サヨナラ
あれから、男と寝ることはなくなった。告白をされても断るようになった。まっすぐ家に帰るようになった。
「……」
片手に参考書を持ちながら、今日も家に帰る。そろそろ受験勉強をしなければならない季節を迎えていた。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、ある光景が目に入る。
「……」
結平とお母さんのキスシーン。私はただそれを見つめることしかできない。ギュッと参考書を握り締めた。
「…あ!ちーちゃん…!」
結平が私に気がつき、キスが中断される。
「お、おかえり…ちーちゃん」
焦る結平の表情は、胸をますます深く突き刺す。ますます私を惨めにさせる。
「ちーちゃん…?」
結平が心配そうに聞いた。私はニッコリと笑って家に入った。
途中でお母さんと目が合う。母が私をにらんでいるような気がした。
きっとキスを邪魔されて、怒っているのだろう。やっぱり私は…ここにいるべきではないのかもしれない。
「ねぇ…ちょっと話があるんだけど」
数日後の夕食。いつも何も話さない私が、珍しく口を開いた。
「何?面白い話?」
結平が嬉しそうに聞いてきた。たぶん今から話すことは、その期待とは逆のことになるだろう。お母さんはどう思うか知らないけれど。
「私、一人暮らししようと思う」
「え!?なんで!?」
予想通りの反応を結平がした。
「…そろそろ受験だから」
「そんなのここですればいいじゃん!」
反対されるとは予想はしていた。でもあまりにもしつこい。私は大きくため息をつき、ハッキリ言った。
「結平たちの邪魔をしたくないの」
邪魔をしたくないというか、私が見たくないだけなんだけど…
その言葉を聞くと、結平は何も言わなくなった。
「部屋はもう決めてるから、今週の土曜には引っ越しできる」
「お金は…?」
小さな声で聞く結平に、少し笑う。こういうことももうないのだと、少し寂しく思う。
「貯めたバイト代でなんとかする」
「それだけじゃ絶対足らないよ!」
「またバイトするし」
「そんな…!」
「私が払う」
お母さんが口を開いた。
「それでいい?結平」
「でも…」
「チカちゃんも…いいよね?」
お母さん…あなたは最低な母親だ。
私を勝手に生んで、間違った生き方を教え、今度は引き止めようともしてくれない…むしろこの家から追い出そうとしている…
私は黙ってうなずいた。
引越しの日が明日に迫った。いつもと変わらず、時間が流れる。時々結平の視線を感じたが、気付かないふりをしてやり過ごした。
「……」
深夜、ベッドに入る。今日は引越しの準備と、結平の視線で疲れた。でもなかなか眠れない。私は積まれた段ボールを避けながら部屋を出た。水を飲みに、リビングへ向った。
「ふー…」
水を一気に飲み干し、一息つく。電気の光に目を細めた。自然と結平に初めて出会ったときのことを思い出す。
あのときは好きになるなんて少しも思っていなくて…ましてや結平がお父さんになるなんて、考えもしなかった。
「……」
いろいろあった…
いろいろありすぎた。
結平を好きになりすぎた…
だから私は…明日ここを離れる。
「…チカちゃん」
暗闇の中から声がする。振り向くとお母さんが立っていた。
「何してるの?」
「…水飲みに来ただけ」
「そっか…」
変な空気が流れる。本当に親子なのかと疑いたくなるような、よそよそしい空気が。
「ねぇ…チカちゃん」
お母さんが言いづらそうに口を開いた。
「そろそろ結平のこと…お父さんって呼んでみたらどう?」
予想外の発言に眉をひそめる。
「結平も寂しいと思うの。だから…」
呼べるわけがない。
自分の好きな人を…「お父さん」なんて。
バリンッ…!
持っていたコップを床に投げ付けた。ガラスの破片が散らばる。私はそれに構わず、部屋に戻ろうとした。
そのときだった。
「チカちゃん…」
お母さんが言う。静かな強い声で。
「結平を取らないで」
ドキリとした。心臓が激しく鼓動を打つ。
「取らないで…」
お母さんの目が女に変わっている。これがお母さんのもう一つの顔…
私は笑って言い返した。
「安心して。私はもう…二人の邪魔はしないから」
そうだ…
自分の母親の男を取るほど、私は腐っちゃいない。
「ちーちゃん…本当に付いて行かなくていいの?」
次の日の朝、トラックに荷物を運び、出発しようとしているとき。結平が玄関の前で心配そうに聞いてきた。結平の腕にはお母さんの手が添えられている。
「大丈夫、業者の人に手伝ってもらうから」
そうそっけなく言い、靴を履いた。
「…じゃぁ、私行くね」
「なんかあったら言ってきてよ!俺、すっとんで行くから!」
私は笑って返事をした。涙が出ないように笑顔を作った。
「ありがと…」
結平…
ううん…
「お父さん」
私は二人の驚いた顔を背にして、家を出た。
こうして恋は終わった。
もう二度と結平と呼ぶことはないだろう…
だって私のお父さんなんだから…
さよなら…
…私の好きな人。
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