風邪

ハァ…ハァ……

体がだるい。頭が痛い。気持ちが悪い。

ピピ……

体温計が鳴った。ぼやける視界の中、高熱であると改めて知らされる。

「……」

久しぶりに風邪をひいた。お父さんのことや、慣れない一人暮らしが原因だろう。私は意識をなんとか保ち、ケータイに手を伸ばした。学校を休むことを愛美にメールする。それで安心したのか、いつの間にか眠りに入った。


ピンポーン…

チャイムの音で目が覚める。体はだるく、まだ熱があるみたいだ。薬を飲まずに寝てしまったのがいけなかった。

ピンポーン…

再度チャイムが鳴る。私はゆっくり立ち上がり、玄関へ向かった。このチャイムの音で起こされるのは二回目だっけ。もうろうとする意識の中で引っ越しの日を思い出す。そしてドアを開けた。

「また来たの…?」

目の前に思い浮かべた人が現われた。二度もお父さんに眠りを妨げられる。

「大丈夫!?ちーちゃんが風邪だって聞いて!」

どうやら愛美がまた余計なことを言ったらしい。

「薬ないと思って買って来たんだ。とにかく中に入ろ?」

「…ヤダ」

なんでもお見通しだと言わんばかりのお父さんに少し腹が立った。

「そんなこと言わずにさ!俺が看病するから」

「いいからほっといて!」

お父さんにこんな弱い姿を見せたくない…それに、私といたら風邪がうつるかもしれない…

そんなこと、口が裂けても言えないが。

「いいから帰っ…」

視界が揺れる。全身の力が抜ける。一気に目の前が暗くなった。消えゆく意識の中、微かにお父さんの声だけが聞こえた。

「……」

再び目を開けたのは真夜中だった。なぜかベッドで寝ていた。いつベッドに戻ったのか思い出せない。訳が分からず、とりあえず体を起した。

「ちーちゃん…!」

大好きな声で名前を呼ばれる。寝ぼけながら呼ばれた方に顔を向けた。

「お父さん…?なんでここにいるの…!」

「起きちゃダメだよ!まだ寝てなくちゃ!」

半ば無理矢理ベッドに寝かされる。そして冷たく濡らしたタオルを額に乗せられた。それは再び眠気が増すほど、とても気持ち良った。

すぐ側にお父さんがいる。私を心配そうに見つめる。今、私だけを見てくれている。

それがなんだか幸せで、いつの間にかもう一度眠りに入っていた。


「……」

どれくらい時間が経っただろう。しばらくしてまた目を覚ます。辺りはまだ暗い。

「ちーちゃん…気分はどう?」

横を向くとお父さんが座っていた。ずっと看病してくれていたのだろうか。少し眠むそうだ。

「…さっきよりしんどくない」

そう言うと、お父さんはニッコリと笑って立ち上がった。もう帰るんだと思った。

「…おかゆ食べる?」

その言葉に少し驚く。まだいてくれる…

私は何も言わずに、小さくうなずいた。

起き上がってお父さんを待った。用意する音が聞こえる。しばらくして、待ちわびていたお父さんの姿が現れた。

フーフー…

冷まされたおかゆが口の前に運ばれる。

「…自分で食べる」

そう言っても、お父さんはスプーンを渡そうとしない。口が開くのを待っている。私は仕方なく口を開けた。

「…もっと」

思いの他おいしかったからだろうか、私は思わず子供のようにそう言った。言った後に恥ずかしくなる。そんな私を見てお父さんは優しく笑って、またおかゆを食べさせてくれた。

おかゆを食べ終わり、ベッドに横になる。そしてお父さんもまた、私の側に座った。

チラリと横を見る。お父さんがいる。私は今、お父さんを独り占めしている。

それはすごく幸せで、すごく辛い…

もう少しでお父さんは、お母さんのところに戻ってしまうから…

「…お父さん」

それなら…

「もう帰っていいよ…」

気持ちの準備はできた。寂しくなっても、もう泣かない。だから強い私の内に、いなくなって…

「ちーちゃんが良くなるまで、ずっとここにいるよ」

微かに開いた胸の隙間から、その言葉が入り込む。

「もう大丈夫だから…」

お願いだから、これ以上優しくしないで…お父さんに優しくされた分だけ、辛くなる…風邪なんかよりずっと、苦しくなる…

「…帰って」

そう言って、布団をかぶった。顔を見られないようにした。

「…じゃぁ、ちーちゃんが眠ったら帰るよ」

どうしても側にいようとするお父さん。私はそれ以上何も言えなかった。

「ねぇ、『好き』ってどういう意味?…お父さん」

しばらくして、布団の中からそう聞いた。

熱のせいだろうか。それともお父さんがまだいるか確かめるためだろうか。自分でも驚くような質問をした。

「え…?」

困るお父さんの声が聞こえた。いきなりこんな質問をされて、困らない人はいない。

「そうだな…」

私は布団から少し顔を出し、何か言おうとするお父さんを覗いた。

「その人のことばかり想って、知りたくなって、触れたくなる…」

「……」

「それが…好きってことだじゃないかな?」

当たり前のようにそう言ったお父さんを、潤んだ瞳で見つめた。

つまり好きって意味は……今の私の気持ち。

私がお父さんのことばかり、想って、知りたくて、触れたくなるのは…

まだお父さんのことが…好きだから。

でもお父さんの好きな人はお母さん…

「…お父さんはそれがお母さんなの?」

その質問を聞いて、お父さんは口ごもった。目をそらしたのを、私は見逃さなかった。

ピロロロ……

お父さんのケータイが鳴った。部屋を出て電話に出る。

「ごめん、ちーちゃん…俺、帰らないと」

その言葉で、さっきの電話はお母さんの呼び出しだと悟った。

「じゃぁ…寝てるんだよ」

お父さんが帰ろうとする。私の前からいなくなる。離れていくお父さんの手を掴んだ。

「行かないで…」

一体何を言っているのだろう…

「行っちゃヤダよ…結平…」

でも止められない。もう自分の気持ちに気付いてしまったから…


朝になった。辺りの明かりで目を覚ます。体は軽く、熱も下がっているようだ。隣りに結平の姿はない。

もう帰ったんだ…

そう思って、大きくため息をついた。

「…ちーちゃん起きた?」

耳を疑った。あの声が聞こえる。私の大好きな声が…

部屋から出ると、結平の姿が目に入った。

「な…なんでいるの!?」

「なんでってちーちゃんが言ったから」

昨日のことを思い出し、みるみる顔が熱くなる。せっかく下がった体温が上昇する。

「…結平のバカ!」

その日、久しぶりに結平とケンカをした。それは楽しいケンカだった。


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