13


「工藤さん」

 弌夜を送り届けたあと、自宅へと戻った工藤が家の玄関のドアを開くと、すぐさま湊が駆けよって来た。

 湊の表情はやはり浮かないが、その表情の意味を工藤は察していた。そして、これから湊にされるであろう質問の内容も。

「朔良ちゃんは?」

「あ……、お風呂から上がって部屋に戻っています。さっきおやすみの挨拶をしたので、多分そのまま眠ると思います」

 靴を脱ぎながら「そう」と返した工藤は、取り合えずリビングへと湊を誘導した。

 二人でソファーに腰を落ち着け、しばし沈黙する。それから先に口を開いたのは工藤だった。

「湊くんは、納得してないんだよね?」

 工藤には見透かされていると分かっていた湊は、正直に頷き返す。

「工藤さんは、何故、由紀也さんの言葉を信じられたんですか?」

 そこが一番不可解だった湊は、直球で工藤に訊ねる。

「……湊くんは顕人くんのことも知ってるから、ちゃんと話すね」

 そう言った工藤は穏やかな表情で、成政家での話をし始めた。



「それが、湊くんの意思なんですね……」 

 話を聞いた由紀也は静かにそう言った。 

 工藤から成政家を訪ねたいと電話で打診があった時点で、由紀也は覚悟をしていた。とうとう湊を手放す時が来たのだと――。

「私たちは湊くんの意思に従います」 

 穏やかに了承した由紀也に工藤は驚きを隠せなかった。どこか腑に落ちず警戒心が強まる。

「由紀也さん。過去に最愛の息子さんを亡くされたあなたに、こんなことを訊くのは大変失礼なことだと思いますが……子供さんがいなくなるという意味がお分かりですか?」

 対面して座っている工藤の父親が、由紀也をまっすぐ見つめて質問した。

 極めて重要な質問に、工藤もその答えが気になった。

 ただ工藤の父親は由紀也に不審感を抱いているわけではない。子を持つ親としての質問をしただけである。

「それは自分たち夫婦のことを言っているのでしょうか? それとも家督のことを言っているのでしょうか?」

「出来れば両方お聞きしたい」

 はっきり訊ねると、由紀也は少し目を伏せてしばらく黙考したあと、ゆっくりと口を開いた。

「ずっと……顕人のことを考えてました」 

 突然出てきた顕人の名に、工藤が息を呑む。ここで顕人の名前が出てくるとは思わなかった。

「皆さんは、顕人の死因をご存知でしょうか?」

「確か……難病を患っておられましたよね?」

 うろ覚えながら当時のことを思い出しつつ、工藤の父親が答える。 

 正確な顕人の死因は親戚にも知られることがないよう、しっかりと伏せられていたようだ。

「確かに病院で長期療養中でしたが、病死ではありません」

 由紀也の言葉に、工藤の父親が眉根を寄せ小首を傾げる。

「……自殺です。病室の窓から飛び降りたんです」

 事情を知っていた工藤は苦しげに表情を曇らせた。

 その横で工藤の両親は、寝耳に水の話に目を見開き驚いている。

「じ、自殺……?」

「工藤さんたちもご存知なかったように、このことは世間には公表されていません。私の父の命令で伏せられています。知っているのも身内の極一部です」

 さすがに言葉がなかった。今し方知った事実に、工藤の両親はただ驚くばかりである。

「顕人は長い闘病生活をたった一人で耐えていました。恥ずかしながら、そのことに気付いたのは、顕人が亡くなった後でした」

 それまで黙っていた工藤が「何で……」と堪え切れずぽつりと言葉を零す。

「何で生きている時に気付いてあげられなかったんですか? 顕人くんはずっとあなたたちを待っていました。それを口に出して言うことはありませんでしたが、明らかにお二人を待っていました」

 声を荒げないようにすることで精一杯だった。それでも冷静ではなかったと、工藤は深呼吸をして気持ちを落ち着ける。自分が言うべきことではなかったかもしれないが、これまで溜めこんできた思いも便乗し、つい口を突いて出てしまった。

「……」 

 心痛な面持ちで工藤の言葉を受け取った由紀也はきつく唇を噛み締めた。そんな由紀也の隣で麻弥が小さく鼻をすする。その目は少し潤んでいた。

「……要人くん、ですよね? 当時、家政婦だった宮田さんから聞いていました。顕人のお見舞いに何度もいらしてくれたと」

 口を開くと余計なことを口走ってしまうかもしれない。工藤は相槌を打つだけに留めた。

「あの頃は……新たな事業の会社設立に関して資金繰りが上手く合わなかったり、総工費にもいろいろ誤算が出てきたりして大変な時期でした。イライラしていて周りに当たっていたこともあります。大きな仕事を任され、全く自分に余裕がなかったんです」

 由紀也が当時のことを語り始めた。

「妻も銀行にかけ合ったりで外回りをしていたので、入院している顕人の世話を全て宮田さんにお願いしていました。事業のことは信用のおける誰かに手伝ってもらえば良かったのかもしれないが、今後の会社の未来が掛っていると思ったら、やはり私自身が動かなければと、その時は少し躍起になっていました。顕人に寂しい思いをさせていることも分かっていましたが、顕人なら忙しい私たちのことを理解してくれると……傲慢なことを思っていました。あの小さな顕人に、私たちは甘えてしまっていたんです」

 難病と一人闘っていた顕人に、さらに自分たちの勝手な思いまで背負わせてしまった。

 由紀也が話している途中で、麻弥は堪え切れず涙を流していた。鼻をすすりながら、体を震わせて泣く麻弥の肩を由紀也がそっと抱きしめる。

「本当なら顕人のそばにいなければならなかった。難病でも懸命に闘う顕人に励ましの言葉を掛けたり、生きる楽しさを教えたり、顕人が持っていたかもしれない夢を実現させる手助けをしたり。何より、顕人の……笑顔を守らなければならなかった。何を差し置いても、顕人以上に大切なものなんてなかったのに」

 悔しげに顔を歪める由紀也に、工藤はある疑問を感じた。

「あの、湊くんを引き取ることは、誰が決めたんですか?」

 これほどに顕人のことを思っている二人を見ていて浮かんだ疑問。

 それは、何故顕人が亡くなって二カ月しか経っていないのに、二人は湊を孤児院から引き取ったか、ということだった。二カ月という歳月では、顕人を失った傷は癒えてなかったのではないだろうか? 家族の死から立ち直るのはそんなに簡単なことではないはずだ。新しい家族を迎えたからといって、すぐに気持ちを切り替えることは難しい。

「湊くんのことは、私の父から提案されました。優秀な子がいるから、跡取りとして養子に迎え入れてはどうかと」

 由紀也の父である徹は、顕人の病名を知った時点で密かに調べていたのかもしれない。セイツーの跡取りに相応しい子供を――。

 得心した工藤は脱力したように息を吐いた。そしてこれまで物事の外側しか見えていなかったことに工藤は気付いた。

 これまで自分勝手な思い込みばかりが脳裏をちらつき、由紀也に対して不要な嫌悪感を抱いたせいで目が曇っていたように思う。当時も今のように由紀也と話が出来ていれば、きっと誤解が生じることはなかったはずだ。もしかしたら、顕人の自殺も回避出来たかもしれない。

 それが、一番悔まれてならなかった。

「確かに会社の跡取りのことはあります。湊くんに継いでもらいたいと思う気持ちもあります。でもそれは、湊くんが心から跡を継ぎたいと思っていればの話です。湊くんの意思を曲げてまで無理強いするつもりは毛頭ありません」

「ですが、由紀也さんのお父様はそれを許されるでしょうか?」

 心配顔で工藤の父親が訊ねる。 

 孤児院で湊を見つけてきたのは由紀也の父である徹だ。その行動の裏には、子供の出来ない由紀也たちに、セイツーに相応しい跡取りに育て上げろという含意もあったはずだ。

 父親の真意に気付かないほど由紀也たちは鈍感ではない。

 しかしその真意は、子供を産むことが出来ない麻弥や由紀也を追い詰めるものでもあった。

「確かに湊くんを紹介したのは父です。養子縁組を解消したことが耳に入れば、必ず私たちに何か言ってくるでしょう」

 工藤の父親の懸念は、既に由紀也たちも抱いていた。それについて話しあっただろうことが窺える。

「ですが、湊くんの人生は湊くんのものです。誰かに決められてなるものではない。私と麻弥は湊くんが望んだ道を歩いて欲しいと思っています。ですから、父が何を言ってこようと、私たちは湊くんを守ります」

 由紀也と麻弥の表情は穏やかで、その決意は揺るがないものであることが伝わってきた。

 由紀也の誠実な言葉が工藤の胸に深く響く。

「顕人が生きていたとしても、私たちは同じことをしたと思いますから」

 そう言った由紀也は、床の間にある仏壇に視線を流した。それにつられるように工藤たちも仏壇を見つめる。

 両端の花立には色とりどりの小さな可愛い花が飾られ、香炉には工藤たちが来る前に焚かれたと思われる線香が、左右に揺らめく煙とともに控え目な香りを漂わせている。仏壇の上の遺影には小学校で撮ったと思われる制服姿の顕人が笑顔で写っていた。工藤が見舞いに行っていた頃よりも顔色が良く、活発な男の子に見える。本来なら顕人はそんな男の子だったのだろう。

 工藤は久し振りに見る顕人の写真を切なげに見つめた。

「あの、養子縁組解消のことは了承した上で、一つお願いがあるのですが」

 工藤たちに視線を戻した由紀也が申し訳なさそうに切り出す。

「少しだけ時間をもらえないでしょうか? その……納得はしているのですが、私たちも心の整理をつける時間がもらいたくて」

 もう少し湊と親子関係でいたいという由紀也の心の声が聞こえた工藤の父親は、小さく微笑み軽く頷き返した。

「では、取り敢えず湊くんはうちでお預かりするという形をとって、由紀也さんたちの気持ちの整理がついたら、またご連絡下さい」

 そして帰る前に仏壇に手を合わせた工藤たちは、成政家をあとにした。



 工藤から成政家での一部始終を聞き終えた湊は、複雑な感情をそのまま表情に曝していた。思いもよらない意外な話を聞いて動揺している。

「僕もいろいろと疑念を抱いていたから、話の全てを鵜呑みにして良いものかどうか悩んだ。でもその話を聞いた今、これまでのように由紀也さんに対して嫌悪を抱き続けることは僕には出来ないと思った」

 湊は唇を噛み締め、膝の上で握り締めた両手を見つめた。自分でもどうして良いのか分からなくなっている。

「で……でも、跡取りにするために俺を引き取ったって話を聞きました。そのためには、朔良も利用すると――」

 自分の記憶を辿るように湊がぽつりと言葉を零す。あの時の由紀也と麻弥の話は子供だった湊にも衝撃的な話で、いくら寝起きだったとはいえ聞き間違えるはずがない。

 湊の言葉にしばらく黙考した工藤が、「由紀也さんを弁護するつもりはないけど」と前置きをしてから、自分なりの推測を話し始めた。

「もしかしたら湊くんや朔良ちゃんのことをちゃんと考える余裕がなかったんじゃないかな? 初めて全面的に任された事業だって言ってた。かなりの重圧もあっただろうし、自分の実績を残そうと余計に力が入っていたと思う。まぁ……だからと言って口に出して良い言葉ではないけどね」

 少なくとも湊の幼心に大きな傷を作ったことは間違いない。すぐに考えを改めることも出来ないだろう。

「湊くんに顕人くんのことを話した時、僕は自分の考えを湊くんに植え付けるような言い方をしたような気がする。もしその言葉で由紀也さんに抱いていた湊くんの負の気持ちに少しでも拍車を掛けてしまったなら、本当にすまないと思ってる。宮田さんからの話だって、親戚の誰かが顕人くんを中傷するようなことを言っていただけで、由紀也さんが言っていたわけじゃない。お見舞いに来てなかったのも事実だけど、由紀也さんの話を聞いて……ある程度は理解出来た」

 それでも、気持ちの上で整理出来ないものはある。工藤はきゅっと唇を引き締めた。

「急にいろんなことを聞かされて動揺しているだろうから、今度会った時にちゃんと話してみると良い。今まで由紀也さんたちに抱いていた気持ちも、傷付いた出来事も全て話して、由紀也さんの答えに自分が納得出来たら、少しずつ考え方を変えていけば良いさ」

 まだ腑に落ちないように眉根を寄せている湊の頭を撫でながら、工藤が諭すように言う。

 時間はある。お互いに腹を割って話し合う勇気さえあれば、湊と由紀也たちの関係は修復可能なはずだ。

「今度は僕たちが変わる番かもね」

 ぽつりと付言された言葉に、湊は戸惑いつつも小さく頷いた。


 ――終わったこと、と区切りを付けるには、僕にはまだ時間が足りないのかもしれない。

 リビングで湊と別れてから入浴し終えた工藤は、部屋に戻ってそんなことを思っていた。

 キャスター付きの椅子に腰を下ろし、デスクの一番上の引き出しから一通の封筒を取り出す。

 封筒に書かれている宛名は『工藤要人』。 差出人は――。

……」

 由紀也が養子縁組解消に応じなかった場合の切り札。

 それは顕人が自殺してから三日後に工藤家のポストに届けられた、工藤宛ての手紙だった。

 遠縁である工藤にだけ送られた、顕人の最期の言葉。その手紙には、ただ自分の存在意義を見失った絶望感や悲愴感が、淡々と書き綴られていた。これを書いている時には、もう自殺する決意を固めていたのだろう。

『僕が選んだ最期の選択は、あの人たちにどう伝わるのかな?』

 まだ大人に成りきれていない、されどどこか大人びているような文字と文章に、何度読み返しても胸を締め付けられたような痛みを感じる。

「後悔、してたんだけどね……」

 ――でも、君はもうここにはいない。

 生きている時には得られなかったその存在意義は、失ってしまった今になって、ようやく照らされることとなった。

「由紀也さんたちが気付いてくれただけでも、良かったのかな?」

 きっとそれ以上のことを顕人も望んではいないだろう。この手紙に両親に対する非難の言葉が一切ないことが、そう物語っている。

「僕宛てだから、この手紙を見せるか見せないかは……僕が決めても良いんだよね?」

 遠縁である工藤にしか手紙がなかったことも、由紀也たちを非難していない手紙の内容も、今の由紀也たちには相当堪えるだろう。だからこそ、この手紙は切り札になると工藤は思っていた。

 だが、見せなくて良かったと思っている自分がいる。

 それが工藤の出した答えだった――。

「僕も、湊くんと一緒に成長しなきゃな……」

 一人呟いて苦笑する。 

 未だ心の中にある蟠りを消す努力を、工藤自身もしなければならないことを自覚した。


 

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