのだ。

 それは通信制高校だけではない、どこの学校にでもあるいじめと変わらない。

 上司に相談することを許されない人、特に独り身の若者は仕事を辞めるしかない。

 そんな現場を目の当たりにしている「正義」の朱夏は、黙認できなかった。

 だから、朱夏はターゲットをVIVIDへ誘ったのだ。

 「ーーして、その方法とは? 貴女の正体が暴かれることも、このVIVIDが明るみに出ることもない巧な手段を、是非とも存じ上げたいものですね」

 「カードよ」

 「かーど?」

 朱夏は更衣室に入り、ドレスを脱ぎながら大声で答えた。大塚はそこへ入ることなく、朱夏が発した言葉をオウムのように繰り返す。

 「VIVIDが行われる日時と場所のみを記した紙切れを、個人ロッカーの中に入れておくの。堂々と控え室に置くか従業員全員に配れば、口の軽いババアどもが黙っていないわ。なにしろ別名『放送局』だもの。でも、誰か一人にだけならば、自分が特別だと勘違いして、カードの存在を隠し通す。だからこうしてのうのうとやって来て制裁されたじゃないの」

 更衣室を出た朱夏は私服姿に戻っていた。それに合わせて大塚は態度を改め、威厳を撒き散らす生徒指導の教師になりきった。

 「確かに一理あるが、危険な賭けでもあるな。確かに俺はネチネチしたことは嫌いだと言ったが、ターゲットの範囲を広げてしまうと、噂が大きくなる危険がある。お前の身の保障と息子の将来を考えているのであれば、少し控えたほうが良いだろう」

 「では、悪を放っておけ、と言うのですか?」

 「そうではない。いっときの辛抱だということだ」

 私服姿に戻った朱夏は、反抗期の未成年のように、顎を上げて大塚の前を横切る。年上の説教を無視するかのように。

 「息子が待っているので」

 大塚には素っ気なく言い放つが、帰路を目指す朱夏の脳裏には夏樹の笑顔が浮かばない。

 それどころか、顔立ちすら印象が薄くなっている。毎日顔を合わせているというのにも関わらず。

 それほど、朱夏はVIVIDに囚われていた。その自覚は本人にはない。

 だが、数年通っている保育園への道のりだけは、体が覚えている。

 VIVIDの会場を出ると、朱夏は風に身を任せて歩きだした。

 「・・・・・・ねえ、ママ」

 「なに? 夏樹」

 こんなやりとりをどれほど忘れていたのだろう。朱夏はぼんやりと思いながら、生返事をする。

 「ぼく、はやくおおきくなって、ママを『らく』にさせてあげるね。だからさ、もうちょっとだけまっていて」

 夏樹は朱夏に手を引かれ、顔を俯かせて小声で言う。夏樹の表情は夕暮れの影で隠れている。

 朱夏の胸がチクリと痛む。夏樹のためと言いながら、VIVIDに時間を割くことで、夏樹に負担をかけてしまっていることに気付いたのだ。

 けれど今の朱夏に、自分自身を止める術はなかった。どうにもならないことだった。

 夏樹の明るい声を聞くことも、そのために女王の座を降りることも。

 「・・・・・・夏樹、そんなことを言わないで。夏樹が早く大人になってしまったら、ママが寂しいじゃないの。夏樹がいるから、ママは頑張れるんだよ」

 「 だってさ、ママ・・・・・・」

 「良いのよ! な、つ、き!」

 朱夏は童謡を歌うように、大袈裟に小さな手を前後に振る。これが、夏樹の想いに応えられる精一杯のことだった。

 夏樹が笑顔で覗き込むと、夏樹は恥ずかしそうに口元が波打ち、目が泳いでいた。

 その表情に朱夏の母性がくすぐられ、母親としてのもう一人の心が誕生した。

 なんとしても大塚を処分せねば。そして、VIVIDを終わらせる! 夏樹の笑顔を取り戻す!

 VIVIDのホールから離れた帰路に立つからこその決意だった。

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