14
次の日、空はどんよりと曇り空だった。どうやら午後から雨が降りそうだ。
午前の授業を怠惰な態度で受け終わった弌夜は、午後からどうしようかと思案していた。
いつもの場所は雨を凌げるほどの軒がない。さすがの弌夜もずぶ濡れ必至の場所でサボろうとは思わなかった。
教室内で生徒たちの昼食準備が楽しそうに進む中、弌夜は静かな場所を求め席を立ち上がった。
「あ、伊崎くん」
教室を出てすぐに声を掛けられる。声の主は朔良だ。
弌夜が出てくるのを待っていたのだろうか? 振り返った弌夜に小走りで近寄ってくる。
「昨日はありがとう。夜遅くまでごめんね。家の人に怒られたりしなかった?」
申し訳なさそうに言う朔良に、小さく息を吐く。
若干、誤解を招きそうな朔良の発言に、素早く周囲を確認した弌夜だったが、自分たちの会話が聞こえるほど近くにいる生徒は幸いにしていなかった。
警戒心のない朔良に呆れた表情を向ける。
「先に連絡入れといたし、工藤さんが間に入って話してくれたから、全然大丈夫」
朔良が安心したように「良かった」と呟く。きっと午前中ずっと気にしていたのだろう。
ポンッと朔良の頭をぐりぐりと撫で、「何か用事か?」と疑問を投げた。
「あぁ、えっと、昨日のお詫びに、その……お弁当を……」
「?」
しどろもどろの朔良の言葉が尻すぼみしていき、最後の言葉が聞き取れなかった弌夜が眉間にしわを寄せる。
もう少しよく聞こうと朔良の方に耳を傾けた時、ふいに誰かの声が聞こえた。
「ねぇねぇ。あの子、この間も伊崎くんとしゃべってたよね?」
「あ、ほんとだ。よく話せるよね。伊崎くんってちょっと怖い感じするのに。それにさ、午後の授業しょっちゅうサボってるじゃん。もしかして、あの子もそういう感じなのかな?」
「えぇ? そんなふうには見えないけど?」
「でもさ、人は見掛けによらないって言うじゃん」
自分たちをちらちら見ながら小声で話す女子生徒の会話は、弌夜にとってかなり衝撃的なことだった。目の前に朔良がいることも忘れ、しばし呆然としてしまう。
確かに、今までの弌夜の学校での生活態度は、周囲に不良というレッテルを貼られても文句の言いようがないものだった。反論出来ないのは自分でも分かっているし、影でそう言われていても、言いたいやつには言わせておけばいい精神だったのでこれまでは放っておいた。
しかし、こうして一緒にいる朔良のことまで言われるのなら話は別だ。一緒にいることで、朔良まで悪く言われるのは我慢出来ない。
「伊崎くん?」
「あ、あぁ、悪い。何だっけ?」
「だから……その……」
改めて訊ねられ、朔良はまた言いづらそうに視線を泳がせた。
その様子を不思議そうに見つめていた弌夜だったが、朔良の手にあるものを見て、あぁと納得した。
「弁当? もしかして、俺に?」
小さく頷いた朔良の顔が更に赤くなる。
そんな朔良を見つめていると愛しさが溢れ、自然と顔が綻んだ。
「口に合えば良いんだけど。あと良かったら、その……」
「一緒に食べるか?」
再び言いづらそうにする朔良の言葉を拾うように、弌夜が先に誘う。
朔良の顔がパッと明るくなった。そして嬉しそうに微笑んで頷く。
――やっぱ、良いな。
自分の言葉で、こうも素直に表情を変えられると逆に面映ゆい気がする。だが、それを嬉しいと思っている時点で、弌夜もかなり朔良を好きになっているという証拠だ。
お互いの言動に影響し合っているのは、見えなくてもどこかがちゃんと繋がっているようで、言いようのない幸福感を感じる。
「どこで食べる?」
小首を傾げて訊ねる朔良に、弌夜も少し考えるように宙に視線を漂わせた。いつもの場所と思ったが、食べてる途中で雨が降ってきたら困る。教室や学食は、人混みが苦手な弌夜には少々キツい。
――出来れば、軒下のある外が良いけど。
そんなことを思っていると、「あ、じゃあ」と朔良が口を開いた。
「弓道部の顧問室に行く?」
「……顧問室の中に入っていいのか?」
「中じゃなくて、顧問室のドアの前に小さい木製のベンチがあるの。軒下だし、もし雨が降ってきても凌げると思う」
朔良の話で、自分の記憶を辿った弌夜も、顧問室の前にベンチがあったことを思い出す。弌夜はいつも正規の入り口から入らないため、朔良から提案されなければ思い出すのが難しかったかもしれない。
「んじゃ、行くか」
先程の女子生徒の視線も気になり、弌夜は早々にその場から去ろうと足早に歩き出した。
――さっきの会話が泉水に聞こえてなくて良かった。
弌夜がほっと胸を撫で下ろす。自分のせいで朔良に嫌な思いをさせたくはない。
今のままでは駄目だと思っている自分がいる。変わらないといけない、と。
自分が変わろうと思う中心にいるのが朔良なら、それは間違いではないはずだ。そしてその方向性も――。
自分の好感度を上げる気は全くないが、朔良の好感度が上がるなら自分が変わっても良いかもな、と思った弌夜は密かにある決心をした。
ふいに首だけ後ろを振り返ると、二人分の弁当箱を抱え、足早な弌夜に一生懸命付いてくる朔良がいる。俯いているため、弌夜の視線にも気付いていない。
――大切なものが出来ると、こんなにも気持ちに変化が出るのか。
そんな変化も、朔良が促しているのだと思うと悪くない。
弌夜はふっと表情を和らげると、後ろを歩く朔良の歩幅に合わせるように、歩調を緩めた。
雨はまだ降っていないが、灰色の雲はどんよりと重そうに空を漂い、いつでも雨を降らせる準備が出来ているかのようだ。
そんな空模様を観察しながら渡り廊下を歩いてきた二人は、顧問室に置いてあるベンチに腰掛けた。
「美味しくなかったらごめんね」
心配そうに前置きをした朔良は、意を決したように持っていた弁当箱の一つを弌夜に渡す。
突き出されるようにして渡された弁当箱を、弌夜は不思議そうに受け取った。
「そんなグルメじゃないし、作ってきてもらってるのに文句は言わない」
朔良の心配をよそに、無表情で言う弌夜は遠慮なく弁当箱の蓋を開ける。中身を見た弌夜は何も言うことなく、朔良が用意してくれていた箸を出して、一口パクリと口に入れた。
「……」
朔良が弌夜の反応を不安そうに見つめる。
「悪くない」
そして呟かれた一言に、朔良がピクッと体を震わせた。
「……本当?」
「前にも言ったけど、俺、嘘はつかない」
それは朔良も重々承知しているが、弌夜の味の好みも分からないまま作ってきているので、気に掛かるのは当然だ。
「食べ物の好き嫌いはないし、味もしっかりしてるわりにくどくなくて、俺には丁度良い」
そこまで言われて、ようやく朔良もほっと安堵の息を吐く。
「良かったぁ」
隣で安心している朔良に、弌夜が柔らかく微笑む。
「朔良も早く食べろよ」
「うん」
頷いて弁当箱の蓋を開け、朔良も自分の弁当に箸を入れた。
そこでハッと気付く。
――えっ? 伊崎くん、今……朔良って?
驚いた表情で弌夜を凝視する。しかし弌夜は、朔良の作ってきた弁当を黙々と食していた。
――き、聞き間違い?
あまりにも自然過ぎる弌夜の態度に、朔良は混乱した。
はっきりと聞き返した方がいいのか、そのままスルーした方がいいのか? 朔良がぐるぐると思案していると、「おい」と声を掛けられた。
ハッと意識を戻すと、怪訝そうにこちらを見つめている弌夜と目が合う。
「どうかしたのか?」
「あ……いや、何でも」
頬を赤らめて、朔良は弌夜から視線を逸らした。
――何だか恥ずかしくて聞けない。
だけど名前を呼ばれるのは嫌じゃない。いや、むしろ……。
「朔良?」
「はい!」
再び呼ばれ、反射的に返事をしたが、思いもよらず大声が出てしまった。
当然のごとく弌夜も驚いている。そして引き気味に「……大丈夫か?」と訊ねられた。
「あ、うん。ごめんね、大声出して」
――聞き間違いじゃなかったんだ。
恥ずかしそうに俯く朔良に、大して気にしていなかった弌夜は「いや」と呟くように言う。
「成政湊」
「?」
「名字、変わるんだろ? 泉水に」
ふいに訊ねられ、頬に若干の赤みを残しながら、朔良も表情を引き締める。
「うん。私と同じで工藤さんに里親になってもらう手続きをしてるみたい」
「名字が一緒だと混乱するから、下の名前で呼ばせてもらう。もちろん、あっちも」
あっちと言われ、最初は分からず小首を傾げた朔良だったが、やがてそれが湊のことだと悟ると、楽しそうに頬を緩めた。
しかし朔良とは裏腹に、弌夜は神妙な面持ちで食べかけの弁当箱に視線を落としている。
不思議に思い、じっと朔良が見つめていると。
「お前、嫌か?」
視線を落としたままの弌夜にそう訊ねられた。
問われた意味が分からず、朔良が微かに眉根を寄せて表情で問い返す。
「下の名前で呼ばれるの」
窺うような口調に、一瞬きょとんとした朔良だったが、ゆっくりと首を横に振った。
「そんなことない。むしろ嬉し……」
そこまで口走って、ハッと口を閉じる。
再び赤くなって俯いた朔良に、弌夜は苦笑した。
「そっか。よかった……」
俯いている朔良の頭上から、安堵したような溜息が聞こえる。
どうやら弌夜も朔良と呼ぶことにいささか躊躇いがあったようだ。きっと朔良から断られることも考えていたのだろう。
そんな弌夜の様子に気付き、朔良がちらりと視線を上げると、ほっとしているような弌夜の表情が見えた。
――もしかして緊張してたの?
「家の方は、少しは落ち着いたか?」
「そう、だね。いろんなことがとんとん拍子に進んでいって、ちょっと気後れしそうになってたけど……まぁ、なんとか」
「そうか」
「伊崎くんにも何かと迷惑掛けたり助けられたりしたから、何か恩返ししたいんだけど……」
弌夜にとっては恩返しほどのことをした覚えは全くないのだが、朔良や工藤でこの手のやりとりは嫌というほどしてきた。
この兄妹は、どうしても俺に感謝したいらしい……そう結論付けた弌夜は、最初から否定することをやめることにした。
その変わり――。
「出来るぜ。恩返し」
甘んじて受けることにした弌夜は、即答で返す。
朔良は小首を傾げた。
「朔良も弌夜って呼んで?」
「!」
驚いて目を見開いた朔良を、弌夜の真剣な眼差しが捉える。
名前呼びは、湊と朔良を呼ぶ時に混乱しないための提案ではあったが、それとは別で、やはり意識はしてしまうものだ。
特別な関係であることの証であるような気がするから、初めは弌夜も迷いはした。今まで名字呼びだったものが、互いに名前呼びになるということは、周囲にも二人の関係性を知らせることになる。それが周囲に対する牽制になるのなら弌夜には願ってもないことだが、もし朔良が嫌がるなら無理強いはしたくない。
「……いち、やくん」
だが、朔良が嫌がらないこともどこかで弌夜は分かっていた。恥ずかしそうに控え目に名前を呼ぶ朔良を愛おしく思う。
そろそろと上目遣いで自分を見つめる朔良に、弌夜は柔らかな笑みを向けた。
「知事杯、あるんだろう? 俺も見に行っていいか?」
「もちろん!」
弌夜の言葉に、朔良も勢いよく返事を返す。
「楽しみにしてる」
赤い顔をしつつも、微笑んで頷く朔良が可愛い。
「あ、早く食べないと昼食時間がなくなる」
ふいに自分の腕時計が目に入ったのか、朔良が慌てるように呟いた。
朔良に促されるかたちで、弌夜も食事を再開する。
「これ食べ終わったら、伊崎くんはいつもの場所にいる?」
「伊崎くん?」
「! い、弌夜くん……」
まだ呼び慣れない朔良はすぐに元に戻ってしまうが、弌夜が聞き返すとすぐに訂正して呼び直した。
それがまた面白かったりする。
「食べ終わったら教室に戻る」
「? 雨降るから?」
「授業だから」
朔良は不思議そうに弌夜を見つめた。
午後の授業はサボるだろうと始めから決めてかかっているため、至極当然のことを言われているのに、朔良は小首を傾げている。
弌夜は吹き出しそうになった。
「午後も授業はあるだろ? 俺もちゃんと出るから」
多分、弌夜はそこからなのだ。これから朔良と付き合っていくなら、自分の評価は朔良の評価に繋がる。先程の女子生徒の会話で、それは既に立証されているようなものだ。
朔良と付き合うようになって、弌夜がこれまでの態度を改めたとなれば、朔良の株は上がるはずだ。陰口を言われるよりよほど良い。
「?」
朔良はまだ不思議そうだ。
弌夜はふっと優しげな笑みを浮かべた。
「今日、一緒に帰ろう」
「うん」
弌夜の笑みを受けて、朔良も嬉しそうに頷いた。
弌夜と朔良が教室に戻ってから、ほどなくしてパラパラと雨が降り始めた。空は未だどんよりとしており、これから本降りになりそうな予感をさせる。
「おう。今日は早ぇな」
顧問室のドアを開けた工藤に、既に中にいた仁科がのんきな声を掛けてきた。
――それはこっちのセリフなんだけど。
「今日は夕方から大雨警報が出てたから、早目に入っておこうと思って、いつもより早めに家を出たんだ。それで? 仁科は何で早いわけ?」
仁科に更生を期待することは早々に諦めているため、工藤は軽く聞き返した。
「んあ? まぁ、職員室にいても退屈なだけだしなぁ」
「そう。僕は部員が来るまで少し行射してくる」
「おぅ」
マイペースな仁科に呆れた溜息を吐き、工藤は顧問室をあとにした。
顧問室から弓道場へはすぐだが、屋根が繋がっていないため、工藤は小雨の降る中、小走りで弓道場へ入った。戸口のところで、少し濡れた服や顔をタオルで拭く。
――本降りにならないうちに部活が終われば良いけど。
天気を心配しながら、自分のロッカーから弽を出した。そして自分の弓具を手に取ると簡易的な動作で射位に立った。
ところが、そこで変な違和感を覚える。
――何だろう? 何かいつもと違う。
射場をキョロキョロと見回し、その違いを見つけようとするが、なかなか見つけられない。
ふと流していた視線をある一点で止めた工藤は、その方向へと足を進めた。壁まで歩み寄り、近くの窓から外を覗き見る。
「これか、違和感の正体」
いつもそこにあるはずの姿が今日は見当たらない。
「雨だから、か?」
小首を傾げ、ぽつりと呟く。
朔良と同じ思考回路をしていることなど露とも知らない工藤は、雨という理由で一人納得したあと、再び射位に戻り行射を始めた。
午後の授業が終わる頃には、雨はどしゃ降りになっていた。窓に打ち付ける雨を見ると、風も強いらしい。
そんなどんよりした空気の中、久し振りに午後の授業に出席していた弌夜を、クラスの生徒たちは奇異の目で見つめていた。それは生徒だけではなく、教壇に立っていた教師も同じで、そわそわと落ち着かない空気が教室中に漂う。
そんな状況をものともせず、取り敢えず午後の授業を終えた弌夜は、学生カバンを持つと無言のまま朔良のクラスへと向かった。
弌夜が教室を出てから、室内はいつもの放課後よりざわついた。
「ねぇ。何で伊崎くん午後の授業出てたんだろう?」
「いっつもサボってたくせに、何で今日だけ?」
「何か怖ぇ~」
「それに何か真面目に受けてたっぽくない?」
「真面目? ただ単に座ってただけだろ?」
生徒の口々に上がるのは、弌夜の話題ばかりだ。弌夜が午後の授業に出ていたことがよほど異様だったらしい。
生徒ならば授業に出るのは当然のことである。しかし相手が弌夜だと、その当然は意外にしか映らないようだ。ただ弌夜の思惑通り、その変化は確実に周知された。
「朔良」
朔良のクラスに着いた弌夜は、教室にいる朔良をすぐに見つけると、何の躊躇いもなく名を呼んだ。
「!」
聞き慣れた声に、朔良が素早く反応する。
だが、朔良以外にも何人か弌夜の方を振り向いた。そして案の定ざわつく。
「あれって二Aの伊崎だろ?」
「何であんな奴がこのクラスに?」
その様子を見るに、弌夜のこれまでの素行は他のクラスにも知れ渡っていたようだ。
――しまったな。まだ公で呼ぶのはマズかったか?
バツが悪くなり眉根を寄せつつ、朔良は大丈夫かとちらりと視線を投げる。
「いざ、弌夜くん」
しかし慌てて近寄る朔良の表情からは、クラスメイトたちの前で名前を呼ばれることに抵抗は感じていないようだった。それどころか、照れたように少し顔を赤らめている。
「どうかしたの?」
上目遣いで訊ねる朔良に愛しさを感じながら、その頭にポンッと手を乗せた。
「部活、一緒に行こう」
「うん!」
嬉しそうに頷く朔良に、弌夜も微笑み返す。
「ちょっと待っててね。カバン取ってくる」
そう言って自分の席に戻っていく朔良に、慌てて誰かが近付いて行った。朔良の親友の由香だ。
「ちょっ、朔良。あれって……」
「あ、うん。えっとね……付き、合ってる」
「えぇ?」
恥ずかしそうにしながらも、はっきりと答えた朔良に、由香は心配顔になった。
弌夜の素行の悪さは由香の耳にも届いている。それに、どう考えても朔良との接点が見つからない。伊崎くんに脅されてる? 本気でそこまで考えた由香だったが、朔良の表情でそれは掻き消された。これでも朔良の親友を小学校から続けている。本気で嫌がってるなら、こんな幸せそうな顔しない。
由香は苦笑した。
「いつから?」
「一週間くらい前から。ごめんね。内緒にしてたわけじゃなくて、その、私もまだ戸惑うところもあって……」
「そう。良い彼氏が出来てよかったね」
「うん」
由香の言葉に嬉しそうに微笑む朔良。
噂とはいつの時代も信憑性に欠けるものだ。正しい時もあれば間違っている時もある。噂だけを鵜呑みにしないようにはしていたが、今回ほど噂が信用出来ないものだと実感したことはなかった。
朔良が選んだ相手なら、そんなに悪い人ではないのだろう。
由香も朔良につられるように目を細めた。
「彼氏待ってるから、早く行きな」
そう言って朔良の背中を押す。
「うん」
朔良は机の上にあった学生カバンを手に取ると、由香に「じゃあ」と手を振って弌夜の元へと走っていった。
「待たせてごめんね」
「良かったのか? 何か約束とかしてたんじゃないのか?」
「ううん。大丈夫」
「そっか。じゃ、行くか」
そして二人で弓道場へと歩き出した。
「本降りになってきたな、雨」
窓に打ち付ける雨を鬱陶しそうに見つめながら、弌夜が呟くように言う。
弌夜の視線を追うように窓に目を向けた朔良も、「そうだね」と短く返した。
この分だと帰りまでどしゃ降りだろう。
弌夜はちらりと朔良を見やった。傘は持参しているが、この雨の中歩いて帰るのはさすがに嫌ではないだろうか?
「今日は工藤さんと一緒に帰るか?」
足を止めずに訊ねる弌夜に、朔良は「どうして?」と背後から聞き返す。
「この雨だと傘もあんまり意味なさないと思うし」
「……」
「部活は最後まで見て帰るから、朔良は工藤さんと帰れ」
「…………」
沈黙が長い。
不思議に思った弌夜が足を止めて振り返ると、数歩後ろで立ち止まっている朔良が、何かを言いたそうに表情を歪めていた。弌夜の視線を受けて、すぐに表情を変えようとした朔良だったが、既に遅かった。
「朔良。言わないと分からない」
言葉は厳しいが、その目は優しく細められていた。いつでも弌夜はこうやって言葉や態度で示してくれる。
だから今まで自分の思いを表に出すことが苦手だった朔良も、まずは一歩踏み出さなければと思う。目の前に、こうして待っていてくれる人がいるのだから。
「一緒に、帰りたい。ダメ、かな?」
「いいよ」
即答した弌夜に、朔良は驚いてしまう。
そんな朔良の心情を見透かすように弌夜が話し始めた。
「全てのことにいちいち考え込んでたらキリがないだろ? 口に出して言ってしまえば、案外簡単に答えが返ってくることもある。もっと言えば、俺相手に気構える必要ない。いつでもすぐに答えてやるから、思ったことはちゃんと言え」
「……」
無表情で淡々と発せられる言葉。その口調もいつもと変わらないものだったが、朔良は心を温かく包み込まれたような心地がした。無愛想な中にも、ちゃんと愛情を感じる。
朔良は改めて弌夜の彼女であることを幸せに思った。
弓道場へ続く渡り廊下は屋根が付いているにも関わらず床が濡れており、弌夜と朔良は弓道場まで小走りで渡り廊下を駆けたが、それでも足元は少し濡れてしまった。横殴りの雨に、屋根の無意味さを思い知る。
「二階席で見る?」
「そうする」
弌夜は朔良に軽く手を振ると、二階席に上がる階段へと歩いて行った。
「あ、伊崎くん」
その途中で、倉庫から出てきた弓道衣姿の工藤に掴まってしまった。
「今日はいつもの場所にいなかったね? どこにいたの?」
不思議そうに訊ねてきた工藤は、弌夜は複雑な表情を向けた。
「授業、出てましたけど?」
「……へぇ」
瞬きを繰り返した工藤はしばらくの沈黙のあと、何の感情も籠っていない間延びした返事をした。やがて、ふっと優しく微笑む。
「……」
弌夜は微かに目を細めた。
工藤は察しが良い。どういう理由で弌夜が午後の授業に出たのかも見当がついているような気がする。
――相変わらず食えない人だ。
「知事杯、見に来るよね?」
「はい」
もちろんと言わんばかりに即答する。
「じゃあ、俺、二階に行きます」
「うん」
軽く会釈をし階段を上がっていく弌夜を見送っていると、その視界の端に更衣室から出てきた朔良が映った。朔良は自分の弓具を手に取ると、すぐさま弓具の調整をし始める。
――もしかして一緒に来たのかな?
弌夜の居場所を確認しない朔良を見て、そう推測した工藤は、嬉しそうに目を細めた。
お互いに良い影響を与え合っている二人は、本当にお似合いのカップルだ。
朔良は弌夜と出会い、鍵付きの蓋をしていた自分の気持ちに、光を当てられるようになった。そして押し殺していた感情と向き合う強さを教えられた。弌夜も朔良から良い影響を受けているように思う。その一つが、『午後の授業に出る』ということなのだろう。そして成政家を出た湊も、自分の気持ちに正直に生きようと前を向いている。
「ほんと、良い子たちだな」
そう工藤が小さく呟いた時、「すごい雨ですね」と声を掛けられた。
工藤に近付きつつ、話し掛けてきたのは克生だ。少し雨に濡れた前髪を払うように触れながら、ふーっと溜息を吐いている。
「今日はずっとこの調子かもね」
「仁科先生は?」
「顧問室には来てたから、もうそろそろ来ると思うよ」
「そうですか……」
克生の歯切れの悪い言葉に、工藤が引っ掛かりを覚えた。
「どうかした?」
問い掛けられ、「あ、いえ……」と言葉を濁した克生だったが、急にふっと笑った。
「見学会での仁科先生と工藤師範の行射に感銘を受けました。俺もあんなふうに上達したい。だから、目標にしても良いですか?」
突然の告白に、工藤は一瞬面食らった。
工藤から見ても、克生の実力はかなり優秀な方だと思う。だが、それで満足しないあたりが克生らしい。それに目指すべきものを明確にし向上心を持ち続けることは、弓道だけではなくこれからの克生の人生にとってもプラスになるはずだ。
「じゃあ、克生に負けないように僕も精進しなきゃね」
そして目標となるからには、自分の射技もこれまで以上に磨かなければならない。
――誰よりも手強い相手だな。
苦笑で返しつつも、克生の言葉は師範として嬉しい言葉でもあった。
「仁科に関しては行射だけ目標にして欲しいけどね」
「その辺は心得ているので大丈夫です」
真顔で返すから本当に面白い。
「では、俺も行射に戻ります」
工藤に軽く頭を下げ、克生は工藤から離れた。それとほぼ同時に、弓道場の戸口が勢いよく開く。
「頼もう!」
「赤坂。いい加減それやめろ。マジでうるさい」
元気な掛け声を上げる赤坂の隣で、迷惑そうに眉を顰め注意する真木原。
この二人も良いコンビだ。お互いの役割が分かりやすく決まっているため、赤坂が何をしても無意識に真木原がフォローに入るようにしている。
少し自分と仁科の関係性と似てるかもしれない、と半ば真木原に同情しながら心の中でぼやいた。
二人で更衣室に入るのを視線だけで見送ると、今度はスタンッと小気味の良い的中の音が工藤の耳に届く。そのまま視線を流し、射位に立つ朔良を見つめた。残心姿の朔良は凛としていてカッコ良い。弌夜が惹かれたのも頷ける。
その流れで今度は弌夜に視線を流してみた。
視線の先の弌夜は、背凭れに背を預けながらも穏やかな眼差しで朔良をじっと見つめている。
――こんなに全てが上手くいくこともあるんだな。
一連の光景を見ていて、ふと思う。
湊と朔良のことも、朔良と弌夜のことも、工藤が望むものになっている。
それはそれぞれの成長からくる変化であったり、努力であったり、勇気であったり、お互いを想い合う誠実な気持ちであったり、様々な要素で導かれた結果だ。
――まぁ、一番の功績者は伊崎くんだけどね。
朔良が控えに下がったことで緊張感がなくなったのか、弌夜は大きな欠伸をしていた。興味がないことにはどこまでも無関心な弌夜に、工藤が楽しそうに笑う。
今までのことを思い出しながらつらつらと考えている間に、部員たちも次々と弓道場に集まり、本格的な部活の時間となった。スーツ姿の仁科もいる。
そして先日発表された知事杯の選抜メンバーたちを中心に行射が始まった。選抜メンバーだけあって、さすがに行射が上手い。
しかしその中に不安そうな表情を浮かべながら行射していた選抜メンバーがいた。今回初めてメンバーに選ばれた遠藤だ。
「遠藤。射癖を直してから調子はどうだ? まだ違和感があったりするか?」
「! あ、い、いえ。特には感じなくなりました。ただ、まだ的中率が上がらないので……」
曇った表情で仁科に不安を伝える。
「違和感がなくなったのなら、射癖は気にせずしっかりと的に集中しろ。そうすれば的中率も自ずと上がってくる」
「……はい」
「お前が的中に不安を感じているのは分かっている。だがその不安は知事杯までに自分で解消しろ。行射に関することなら俺か工藤に聞け。ちゃんと答えてやるから。いいか? お前の部活に対する姿勢は俺も工藤もしっかり見てる。その上で選抜メンバーに入れた。それを忘れるな」
精神面は自分で克服しろ――。突き放すような言葉だが、その後のフォローもしっかりしている。それでいて遠藤の士気を高める言葉も入っていた。
遠藤は曇っていた表情を改め、気合が入ったかのように大きく息を吸い込んだ。
「はい!」
はっきりと返事をした遠藤は、仁科に頭を下げてから練習へと向かった。
「これで克生の負担も減らせるね?」
ゆっくりと近付き、仁科の隣に立った工藤がにっと口角を上げる。
部員たちが、主将である克生に手解きを受けていたことを仁科も工藤も知っている。それが普段の部活の中でなら、それも主将としての役割だろう。しかし今回は克生も出場しなければならない知事杯だ。今は自分の行射に集中させたい。
『行射に関することなら俺か工藤に聞け』
仁科の親心のようなものを感じた。
「だから、お前はどうしてこう、いつもいつも……」
「はいはい。それは部活が終わってから聞くから」
嫌そうな、恥ずかしそうな仁科の表情を受けて、工藤が軽くいなす。
スーツ姿の変な弓道部顧問。それでも黎成の立派な弓道部顧問だった。
スタンッ……スタンッ
どしゃ降りの雨の音に負けず、方々から矢の的中音が響く。
射位に立つ朔良も、二週間後の知事杯に向けて精神を高めていた。
大きな不安が消えた今、知事杯では今までにない最高の行射が出来る気がする。弌夜のおかげで内面的にも成長出来た。知事杯でその成果を見せることが、一つの恩返しになるのではないだろうか?
そして呼吸を整え、八節に倣って弓を構えた。
「……綺麗」
部員の一人が小さく呟く。
朔良の楚々たる風情に、周りにいる部員たちも自然と朔良に注目していた。弓道場の空気がピンッと張り詰める。
スタンッ
お手本のような朔良の行射は、工藤や仁科のそれと良く似ていた。中ることが当り前の行射。
「朔良ちゃん」
驚いたように呟いた工藤は、その後心底嬉しそうに微笑んだ。
それは観覧席にいた弌夜も同じだったようで、残心姿の朔良を食い入るように見つめている。朔良の行射は、弌夜が見た中で一番綺麗な行射だった。
それから残心を解いた朔良は、安堵の表情で控えに下がる。
――うん。今のは良かった。
手応えを感じ、弓具を置いた自分の手を握り締める。
その時の心理状態が、行射にこんなに大きく影響を及ぼすのかと、改めて実感した一射だった。
朔良は一つ大きな深呼吸をした。
何に対してもまだまだ未熟なことばかりだ。だが克服するための一歩を、朔良は湊とともに踏み出している。しなくても良い遠回りをしたかもしれないが、遠回りした結果、大事なことに気付くことが出来た。遠回りも決して無駄ではなかったのだ。全てを踏まえたうえで、少しずつでも恩返しが出来れば良いと朔良は思った。
それから、それを一番そばで見てて欲しい弌夜に視線を投げる。
朔良の思いを知ってか知らずか、弌夜は穏やかな笑みで朔良を見つめていた。つられるように朔良も微笑み返す。
「良いカップルだな」
見つめ合う朔良と弌夜を交互に見やりながら、横から話し掛けてきた仁科に、工藤も「そうだね」と頷く。
――伊崎くんには、ほんと頭が上がらないな。
しかし不思議と悔しい気持ちはない。それ以上に素直な心を曝け出せる場所が朔良に出来たことが嬉しかった。
大きな壁を乗り越えた二人は、確実に成長している。誰かの手を借りることを怖れていたことも、辛く思い悩んだ日々も、二人ならこれからの人生の糧にして生きていけるだろう。
そしてふいに視線を落とす。
「やっと、手が届いた……」
自分の右手を見つめ、工藤はぽつりと呟いた。
「少しは兄らしいことが出来たかな?」
湊と朔良の兄として――家族として何が出来るのか。これまで工藤はずっと模索していた。二人を見ていて、遣る瀬無い思いを募らせたり、頼られないことに関してのジレンマを感じたりして、自分に出来ることはないのかもしれないと諦めようとしたこともあった。
だからこそあの時二人が頼ってくれたことは、この上なく嬉しかった。兄らしく二人のために動くことが出来るのが、なにより嬉しかったのだ。
――ちょっとは家族に近付けたと思って良いかな?
うぬぼれではないことを願いながら、射場の窓から外を見つめる。
外はどしゃ降りの雨――。部活開始時よりも強さを増しているように思う。天気予報の大雨注意報も見事に的中していた。ジメジメとした湿気に、着用している弓道衣もしっとりと重みを感じる。
しかし、どんよりと重く暗い雨雲に陽の光を遮られていても、工藤の心は清々しい五月晴れのように晴れ渡っていた。
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