お母さん
結平と会わなくなって、月日が流れた。今週は卒業式。卒業後、この街を出て行く。大学からはありのままの自分で過ごそうと決めていた。
二つの顔ではなく、一つの本当の顔で…
私は一人しかいないから…
「どこだっけ…」
卒業する前に返そうと、愛美から借りた本を探す。
「そうだ…家だ」
あの本は家の本棚に置いてある。
「……」
時計を見た。今の時間ならお母さんはいないだろう。そう思って部屋を出て、早足で家に向かった。
重い足を進め、家の前に着いた。
「……」
久しぶりだからだろうか、自分の家に緊張する。鍵を開け、玄関のドアノブを握った。静かにドアが開く。
誰かが家の中にいるのか、視線を下に向けた。靴が一足もない。
「……」
どうやら誰もいないらしい。それなら早く、本を持って帰ろう。
急いで自分の部屋に向かった。久しぶりの部屋に、少し懐かしさを感じる。
私は本を見つけ、再び玄関に向かった。
「チカちゃん帰ってるの?」
突然お母さんの声が聞こえた。リビングの方からだ。この家には誰もいないと思っていた。
「ちょっと来てくれる?」
心臓が激しく動き始める。「どうしよう」という言葉が、頭をよぎる。
私はお母さんの男を…結平を奪った。できれば会いたくない…
「…お願い、チカちゃん」
お母さんの弱々しい声がした。私はゆっくりと足を前に進めた。
「久しぶりね…チカちゃん」
リビングに入るとお母さんが目に入った。一瞬、誰だか分からなかった。あまりにも雰囲気が変わっていたからだ。いつも綺麗に整えていた髪は乱れていて、化粧もせず、靴も履いたまま…これは全部きっと、私のせい…
「足音でチカちゃんだって分かったの。引越してから何も連絡がないから、心配したのよ」
「あ…ごめん…」
これは何に対して謝っているのか。しばらく二人の間に、変な空気が流れた。
お母さんはおもむろにタバコを吸い始めた。白い煙が空中を舞う。机にはたくさんの吸いカスが入った灰皿と、何本ものビールが置いてあった。
お母さんってこんなにタバコ、吸ってたっけ…?
そんなことを考えていると、お母さんに不意をつかれた。
「結平のことなんだけど…」
『結平』という名前に、緊張がはしる。
「…離婚することにしたから」
お母さんが信じられない言葉を発した。
「離婚届もほら、サインしたし」
ペラペラと紙を揺らし、二人のサインがされた離婚届をに見せつける。お母さんのその余裕ぶった姿に、思わず素直な気持ちをぶつけた。
「なんで…!あんなに断ってたのに!」
「よく知ってるのね…さすが結平の女」
お母さんが私を一人の女の目で見る。お母さんのもう一つの顔が現われる。ここからは女同士の戦いだ。
「私から結平を奪った…ドロボウネコ」
結平の相手は誰なのか、お母さんは知っているのだろうと予想はしていた。いつかこうなることも分かっていた。今までいくつもの修羅場に強気で立ち向かってきたけれど、今回はそうはいかないようだ。少し体が震えている。血の気が引いて、手足が冷たい。私はいつからこんなに弱くなったのか。相手がお母さんだからなのか。
それとも…
この恋に…結平に本気だからなのか。
「…まぁ人のこと言えないんだけど」
「……」
「本当、血は争えないわね」
そう言ってお母さんはまたタバコを吸った。
「…チカちゃんはもう結平と寝たの?」
「え…?」
突然の質問に戸惑う。
「その様子だとまだなのね。結平ね、夜スゴいの。大胆で、とっても上手くて」
「……」
「そっか、まだなんだ。でもそれってちゃんと愛されてるって言えるの?」
その言葉に怒りを覚える。今までこんなにお母さんを憎いと思ったことはない。
「なんて、どの口が言うんだか…」
お母さんは小さくそう言い、タバコを灰皿の中に入れた。新しくタバコは吸わないようだ。
「結平、一度もあたしにキス以上のこと、してくれなかったの…」
「え…?」
「ちーちゃんがお父さんとして認めてくれるまでしないって言い張って…バカよね」
結平らしい…
「チカちゃんが結平をお父さんって呼んでも、チカちゃんばっかりで…柄にもなくヤキモチ妬いちゃった…」
お母さんが顔を伏せる。泣いているように見えた。
「結平のおばあちゃんが亡くなって、弱気になってたところを狙ったから、バチがあたったのかもね…」
そう言って、お母さんは笑った。次第に私は、そんなお母さんを直視できなくなっていった。
「最初から結平…私を愛してくれてなかったのかな…」
「そんなことないよ!」
何を言っているんだろう。
「結平はちゃんとお母さんを愛してた!」
結平を奪った本人が何を言っているんだ。二人を壊したのは自分ではないか。
でも、口から勝手に言葉が出る。一人の女としての言葉が。
「じゃぁ結平返してよ…」
それは…できない。
でもそんなこと…お母さんに言える…?
「何黙ってるの!!」
いきなりお母さんが大声を出した。驚いて体がビクリと反応する。
「男を奪うならちゃんと奪いなさい!」
「でも…」
「これが…お母さんにできる唯一のことなんだから」
お母さんが娘にできる、唯一のことが…
「今まで何もしてあげられなくて…ごめんね、チカ」
自分の男を渡すこと…?
お母さんは私にたくさんのことをしてくれた。おいしいご飯を作ったり、運動会にも来てくれた…
なのに私は…悪い娘だ。
「お母さん…」
最後まで悪い娘でごめん…
でもこれが私ができる唯一のこと…
「…結平、もらうから」
お母さんはそれを聞いてニッコリと笑った。私はそのとき、初めてお母さんの本当の顔を見たような気がした。
「……っ」
視界がぼやける。涙がこぼれそうになる。私はサッとお母さんに頭を下げた。涙を見せないように…
それから、今までの気持ちを込めて…
「…じゃぁ、帰るから」
『帰る』という言葉が、もうここは自分の家ではないと示す。涙はおさまり、いつものように毅然たる態度でお母さんの前に立った。そして向きを変え、玄関に向かう。
「前に…」
リビングを出るとき、私はもう一度お母さんに振り返った。
「『女は二つの顔を持った方が利口なんだ』って言ってたけど…それ、違うんじゃないかな』
捨て台詞のように言った私の言葉に、お母さんは「そうね、そうなのかもね」と答えた。それは幼い頃よく聞いた、とても優しい声だった。
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