妊娠
それから愛美と一度も話していない。当たり前だ。あんなことがあったのだから…
「あ…黒沢さんだ…」
そしてみんなの態度も変わった。たぶん愛美が私のことを話したのだろう。まるで汚いものでも見るかのように、避けられる。
「……」
何も言わず、無表情でみんなの視線の中を通り過ぎた。
別に辛くない。私は元々一人だ。普通の生活に戻っただけ。…だから寂しくもない。
「あー痛い…」
ある日、トイレに入っていると、話し声が聞こえてきた。私は息をひそめ、トイレの中にとどまる。今出たら、まためんどうなことになると思った。
「どうしたの?」
「生理痛…今回キツくて」
「分かる分かる。薬あるからあげよっか?」
「うん、もらうー」
何気ない会話。それをドア越しに聞いた。そしてふと考える。
「……」
私、この前いつなったっけ…?
話し声が聞こえなくなってから、ゆっくりとドアを開けた。そして鏡の前に立つ。鏡に血の気が引いた自分の顔が映る。
「まさか…」
私は水を出して、顔を洗った。
「そんなわけない…だっていつもちゃんと避妊して…」
ハッとした。一回だけあまり覚えていない夜がある。結平がお母さんの結婚相手として紹介された日…私は偶然出会った男と寝た。あの夜のことが思い出せない。もしかしたら避妊してなかったかもしれない…だとしたら私…
「妊娠…してる?」
学校の帰りに薬局へ向かった。「どうしよう」という言葉が心の中で何度も繰り返される。
「……」
黙って妊娠検査薬の前に立つ。ゆっくりと手を伸ばし、一つの箱を選んだ。そのときだった。
「…ちーちゃん?」
後ろから聞こえる、聞き覚えのある声。振り向くと結平がいた。
「ちーちゃんも買い物?」
そう言ってのぞき込む。私は手に持っているものを、サッと後ろに隠した。しかし、その行動は意味がない。目の前にたくさんの妊娠検査薬があるのだから。
「ちーちゃん、もしかして…」
「…勘違いしないでよ!と…友達から頼まれただけで…!」
「……」
「私は別に…」
結平が私を見る。ジッと見つめる。
「こっち見ないで…!」
私だけをずっと見る。
「…見ないでよ」
ふと涙が出た。
結平の瞳が…あまりにも綺麗で強くて…私の心を見透かすから…
それから結平と一緒に家に帰った。結平が持つ袋の中には、妊娠検査薬が入っている。結平と私の間には何も会話はなく、ただ無言で歩いて帰った。
「…はい」
家に帰ると、結平が妊娠検査薬を私に渡した。お母さんは家にいない。
「使い方、分かる?」
優しく聞いてくる結平に、うなずいて答える。私がそれ受け取ると、結平はリビングに向かった。最後に結平の背中を見て、トイレに入った。
しばらくして、リビングに向かった。結平が椅子に座っている。
「結平…」
聞こえないくらい小さな声で呼ぶと、結平は振り向いた。
「陰性だった…妊娠してなかったよ…」
バンッ…!
椅子が勢いよく倒れる。驚いて目をつむると、何か温かいものに包まれるのを感じた。
「よかった…本当によかった…」
結平が私を抱き締める、苦しいくらいにギュッと抱き締める。気が付くと、私はまた泣いてしまっていた。
結平に温かい飲み物を出された。それを少しずつ飲む。目の前に結平が座る。そして今までのように笑って、たわいもない話をし始めた。
「…何も聞かないの?」
勇気を出して聞いてみた。あの重い空気に戻る。聞かなければよかったと少し後悔した。
「…聞かないよ」
そう結平が静かに言った。結平の優しさが伝わってくる。どんどん苦しくなる。 優しくされる度に、好きになる…
「……」
苦しい…
こんなに苦しいなら…
…嫌われる方がましだ。
「私…いろんな男と寝てるの。だから今回のだって、はっきりした相手は分からない…」
「……」
「だ…だから私は汚れてるの!汚い女なの!」
「……」
「…幻滅した?」
結平が何も言わない。それはそうだ。こんな話を聞いて、引かない人なんていない。
「だからもう私に…!」
「ちーちゃん」
まだその名前で呼んでくれるんだ…こんな汚い私を…
「…俺はただ、ちーちゃんの将来が心配だっただけだよ」
「別にいいよ…私の将来がどうなったって…」
「よくない!ちーちゃんの大切な将来なんだから!」
結平が怒る。久しぶりに怒られた気がした。
「も…もうほっといて!私のこと嫌いでしょ!」
そう、あんな話を聞いたんだ。絶対嫌いになっている…だから…もう……
「ほっとけないよ!」
「……」
「ちーちゃんのこと…好きだから」
……
ねぇ、結平…
それはお父さんとして…?
「だからもう、そんなことしないで…」
結平のまっすぐな目に引き寄せられる。同時に家族を見るような優しい目だと気付く。胸が引き裂かれるように痛い。
なんでこんなに苦しいの…?
なんでこんなに辛いの…?
こんな想いをするのなら…
…恋なんてしなければよかった…
私は胸の痛みを我慢しながら、黙ってうなずいた。
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