第10話真実
二週間後、タキシードを着た夏樹は完全に浮いていた。
「あの、俺こういうの全然慣れていないんですけれど」
「つべこべ言わない! もっとシャキッとする!」
「・・・・・・はい」
夏樹は上質な生地に包まれた両腕をペンギンのようにパタパタと左右に振ってみた。
すると、ピンヒールの先端が目の前に現れた。
女性刑事の愛用靴だった。
「すみません」
「分かればよろしい」
夏樹の隣には、同じくタキシード姿の田中が立っていた。
「良い? とにかく私の言う通り、VIVIDの観客に紛れるのよ。要領は先日潜入した田中さんに聞いて。私たちもいつでも差し押さえられるように待機するから。それまでは暴れちゃだめよ、牧村君」
「はい、心得ております」
「田中さん、後はよろしくお願いします」
「もちろんです! ほら、牧村」
夏樹は田中から羽根でできた派手なアイマスクを受け取った。
今日はこれを装着してVIVIDとやらに潜入するという。
「牧村、なにがあっても、決して取り乱すな」
「どういう意味ですか? 田中さん」
田中は鋭い睨みを利かせ、夏樹に忠告する。
夏樹は潜入するというだけでも重大な任務だということは理解できる。
しかし数週間大塚を尾行していた田中の心情までは察することができなかった。
課長の高級車で向かったのは、小規模のホールだった。
周囲には人気がない。
「ここだ」
田中は夏樹の目を見ずに言った。もし夏樹の顔を見たとしても、お互いの目をアイマスクで覆っているので、きちんと認識できないだろう。
「入るぞ」
「はい」
夏樹は田中の背後に付いて、ホールの中に入った。入り口にもやはり人気がなかったが、舞台のある部屋には熱狂した人間が数多くいた。
夏樹や田中のようにタキシードを着た男性もいれば、ドレスに身を包む女性もいた。
けれど全員がアイマスクで顔を覆っているので、素性を判明できない。
舞台の上では、全身にほど良い筋肉を纏いぽっちゃりとした腹の男性が司会進行役として観客を取り仕切っている。
「あれが大塚正だ」
「え・・・・・・?」
田中は熱狂するふりをして両手を挙げながら、隣に立つ夏樹に耳打ちした。
「大塚って、あの教頭ですよね?」
「そうだ」
夏樹もそっと耳打ちした。
夏樹はこれから起こることを知らず、大塚の意気揚々とした姿を凝視した。
「さて、皆さま大変お待たせ致しました。VIVIDの開幕でございます!」
わあっ! と歓声が二人の鼓膜を刺激した。
夏樹は耳鳴りを感じた。けれど耳を塞ぐわけにはいかない。あくまでこれは潜入なのだから。
けれど、次の瞬間、夏樹は驚愕した。
舞台に現れたのは、夏樹の潜入先での元クラスメイトで主婦生徒だった。
それも下着に近い露出度の高い服を着ていて、両腕両足は紐のようなもので板に固定されている。さらに素顔まで晒されている。
「さあ、本日の目玉商品でございます! その名も『自分をめちゃくちゃにしてほしい欲求不満の人妻』でございます! では、お手元の玉子のご準備をお願い致します」
なにがいったいどうなっているのか、手に持っている卵の使い道を、夏樹は見当もつかなかった。
大塚の素性以外で理解できるのは、表情からして元クラスメイトの合意なしで屈辱を受けていること。観客が嬉々として彼女に向かって卵を投げていること。それだけだ。
「なんだよ、これ・・・・・・」
「おい、ぼうっとするな!」
夏樹が呆然としていると、田中が肘で夏樹の脇を突いた。
「知っていたんですか?」
「知っているもなにも、俺はあいつをずっと追っていたんだぞ」
夏樹と田中は声を潜めて言い合う。
そうしている間も、数多の卵は次々と元クラスメイトにめがけて飛んでいく。
彼女の体にぶつかって殻が割れ、生の白身と黄身が全身に纏わり付く。
口を布で塞がれている彼女がどんなに涙しても、卵の嵐は収まらない。
遠目で見ると、彼女の涙と生の白身の区別がつかないほどになっていた。
やがて大塚が手を挙げると、卵の嵐はピタリと止んだ。
「では皆さま、メインイベントに移らせていただきます。この人妻をご所望のお方は挙手をお願い致します」
大塚の発言が終わると瞬く間に頭上に何本もの手が生えて見えた。
競い合うように数字を唱える観客の姿に、夏樹はようやくVIVIDの正体に気付く。
「これ・・・・・・闇オークション・・・・・・」
夏樹は青ざめていた。かつて大塚は夏樹に朱夏の顔を重ねて見た。
その大塚がVIVIDを取り仕切っているということは、母親の朱夏が巻き込まれた可能性が高い。
遠くなっていた記憶が脳裏に甦る。朱夏が突然いなくなるまでの数日間、本人は珍しく難しい表情をしていた。
当時五歳だった夏樹は、若い朱夏にとって自分の存在が重くなっているのかと思っていた。だから「はやくおおきくなる」と言ったのだ。
朱夏の憂いがVIVIDに関係していたとしたら、と思うと夏樹は当時の自分の幼さ、無知に怒りを感じた。
夏樹の感情を表すように、その拳の中で卵が割れ白身が床に滴り落ちていた。
一方、田中はどこまでも冷静だった。
補聴器型の通信機を使って、ぼそぼそと呟いている。
「こちらは始まった。そちらの準備が整い次第、押さえる」
田中は口を動かしながら夏樹の肩に手を置く。
「牧村、まだだ」
「田中さん・・・・・・なんでこんな・・・・・・」
夏樹は涙声だった。それでも田中は慰めの言葉すらかけなかった。
「後で分かるさ・・・・・・っと、行くぞ、牧村!」
「はい!」
夏樹と田中は同時にアイマスクを外した。そして挙手する観客に囲まれた状態でタキシードの胸元に手を突っ込み、警察手帳を掲げた。
「警察だ! 動くな!」
ホールの入り口からも数多の警察官が押し寄せ、その場は騒動になった。
夏樹の元クラスメイトである主婦生徒は、無事に保護された。
だが精神的に相当なダメージを受けているため、そのまま警察病院に搬送された。
夏樹たちが逮捕したのは大塚、観客三十名、合計三十一名だった。
観客のほとんどは富裕層で、VIVIDとの関与を認めるどころか自身の自尊心を主張するばかりだった。
大塚の聴衆は夏樹と田中が行った。
大塚は犯罪者として扱われているというのにも関わらず、落ち着いていた。
「やはり、牧村朱夏の息子だったか」
「どういうことだ! 母さんはどこにいる?」
夏樹は激情を露わにし、机を両手でバンと叩いた。
「落ち着け、牧村」
田中は夏樹にピッタリと張り付き、全力で抑える。
夏樹がこのような反応をすると予想していながら、田中が夏樹の同席を許したのには理由がある。
大塚が、夏樹の前でしか自供しないと言い張ったからだ。
そして大塚は約束通り、夏樹の前で語り始めた。
VIVIDを自ら立ち上げ、多くのいじめる者を制裁してきたこと。
その途中で朱夏に目を付け、VIVIDをさらに盛り上げるために朱夏を女王に仕立てたこと。
そのとき、朱夏の息子である夏樹の将来を握ると脅したこと。
VIVIDを守るために、女王という箔の付いた朱夏を制裁したこと。
さらに大塚はこのような事実を明かした。
「あの高校の校則を施行したのは、俺の大叔母だ」
大塚は二十年前に亡くなった山田敏子のことを親族と言った。
「元教師がなぜ、また生徒になる必要があるんだ?」
田中は冷静に質問した。
「おそらく、自分が施行した校則の意味が間違って伝わっていると思ったのだろう。もともとはいじめる人間を抑圧するためのものだったからな。俺が彼女ならば、そうする。ただ、俺はVIVIDという手段を取った」
「では、罪を認めると?」
「ああ。そうだ、どうせならばあの男にも会っておいた方が良いぞ、牧村。なにしろ、俺はお前の母親を制裁した後の行方なぞ知らんからな」
大塚の目は嘘を語っていなかった。
数時間前まで意気揚々としていた姿が想像できないほど、静寂な様子だった。
供述を終えた大塚は、警察官に逆らうことなくそのまま留置所に向かった。
そして春野菜々捜査班の会議室にて。
「やはり春野菜々はVIVIDにて人権売買の被害に遭っていました。彼女を買い取った男によると、自ら命を絶ったとのことです。おそらく女性としての誇りを守りたかったのでしょう。私ならばお気持ちは痛いほど理解できます」
心苦しそうに報告したのは、春野菜々捜査班で唯一の女性刑事だ。
「最悪の結果だな」
課長がため息をついた。保護者にどのように説明すれば良いのか分からない、という表情だ。
「それで、あいつは?」
「しばらく一人になりたい、とのことです」
「そうか・・・・・・田中から聞いたが、気の毒だな。牧村も」
飲食店の看板が照らされた夜、夏樹は事務所の椅子にもたれていた。
このときの夏樹はなにも考えたくなかった。
あの男に会ってからは。
夏樹の前に現れたのは、前髪が寂しい中年の男性だった。
彼はレストラン・ベストスマイルの店長を長年務めているとのことで、朱夏にとってかつての上司にあたる。
「なるほど、良く似ている。とくにその目つきが」
「御託はいらん。大塚が、あんたと話すように言ってきた。単刀直入に訊く。俺の母親はどこにいる?」
夏樹は店長を鋭く睨み付ける。
けれど店長は臆することなく、天井を指差した。
「同じことを訊かせるな」
夏樹は拳銃をちらつかせた。すると店長はジェスチャーではなく、自分の声で答えた。
「空の上だ」
「俺に冗談が通じるとでも思うのか?」
「冗談ではない。これから私が知る限りのことを話そう。だからそんな物騒なものはしまってくれ」
そして、店長が語りだしたのは、二十年前に遡る。
店長に買われて数日間、朱夏は散々己の体を弄ばれた。
そして店長の家からレストラン・ベストスマイルに通った。
大塚はすでに朱夏を退学処分していたので、高校に通うことはできなくなった。
「別に家に帰っても良いのだぞ。お前、母親だろ」
店長が朱夏に語りかけると、朱夏の肩がビクッと震えた。
「できないわ。こんなに汚れた体で抱き締めたら、息子まで汚れてしまう。会わせる顔なんてないわ」
「じゃあ、どうするんだよ」
「あの子には、きっと差し伸べてくれる手があるはずよ。それに、あの子には穢れのない世界が必要なの」
朱夏は涙ながらに呟いた。店長が聞いていようが構わなかった。
そしてーー。
「ごめんね、夏樹・・・・・・」
朱夏の口から血が伝ってきた。酸化していない純粋な赤色だった。
そのまま倒れ込み、やがて朱夏は動かなくなった。
朱夏は残る力を振り絞って、舌を噛み切ったのだ。
「あーあ、せっかく大枚はたいて買ったのにな」
こうして、朱夏の人生は幕を閉じた。
最期に朱夏が見たのは、夏樹の幼い笑顔であった。
そして二十年後ーー。
涙が枯れた夏樹は、自分の机からペン、白色の便箋と封筒を取り出した。
それからさらさらと文字をペンで並べた後、田中が事務所のドアをノックした。
「牧村、入っても良いか?」
「・・・・・・はい」
夏樹は田中を迎え入れた。
「田中さん、ちょうど良かったです」
疲れきった夏樹を見て、田中は不憫に思った。
けれど、あるものを差し出されると、田中は激怒した。
「お前、なにを考えていやがる! ああ?」
「なにって・・・・・・退職届ですよ。不本意とはいえ、自分の母親もVIVIDに関わっていたのですから。その息子がここにいてはまずいでしょう」
「っ・・・・・・」
田中は言葉を失い、手で振り払って夏樹の手から退職届を落とした。
「なにするんですか、痛いでしょう」
夏樹がそれを拾おうとすると、その手を田中が踏み付けた。
「痛いなら、お前はまだ血の通った人間だ。お前のお袋さんもな」
夏樹は田中を見上げた。怒りとも悲しみとも読み取れない表情だった。
「良いか、牧村。お前は今後伸びていく優秀な人材だ。ここで折れてしまっては困る。お袋さんのことは俺らの秘密にするから、刑事を辞めるなんて、二度と言うな」
「でも・・・・・・」
「『でも』じゃない。課長もそう言っておられるんだ」
「では、刑事として俺はこれからいったいなにをすれば良いのですか? 俺が刑事になった理由なんて、もうどこにもないのに」
「ある。お前は遺族の心を誰よりも理解できる。傷で血が溢れる心をな。これ以上言っても分からないならば、お前はただのバカだ」
夏樹はまたしても泣き出した。悲しいからではない。田中の言葉が嬉しかったからだ。
一度は膝を折った夏樹だったが、ふたたび立ち上がった。
完
注意
この作品はフィクションです。
作中に登場する人物、団体名は存在しません。
また、違法行為を推奨するものでもありません。
もしいじめを見付けたら、健全な方法で解決してください。
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